これは俺が19歳のときの話。
浪人していた。一浪だ。現役のとき、横浜国大の理工を受けて見事に散った。E判定のくせに「なんとかなるっしょ」とか言ってたあの頃の自分をぶん殴りたい。
親には「もう一年だけ」と頭を下げた。ただし条件付きだ。仕送りは家賃だけ。生活費は自分でなんとかしろ、と。
それで横浜の片隅、東白楽の駅から徒歩12分のところにある築40年のボロアパートに住んでいた。家賃3万8千円。風呂トイレ別なのが唯一の救い。壁は薄い。隣の部屋のテレビの音が普通に聞こえるレベル。
バイトは駅前の「ほっともっと」。週5で夕方から閉店まで入ってた。廃棄の弁当をもらえるのがでかくて、それで食費をだいぶ浮かせてた。毎晩チキン南蛮弁当かのり弁を持ち帰る生活。栄養バランスとかいう概念はとっくに死んでた。
予備校は横浜駅の河合塾。朝から夕方まで授業を受けて、バイトして、帰ってきて、廃棄弁当を食いながら復習する。その繰り返し。友達なんていない。現役の頃の友達はみんな大学に行ってしまった。インスタのストーリーで楽しそうなキャンパスライフを見るたびに胃が痛くなるから、SNSは全部消した。
孤独だった。マジで。
4月の終わり、隣の部屋に誰かが引っ越してきた。
引っ越し業者の音がうるさくて、昼寝を邪魔されたのを覚えてる。壁ドンしようかと思ったけど、さすがに初日からそれはないだろうと我慢した。
翌朝、ゴミ捨て場で初めて会った。
(え?)
小柄な女の人だった。身長155くらいかな。ショートボブで、丸い眼鏡をかけてて、なんていうか――川口春奈を3割くらい地味にした感じ。すっぴんだったと思う。それでも整った顔立ちなのはわかった。年は俺より3つか4つ上に見えた。
「あ、隣の…昨日越してきた方ですか」
「はい、昨日はうるさくしてすみません。201の真島です」
真島さん。声が低くて落ち着いてた。
「いえ全然。202の坂口です。よろしくお願いします」
それだけ。普通の挨拶。なんてことない。
でも、その日の夜からちょっとおかしなことが起きた。
23時過ぎ、バイトから帰ってきて廃棄ののり弁を食いながら数学の参考書を開いてた。微分方程式のところで完全に詰まってて、もう2時間くらいペンが止まってた。
壁の向こうから声が聞こえた。
「……ここでyをxの関数として考えると、両辺をxで微分して……」
最初は電話かと思った。でも違う。テレビでもない。誰かに向かって話してるような、でも一方的な喋り方。
(何これ……講義?)
耳を壁に押し付けた。ちょっと引くけど、内容が気になりすぎた。
「……変数分離形に持ち込めれば、あとは両辺積分するだけ。ポイントは最初の式変形で怯まないこと……」
まさに俺が詰まってたところだった。
信じられないかもしれないけど、壁越しに聞こえてくる解説で、その問題が解けた。
翌日もその翌日も、夜になると壁の向こうから講義の声が聞こえてきた。どうやら隣の真島さんは、夜にオンラインで個別指導をやっているらしかった。
3日目の夜、ついに我慢できなくなった。
壁越しに聞こえる英語の構文解説を必死にメモってたとき、真島さんの声がぴたっと止まった。
そしてコンコン、と壁を叩く音。
「坂口くん、聞こえてるでしょ」
心臓が止まるかと思った。
「……すみません」
「謝らなくていいけど、壁に耳つけてる音、こっちにも聞こえるから」
(マジかよ……)
死にたくなった。完全に変態だと思われた。
翌朝、ゴミ捨て場で真島さんに会ってしまった。目を合わせられなくて、会釈だけしてダッシュで逃げようとした。
「坂口くん」
「は、はい」
「浪人生?」
「……はい」
「志望校は」
「横国の理工です」
真島さんが少し笑った。馬鹿にした笑いじゃなくて、なんか安心したような笑い方だった。
「私、駿台の数学講師。非常勤だけど」
(は?)
「夜の個別指導、聞きたいなら壁越しじゃなくてうちに来ればいいじゃん」
意味がわからなかった。なんでそうなる。
「え、いや、迷惑じゃないですか」
「壁に耳くっつけられてるほうが迷惑」
正論すぎて何も言えなかった。
その日の夜、22時。バイト終わりに真島さんの部屋のドアをノックした。
開いたドアの向こうは、思ったより片付いていた。というか、物がほとんどない。小さなテーブルと本棚。本棚にはぎっしり参考書と数学の専門書が詰まってた。部屋の隅にノートパソコンが置いてあって、画面にはZoomの画面が映ってた。
「今日の生徒は終わったから。座って」
テーブルの前に正座した。真島さんは向かいに座って、俺のことをじっと見た。
「今、何が一番やばい?」
「数学です。数IIIの微積で死んでます」
「模試の偏差値は」
「……48です」
「横国理工で48。やばいね」
「わかってます……」
真島さんがため息をついた。でもそれは呆れたため息じゃなくて、なんか覚悟を決めたみたいなため息だった。
「じゃあ今日から毎晩22時、ここに来て。1時間だけ教える」
「え、お金とか」
「いらない。その代わり、廃棄の弁当ひとつ余分に持ってきて」
真島さんも金がなかったんだと、あとで知った。駿台の非常勤講師なんて給料が安いらしく、夜のオンライン個別指導で食いつないでた。それでも足りなくて、晩ごはんをカップ麺で済ませてる日が多かったらしい。
こうして、毎晩の「授業」が始まった。
5月。バイトが終わると弁当を2つ持って真島さんの部屋に行く。一緒にのり弁とか唐揚げ弁当を食べながら、数学を教わる。
真島さんの教え方はすごかった。予備校の授業とは全然違う。
「坂口くんさ、公式を覚えようとしてるでしょ。それが間違い。なんでその公式が成り立つのか、導出を理解したら覚える必要なくなるよ」
目から鱗だった。高校のとき、丸暗記で乗り切ってきた自分が恥ずかしくなった。
真島さんは東大の理学部を出てた。数学科。聞いたとき素直にびびった。
「なんで駿台の非常勤なんですか」
「博士課程で挫折した。研究者になれなかった」
それ以上は聞けなかった。真島さんの目が一瞬だけ暗くなったから。
6月に入る頃には、俺たちはほぼ毎晩一緒にご飯を食べる関係になってた。授業が終わっても、なんとなく喋り続ける日が増えた。
真島さんは25歳だった。俺より6つ上。でも話してると年の差はあんまり感じなかった。アニメが好きで、ジョジョの話で盛り上がったり、くだらないYouTubeの動画を見て一緒に笑ったりした。
ただ、真島さんの生活はちょっと心配になるレベルだった。
冷蔵庫にはほとんど何も入ってない。洗濯物が溜まってることが多い。部屋は綺麗なんだけど、それは物がないだけで、生活してる感じがしない。
「真島さん、ちゃんと食べてます?」
「食べてるよ。坂口くんが弁当持ってきてくれるから」
「それ以外は?」
「……カロリーメイト」
(それは食べてるに入らないだろ……)
気づいたら、俺はバイト先で余った食材で簡単なおかずを作って持っていくようになってた。卵焼きとか、ほうれん草のおひたしとか、そういうレベルだけど。
「坂口くん、料理できるんだ」
「母親が料理好きで、小さい頃から手伝わされてたんで」
「……ありがとう」
そのとき、真島さんがすごく小さい声で言った「ありがとう」が、なんか引っかかった。ありがとうって言い慣れてない人の言い方だった。
7月。夏期講習が始まって、俺の生活はさらにハードになった。朝から河合塾で講習、夕方からバイト、22時から真島さんの部屋で授業。睡眠時間は4時間くらいだった。
真島さんはそれを見抜いてた。
「坂口くん、顔色やばい。今日は早く寝な」
「大丈夫です。センターまであと半年しかないし」
「倒れたら半年どころじゃなくなるよ」
その日、授業の途中で俺は意識が飛んだ。テーブルに突っ伏して寝てしまったらしい。
目が覚めたら、真島さんの部屋の布団の中にいた。時計を見たら朝の6時。
(え、ここで寝た?)
慌てて起き上がると、真島さんがテーブルでノートパソコンをいじってた。
「すみません、真島さんの布団で……真島さんはどこで寝たんですか」
「寝てない。仕事してた」
「え、俺のせいで……」
「違うよ。もともと不眠気味だから」
真島さんは平気そうな顔をしてたけど、目の下の隈がひどかった。
(この人、自分のことは全然大事にしないんだな)
なんでだろう。その瞬間、胸がぎゅっとなった。恋とかそういうのじゃない。もっと、なんていうか……放っておけない感じ。保護欲とか母性とか、そういうのが男の俺に芽生えたのが自分でもよくわからなかった。
8月。真島さんとの距離がさらに縮まった。
もう弁当を持っていくだけじゃなくて、真島さんの部屋のキッチンで料理するようになってた。自分の部屋より真島さんの部屋にいる時間のほうが長い日もあった。
ある日、夕飯を作ってたら真島さんが後ろから覗き込んできた。
「なに作ってるの」
「豚の生姜焼き。真島さん最近やせたから、ちゃんと肉食べてください」
「……なんか、お母さんみたい」
「俺19歳の男ですけど」
「ふふ」
真島さんが笑った。本当に嬉しそうに笑った。この人がこんなふうに笑うの、初めて見た気がした。
その夜、いつもの授業中に真島さんがぽつりと言った。
「私さ、博士課程にいた頃、指導教授と付き合ってたんだ」
急に何の話だと思ったけど、黙って聞いた。
「その人に研究テーマもらって、その人の研究室で生きてて。別れたら居場所がなくなった」
「……」
「だから駿台に拾ってもらった。でも非常勤だから、いつ切られるかわからない」
真島さんがテーブルの上のペンをくるくる回しながら続けた。
「坂口くんに数学教えてるとさ、あの頃の自分を見てるみたいなんだよね。数学が好きで、でも上手くいかなくて」
「俺は真島さんみたいに頭良くないですよ」
「そういうことじゃないよ。必死なところが似てる」
その日、真島さんの目がちょっと潤んでた。泣いてはいなかったけど、すごくギリギリだった。
俺は何も言えなくて、ただ「今日のり弁じゃなくてチキン南蛮にしましたよ」とか言って弁当を差し出した。我ながら最悪なタイミングだったと思う。でも真島さんは「ありがとう」って言って笑ってくれた。
9月。事件が起きた。
その日、俺はバイトが休みで、真島さんの部屋で自習してた。真島さんは駿台の授業で外出してた。
夕方、真島さんが帰ってきた。いつもと様子が違った。顔が真っ白で、手が震えてた。
「真島さん?どうしたんですか」
「……来期の契約、なくなった」
非常勤の契約を切られたのだ。
理由は聞かなかった。聞いても真島さんが辛くなるだけだと思った。
真島さんはテーブルの前に座って、じっと壁を見てた。
「オンラインの個別指導だけじゃ、家賃が払えない」
「……」
「実家には帰れない。帰る場所がない」
俺は知ってた。真島さんが実家と絶縁状態だってことは、なんとなく察してた。東大に行ったのに研究者になれなかったことを、親がずっと責めてたらしい。
「あの、俺のバイト先で人手が足りないんです。昼のシフト入れますよ」
我ながらバカな提案だと思った。東大卒の元研究者に弁当屋のバイトを勧めるなんて。
でも真島さんは少し考えて言った。
「……紹介してもらっていい?」
その週、真島さんはほっともっとの昼シフトに入った。俺は夕方のシフト。入れ違いだけど、シフトの引き継ぎの15分だけ、バックヤードで顔を合わせた。
「のり弁の蓋がうまく閉まらないんだけど」
「コツがあるんですよ。こう、斜めに押すと」
「……数学は解けるのにのり弁の蓋は解けないってどういうこと」
不器用すぎる真島さんがちょっと面白かった。
10月。台風が来た。
横浜に直撃した台風で、東白楽のあたりは一時停電した。
真島さんの部屋で一緒にいた。ろうそくの灯りで参考書を広げてたけど、さすがに勉強する雰囲気じゃなかった。
外は暴風雨。古いアパートがミシミシ鳴ってて、正直ちょっと怖かった。
「坂口くん、怖い?」
「いや別に怖くないですけど」
嘘だった。
「私は怖い」
真島さんが膝を抱えてた。ろうそくの灯りに照らされた横顔が、普段のクールな真島さんとは全然違って見えた。
「小さい頃さ、台風の日に父親が酔っ払って帰ってくるのがすごく嫌だった」
「……」
「だから嵐の音が怖いんだよね、今でも」
真島さんが俺の方を見た。目が潤んでた。
「……手、握ってていい?」
何も考えずに手を伸ばした。真島さんの手は冷たくて、小さかった。
そのまま、台風が過ぎるまで手を繋いでた。2時間くらい。真島さんは途中で俺の肩にもたれて寝てしまった。
起こせなかった。
真島さんの寝顔を見ながら、俺は認めざるを得なくなった。
(あ、俺、この人のこと好きだわ)
いや、たぶんもっと前から好きだった。いつからかはわからない。弁当を二つ持っていくようになった頃か、キッチンで生姜焼きを作りながら後ろから覗き込まれた時か。
でも、真島さんは25歳の元大学院生で、俺は19歳の浪人生だ。立場が違いすぎる。教える側と教わる側。大人と子供。
それに、真島さんの前の彼氏は大学の教授だったわけで。元研究者のプライドがある人が、浪人生のガキなんか相手にするわけがない。
……そう思うことにした。
11月。模試の結果が返ってきた。
数学の偏差値が48から61に上がってた。英語も54から58。全体でB判定。
真島さんに報告したら、初めて真島さんがガッツポーズした。
「やった。やったじゃん坂口くん」
「真島さんのおかげです」
「違うよ、坂口くんが頑張ったんだよ」
その日は特別にコンビニでビール(真島さんだけ)とコーラ(俺)を買って、ささやかな打ち上げをした。
真島さんが酔った。缶ビール2本で顔が真っ赤になってた。弱すぎる。
「ねー坂口くん」
「はい」
「受かったら、どうするの」
「普通に大学行きますけど」
「そっか。大学生かぁ。いいなぁ」
「真島さんだって大学行ったじゃないですか」
「うん。でもさ、大学って楽しい思い出ないんだよね。ずっと研究室にいて、ずっとあの人の顔色見てて」
真島さんが俺の肩にもたれてきた。酔ってるから仕方ないと思った。思おうとした。
「坂口くんはさぁ、大学行ったら彼女とかできるの?」
「え、わかんないですけど」
「できるよ、たぶん。優しいし、料理できるし」
「……」
「……なんか、嫌だな」
最後の一言が小さすぎて、聞こえなかったふりをした。聞こえてたけど。
聞こえてたけど、どうしていいかわからなかった。
12月。センター試験まであと1ヶ月。
俺は追い込みに入ってた。毎晩の授業にも力が入る。真島さんも本気だった。過去問を分析して、俺の弱点を洗い出して、効率的な対策プランを立ててくれた。
ある夜、過去問演習を終えてテーブルに突っ伏してたとき。
「坂口くん」
「はい」
「受かったら、もう来なくなるんだよね」
「え?」
「大学に受かったら、ここを出るんでしょ。実家から通えるし」
そうだった。横国なら実家の藤沢から通える。このボロアパートにいる理由がなくなる。
「……まだ受かってないですから」
「受かるよ。私が教えてるんだから」
真島さんが笑った。でも目が笑ってなかった。
その夜、自分の部屋に戻ってから眠れなかった。壁の向こうから、真島さんが何かを書いてる音が聞こえた。ペンが紙をこする音。
俺は壁に手を当てた。
(真島さんも、眠れないのかな)
1月。センター試験の前日。
真島さんが俺に小さな紙袋を渡してきた。
「お守り」
中を見たら、湯島天神のお守りだった。
「わざわざ買いに行ってくれたんですか」
「通り道だったから。……嘘、わざわざ行った」
真島さんが恥ずかしそうに目をそらした。
「ありがとうございます。絶対受かります」
「うん」
真島さんが俺の顔をじっと見てた。何か言いたそうだった。でも何も言わなかった。
センター試験が終わった。
自己採点の結果は悪くなかった。数学は過去最高点。真島さんに報告したら、電話口で泣いてた。
「よかった……ほんとによかった……」
「真島さん、泣いてます?」
「泣いてない。花粉」
1月だぞ。
2月。二次試験まであと2週間。
その日の夜、いつものように真島さんの部屋に行った。数学の過去問を解き終わって、答え合わせをしてるとき、真島さんが突然ペンを置いた。
「坂口くん、ひとつ聞いていい?」
「はい」
「私のこと、どう思ってる?」
心臓が跳ねた。
「……どうって」
「先生として?隣人として?それとも……」
真島さんの声が震えてた。
「……好きです」
言ってしまった。試験前にこんなことを言うべきじゃないのはわかってた。でもこれ以上嘘がつけなかった。
「……」
「先生としてじゃなくて、女の人として好きです。たぶん夏くらいからずっと」
真島さんが目を伏せた。
「私は、坂口くんの先生だよ」
「わかってます」
「6つも年上だよ」
「わかってます」
「浪人生と予備校講師だよ。ダメでしょ、そんなの」
「……わかってます」
真島さんが立ち上がって、窓のほうを向いた。
「前の彼もね、教授と学生だったんだよ。そういう関係って、力の差があるから対等じゃないの。私はその怖さを知ってる」
「俺は真島さんの元カレとは違います」
「そういう問題じゃないの」
真島さんが振り返った。目が赤かった。
「……帰って。今日は帰って」
帰った。
自分の部屋に戻って、壁に背中をつけて座った。壁の向こうで真島さんが泣いてる声が聞こえた。
翌日から、真島さんは俺を避けた。授業もなくなった。弁当を持っていってもドアが開かない。
3日目の夜。俺はドアの前に立って言った。
「真島さん、数学の質問があるんです。過去問の大問3が解けない」
嘘だった。解けてた。
ドアが開いた。真島さんは目が腫れてた。
「……見せて」
テーブルに座って、何事もなかったように過去問の解説が始まった。
真島さんの声はいつもどおりだった。でも指先がちょっと震えてた。
解説が終わったとき、真島さんが言った。
「試験が終わるまでは、先生と生徒でいさせて」
「……わかりました」
「試験が終わったら……ちゃんと答える」
それだけで十分だった。
2月25日。二次試験当日。
朝、アパートを出ようとしたら、真島さんがドアの前に立ってた。
「頑張って」
「はい」
真島さんが急に俺のネクタイを直し始めた。ネクタイなんかしてなかったのに。マフラーだった。
「……マフラーだった」
「ですね」
ふたりで笑った。
試験は、手応えがあった。数学は真島さんに教わったことがそのまま出た。
3月。合格発表。
横浜国大のホームページを開いたのは真島さんの部屋だった。
自分の受験番号を探す。あった。
「……あった」
「え?」
「受かった。受かりました、真島さん」
真島さんが画面を覗き込んで、確認して、そしてぼろぼろ泣き出した。
「よかった……ほんとに……よかった……」
俺も泣いた。
泣きながら、真島さんを抱きしめてた。
「真島さん」
「ん」
「試験、終わりましたよ」
真島さんが顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。こんなに泣いてる人を見たの、初めてだった。
「……うん」
「答え、聞いていいですか」
真島さんが俺のパーカーのフードを掴んで、引っ張った。顔が近づいた。
「バカ……好きに決まってんでしょ……ずっと好きだった……」
キスした。
涙の味がした。真島さんの唇は柔らかくて、震えてた。
合格の興奮と、好きだって言ってもらえた嬉しさと、ここまで長かったっていう安堵と、全部がごちゃまぜになって、頭がぐちゃぐちゃだった。
唇を離しても、真島さんは俺のパーカーを離さなかった。
「ずるいよ……生徒に手を出す先生になっちゃうじゃん……」
「もう生徒じゃないです。合格したんで」
「……屁理屈」
また唇が重なった。今度は真島さんのほうから。舌が触れて、俺は頭が真っ白になった。
気づいたら布団の上にいた。真島さんを押し倒してた。
(やばい、ここで止まらないとダメだ)
そう思ったのに、真島さんが俺のパーカーの裾を掴んで、上に引っ張った。
「……脱いで」
「え、いいんですか」
「……半年我慢した。もう限界」
真島さんの目が据わってた。酔ってない。真剣だった。
パーカーを脱いだ。Tシャツも脱いだ。真島さんが俺の胸に手を当てて言った。
「……意外と鍛えてるね」
「弁当屋で重い米の袋運んでるんで」
「ふふ」
真島さんのニットをゆっくり脱がせた。手が震えた。緊張してた。相手は6つ上の大人の女性だ。経験だってあるだろう。俺は高校のとき一回だけ付き合った彼女とキスまでしかしたことがない。
下着姿の真島さんは、思ったより華奢だった。鎖骨がくっきり出てて、腕が細くて。でも胸は意外とあった。服の上からじゃわからなかった。
「真島さん、綺麗です」
「……やめて、恥ずかしい」
真島さんが顔を手で覆った。俺はその手をどけて、またキスした。
首筋に唇を這わせると、真島さんが小さく声を漏らした。
「ん……っ」
ブラのホックに手をかけた。外し方がわからなくて、もたもたした。
「……前ホックだよ」
「あ、すみません」
(前ホックとかあるのか……)
なんとか外した。白い胸が現れた。大きさはCくらいだと思う。形がすごく綺麗だった。
「触っていいですか」
「……いちいち許可取らなくていいよ」
でも顔が真っ赤だった。ギャップがすごい。普段あんなにクールなのに。
胸を触った。柔らかかった。先っぽを指で触ると、真島さんの体がびくっとなった。
「あっ……そこ、敏感……」
舌で先端を転がすと、真島さんが俺の頭をぎゅっと掴んだ。
「んんっ……坂口く、ん……っ」
(この人がこんな声出すんだ)
いつも冷静で、数式を解説してるときの真島さんからは想像できない声だった。それがたまらなく興奮した。
ショーツに手を伸ばしたら、もう濡れてた。
「真島さん、すごい濡れてる」
「……言わないで、バカ」
指を滑らせると、ぬるぬるしてた。クリの上を撫でると、真島さんの腰がびくんと跳ねた。
「あっ、やっ……そこ……っ」
「気持ちいい?」
「……うん……っ」
真島さんが目をぎゅっとつぶって、シーツを握ってた。眼鏡が曇ってた。
指を中に入れた。ぎゅっと締まってきた。
「あああっ……んっ……!」
俺のもう限界だった。
「真島さん、入れたい……」
「……ゴム、は」
「……ないです」
沈黙が流れた。
「……私もない」
「じゃあ、やめたほうが……」
真島さんが俺の手を取って、自分のお腹に当てた。
「……外に出してくれるなら、いいよ」
(この人は俺を殺す気か)
真島さんの脚を開いて、先端を当てた。ぬるぬるしてて、すっと入った。
「あっ……ああっ……」
中が熱くて、きつくて、俺は一瞬で頭が真っ白になった。
「やばい……気持ちよすぎる……」
「動いて……ゆっくり……」
ゆっくり腰を動かした。真島さんが合わせるように腰を揺らしてくれた。
「んっ……んんっ……坂口くん……っ」
「真島さん……」
名前を呼び合いながら、ゆっくり動いた。速さじゃなくて、深さで。奥に当たるたびに真島さんが声を上げた。
「そこ……っ、そこいい……っ」
真島さんの細い腕が俺の背中に回った。爪が食い込んだ。
「好き……坂口くん、好き……っ」
「俺も好きです……真島さん……っ」
ぐちゃぐちゃだった。体も心も。
(これが、この人の中なのか)
(こんなに気持ちいいのに、こんなに怖い)
(終わったらどうなるんだろう。この関係は)
考えちゃいけないのに、考えてしまう。でも体は止まらなかった。
真島さんの中がきゅっと締まった。
「あっ、イっ……イく……っ!」
体がぶるぶる震えて、俺の背中にしがみついてきた。
その締め付けで、俺も限界が来た。
「やば、抜く……っ」
慌てて抜いて、真島さんのお腹に出した。
「はぁ……はぁ……」
ふたりで息を切らしてた。天井を見てた。
真島さんが俺の手を取った。
「……ティッシュ取って」
「あ、すみません」
お腹を拭きながら、真島さんが笑った。
「なに謝ってるの」
「いや、なんか……」
「先生と元生徒の関係としては、最悪だよね」
「元生徒です。合格してるんで」
「……まだ入学してないでしょ」
「屁理屈じゃないですか」
真島さんが声を出して笑った。
「ねぇ、もう一回していい?」
「え、早くないですか」
「半年我慢したって言ったでしょ」
2回目は真島さんが上に乗った。眼鏡を外した真島さんの顔が近くにあった。
さっきより激しかった。真島さんが自分で腰を動かして、俺の胸に手をついて、前後に揺れた。
「んっ……あっ……これ、やばい……っ」
俺は真島さんの腰を掴んで、下から突き上げた。
「ああっ……!だめ、奥に当たってっ……!」
さっきは言えなかったことを言った。
「真島さん、中に出したい」
「……っ」
「ダメですか」
「……今日たぶん安全日だから……いいよ……」
腰の動きが激しくなった。真島さんが俺の名前を呼んだ。苗字じゃなくて。
「直樹っ……直樹っ……!」
初めて下の名前で呼ばれた。それだけで、全部持っていかれた。
「イく……っ!」
中に出した。どくどくと出てるのが自分でもわかった。真島さんの中が痙攣するみたいに締まって、俺を絞り出してた。
「あっ……あああ……すごい、出てる……」
真島さんが俺の上に崩れ落ちた。
繋がったまま、しばらく動けなかった。
「……ねぇ」
「はい」
「私、このアパート出るかもしれない」
「え?」
「知り合いの塾から声がかかってて。常勤で。ただ、場所が静岡なの」
「……静岡」
「うん。たぶん、4月から」
俺が大学に入ると同時に、真島さんはここからいなくなる。
なんだよ、それ。
「……遠いじゃないですか」
「新幹線で1時間だよ」
「浪人明けの大学生に新幹線代はきつい」
真島さんが笑った。
「じゃあ、私が会いに行くよ。毎月」
「……本気ですか」
「本気だよ。坂口くんのためにのり弁の蓋の閉め方まで覚えた女をなめないで」
笑った。泣きそうだったけど笑った。
「真島さん」
「ん?」
「下の名前、なんていうんですか」
今さらすぎる質問だった。半年以上一緒にいて、ずっと「真島さん」だった。
「……琴美」
「琴美さん」
「……っ、やめて。恥ずかしい」
「琴美さん」
「もう、バカ」
3回目はなかった。さすがに2回で体力の限界だった。
並んで布団に入って、真島さんの――琴美さんの手を握った。
「ね、合格おめでとう」
「ありがとうございます」
「……敬語、やめない?」
「え、急に言われても」
「もう先生と生徒じゃないんだから」
「……ありがとう。琴美さん」
琴美さんが俺の胸に顔を埋めた。
「よく頑張ったね」
それが合格のことなのか、告白してくれたことなのか、半年間待っててくれたことなのか、全部なのか、わからなかった。
でもどれでもよかった。
あの薄い壁の向こうから聞こえてきた微積の解説から始まった関係が、こうなるとは思わなかった。
静岡と横浜。遠距離は大変だと思う。でも、なんとかなるだろ。
俺は一浪して偏差値を13上げた男だ。なんとかなるっしょ。
……今度はちゃんと根拠がある。