何ひとつ手放せず安全な進路ばかり計算して生きてきた僕が、なんとなく入った大学のグライダー部で、卒業したら二度と空には乗れないと知りながら誰より早く滑空場に立つ四年の先輩に、風を読んで機体を空へ手放す感覚を教わるうちに惹かれ、夏の終わりの夕凪の滑空場で結ばれた話

1. 銀色の翼が落ちてくる

空というのは、見上げるものだと思っていた。降りてくるものだとは、思っていなかった。

僕、神谷透(かみや とおる)、二十歳。大学二年生だ。子供のころから、僕は計算する子供だった。テストの点も、進路も、貯金も、何時に家を出れば何分で着くかも。手の中にあるものを取りこぼさないように、いつも先の先まで数えて生きてきた。リスクの低いほうへ、低いほうへ。そうやって選んできた道は、確かに失敗が少なかった。少ない代わりに、心が大きく動くこともなかった。

その夕方、僕は就活の合同説明会の帰りだった。スーツのネクタイをゆるめて、安全で無難な未来のパンフレットを鞄に詰めて、大学の裏手にある広い河川敷を、なんとなく自転車で走っていた。

(……なんだ、あれ)

夕暮れの空の、ずいぶん高いところに、銀色の点が浮いていた。プロペラの音がしない。エンジンの音も、しない。ただ、細長い翼を広げて、音もなく、ゆっくりと旋回している。

グライダーだ、と気づくのに、少しかかった。

その銀色の翼は、ふいに傾いて、こちらへ高度を落としはじめた。河川敷の奥に、草の刈られた長い滑走路があるのを、僕はそのとき初めて知った。機体は、風を撫でるように降りてきて、草の上を滑り、すうっと、止まった。

天蓋が開いて、中から、ひとりの女の人が降りた。

ヘルメットを脱いで、汗で湿った髪を、ばさりと払う。夕日が、その横顔を赤く縁取っていた。彼女は、自分が今までいた空を、しばらく見上げていた。名残を惜しむような、確かめるような目で。

(……きれいだ)

何を見ても心が動かなくなっていた僕の胸が、そのとき、ひとつ大きく跳ねた。

2. 手放す競技

次の日も、僕は同じ時間に、河川敷へ来てしまった。

滑走路の脇に、トタン屋根の古い格納庫があった。中をのぞくと、翼をたたんだグライダーが二機、肩を寄せ合うように仕舞われていて、その奥で、昨日の人が、機体の翼をウエスで拭いていた。

「見学? それとも、入りたいの」

ふり返って、その人は言った。近くで見ると、思ったより穏やかな目をしていた。空の上の鋭さが嘘みたいに、声がやわらかい。

「あ……すみません。昨日、上から降りてくるの、見て。エンジン、ついてないんですよね、あれ」

「グライダーだもの。エンジンはないの。風だけで飛ぶ」

その人は、天野千尋(あまの ちひろ)さんといった。四年生。この航空部で、いちばん飛べる人だと、あとで知った。

「飛行機はね、推力で前に進んで揚力で浮くでしょ。グライダーは、推力がないの。だから、ずっと、ほんの少しずつ落ちながら飛んでる」

「落ちながら……それで、よく、あんなに長く浮いてられますね」

「上昇気流を捕まえるの。あったかい空気が、地面から立ちのぼってるところ。そこに翼を入れて、ぐるぐる回って、落ちる以上に押し上げてもらう。エンジンの代わりに、空の機嫌を借りるのよ」

天野さんは、格納庫の暗がりから、明るい滑走路のほうへ目をやった。

「だからね。グライダーって、いちばん大事なのは、手放すことなの」

「手放す……?」

「離陸はウインチで引っぱり上げてもらうんだけど。いちばん高いところで、自分でワイヤーを切り離さなきゃいけないの。命綱を、自分の手で。それができないと、いつまでも空に行けない」

命綱を、自分の手で切り離す。その言葉が、なぜか、計算ばかりして何ひとつ手放せずに生きてきた僕の、いちばん柔らかいところに刺さった。

その日のうちに、僕は入部届を書いていた。説明会でもらった無難な未来のパンフレットは、鞄の底で、くしゃくしゃになっていた。

3. 翼端を持つ係

航空部は、小さな部だった。部員は全部で六人。整備と運航を、みんなで分担して回している。

新入りの僕に最初に与えられた仕事は、翼端を持つ係だった。グライダーは、止まっているとき、片方の翼を地面につけて傾いている。離陸のとき、誰かが翼の端を持って、走り出すまで水平に支えてやらないといけない。

「神谷、もうちょい肩の力抜け。お前、ピンと張りすぎてて見てて疲れる」

部長の戸川さんは、三年生で、太い眉の、よく日に焼けた人だった。ウインチや整備の理屈を、面倒見よく教えてくれる。

「すみません。落とさないようにと思うと、つい」

「翼なんてな、お前が必死に支えなくても、ちょっと走りゃ勝手に浮くんだよ。むしろ持ちすぎちゃ駄目だ。離陸の瞬間に、すっと手を離す。それが翼端係の仕事」

ここでも、手放すことか、と思った。

その日から、夕方の滑空場が、僕の一日の終着点になった。ウインチがワイヤーを巻き取る甲高い音。「テンション、オールアウト」という戸川さんの号令。機体がぐんと加速して、僕の手の中から翼が浮き上がり、急角度で空へ吸い込まれていく。そのたびに、胸の奥が、きゅっと締まった。

天野さんは、たいてい、誰よりも早く滑空場に来ていた。朝のいちばん澄んだ空気の中で、まだ誰も飛ばないうちに、ひとりで機体の点検をしている。風向計を見上げて、雲の底をじっと読んで、何かを確かめるように。

「天野さん、早いですね。いつも」

「……うん。飛べる時間は、限られてるから。一秒でも長く、空にいたくて」

そのときの横顔が、少しだけ、寂しそうに見えた。理由は、まだ分からなかった。

4. 風を読む

入部してひと月が経った初夏の午後、天野さんが、複座機の後ろの席を、僕に指さした。

「神谷くん。前、乗ってみる?」

複座機というのは、前後にふたり乗れる練習機だ。前が生徒、後ろが教える人。僕は、生まれて初めて、操縦席に座らされた。

「……心臓、すごい音してます」

「いいの、それで。怖いのは、ちゃんと生きてる証拠。怖くない人のほうが、空では危ない」

天蓋が閉じる。視界の左右に、細い銀の翼が伸びている。前方で、ウインチのワイヤーが、ぴんと張られた。

「テンション……オールアウト」

無線の声と同時に、背中をどんと蹴られたみたいな加速が来た。機首が、ぐいっと持ち上がる。あっという間に、河川敷が、模型みたいに小さくなっていく。地面が遠い。手すりも、命綱も、何もない。僕は、思わず操縦桿を握りしめた。

「神谷くん、ワイヤー、切って」

「え」

「黄色いノブ。引いて。ここがいちばん高いとこ。今、手放さないと、上に行けないの」

僕の手は、固まっていた。今ワイヤーを切ったら、僕らを引っぱり上げてくれているものが、なくなる。落ちる。怖い。指が、動かない。

「大丈夫。私が後ろにいる。……ほら、空、見て。手放した先に、ちゃんと続いてるから」

その声に、背中を押された。僕は、目をつぶって、黄色いノブを引いた。

がこん、と軽い音がして、ワイヤーが外れた。一瞬、ふっと体が浮くような、落ちるような、奇妙な感覚。けれど――落ちなかった。機体は、急に静かになって、ふわりと、空の中に放り出された。

「……飛んでる」

「飛んでるよ。私たち、今、誰の力も借りてない。風と、翼だけ」

エンジンの音がしないから、聞こえるのは、風が機体を撫でていく、さあ、という音だけだった。眼下に、夕方の街が、金色に光っていた。僕は、生まれて初めて、自分が何かを手放した先で、ちゃんと浮いていた。

天野さんが、後ろで、ピーッ、と高い電子音の鳴る計器を指さした。

「聞こえる? この音が高くなったら、上昇気流に入ってる証拠。空が、押し上げてくれてるの。……ね、神谷くん。空って、案外、優しいでしょ」

僕は、何も言えなかった。ただ、目の奥が、じんと熱かった。

5. 先輩の空

それから、僕はよく、天野さんの飛行に同乗させてもらうようになった。

天野さんの操縦は、不思議だった。無理に上げようとも、急ごうともしない。ただ、風のあるところへ、そっと翼を差し出す。すると機体が、自分から、すうっと浮いていく。空と喧嘩をしない人だった。

ある夕方、ふたりで地上から、戸川さんの飛行を見上げていた。茜色の空に、銀の翼が、ゆっくり旋回している。

「天野さん。卒業したら、どこかの航空会社とか、行くんですか。こんなに飛べるのに」

天野さんは、しばらく黙っていた。風向計が、からから、と乾いた音を立てて回った。

「……ううん。私、ふつうに就職するの。内陸の、事務の仕事」

「飛ぶの、やめちゃうんですか」

「グライダーって、お金がかかるの。クラブに入って、機体の維持費も払って、毎週末ここまで来て。学生のうちは、部があるから飛べる。でも、社会に出たら……たぶん、私には、もう続けられない」

茜色の光の中で、天野さんは、空を見上げたまま言った。

「だから、この夏が、たぶん最後。卒業したら、私、もう二度と、ここからは飛ばないと思う」

僕は、言葉を失った。誰よりも早く滑空場に来て、一秒でも長く空にいたがっていた理由が、ようやく分かった。彼女は、終わりが見えている空を、必死で、味わっていたのだ。

「……寂しく、ないんですか」

「寂しいよ。すごく。……でも、しょうがないでしょ。手放すのも、グライダーの一部だから」

いつも凪いだ海みたいに穏やかなその声が、そのときだけ、ほんの少し、揺れた。僕は、何かを言いたかった。けれど、計算ばかりして生きてきた僕には、彼女の手を引きとめる言葉が、ひとつも見つからなかった。

6. 夏合宿

八月の終わり、航空部は、四日間の夏合宿に入った。

ふだんは週末しか飛べないけれど、合宿のあいだは、朝から晩まで滑空場に張りつける。みんなで河川敷のロッジに泊まり込んで、夜明け前に起きて機体を出し、日が暮れるまで、交代で空に上がった。

「神谷、お前、上達したな。最初、翼端で死にそうな顔してたのに」

「戸川さんが、力を抜けって、毎日言うんで」

「天野が、いい教官だからだろ。あいつ、後輩に教えるとき、別人みたいに楽しそうだもんな。……飛べなくなるの、もったいねえよ、ほんとに」

戸川さんが、ぽつりと言った。みんな、天野さんがこの夏で空を降りることを、知っていた。だから誰も、口にしなかった。

合宿の三日目、僕は初めて、ひとりで複座機の前席を任された。天野さんは後ろにいたけれど、操縦は、ほとんど僕に委ねてくれた。

「神谷くん。右、二時の方向。雲の底、ちょっと膨らんでるでしょ。あそこ、空気があったかい。行ってみて」

「……自分の判断で、いいんですか」

「いいの。怖かったら、いつでも代わる。でも、たぶん、神谷くんはもう、ひとりで風を読める」

僕は、操縦桿を、そっと右へ倒した。機体が、ゆっくりと、雲の底へ滑り込んでいく。――ピーッ。計器の音が、高くなった。上昇気流。機体が、ふわりと、押し上げられた。

「……入った。入りました!」

「ね。空が、神谷くんを、ちゃんと信じてくれた」

旋回しながら、僕らは、高度を上げていった。夕方の風は穏やかで、河川敷も、街も、遠くの山も、ぜんぶ金色に染まっていた。僕は、もう、手放すことが怖くなかった。後ろから聞こえる天野さんの声が、ずっと、僕を支えていた。

その夜、ロッジの外でひとり夜空を見上げていたら、天野さんが、缶のお茶を二本持って、隣に来た。

「神谷くん。今日、すごくよかった。私、教えてて、ほんとに楽しかった」

「……天野さんのおかげです。僕、空、好きになりました。先輩が、教えてくれたから」

天野さんは、星を見上げたまま、少しだけ笑った。その横顔が、合宿の灯りに、やわらかく照らされていた。

7. 夕凪の二人

合宿の最終日。明日にはみんな、機体をたたんで帰る。

その日の夕方、戸川さんたちが片づけを始めたころ、天野さんが、まだ格納庫から出していない複座機を、見ていた。

「ねえ、神谷くん。……最後に、もう一本だけ、いい?」

「でも、もう、みんな片づけ……」

「行ってこい」

戸川さんが、背を向けたまま言った。

「天野の、たぶん最後の一本だ。俺たちで、ウインチ回してやる。……二人で、ゆっくり飛んでこい」

夕方の風は、もう、ほとんど凪いでいた。日中の上昇気流は消えて、空気が、つるりと滑らかになる時間。夕凪、とグライダー乗りは呼ぶ。長くは浮いていられない。ただ、いちばん静かで、いちばん美しい空。

天蓋が閉じる。ウインチが、僕らを、茜色の空へ引き上げた。今度は、僕がためらわずに、黄色いノブを引いた。がこん、と命綱が外れて、機体が、夕凪の空に放り出される。

「……静かですね」

「夕凪だもの。風が、寝ちゃう時間。……いちばん好きなの、私。この空が」

エンジンも、風の音さえも遠くなって、世界には、僕ら二人しかいなかった。眼下の街に、ぽつ、ぽつ、と灯りがともりはじめている。空は、上のほうがまだ群青で、地平のほうが、燃えるような橙だった。

「神谷くんに、見せたかったの。私が、いちばん好きだった空。……これで、思い残すこと、なくなる」

その声が、後ろで、湿っていた。

「天野さん」

「ん?」

「……手放さないで、ください」

「え?」

「空を、手放さないでください。卒業しても、続けてください。お金がかかるなら、僕も、働きながら一緒に払います。毎週末、僕がここまで車出します。だから……ひとりで、終わりにしないでください」

夕凪の空の中で、しばらく、返事はなかった。聞こえるのは、翼が空気を撫でる、かすかな音だけ。

「……ずるいよ、神谷くん。そういうこと、空の上で言うの」

声が、震えていた。

「だって、ここじゃ……顔、隠せないじゃない」

機体が、ゆっくりと、最後の高度を使って降りていく。茜色が、少しずつ近づいてくる。草の滑走路に、すうっと翼が滑り込んで、僕らは、地上に戻った。

天蓋が開く。けれど、二人とも、しばらく動けなかった。

8. 格納庫の灯り

その夜、ロッジのみんなが寝静まったあと、僕は眠れずに、滑空場のほうへ歩いた。

格納庫に、灯りがついていた。中に、天野さんがいた。明日たたむ複座機の翼を、いつものように、ウエスで拭いている。最後の手入れをしているのだと、すぐに分かった。

「……まだ、起きてたんですね」

「神谷くんこそ」

「眠れなくて。……昼間の、返事」

天野さんは、ウエスを置いて、こちらを向いた。裸電球の、頼りない灯りの下で、その目が、少し潤んでいた。

「……本気で、言ってるの? 続ける、って」

「本気です。僕、生まれて初めて、計算しないで言いました。先のことなんて、何も数えてない。ただ、天野さんと、まだ空にいたいって、それだけで」

「……っ」

天野さんが、両手で、顔を覆った。いつも凪いでいた人の肩が、小さく、震えていた。

「ずっと、ひとりで、覚悟してたの。終わるって。手放すって。……なのに、神谷くんが、簡単に、その覚悟、ほどいちゃう」

「ごめんなさい。でも、ほどきたかったんです。先輩のこと」

僕は、一歩、近づいた。天野さんは、逃げなかった。顔を覆った手を、そっと外して、僕を見上げた。睫毛が、濡れていた。

「天野さん。……好きです。最初に、空から降りてくる先輩を見たときから、ずっと」

「……うん。私も。神谷くんが、黄色いノブ、引けたとき。……ああ、この子だって、思った」

どちらからともなく、距離が、なくなった。格納庫の、油と草の匂いのする空気の中で、僕は、その細い肩に手を回して、引き寄せた。

唇が、重なった。

「ん……」

夕凪の空みたいに、静かなキスだった。一度離れて、目が合って、もう一度。今度は、少し深く。天野さんの手が、僕のシャツを、きゅっと握った。

9. ほどけていく

格納庫の隅に、整備のときに使う、古いソファがあった。僕は、天野さんの手を引いて、そこへ座らせた。

裸電球の灯りだけが、機体の銀の翼を、ぼんやりと照らしている。もう一度、深く口づけながら、僕は天野さんのシャツのボタンに、おそるおそる手をかけた。

「……電気、消したほうが」

「……つけてて、ほしいです。先輩の顔、見たいので」

「……っ、もう。神谷くんは、そういうとこ」

そう言いながら、天野さんは、僕の手を、拒まなかった。むしろ、自分から、僕の首に腕を回してきた。ボタンを、ひとつずつ外していく。空の上ではあんなに凛としていた人の鎖骨が、灯りの下で、こんなにも華奢で、白かった。

「……天野さん、きれいです」

「……言わないで。恥ずかしい」

シャツの合わせを、そっと開く。下に着ていたインナーの裾から手を入れると、その素肌は、夜気が嘘みたいに、熱かった。

れろ……ちゅ……

「ん……っ」

首筋に唇を這わせると、天野さんの体が、びくりと小さく震えた。いつも空と喧嘩をしない、穏やかな人が、僕の腕の中で、少しずつ、ほどけていく。それが、たまらなく愛おしかった。

「神谷、くん……っ」

「はい」

「……ちひろ、でいい。先輩じゃ、なくて」

「……ちひろ、さん」

名前を呼ぶと、天野さんの睫毛が、ふるりと揺れた。インナーをそっと脱がせると、彼女は、恥ずかしそうに、胸の前で腕を組んだ。裸電球のうす明かりに、白い肩が、ふわりと浮かぶ。

「……腕、どけても、いいですか」

「……っ、見ないって、約束できる?」

「無理です。きれいすぎて」

「……ばか」

それでも、ちひろさんは、おずおずと腕をほどいた。僕は、その白い胸を、壊れ物みたいに、そっと手で包んだ。

「あ……っ」

「……痛くないですか」

「いた、くない……っ」

指の腹で、つんと立ちはじめた先を、そっとかすめると、ちひろさんの肩が、ぴくんと跳ねた。

「ひゃ……っ、そこ……っ」

「……ここ?」

「……っ、変な、声、出ちゃう……っ」

口では恥ずかしがるのに、僕がそっと先を口に含んで、舌で転がしはじめると、ちひろさんの体から、ふっと力が抜けていった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、夜の格納庫に、こぼれた。誰もいなくてよかった、と頭の隅で思った。こんな声、誰にも聞かせたくない。僕だけが、知っていたい。

胸を愛撫しながら、もう片方の手で、太腿の内側を、ゆっくりと撫で上げていく。

「ん……っ♡」

「……力、抜いてください。ちひろさんのペースで」

「……っ、神谷くんが、そう言うと、ずるい……っ」

下着の上から、いちばん敏感なところに触れると、もう、そこが熱くなっているのが分かった。指でそっと撫でるたびに、ちひろさんの腰が、小さく揺れる。やがて下着をずらして、直接そこに触れると――

くちゅ、と。

「ひゃ……っ♡」

「……濡れてます」

「言わないで……っ♡ キス、のとき、から……っ」

恥ずかしさで顔を背けるちひろさんに、僕は何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹で、くるくると撫でた。ちひろさんが、僕の腕に、ぎゅっとしがみつく。

くちゅ……くちゅ……

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」

「……気持ちいいですか」

「……っ♡ うん……っ♡」

指を、ゆっくりと、中へ沈めていく。

ずぷ……っ

「ん……あぁ……っ♡」

熱くて、とろとろだった。空の上の、あの穏やかな集中とは、まるで逆。ちひろさんの中は、やわらかく、ほどけていた。指の動きに合わせて、彼女の体が、だんだん高まっていくのが分かる。

くちゅくちゅくちゅっ……

「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」

「いいですよ。そのまま」

「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」

指の動きを速めると、ちひろさんの体が、びくびくっと跳ねた。

「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

僕の腕の中で、ちひろさんはぎゅっと体を丸めて、達した。いつも凪いでいる人が、僕の前で乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が締めつけられた。

10. 風と、翼だけ

「……神谷くん」

「はい」

「……最後まで、してほしい。神谷くんと、なら」

凛として空を飛ぶ人が、頬を染めて、そんなことを言う。僕は、ごくりと喉を鳴らした。

「……無理、してないですか」

「してない。私が、したいの。……ずっと、ひとりで、終わりにするつもりだった。なのに、神谷くんが、全部、ほどいちゃったから」

その言葉に、僕は、財布の中に念のため入れていた小さな包みを取り出した。ちひろさんが、それを見て、ほっとしたように、ふっと笑う。

「……そういうとこ、ちゃんと計算してる」

「ちひろさんを、大事にしたいので。これだけは、手放しません」

「……もう。こんなときに」

古いソファの上で、僕はちひろさんに、そっと覆いかぶさった。脚の間に体を進めて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがう。

「……いきます。痛かったら、すぐ言ってください」

「……うん。来て」

ずぷ……っ♡

「ん……あぁ……っ♡♡」

先が入った瞬間、ちひろさんは僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、彼女の中が僕を受け入れていく。

ずず……っ

「っ……あ……っ」

「……止めますか」

「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」

僕は、ちひろさんの様子を窺いながら、ほんの少しずつ進んだ。途中で何度も止まって、額にキスを落として、また少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。繋がった場所から、じんわりと、熱が広がっていく。

「……全部、入ってる……?」

「はい。……全部」

「……繋がってるんだ、私たち……」

ちひろさんの目に、うっすら涙がにじんでいた。ずっと、後ろの席から声をかけてくれていた人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を、指でそっと拭った。

「……動いて、平気ですか」

「うん……っ。来て、神谷くん……っ」

ゆっくりと、動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」

最初は、彼女の体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、ちひろさんの声が漏れる。

「……痛くないですか」

「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」

「気持ちよく、なってきました?」

「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、神谷くんの、好き……っ♡」

口走ってから、ちひろさんは自分の言葉に、また顔を赤くした。それが体のことなのか、僕自身のことなのか、たぶん、どっちもだったんだと思う。

ぱちゅ……ぱちゅ……

「神谷くん……っ♡」

「ちひろさん」

「……っ♡ 名前……」

「ちひろさん。……ずっと、こうやって呼びたかった」

下の名前で呼ぶと、ちひろさんは僕の首に腕を回して、自分から唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ、深くなる。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

「あっ♡ あっ♡ 神谷くん……っ♡ なんか、また……っ♡」

「……僕も、そろそろ」

「一緒が、いい……っ♡ 神谷くんと、一緒……っ♡」

僕は、ちひろさんをぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡

「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 神谷くん……っ♡♡」

「……っ、ちひろさん……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥でびくびくと跳ねる僕を、ちひろさんの体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。夜の格納庫で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。

「……はぁ……っ、神谷くん……」

「……ちひろさん。痛くなかったですか」

「……痛かった、けど。……それより、ずっと、幸せだった」

僕は、ちひろさんの汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。

11. 手放さない約束

翌朝、合宿の最終日の朝は、よく晴れていた。

みんなで機体を格納庫にしまい、翼をたたみ、ロッジの片づけをした。戸川さんは、僕とちひろさんの様子を見て、何も言わずに、ただ一度だけ、にやりと笑った。

帰り支度を終えて、僕らは二人、誰もいなくなった滑走路に立った。草の上に、朝の風が、さわさわと渡っていく。

「ちひろさん。……昨日の約束、覚えてますか」

「……空を、手放さないで、ってやつ?」

「はい。本気です。卒業しても、続けましょう。社会人のクラブ、探します。費用も、二人で。毎週末、僕が、ここまで連れてきます」

ちひろさんは、しばらく、朝の空を見上げていた。それから、ゆっくりと、僕のほうを向いた。その目は、もう、寂しそうではなかった。

「……ずっと、ひとりで覚悟してたの。この夏で、空とは、お別れだって。手放すのも、グライダーの一部だって、自分に言い聞かせて」

「でも。……手放さなくて、いいものも、あるんだね」

朝日が、ちひろさんの髪を、金色に透かしていた。

「神谷くん。……これからも、私の後ろの席、いてくれる?」

「いえ」

「……え?」

「これからは、隣で。同じ空を、横に並んで飛びたいです。先輩と後輩じゃなくて」

ちひろさんが、ふっと、声をあげて笑った。空の上の、凪いだ穏やかさとも違う、地上で見せる、いちばん晴れやかな笑顔だった。

「……生意気。後輩のくせに」

「ちひろさんに、手放し方、教わったので」

「ふふ。……うん。じゃあ、隣で。これからは、ずっと」

空というのは、見上げるものだと思っていた。手の中のものを数えて、取りこぼさないように、低いほうへ低いほうへと、計算して生きてきた。

でも、本当は違った。何かを思いきって手放したその先に、ちゃんと続いている空がある。風と、翼と、隣で笑うこの人さえいれば、僕は、もう、落ちることを怖がらない。

二人で並んで歩く帰り道、後ろの席と前の席を分けていた、あの距離は、もう、どこにもなかった。

― 終 ―


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