どうも。社会人3年目、26歳の男です。
いきなりなんですけど、俺ってたぶん、人よりトラブルに巻き込まれやすいタイプなんですよ。小学校のとき給食のバケツひっくり返したのも俺だし、高校の修学旅行で財布なくしたのも俺。大学では自転車で坂道を下ってるとき猫が飛び出してきて、避けたら側溝にハマって鎖骨にヒビが入った。嘘みたいだけど全部ほんと。
で、社会人になっても変わらなかった。というか、むしろ悪化した。
去年の4月に中野のワンルームに引っ越したんですよ。丸ノ内線の新中野駅から歩いて5分くらいのところ。家賃6万8千円、築25年、風呂トイレ別。まあ普通の物件です。
引っ越して最初の週末に、ゴミ捨て場の場所がわからなくて、ゴミ袋持ったままマンションの周りをウロウロしてたら、後ろから声をかけられた。
「……そっちじゃないですよ」
振り向いたら、黒のスウェットにメガネ、髪をざっくりひとつに結んだ女の人が立ってた。身長は165くらいあったと思う。化粧っ気ゼロなのに、鼻筋がスッと通ってて目がでかい。なんていうか、新木優子を少しだけ気怠くした感じ。
「あ、すみません。どこですか?」
「裏の駐輪場の奥。今日は燃えるゴミの日じゃないけど」
「え、マジですか」
ゴミ袋の中身を見たら、ペットボトルと段ボールが混ざってた。そもそも分別できてなかった。
「……引っ越してきたばっかり?」
「はい、先週」
「隣か。304号室?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
彼女は303号室の住人だった。名前はそのとき聞けなかった。というか、聞ける雰囲気じゃなかった。必要最低限のことだけ言って、スッといなくなる感じ。
(愛想ないなぁ……)
正直、第一印象はそれだった。
それから2週間くらいは特に接点もなく過ぎた。廊下ですれ違ったら軽く会釈するくらい。向こうも会釈は返してくれるけど、それ以上の会話はない。
で、最初の事件が起きたのが5月の連休明け。
仕事から帰って鍵を開けようとしたら、鍵がない。ポケットにも、カバンにも。どこかで落としたらしい。スマホで管理会社の番号を調べたけど、もう20時過ぎてて繋がらない。
(うそだろ……)
マンションの入口のベンチに座って途方に暮れてたら、買い物袋を下げた303号室の彼女が通りかかった。
「……なにしてんの」
「鍵、なくしました」
「…………」
5秒くらい無言で俺を見下ろしてから、
「管理会社は?」
「繋がらないです」
「……うち、入る?」
(え?)
いや、普通そうならない。初対面に毛が生えた程度の隣人に家を開放するか? でも彼女は淡々としたもんで、
「外で凍えてられたら寝れないし」
5月だったから凍えるほどじゃなかったけど、ありがたかったので素直にお邪魔することにした。
303号室は、間取りは俺の部屋とほぼ同じはずなのに、全然違う空間だった。本棚にびっしり文庫本が並んでて、小さいデスクの上にノートパソコン。テレビはなくて、代わりにBluetoothスピーカーが置いてあった。部屋全体がほのかにシャンプーの匂いがした。
「お茶でいい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
麦茶を出してもらって、床に座った。彼女はベッドの端に腰かけて、自分も麦茶を飲んでた。
「あの、お名前聞いてもいいですか」
「……佐伯。佐伯亜美」
「俺、松田です。松田悠太」
「知ってる。表札出てるから」
あ、そうか。俺、表札つけてたわ。
結局その夜は管理会社に朝イチで電話することにして、佐伯さんの部屋の床で寝かせてもらった。毛布を貸してくれたんだけど、それも無言で渡してきて、「おやすみ」の一言もなく電気が消えた。
(不思議な人だな……)
翌朝、目が覚めたら佐伯さんはもうキッチンに立ってて、トーストとインスタントコーヒーが用意されてた。
「え、いいんですか」
「どうせ二人分も一人分も変わらない」
ありがたく朝食をいただいて、管理会社に連絡してスペアキーをもらいに行った。玄関で靴を履きながら、
「本当にありがとうございました。今度なにかお礼させてください」
「別にいい」
そう言って、もう興味なさそうにパソコンに向かってた。
この人、29歳で、フリーランスのWebデザイナーだってことは、後から知った。
で、二度目の事件が6月。
土曜の昼間に、ベランダに干してた布団を取り込もうとしたら、布団叩きが隣のベランダに落ちた。仕切りの板の隙間から転がっていった。
(マジかよ……)
ベランダ越しに覗いたら、佐伯さんが窓を開けて出てきた。俺の布団叩きを拾って、無表情でこっちを見てる。
「す、すみません!」
「……また君か」
その「また君か」が、ちょっとだけ呆れてるんだけど、怒ってはいない。そのニュアンスがなんか、よかった。
布団叩きを返してもらって、ついでに少し話した。というか、俺が一方的に喋った。仕事がどうとか、新中野の商店街の肉屋のコロッケが美味いとか。佐伯さんは「ふーん」「そう」「知らない」みたいな返事しかしないんだけど、聞いてないわけじゃない、というのが目でわかった。
「佐伯さんって、休みの日なにしてるんですか」
「……仕事」
「えっ、休みなのに?」
「フリーだから、休みとかない」
「それ、しんどくないですか」
「……別に。好きでやってるし」
少し間があって、
「でも、たまに煮詰まる」
その一言が、なんかすごく意外だった。この人にも煮詰まることあるんだ、って。
それから、少しずつ距離が縮まった。といっても劇的なことは何もなくて、ゴミ出しのタイミングが合ったら挨拶以上の会話をするようになったとか、俺が肉屋のコロッケを買ったときに「よかったらどうぞ」って渡したら、翌日ドアノブにコンビニのシュークリームがぶら下がってたとか。そういうレベル。
佐伯さんの無愛想は変わらなかったけど、よく見てると口角がほんの少し上がるときがあって、それが彼女の笑顔なんだと気づいた。
(……あれ、俺、この人のこと気になってる?)
いや、違う。たぶん隣に住んでる人のことが自然と目に入るだけだ。そう思うことにした。
7月に入って、三度目の事件。これが決定的だった。
金曜の夜、会社の飲み会で終電ギリギリまで飲んで、荻窪から丸ノ内線に乗った。新中野で降りて、千鳥足でマンションまで歩いた。階段を上がって、304号室のドアの前に立って、鍵を出して……
開かない。
鍵穴に入らない。よく見たら、303号室の前に立ってた。
(あ、やべ)
慌てて移動しようとしたら、足がもつれて、ドアにぶつかった。結構でかい音が出た。
中から足音がして、ドアが開いた。佐伯さんがパジャマ姿で立ってた。薄いグレーのTシャツに、紺のショートパンツ。メガネなしで、髪も下ろしてて、いつもと全然違った。
(……え、めちゃくちゃかわいい)
「…………」
「あ、すみません。間違えました。隣と」
「……酔ってる?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとじゃないでしょ。顔真っ赤だけど」
「いやほんとにすみません。すぐ帰り」
立ち上がろうとしたら、また足がもつれた。壁に手をついて、なんとか踏ん張る。
「……水、飲んでいきなよ」
三度目だった。三度目の「うちに入れ」だった。
リビングに上がって、出してもらった水を一気に飲んだ。エアコンの効いた部屋が天国みたいだった。7月だから外はサウナみたいな湿気で、飲んだあとの体にはきつかった。
「ほんとすみません。いつも迷惑かけて」
「……慣れた」
その言い方がおかしくて、酔ってたのもあって笑ってしまった。
「慣れないでくださいよ」
「君がトラブル持ってくるのが悪い」
「ほんとそれ。俺、なんでこうなんだろ」
「……知らない。でも」
佐伯さんがキッチンからグラスを持ってきて、自分にも水を注いだ。ベッドに座って、俺は床に座ってた。いつもと同じ配置。
「迷惑とは思ってない」
(……え?)
「え、それって」
「そのまんまの意味」
佐伯さんはグラスの水を見つめながら、ぽつぽつと話した。
「私、ここに3年住んでるけど、隣の人とまともに喋ったことなかった。前の住人は挨拶しても無視するタイプだったし」
「……」
「君が引っ越してきて、ゴミの分別もできないでウロウロしてるの見て、正直ちょっと面白かった」
(面白かったんかい)
「鍵なくしたときも、布団叩き落としたときも。なんか……久しぶりに人と関わってる感じがした」
佐伯さんの声が、いつもより小さかった。水のグラスを両手で持ってて、その指先が少し震えてるように見えた。
酔ってるせいで頭がぼんやりしてたはずなんだけど、このときだけは妙にクリアだった。
「佐伯さん」
「……なに」
「俺、たぶんわざとじゃないけど、ここに来たかったんだと思います」
「……は?」
「酔っ払って部屋間違えたのも、もしかしたら無意識に。いや、言い訳じゃなくて」
自分でも何言ってんだろと思った。酔いと、7月の蒸し暑さと、佐伯さんのパジャマ姿と、さっきの「迷惑とは思ってない」って言葉が全部ごちゃ混ぜになってた。
「……酔ってるからでしょ」
「いや。たぶんシラフでも同じこと思ってた。ずっと」
佐伯さんがこっちを見た。メガネがないから、目がいつもよりでかく見える。くっきりした二重で、瞳が黒くて、そこに部屋の明かりが映ってた。
沈黙が長かった。たぶん10秒くらい。マンションの外を走る車の音が聞こえた。
「……こっち来て」
佐伯さんがベッドの端を叩いた。
俺は立ち上がって、隣に座った。心臓がバクバクしてて、酔いなんかもう半分飛んでた。
佐伯さんが俺の肩にもたれてきた。シャンプーの匂いがした。いつも部屋に漂ってるのと同じ匂い。
「……ずるい。酔ってるときに言わないでよ」
「ごめん」
「謝んないで。……私も、たぶん」
その先は、聞けなかった。聞く前に佐伯さんが顔を上げて、目が合って、どっちからともなくキスしてた。
柔らかかった。唇が、想像よりずっと。佐伯さんの手が俺のTシャツの裾を掴んでた。
離れたとき、佐伯さんの顔が赤くなってるのが薄明かりでもわかった。
「……もう一回」
今度は俺からキスした。ゆっくり唇を重ねて、少しずつ舌を入れた。佐伯さんが小さく息を吸って、俺の首に手を回してきた。
「佐伯さん……」
「亜美でいい」
「……亜美さん」
「さん、いらない」
「亜美」
名前を呼んだら、亜美がちょっと笑った。口角がいつもより大きく上がってて、あ、この人こんなふうに笑うんだって思った。
キスしながら、亜美のTシャツの上から腰に手を回した。触れた瞬間、ビクッと震えた。
「……いい?」
「……うん」
Tシャツの中に手を入れた。素肌がすごく滑らかで、腹のあたりを撫でたら、亜美が息を詰めた。
「……くすぐったい」
「ごめん」
「謝んなくていいって言ったでしょ」
ブラをしてなかった。パジャマだから当然といえば当然なんだけど、手が直接胸に触れたとき、頭がクラッとした。CかDくらいだと思う。見た目より柔らかくて、手のひらに収まるくらいの大きさで、すごくかたちがよかった。
「ん……っ」
亜美が目を閉じて、俺のシャツをぎゅっと握った。
(これ、夢じゃないよな)
3ヶ月前まで「また君か」って呆れてた隣の人が、今俺の手の中で小さく震えてる。現実感がなかった。でも、触れてる肌の温度は確かに本物だった。
亜美を押し倒すみたいにベッドに寝かせた。薄いTシャツを脱がせたら、思わず見入ってしまった。鎖骨がきれいで、肌が白くて、部屋のスタンドライトの明かりでうっすら影ができてた。
「……そんな見ないで」
「ごめん。きれいだから」
「……ばか」
亜美が腕で顔を隠した。耳まで赤くなってた。あの無愛想な佐伯さんがこんなふうになるのかと思ったら、もうどうにかなりそうだった。
胸にキスしたら、声を抑えようとしてるのが伝わってきた。唇を押し合わせて、でも隙間から息が漏れる。
「ん……ぁ……」
乳首を舌先でなぞったら、亜美の手が俺の髪を掴んだ。痛いくらい強く。
「感じる?」
「……聞かないで」
聞かないでと言いつつ、体は正直で、背中が少し反ってた。
ショートパンツに手をかけたら、亜美が一瞬だけ俺の手を止めた。
「……久しぶりだから。変だったら言って」
「変なわけないでしょ」
ショートパンツと下着を一緒にずらした。亜美が恥ずかしそうに脚を閉じようとしたけど、膝の内側にキスしたら力が抜けた。
指で触れたら、もうかなり濡れてた。
「亜美……すごい」
「……やめて、恥ずかしい」
クリトリスのあたりをゆっくり円を描くように触ったら、亜美の太ももがピクッと震えた。
「あ……っ、そこ……」
指を一本入れた。中が熱くて、きゅっと締まった。
「んんっ……」
亜美が枕を掴んで、顔を横に向けた。普段は感情が読めない顔が、今はぜんぶ出てた。眉間にしわを寄せて、唇を噛んで、でも気持ちいいのを我慢してるのが丸わかりで。
(この顔は、俺しか知らないんだ)
そう思ったら、理性なんかもう残ってなかった。
「亜美、入れたい」
「……うん」
「ゴム、ある?」
「……ない。でも、大丈夫。今安全な日だから」
「ほんとに?」
「……ちゃんとアプリで管理してる」
亜美らしいというか、そういうところはしっかりしてるんだなと思った。
脚を開いた亜美の間に体を入れて、ゆっくり先端を当てた。亜美が小さく息を呑んだ。
入れた瞬間、二人とも声が出た。
「……っ」
「あ……っ」
中がとにかく熱くて、ぎゅっと吸い付いてくるみたいだった。久しぶりだって言ってたから、きつくて、ゆっくりじゃないと入らなかった。
「痛くない?」
「……大丈夫。動いて」
ゆっくり腰を動かした。亜美が俺の背中に手を回して、爪を立ててきた。
「ん……っ、あ……」
声を殺そうとしてるのが、逆にエロかった。壁が薄いのを気にしてるんだと思う。隣、俺の部屋だけど。
「隣、俺の部屋だから。気にしなくていいよ」
「……ばか」
ばか、って言いながら、ちょっと笑ってた。
少しずつペースを上げた。亜美の息が荒くなって、脚が俺の腰に絡んできた。
「あっ……そこ……いい……っ」
奥のほうに当たる角度を見つけたら、亜美の反応が明らかに変わった。目がとろんとして、口が半開きになって。
「ここ?」
「うん……っ、そこ……もっと……」
普段あんなに言葉が少ない人が「もっと」って言ってるの、信じられなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、これは現実なのかって何回も思った。
「あっ、あっ、だめ……もう……っ」
亜美の中がぎゅうっと締まって、体がびくびく震えた。イったんだと思う。俺の背中に爪が食い込んで、たぶん跡が残ったと思う。
「亜美……俺ももう……」
「いい……中に……出して……」
腰を強く引き寄せられて、抜けなかった。っていうか、抜く気もなかった。
奥に押し付けるように出した。頭が真っ白になって、体の奥からぜんぶ持ってかれるような感覚だった。
「……っ」
「ん……あつい……」
しばらく動けなかった。二人とも汗だくで、息が荒くて、抱き合ったまま天井を見てた。エアコンの風が汗ばんだ肌に当たって、ようやく現実に戻ってきた感じがした。
「……ごめん、中に出しちゃった」
「私が出していいって言ったんだけど」
「……そうだった」
まだ中に入ったまま、亜美の顔を見た。汗で前髪が額に張り付いてて、頬が紅潮してて、目が潤んでた。
「……なに見てんの」
「いや、亜美がかわいいなって」
「…………」
亜美が俺の胸に顔を埋めた。耳が赤い。
ゆっくり抜いて、ティッシュで拭いた。ベッドが汗とかいろいろで大変なことになってたけど、亜美は気にする様子もなく横になってた。
「シャワー浴びる?」
「……もう少しこのまま」
亜美が俺の腕を引っ張って、隣に寝かせた。天井を見ながら、二人で肩がくっつく距離で横になってた。
「……ねえ」
「ん?」
「これって、酔った勢い?」
「……さっきも言ったけど、シラフでも同じこと思ってた」
「……ほんとに?」
「ほんとに。ゴミ捨て場教えてもらったときから、ちょっとずつ」
「……ゴミ捨て場」
亜美がフッと笑った。ちゃんと笑った。声に出して。初めて聞いた気がする。
「私は、鍵なくしたとき」
「え?」
「床で寝てる君を見て……なんか、飼い犬みたいだなって。かわいいなって」
「飼い犬……」
「ほめてる」
「ほめてないだろそれ」
亜美が体を起こして、俺の上に乗ってきた。
「……もう一回、したい」
「……マジで?」
「久しぶりだったから。もう少し」
二回目は亜美が上だった。さっきとは全然違う。亜美が自分で腰を動かしてて、俺は下から胸を触ったり、腰を支えたりしてた。
さっきよりも亜美が積極的で、自分から腰を落として、好きな角度を探してた。
「ん……ここがいい……」
声がさっきより甘くて、力が抜けてた。一回やったことで、なんか吹っ切れたのかもしれない。
俺は亜美の腰を掴んで、下から突き上げた。
「あっ……待って……やば……」
「気持ちいい?」
「……うるさい」
うるさいって言いながら、腰の動きは止めない。むしろ速くなってる。矛盾してるのが、この人らしいというか。
「もうだめ……また……イきそう……」
亜美が前のめりになって、俺の胸に手をついた。髪がバサッと落ちてきて、カーテンみたいに二人の顔を囲んだ。
「一緒にイこう」
「うん……っ」
亜美が腰を押し付けたまま、中がぎゅっと締まった。俺もほぼ同時に出た。
「ん……んっ……」
二回目は声を殺さなかった。小さいけど、ちゃんと聞こえた。
終わったあと、亜美が俺の上に崩れ落ちて、そのまま動かなくなった。背中を撫でたら、小さく「ん」って言った。
「……重くない?」
「……このまま」
エアコンの音だけが聞こえる部屋で、汗まみれのまま二人でじっとしてた。時計を見たら2時を過ぎてた。窓の外は真っ暗で、たまに車が通る音がする。新中野の夜は静かだった。
「……ねえ」
「ん」
「明日もトラブル起こしていいから」
「……それ、来いってこと?」
「……ばか。自分で考えて」
亜美が俺の首元に顔を埋めた。その声が笑ってるのが、見なくてもわかった。
次の朝、起きたらまたトーストとインスタントコーヒーが用意されてた。ただ今回は、トーストが二枚じゃなくて四枚だった。
「え、四枚?」
「……昨日、体力使ったから」
真顔で言うから笑った。
食べながら、ふと気づいた。この光景、前にもあった。鍵をなくした朝と同じだ。でも全然違う。あのときは他人の厚意だったけど、今はなんか、違う。なんて言えばいいかわかんないけど、空気が違った。
「亜美」
「……なに」
「付き合ってほしい。ちゃんと」
亜美がコーヒーカップを持ったまま、5秒くらい黙った。それから、いつもの口角だけの笑顔じゃなくて、ちゃんと目が笑ってる顔で、
「……今さら?」
「今さらでも言いたかった」
「……じゃあ、合鍵あげるから。もう鍵なくさないで」
それが、佐伯亜美のOKだった。
あれから半年経って、俺の部屋は正直ほとんど物置になってる。寝るのも食べるのも303号室。いつか契約更新のタイミングでどっちかの部屋に引っ越すんだろうなって思ってる。
トラブル体質は相変わらずで、先週も駅の階段で派手にコケた。でも隣に亜美がいて、「……学習能力ないの」って呆れた顔で手を差し出してくれた。
俺のトラブルに、毎回付き合ってくれる人がいる。それだけで、まあ悪くない人生だなって思う。