これは去年の秋、僕が28歳のときの話です。
当時の僕のスペックを先に言っておくと、身長170、体重62キロ、顔は中の中。大学時代に付き合った彼女が1人いたけど、半年で振られてから5年間彼女なし。IT系の会社でリモートワークしてて、外に出るのは週2回のコンビニぐらい。控えめに言って終わってる。
住んでるのは東武東上線の志木駅から徒歩12分のアパート。家賃5万8千円、1K。築30年。壁が薄いのは入居前から知ってたけど、隣の部屋がずっと空室だったから気にしてなかった。
それが去年の9月、隣に人が越してきた。
引っ越しの挨拶に来たのは夫婦だった。旦那さんは40代前半ぐらい、短髪でがっちりした体格。奥さんは――正直、第一印象は「地味な人だな」だった。眼鏡かけてて、髪は後ろで一つに束ねてて、ほぼノーメイク。ユニクロのボーダーTにジーンズ。年齢は35ぐらいかなと思った。
「あ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。うるさかったらすみません」
声が低めで落ち着いてて、笑うと目尻にちょっとだけシワが寄る感じ。篠原涼子の若い頃をもう少し地味にした感じと言えばいいのか。まあとにかく、この時点では「感じのいい奥さんだな」ぐらいだった。
ただひとつだけ気になったのは、Tシャツの上からでもわかる胸のボリューム。本人は全然気にしてない様子で、逆にそれがなんか色っぽかった。
(いやいや、人妻だぞ。何考えてんだ)
旦那さんが名古屋に単身赴任で、基本は奥さん一人暮らしだということを知ったのは、引っ越しから1週間後のゴミ捨て場でだった。
「主人は月に一度帰ってくるかどうかで。何かあったらご迷惑おかけするかもしれません」
「いえいえ、僕も在宅なんで、何かあったら言ってください」
社交辞令のつもりだった。本当に。
それから2週間ぐらいは特に何もなかった。たまにゴミ捨て場で顔を合わせて軽く挨拶するぐらい。奥さん――マンションの郵便受けで「三浦」って苗字だと知った――は、どうやら近所のクリニックで医療事務をしてるらしく、朝8時に出て夕方6時に帰ってくる規則正しい生活をしていた。
問題の夜は、10月の半ばだった。
その日は金曜で、僕はいつものようにNetflixを観ながらビールを飲んでた。時計を見たら夜中の1時過ぎ。そろそろ寝るかとベッドに入ったとき、壁の向こうから声が聞こえてきた。
最初はテレビの音かと思った。でも違う。
泣いてる。
はっきりと、誰かがすすり泣いてる声だった。
(三浦さん…?)
しばらく聞こえてて、10分ぐらいで止んだ。僕はそのまま寝た。正直、他人の家庭の事情に首を突っ込む気はなかった。
でも翌日の土曜、また聞こえた。今度は少し長くて、途中で何か物を落としたような音もした。
日曜の夜も。
3日連続はさすがにまずくないか。一人で泣いてるってことは、誰にも相談できないってことだろ。旦那さんは名古屋にいるし。
(でも、隣の独身男がいきなり声かけたら普通に怖いよな…)
月曜の朝、ゴミ捨て場で三浦さんと会った。目が少し赤かった。でもいつも通り「おはようございます」って言ってきた。
「あの、三浦さん。余計なお世話かもしれないんですけど…最近、大丈夫ですか?」
言ってしまった。
三浦さんの表情が一瞬固まった。
「…聞こえてました?」
「すみません。壁が薄くて…」
「ごめんなさい、うるさかったですよね」
「いや、そういうことじゃなくて。何かあったのかなって」
三浦さんはしばらく黙って、それから無理に笑った。
「大丈夫です。ちょっと…色々あっただけなので」
それ以上は聞けなかった。
でもその夜、僕の部屋のドアがノックされた。時計を見たら夜の9時半。開けると三浦さんが立ってた。部屋着のスウェット姿で、手にはタッパーを持ってた。
「今朝はすみませんでした。あの…これ、お詫びっていうか。肉じゃが作りすぎちゃって」
「え、いいんですか。ありがとうございます」
「それと…さっきの話なんですけど」
三浦さんは少し迷ってから、
「立ち話もなんなので…少しだけ、お邪魔してもいいですか?」
僕は慌てて部屋を見回した。散らかってはいないけど、生活感が丸出しだ。でも断る理由もない。
「汚いですけど、どうぞ」
三浦さんは靴を脱いで上がると、部屋を見て「意外と片付いてますね」と言った。(いや今めっちゃ焦って見回してたの見られてたと思うけど)
お茶を出して、小さなテーブルを挟んで向かい合って座った。三浦さんは眼鏡を外して目元を押さえた。眼鏡なしの顔を初めて見たけど、思ったよりずっと整った顔立ちだった。
「実は…主人と離婚の話が出てまして」
「え…」
「単身赴任になってから、向こうで…相手ができたみたいで」
三浦さんは淡々と話した。旦那さんが名古屋で若い女と付き合い始めたこと。先月それを本人から告げられたこと。でも三浦さんには子供もいないし仕事もあるし、すぐに離婚する踏ん切りもつかないこと。
「37にもなって、夜中に泣いてるなんて恥ずかしいですよね」
37歳だったのか。見た目よりちょっと上だった。
「恥ずかしくないですよ。そんなの誰だって泣きます」
「…ありがとうございます」
その日はそれだけだった。三浦さんは30分ぐらいで帰っていった。
でも、それがきっかけだった。
三浦さんは週に2、3回、仕事帰りにうちのドアをノックするようになった。毎回何かしら手土産を持ってきて――コロッケとか、おにぎりとか、たまに缶ビールとか――僕の部屋で1時間ぐらい喋って帰る。
最初は旦那の愚痴が多かったけど、だんだん普通の会話になっていった。テレビの話とか、近所のスーパーの話とか、仕事の話とか。三浦さんは見た目の地味さに反して話が面白い人で、医療事務の裏話とか聞いてると普通に笑えた。
「昨日ね、患者さんが診察券忘れたって言うから再発行したら、30分後にまた来て"もう一枚なくした"って。さっき渡したやつどこやったんですか」
「それは…」
「ポケットに入れたまま洗濯機に突っ込んだって。受付で大笑いしちゃって怒られました」
こういうくだらない話をしてるとき、三浦さんは本当にいい顔で笑う。普段の無愛想な感じが嘘みたいに、目がくしゃっとなって、ちょっと歯が見えて。
(…かわいいな)
いや、待て。人妻だぞ。しかも9歳年上。しかもまだ離婚してない。何考えてんだ僕は。
でも気づいてしまったことがもうひとつある。三浦さんが部屋着で来るとき、ノーブラのことがあるのだ。スウェットの下に何もつけてないのが、動くたびにわかる。本人は全く気にしてない。たぶん、僕のことを男として見てないから無防備なんだろう。
(それがまた…つらい)
11月に入ったある夜、三浦さんがビールを4本持ってきた。
「今日、離婚届にサインしました」
「…お疲れ様です」
「なんか変な感じ。10年一緒にいて、紙一枚で終わるんだなって」
その夜は三浦さんがいつもより多く飲んだ。僕も付き合って飲んだ。ビール4本では足りなくなって、僕が冷蔵庫から発泡酒を追加で出した。
「ねえ、田中くんって彼女いるの?」
田中は僕の苗字。
「いないですよ。5年ぐらい」
「うそ。なんで?」
「なんでって…出会いがないんですよ。リモートだし。外出ないし」
「もったいない。優しいのに」
「優しいだけじゃモテないんですよ」
「そうかなぁ…」
三浦さんが酔うと語尾が伸びることをこの時初めて知った。普段のきちっとした話し方が崩れて、甘えたような口調になる。
(やめてくれ…そういうの反則だって)
「私ね、10年ぶりに一人になるんだよね。怖いなぁ」
「大丈夫ですよ。隣にいますし」
何気なく言ったつもりだった。でも三浦さんが急に黙って、こっちを見た。
目が潤んでた。
「…それ、ずるいよ」
「え?」
「そういうこと言われると…勘違いしちゃうから」
心臓がどくんと跳ねた。
「勘違い…じゃないかもしれないですけど」
なんでこんなこと言ったんだろう。ビールのせいだと思いたい。でも本当は、ずっと思ってた。この人のことが好きだって。人妻だとか年上だとか関係なく、この人の笑った顔が好きだって。
三浦さんが目を伏せた。
「やめて。私…おばさんだよ?37だよ?」
「知ってます」
「バツイチになるんだよ?」
「知ってます」
「田中くん、28でしょ。もっと若い子と…」
「三浦さんがいいんです」
沈黙が降りた。テーブルの上の空き缶が6本。外では東武東上線の終電が通過する音がした。志木駅の発車メロディがかすかに聞こえる。11月の夜中、0時を回っていた。
三浦さんが立ち上がった。
「帰るね」
「…はい」
三浦さんが玄関に向かう。僕はテーブルに座ったまま動けなかった。
(やっちまった。気まずくなるだけだったじゃん。バカか俺は)
ドアが開く音がした。でも閉まらない。
「…田中くん」
振り向くと、三浦さんがドアノブを握ったまま立ってた。
「本気で言ってる?」
「本気です」
また沈黙。三浦さんがドアを閉めた。外側じゃなくて、内側から。
靴を脱いで、僕のほうに戻ってきた。テーブルの前に正座して、僕の顔をまっすぐ見た。
「後悔するかもよ」
「しません」
三浦さんが手を伸ばしてきた。僕の頬に触れた。その手がちょっと冷たくて、でもすごく柔らかくて、それだけでもう頭がぐらぐらした。
「…バカだなぁ、田中くんは」
僕は三浦さんの手首をそっと掴んで、引き寄せた。
キスした。
ビールの味がした。唇が柔らかくて、最初はそっと触れるだけだったのが、三浦さんのほうから少し強く押し付けてきた。
離れたとき、三浦さんの眼鏡が曇ってた。
「…眼鏡、外すね」
眼鏡を外した三浦さんの顔がすぐ近くにあった。目が潤んでて、頬が赤くて、唇が少し開いてて。
(この人がこんな顔するんだ)
もう一回キスした。今度は舌を入れた。三浦さんが小さく「ん…」って声を出して、その声で理性が完全に飛んだ。
テーブルの空き缶が倒れる音がしたけど、どうでもよかった。
三浦さんのスウェットの裾から手を入れた。やっぱりブラをつけてなかった。直接手に触れた柔らかさが想像の3倍ぐらいで、思わず声が出た。
「すごい…柔らかい…」
「やだ…そんなこと言わないで…」
「やだ」と言いながら、三浦さんは逃げなかった。むしろ僕のほうに体を寄せてきた。
スウェットを脱がせた。眼鏡を外した三浦さんの上半身が目の前にあった。色白で、腕は細いのに胸だけがすごい存在感で、形も綺麗だった。
「三浦さん…カップいくつですか」
「…F」
「F…」
(あのユニクロのTシャツの下にFカップが隠れてたのか…)
乳首に触れると、三浦さんがびくっとした。
「あっ…ちょっと…そこ弱いから…」
弱いと言われたらそこを攻めたくなるのが男の性で、指で転がすように触ると、三浦さんの息が荒くなった。
「ん…っ…田中くん…」
名前を呼ばれるだけでこんなに興奮するとは思わなかった。
僕はベッドに三浦さんを誘導した。狭いシングルベッドに二人で横になると、もう密着せざるを得ない。三浦さんの体温が全身に伝わってきた。
スウェットのズボンに手をかけると、三浦さんが僕の手を掴んだ。
「…電気、消して」
「え?」
「お腹とか…おばさんだから。見られたくない」
「見たいです」
「…だめ」
結局、電気は豆球にした。オレンジ色の薄暗い光の中で三浦さんのズボンを脱がせた。太ももがむちっとしてて、触ると指が沈む感じがした。
下着は地味な黒。でもそれがまたリアルで、なんか余計にドキドキした。
「…触っていいですか」
「…うん」
下着の上から触ると、もう湿ってた。
「あ…っ…恥ずかしい…」
「恥ずかしくないですよ」
「だって…もう濡れてる…」
(こんな声出すんだ、この人)
普段の落ち着いた話し方とのギャップにやられた。下着をずらして直接触ると、三浦さんが腰を浮かせた。
「んっ…そこ…っ」
指を中に入れると、きゅっと締まった。
「あぁ…っ…久しぶりすぎて…っ」
「久しぶりって…どのぐらい?」
「…2年、ぐらい…」
2年。旦那が単身赴任になる前から、もうしてなかったのか。
指を動かすと、三浦さんが僕のTシャツの裾を掴んだ。シーツに顔を半分埋めて、声を殺そうとしてるのがわかった。
「声、出していいですよ。壁薄いから今更ですし」
「バカ…っ…そういうこと言わないで…」
でも少し声が大きくなった。
僕は自分の服を脱いだ。三浦さんの上に覆いかぶさると、三浦さんが僕の背中に手を回してきた。
「…ゴム、ある?」
「あります」
5年間使う予定のなかったコンドームが引き出しの奥にあった。期限ギリギリだった。(こういうの、切れてたらどうするんだろうな…)
ゴムをつけて、三浦さんの脚の間に体を入れた。先端を当てると、三浦さんが目をぎゅっと閉じた。
「…ゆっくりね」
「はい」
ゆっくり入れた。久しぶりだと言ってた通り、すごくきつかった。三浦さんが息を止めてるのがわかったから、途中で止まった。
「大丈夫ですか?」
「…うん。大丈夫…動いて」
動き始めたら、三浦さんが僕の背中の手に力を込めてきた。爪が少し食い込んで、それが痛いんだけど、なんか嬉しかった。
「あ…っ…んっ…」
三浦さんの声が耳元で聞こえる。普段あんなに落ち着いてる人が、こういう声を出してるのが信じられなかった。
(俺、今、三浦さんとしてるのか。これ夢じゃないのか)
「田中…くん…っ…気持ちいい…」
「僕も…っ…すごい気持ちいいです…」
腰を深く入れると、三浦さんが声を上げた。慌てて自分の手で口を押さえた。
「壁薄いから今更ですって」
「もう…っ…それ言わないで…っ」
笑いながらセックスしてた。こんなの初めてだった。大学時代の彼女とのときは、もっと緊張してて、もっとぎこちなくて、笑う余裕なんてなかった。
三浦さんの体はすごかった。胸が波打つのを上から見てると、それだけで射精しそうになった。必死に堪えた。
「ねえ…もっと奥…」
「奥…?」
「もっと…強くしていいから…」
腰の角度を変えて、深く突いた。三浦さんの背中がベッドから浮いた。
「あぁっ…そこ…っ…」
ベッドが軋む音がした。このベッド、一人用だからこういう使い方を想定してないんだよな。ちょっと笑えた。
「三浦さん…もう限界…っ」
「ん…っ…いいよ…出して…」
腰を密着させたまま果てた。ゴム越しでも、中で脈打つのが自分でわかった。三浦さんが僕の頭を抱え込んで、しばらくそのまま動かなかった。
肩で息をしながら三浦さんの顔を見ると、目を閉じたまま泣いてた。
「え、痛かったですか…?」
「ううん…違うの…嬉しくて」
「…」
「久しぶりに…人に触れてもらえて…」
その言葉がきつかった。2年間、誰にも触れてもらえなかった人が、嬉しくて泣いてる。僕はこの人を抱きしめることしかできなかった。
ゴムを外して捨てて、また三浦さんを抱きしめた。シングルベッドだから、否応なしにくっつく。三浦さんが僕の胸に顔を埋めて、小さく笑った。
「田中くんの心臓、すごいバクバクしてる」
「そりゃそうですよ…」
「ふふ…かわいい」
(年上に「かわいい」言われると、なんか…ずるくないか)
しばらく抱き合ったまま横になってたら、三浦さんが体を起こした。
「ねえ…もう一回、していい?」
「え…はい」
2回目は三浦さんが上になった。さっきまで「電気消して」とか「お腹見ないで」とか言ってた人が、僕の上にまたがって腰を動かしてる。豆球の光に照らされた三浦さんのシルエットがすごく綺麗で、でも同時にすごくエロくて、頭がおかしくなりそうだった。
2回目は1回目より長くもった。三浦さんが先にイって、中がぎゅっと締まった瞬間に僕もイった。
終わった後、三浦さんが僕の隣に倒れ込んで、天井を見ながら言った。
「…ねえ、私たちこれからどうするの」
「どうするって…」
「私、来月離婚届出すよ。そしたら…ただの隣に住んでるおばさんだよ」
「おばさんじゃないです」
「おばさんだよ。9個も上だよ」
「じゃあ…お姉さん?」
三浦さんが僕の肩を叩いた。地味に痛い。
「ふざけないで。真面目に聞いてる」
「真面目に言ってます。三浦さんが好きです。付き合ってください」
三浦さんがまた泣きそうな顔になった。でも今度は泣かなかった。
「…考えさせて」
それから三浦さんは服を着て、隣の部屋に帰っていった。壁越しにドアが閉まる音が聞こえた。
その夜、壁の向こうから泣き声は聞こえなかった。
翌朝、ゴミ捨て場で三浦さんと会った。いつもの眼鏡にボーダーのTシャツ。昨夜のことが嘘みたいだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
三浦さんがゴミ袋を所定の位置に置いて、振り返った。
「考えたんだけど」
「はい」
「離婚届が受理されるまでは…ちゃんと待ってほしい。それまでは隣の人」
「…わかりました」
「受理されたら…その時は、ちゃんと答えるから」
三浦さんはそれだけ言って、仕事に行った。
1ヶ月後、三浦さんの離婚届が受理された日の夜、僕の部屋のドアがノックされた。開けると三浦さんが立ってた。いつものスウェットじゃなくて、ちょっとだけおしゃれなニットを着てた。髪も下ろしてた。
「三浦じゃなくなりました。旧姓に戻って、安藤です」
「…安藤さん」
「はい」
「安藤さん。改めて、好きです。付き合ってください」
安藤さんが笑った。目尻にシワが寄る、あの笑い方。
「…よろしくお願いします」
あれから半年以上経った。安藤さんはまだ隣に住んでる。引っ越したらいいのにと思うけど、本人は「隣のほうが楽だから」と言って動かない。
壁が薄いアパートの隣同士で付き合うのは、正直かなり恥ずかしい。けど、壁が薄くなかったらあの泣き声に気づけなかったわけで。築30年に感謝してる。
家賃5万8千円にしては、いい物件だと思う。