こんにちは。
俺は都内の中堅どころの販促物制作会社で営業をやっている、立花亮介っていう29歳のサラリーマンです。
学生の頃はそれなりに彼女もいたんですけど、社会人になってからはもう全然です。
毎日終電、下手すりゃタクシー帰り。
恋愛どころじゃないっていうのが正直なところでした。
これは、そんな俺が実際に体験した話です。
うちの会社は新宿にあって、俺は中央線で三鷹のほうまで帰ってます。
で、いつからか気づいたことがあって。
毎週金曜の、終電間際。
新宿駅の中央線快速ホーム、いつも同じあたりに立ってる女の人がいたんです。
年は俺と同じくらいか、ちょっと下かな。
すらっと背が高くて、たぶん165cmくらい。
きれいにセットした栗色の髪を、疲れた感じで片手でかき上げてる。
顔は——なんて言うか、今田美桜さんをちょっと大人っぽくしたみたいな、目のぱっちりした美人でした。
(うわ、めちゃくちゃ可愛いな……)
最初はそれくらいの認識でした。
でも、次の金曜も、その次の金曜も、同じ場所に彼女はいたんです。
いつも紺色のパンツスーツで、大きめのトートバッグを肩にかけて。
たぶん、俺と同じで金曜まで仕事に追われてるタイプ。
終電間際の、あの微妙にぐったりした空気が同じなんですよ。
しかも面白いことに、乗る車両まで一緒でした。
前から3両目の、後ろ寄りのドア。
俺は勝手に彼女のことを「ホームの君」って呼ぶようになってました。
(我ながらキモいな……)
一応言っときますけど、俺、そんなにモテるタイプじゃないです。
身長は172cmで、まあ普通。
顔もフツメンで、これといって特徴なし。
大学の頃の友達には「お前、可もなく不可もなくの見本みたいな顔してるよな」って言われてたレベルです。
だから「ホームの君」なんて、俺からしたら完全に高嶺の花でした。
でもね、声なんてかけられるわけないんです。
だって完全に見ず知らずの他人ですよ。
終電のホームで急に男に声かけられたら、そんなの通報案件じゃないですか。
だから俺はただ、金曜の夜にちょっとだけ彼女を見て、
(あ、今日もいた。お疲れさまです)
って心の中で言うだけの、しょうもない片想いみたいなことを続けてました。
それが数ヶ月。
いや、我ながらほんとに何やってんだって話なんですけど。
梅雨の時期の、ある金曜でした。
その日は朝から雨で、夜になってもザーザー降ってて。
いつものホームに、いつものように彼女はいました。
でもその日はちょっと様子が違って。
なんか、バッグの中をずっとガサガサ探してるんです。
で、小さくため息ついて、恨めしそうに雨の降る線路の先を見てて。
(……傘、忘れたのかな)
俺は基本、折りたたみ傘をカバンに常備してるタイプでして。
このとき俺のカバンには、たまたま予備の折りたたみが一本入ってました。
前に会社に置き忘れて、買い足したやつを両方持ち歩いてたんですよ。
ここで俺、人生で一番勇気を出しました。
「あの、これ、よかったら」
彼女、めちゃくちゃびっくりした顔でこっちを見て。
「え……?」
「いや、傘、なさそうだったんで。予備あるんで、これ」
我ながら不審者すぎて、言いながら手が震えてました。
彼女はしばらくぽかんとしてたんですけど、ふっと肩の力を抜いて笑ったんです。
「……ありがとうございます。正直、めっちゃ助かります」
その笑顔が、もう。
近くで見たらほんとに芸能人みたいで、俺の心臓は完全に終電でした。
終電が来て、俺たちはいつもの3両目に乗り込みました。
普段は離れて立ってるのに、その日はなんとなく並んで、吊り革につかまって。
「毎週、いますよね。金曜」
「え」
「あ、ごめんなさい。なんか、よく見かけるなって思ってて」
(気づかれてた!!)
俺、めちゃくちゃ焦りました。
キモがられてたらどうしようって。
でも彼女は普通に、むしろ親しげに続けたんです。
「金曜だけ、必ず終電なんですよ、私。週末に間に合わせる仕事があって」
「あー、わかります。俺もです。金曜がいつも一番ヤバい」
そこからは、意外と普通に喋れました。
お互い仕事に追われてること。
金曜の終電のこの感じが嫌いじゃないこと。
「わかります? この、みんな疲れ果てて無言な感じ」
「わかります。全員が今週を生き延びた戦友みたいな」
「戦友(笑)。それ、いいですね」
「あと、金曜だけコンビニで一番高いビール買っちゃうんですよね」
「あー、それやります。私、金曜だけプリンも買う」
「プリン(笑)」
どうでもいい話なんですけど、それがやたら楽しくて。
三鷹で降りるまでの二十分ちょっと、ほんとにあっという間でした。
彼女は俺より一つ手前の、吉祥寺で降りていって。
「傘、洗って返します。来週の金曜、ここで」
「いや、あげます、それ」
「だめです。ちゃんと返させてください」
そう言って、彼女は雨の中に消えていきました。
名前も、何してる人かも、まだ何も知らないままで。
で、ここからが本題です。
週明けの月曜。
うちの会社は前々から、そこそこ大きな食品メーカーの新商品の販促を狙ってて。
その日は俺が主担当で、初めての提案プレゼンに行くことになってました。
正直、超がつくほど緊張してました。
これが取れたら、俺の営業成績、一気に跳ねるんです。
先方の会議室に通されて、資料をセットして、名刺入れを握りしめて待ってると。
ドアが開いて、先方の担当者が入ってきました。
紺色のパンツスーツ。
栗色の髪。
今田美桜を大人っぽくしたみたいな——
(……は?)
彼女でした。
金曜の、ホームの君でした。
向こうも一瞬、目を見開いて固まって。
でもさすがだなと思ったのは、すぐに表情を戻したんです。
そして、すっと名刺を差し出してきました。
「宣伝販促部の、桜庭美緒と申します。本日はよろしくお願いします」
(桜庭さん……名前、桜庭さんっていうのか)
頭が真っ白なまま、俺も名刺を出しました。
ここで俺、勝手に浮かれてたんですよ。
いや、これは運命なんじゃないかって。
同じホームで何ヶ月も見てた人が、まさかの取引先。
こんなの、もう脈ありまであるだろって。
……甘かったです。
プレゼンが始まった瞬間から、桜庭さんは別人でした。
「立花さん、この販促案ですけど、ターゲット層のデータの根拠はどこにありますか」
「え、あ、それは、こちらの想定でして……」
「想定、ですか。うちが出したブリーフとずれてる気がします。ここ、作り直せますか」
冷たいとかじゃなくて、ただただ的確に切ってくるんです。
金曜の夜にふわっと笑ったあの人と、同一人物とは思えないくらい。
(うわ、仕事の人だ。完全に仕事モードの人だ……)
しかも一番きつかったのが、プレゼンの途中で俺、思いっきり噛んだんですよ。
「このプランでシェアを、シュ、シェア……」って。
会議室、シーンってなって。
桜庭さん、眉一つ動かさずに、
「落ち着いて、大丈夫ですよ。続けてください」
って。
その「大丈夫ですよ」が、金曜の夜の声とほんの少しだけ同じトーンで、余計に頭が混乱しました。
(なんでこの人、こんな顔できるんだ……)
その日の提案は、ボロボロでした。
会議室を出るとき、俺はもう半泣きです。
エレベーターの中で、上司にも「立花、あれはひどかったな」って笑われる始末。
運命どころか、取引先の担当者に思いっきり詰められて終わりました。
でもね、仕事は仕事です。
俺、悔しかったんで、めちゃくちゃ作り直しました。
桜庭さんに指摘された部分、全部データ取り直して。
深夜まで残って、何度もメールで擦り合わせて。
不思議なことに、メールの桜庭さんは、会議室よりちょっとだけ柔らかかったです。
《ここまで直してくださって助かります。あと一歩です》
《無理させてたらすみません。でも、いい案になりそうですね》
そんなやり取りが、二週間くらい続いて。
そしてまた、金曜が来ました。
終電間際の、新宿駅、中央線ホーム。
俺、正直もう気まずくてどうしようかと思ってたんです。
でも彼女は、いつものあの場所にいました。
そして、俺を見つけると、少しだけ気まずそうに笑ったんです。
「……あの、会議室では、すみませんでした」
「いや、全然。むしろ勉強になりました」
「私、仕事のスイッチ入ると、ほんと愛想なくなるみたいで。よく言われます」
「ギャップすごかったです。正直、別人かと」
そう言ったら、彼女、声出して笑ってました。
その日、終電に乗る前に、俺はもう一回だけ勇気を出しました。
「あの、一本くらい、遅らせません? まだ間に合う店あると思うんで」
我ながら、よく言えたなと思います。
桜庭さんは、ちょっと考えて。
「……終電、逃したら帰れなくなりますよ」
「あ、いや、それは、その」
「なんて。冗談です。行きましょう」
新宿の、ゴールデン街の外れの小さな店で、俺たちは飲みました。
そこで初めて、仕事じゃない桜庭さんの話をたくさん聞きました。
実は転職したばかりで、あの食品メーカーに来て半年しか経ってないこと。
前は新潟のほうで働いてて、東京に出てきたのはこの春だってこと。
だから絶対に失敗できなくて、必死で気を張ってること。
金曜の終電の、あのぐったりした時間が、唯一気を抜ける瞬間だったこと。
「東京、まだ全然慣れなくて。休みの日も、部屋で一人でぼーっとしてるだけなんですよ」
「意外です。バリバリのキャリアウーマンかと思ってました」
「やめてください、それ。会社での私、そんな感じに見えます?」
「見えます。完全に見えます」
「うわあ……。ほんとは、餃子作るのが趣味の、しょうもない女なんですけどね」
「餃子(笑)」
「笑わないでください。私の餃子、めちゃくちゃ美味しいんですから」
会議室の桜庭さんからは、想像もつかない話ばっかりでした。
でも、そのギャップの一つ一つが、俺にはたまらなく可愛く見えたんです。
「だから、あのホームで傘もらったとき、ちょっと泣きそうでした」
「大げさですよ」
「大げさじゃないです。あのとき、初めてこの街で、味方ができた気がしたんで」
酒のせいか、彼女の目がちょっと潤んでました。
ちなみに、彼氏は。
「いないですよ。転職してから、そんな余裕なくて」
そう言った彼女の頬が、少し赤かったです。
気づいたら、終電はとっくに行ってました。
「……ほんとに、逃しちゃいましたね」
店を出て、二人で駅の時計を見上げて。
もう、電車はありません。
「タクシーで送りますよ。吉祥寺でしたよね」
「……立花さんの家、三鷹でしょ。逆方向じゃないですか」
「いや、そんくらい」
そう言いかけた俺の袖を、桜庭さんが、きゅっと掴んだんです。
「……送らなくて、いいです」
「え」
「今日は、帰りたくない、かも」
うつむいたまま、彼女は小さな声で言いました。
その手が、少し震えてました。
(これは、そういう、ことで、いいんだよな……?)
俺は、彼女の手をそっと握り返しました。
近くのホテルに入るまで、俺たちは一言も喋りませんでした。
でも繋いだ手は、ずっと離れなかったです。
部屋に入って、明かりを少し落とすと。
桜庭さんは、少し困ったように笑いました。
「……会議室で詰めた相手と、こうなるの、最低ですかね」
「いや、ずっと、こうなりたかったです。金曜のホームで見たときから」
正直に言ったら、彼女、目を丸くして。
それから、観念したみたいに目を閉じました。
俺は、その唇にゆっくり自分のを重ねました。
最初は触れるだけ。
彼女の肩がびくっと跳ねて、それからだんだん力が抜けていって。
(柔らかい……)
角度を変えて、もう一度深く重ねると、桜庭さんの手が俺の背中に回りました。
スーツのジャケットを脱がせると、白いブラウス越しに、彼女の体温が伝わってきます。
「……電気、恥ずかしい」
「じゃあ、これくらいで」
サイドの明かりだけ残して、俺はブラウスのボタンを一つずつ外していきました。
会議室であんなに堂々としてた人が、今は俺の下で恥ずかしそうに顔を背けてる。
そのギャップに、正直、頭がどうにかなりそうでした。
ブラウスの下から出てきたのは、想像よりずっと女らしい体で。
胸に触れると、桜庭さんが小さく息を漏らしました。
「……あんまり、見ないで」
「無理ですよ。ずっと見たかったんだから」
(我ながらキザだな……)
なんて心の中でツッコみつつ、俺はもう止まれませんでした。
首筋に唇を這わせると、彼女の体がぴくんと反応して。
「ん……っ」
普段のクールな声からは想像できない、甘い声でした。
そのまま時間をかけて、彼女の体を確かめていきました。
十分にほぐれたのを確かめてから、俺はゆっくり彼女と一つになりました。
「……立花、さん」
「はい」
「名前、亮介さんって、呼んでいいですか」
「もちろん」
彼女が俺の名前を呼ぶたびに、どうしようもなく愛おしくなりました。
ゆっくり動き始めると、桜庭さんは俺の首にしがみついてきて。
「あっ……や、それ……」
「大丈夫、ゆっくりやるんで」
会議室の顔と、今の顔。
その両方を知ってるのは、たぶん世界で俺だけだって思ったら、たまらなかったです。
彼女が高まっていくのに合わせて、俺も限界が近づいて。
「亮介さん、私、もう……」
「うん、俺も」
最後は、二人でほとんど同時でした。
しばらく、お互いの息が整うまで、ただ抱き合ってました。
一度落ち着いて、水を飲んで。
でも、彼女の火照った肌を見てたら、俺はまた我慢できなくなりました。
二回目は、さっきより余裕がありました。
桜庭さんも、もう恥ずかしがるより、素直に俺に身をあずけてくれて。
「……さっきより、いい、かも」
「正直ですね」
「だって、亮介さんが聞くから」
明かりの下で、彼女は今度は顔を背けませんでした。
まっすぐ俺を見て、名前を呼びながら。
会議室で見た凛とした目のまま、頬だけ真っ赤にして。
そのアンバランスさが、もう可愛くて仕方なかったです。
二回目が終わる頃には、外はもう白み始めてました。
翌朝。
俺たちは、ホテルの狭いベッドで並んで天井を見てました。
「……月曜、また会議ですよ、私たち」
「うわ、そうだ」
「会議室では、ちゃんと詰めますからね。手加減しません」
「望むところです」
そう言って笑い合ったあと、彼女は少しだけ真面目な顔になって。
「でも、金曜の夜だけは。あのホームでは、仕事の顔しなくていいですか」
「もちろん。てか、これからは一緒に帰りましょう」
「……はい」
そうやって、俺と桜庭さんは付き合うことになりました。
会議室では、相変わらず容赦なく詰められてます(笑)。
でも、金曜の終電間際、あの新宿のホームで待ち合わせるようになって。
あの案件、ちゃんと取れました。
彼女の詰めのおかげで、めちゃくちゃいい提案になったんです。
この前、初めて彼女の部屋に呼ばれて、例の餃子をごちそうになりました。
自慢するだけあって、ほんとにめちゃくちゃ美味しかったです。
「どうです? 言った通りでしょ」
「完敗です。会議室でも家でも敵わない」
「ふふ。じゃあ、一生かなわないままでいてください」
そんな軽口を叩き合える相手が、まさか金曜の終電のホームにいたなんて、今でも信じられません。
もらった傘は、まだ返してもらってません。
たぶん、これからもずっと返してもらわないままな気がします。
以上、毎週金曜のホームで見てた「他人」が、まさかの取引先で、そして今の彼女になった話でした。