社会人十年目、三十二歳。
名前は笠原透(かさはら とおる)。鉄道会社の関連会社で、駅の案内文を書く仕事をしている。
電光掲示板に流れる一行。ホームに響く自動放送の文面。「まもなく二番線に、各駅停車が、まいります」――あの、抑揚のない声に読ませる原稿を、僕は一日じゅう、パソコンの前で削っていた。
文字数を合わせ、誤解の余地をつぶし、誰が聞いても一通りにしか取れない言葉だけを残す。やさしさも、ためらいも、全部そぎ落とす。人に届くための言葉のはずなのに、できあがるのは、機械が読むための、体温のない一行だった。
(……最後に、声に出して何か喋ったの、いつだっけ)
在宅と出社が半々の暮らしで、家に帰っても、誰とも喋らない日が続いていた。一日に出す声といえば、コンビニのレジで「袋いりません」と言うくらい。自分の喉が、案内放送の女声みたいに、ただ用件を運ぶだけの管になっていく気がした。
その夜も、終電に近い時間に駅を出て、僕は古い住宅街を歩いていた。
七月のはじめ。昼の暑さがアスファルトに残った、生ぬるい夜だった。
家までの近道に、小さな児童公園がある。ブランコと、すべり台と、砂場だけの、何の変哲もない公園。いつもは真っ暗で、素通りするだけの場所だった。
それなのに、その夜にかぎって。
――かちん、かちん。
乾いた拍子木の音が、夜の公園から、響いてきた。
拍子木の音
公園の真ん中に、ぽつんと、あたたかい色の灯りがあった。
街灯ではなかった。一台の、古い自転車。荷台に、木でできた大きな箱のようなものを括りつけて、その上に、裸電球が一つ、灯っている。箱の上半分は、絵を差し込む額みたいな枠になっていた。
その自転車の前に、若い女の人が立っていた。
片手に拍子木を打ち鳴らしながら、もう片方の手で、枠の中の絵を、すっと一枚、引き抜く。
「さあさあ、こんばんは。今夜も始まるよ、夜の紙芝居」
通る、よく響く声だった。
紙芝居、なんて言葉を、何年ぶりに聞いただろう。僕は足を止めて、暗がりから、その光景を見ていた。
観客は、たった三人。近所の子どもらしい小学生が二人、自転車の前にしゃがみ込んで、もう一人、ベンチに、白髪頭の老人が腰かけている。それだけの、ささやかな客の前で、彼女は、まるで満員の客席に語りかけるみたいに、声を張った。
「むかしむかし、あるところに、声をなくしてしまった鬼がいました」
枠の中の絵が、一枚、また一枚、引き抜かれていく。彼女の手が、ぴたりと、語りの間に合わせて止まり、また動く。声が、高くなり、低くなり、ささやきになり、笑いになる。
僕は、息を詰めて、それを聞いていた。
一日じゅう、抑揚を消した文面を書いていた僕の耳に、その声は、信じられないくらい、たくさんの色を持って響いた。怒り、おどけ、悲しみ、やさしさ。一つの喉から、こんなにいろんな声が出るのかと、馬鹿みたいに、見入ってしまった。
「――おしまい。はい、今夜はここまで」
かちん、と、拍子木が鳴って、話が閉じた。
子どもたちが「えー、続き!」と口をとがらせる。彼女は笑って、自転車の箱の引き出しから、小さな何かを取り出した。
「続きは、また明日。今日来てくれたごほうびに、はい、水あめ」
割り箸にくるりと巻かれた、琥珀色の水あめが、子どもたちに手渡される。それを舐めながら、子どもらは、満足そうに帰っていった。
気づくと、公園に残ったのは、ベンチの老人と、彼女と、暗がりに突っ立った僕だけになっていた。
彼女が、ふと、こちらを見た。
「お兄さんも、見てた? ……ずっと、そこで」
声をかけられて、僕は、しどろもどろになった。
「あ……すみません。つい、その。珍しくて」
「珍しいよねえ、今どき。立ち見は、ただだよ。よかったら、明日も」
くしゃっと、笑った。
電球の下で見た彼女は、僕と同じくらいの歳に見えた。色のあせた藍染めの作務衣みたいな上っ張りに、ひっつめた髪。化粧っ気はないのに、その笑顔が、夜の公園に、ぽっと灯がともったみたいに、明るかった。
家に帰っても、しばらく、あの声が、耳の奥で鳴っていた。
声をなくした鬼の話。なぜだか、それが、自分のことみたいに思えて、寝つけなかった。
立ち見の客
翌日から、僕は、仕事帰りに、その公園を通るのが、待ち遠しくなった。
正確には、遠回りしてでも、その公園を通るようになった。
紙芝居は、毎晩あるわけではなかった。雨の日はないし、彼女の都合でない夜もある。灯りがついていない公園を、がっかりして素通りした夜も、何度かあった。けれど、あの裸電球が灯っていると、僕の足は、勝手に止まった。
立ち見の客は、いつも僕一人だった。子どもたちのうしろで、邪魔にならないよう、暗がりに立つ。彼女は、僕が来ると、ちらりと目だけでうなずいて、また語りに戻る。
三度目か、四度目の夜だった。子どもたちが帰ったあと、彼女が、自転車を片づけながら、言った。
「お兄さん、毎晩来るね。子どもより、熱心」
「……すみません。気持ち悪いですよね、いい歳して」
「ううん。うれしいよ。立ち止まってくれる大人なんて、めったにいないもん」
彼女は、七尾詩織(ななお しおり)、と名乗った。歳は、やっぱり、僕の一つ下だった。
「これ、おじいちゃんがやってたの。この町の、最後の紙芝居屋さん」
絵の束を、丁寧に箱へしまいながら、詩織さんは言った。
「テレビもゲームもある時代に、誰が紙芝居なんか、って笑われるんだけどね。でも、おじいちゃんが死んで、この自転車も絵も、捨てるしかないってなったとき……なんか、声が、惜しくなっちゃって」
「声?」
「うん。おじいちゃんの声で聞いた、いろんなお話。あれが、この世から、ぜんぶ消えちゃうのが。……それで、わたしが、引き継いだの。下手くそだけどね」
下手くそ、なんて、とんでもなかった。
僕は、思わず、言っていた。
「下手じゃない。……すごく、いい声です。色が、たくさんあって」
言ってから、自分でも、変なことを言ったと思った。けれど、詩織さんは、きょとんとして、それから、ふわっと、頬を赤くした。
「……色って。お兄さん、おもしろい言い方するね」
夜の公園に、二人ぶんの沈黙が、少しだけ、くすぐったく流れた。
水あめと持田さん
ある晩、いつものベンチの老人が、僕に話しかけてきた。
紙芝居の常連で、詩織さんが「持田さん」と呼んでいる人だった。八十は過ぎているだろう。毎晩、同じベンチで、子どもらに混じって、紙芝居を見ている。
「兄さん、あんた、最近よう来るな」
「あ……ええ。仕事帰りに、つい」
「ええことだ。わしはな、詩織ちゃんのじいさんの代から、ここで紙芝居を見とるんだ。子どもの時分からな。もう、七十年も前の話だ」
持田さんは、皺だらけの手で、水あめの割り箸を、くるくると回した。大人にも、一本くれるらしい。
「あのじいさんもな、無口な人でな。普段は、ろくに喋らん。だが、この枠の前に立つと、人が変わったみたいに、ようしゃべった。詩織ちゃんも、そっくりだ」
「もう、持田さん。その話は、いいってば」
自転車のところで、詩織さんが、耳を赤くして、口をとがらせた。
「いいじゃないか。この子はな、東京で、なんか、声の仕事をしとったんだ。ナレーションとか、そういうの。だが、うまくいかんで、帰ってきた。それで、じいさんの紙芝居を継いだんだ。たいしたもんだよ」
「……持田さん」
詩織さんの声が、少し、固くなった。持田さんは、しまった、という顔で、口をつぐんだ。
その夜、持田さんが帰ったあと、僕と詩織さんは、なんとなく、二人で自転車を押して、暗い道を歩いた。彼女のアパートが、僕の家と、同じ方向だった。
「……さっきの、持田さんの話。本当だよ」
ぽつりと、詩織さんが言った。
「わたし、声優になりたくて、東京に出たの。でも、十年やって、もらえる役は、ぜんぶ、その他大勢。『まもなく電車がまいります』みたいな、感情のいらない仕事ばっかり。……だんだん、自分の声が、嫌いになってきちゃって」
僕は、息を呑んだ。
『まもなく電車がまいります』。それは、まさに、僕が毎日、書いている言葉だった。
「……僕、その文面、書く仕事してるんです」
「え?」
「駅の、自動放送の原稿。電光掲示板の文字。……感情を、ぜんぶ消して、機械が読むための言葉を、一日じゅう、削ってる」
詩織さんが、立ち止まって、僕を見た。自転車の電球が、二人のあいだで、ゆらりと揺れた。
「……なんか、わたしたち、逆だね」
「逆?」
「お兄さんは、声から、ぜんぶ消す側。わたしは、消された声に、なってた側。……それで二人とも、自分の声が、わからなくなってる」
夜の住宅街に、自転車のチェーンの、からから、という音だけが鳴っていた。
「でも、ここに帰ってきて、おじいちゃんの枠の前に立ったら。……はじめて、自分の声が、好きだって思えたの」
電球の下で、彼女の横顔は、少し泣きそうで、それでも、ちゃんと笑っていた。
僕は、その横顔から、目が離せなくなっていた。
雨上がりの一人芝居
梅雨が、ぐずぐずと長引いて、雨の続く週があった。
紙芝居のない夜が、何日も続いた。灯りの消えた公園を素通りするたびに、僕は、自分でも驚くくらい、がっかりしている自分に気づいた。あの声が聞けないだけで、一日が、味のしない案内文みたいに、のっぺりしていた。
雨が、ようやく上がった夜だった。
仕事で大きなミスがあって、上司に長く叱られた日だった。書いた案内文に、誤解を招く一行があって、客から苦情が来たという。やさしさをそぎ落としすぎて、冷たく聞こえた、と。喉の奥が、ずっと、つかえていた。
公園に、灯りがついていた。
けれど、子どもの姿はなかった。雨上がりで、地面がまだ濡れていたからだろう。詩織さんが、一人、自転車の前に立って、誰もいない夜に向かって、拍子木を、かちん、と鳴らした。
「……お客さん、いないのに、やるんですか」
声をかけると、詩織さんは、僕を見て、にっと笑った。
「いるじゃない。一人。立ち見の、常連さんが」
濡れたベンチを、彼女がハンカチで拭いて、「どうぞ」と、僕を座らせた。
そして、僕、たった一人のために、紙芝居が始まった。
「むかしむかし、声をなくした鬼が、山の奥に住んでいました」
それは、最初の夜に、途中まで聞いた話だった。声をなくした鬼が、人の言葉を取り戻していく話。彼女の声が、夜の公園に、いくつもの色を、塗り重ねていく。
僕は、叱られて固まっていた喉の奥が、その声に、少しずつ、ほどけていくのを感じた。
「鬼は、ずっと思っていました。自分の声なんて、誰の役にも立たない、汚い声だって。……でも、ある日、小さな子どもが言ったんです。『おにさんの声、すきだよ』って」
枠の中の絵が、一枚、引き抜かれる。
「鬼は、生まれて初めて、自分の声で、泣きました」
語り終えた詩織さんの目も、電球の光で、潤んで見えた。
かちん、と、拍子木が鳴って、話が閉じた。
誰もいない公園に、僕の、ぱちぱちという、下手な拍手だけが、響いた。
「……ありがとう。お客さん一人でも、拍手があると、報われるなあ」
「……詩織さん」
「僕、今日、仕事で、冷たい言葉を書いたって、叱られたんです。やさしさを、消しすぎたって。……ずっと、喉が、つかえてた」
詩織さんが、自転車の前から、そっと、僕の隣のベンチに、腰を下ろした。
「でも、今の話を聞いてたら。……なんか、ほどけました。あなたの声が」
「……お兄さんの書く言葉も、きっと、誰かを助けてるよ。電車に乗り遅れないように、迷わないように。……やさしさを消してるんじゃなくて、まちがえないように、守ってるんだと思う」
ぽん、と、彼女の手が、僕の背中に、軽く触れた。
その手のひらの、温かさに。僕は、もう、自分の気持ちを、ごまかせなくなっていた。
自転車を押して
それから、僕は、紙芝居が終わると、毎晩、詩織さんの自転車を、押して帰るようになった。
荷台の箱が重くて、彼女一人だと、上り坂がつらいのだ、と気づいてからだった。本当は、ただ、もう少し、二人で歩く時間が、ほしかっただけだ。
夜道を、二人で、からから、と自転車を押して歩く。たわいない話をした。今日の客が何人だった、とか。子どもがどんな質問をした、とか。僕が、案内文を書くとき、どうやって誤解の芽を一つずつ潰すか、とか。
「お兄さんの仕事、なんか、紙芝居と似てるね」
「似てます?」
「うん。一枚ずつ、めくっていく順番が、ぜんぶ計算されてるとこ。次に何を見せるかで、伝わり方が、変わるでしょ」
そんなふうに言われたのは、初めてだった。体温のない仕事だと、自分でも見下していた仕事を、彼女は、そんなふうに、見てくれた。
ある夜、坂の途中で、自転車のチェーンが外れた。
僕が、しゃがんで、油まみれになりながら、それを直した。慣れない手つきで、何度も失敗して、ようやく、かちりとはまった。顔を上げると、詩織さんが、すぐ近くで、僕の手元を、じっと覗き込んでいた。
息がかかるくらいの、距離だった。
「……上手じゃん。意外と」
「……詩織さん、近い、です」
「あ」
ぱっと、彼女が、顔を離した。電球の下で、その耳が、見てわかるくらい、赤くなっていた。
「……っ、油、ついてるよ。ほっぺた」
そう言って、彼女が、自分のハンカチで、僕の頬を、そっと拭いた。
その指先が、震えていた。
二人とも、それ以上、何も言えなかった。ただ、自転車の電球の灯りだけが、二人のあいだで、じりじりと、熱を持っていた。
宵宮の約束
七月の終わり。町内の神社で、夏祭りがある、と詩織さんが言った。
「宵宮の夜、神社の境内で、紙芝居をやるの。おじいちゃんの代から、毎年。……お祭りの紙芝居は、一年でいちばん、お客さんが多いんだ」
「行きます。絶対」
「ふふ。立ち見の常連さんが、来てくれなきゃ、困るもん」
宵宮の夜。
僕は、仕事を早めに切り上げて、神社へ向かった。
参道に、提灯がずらりと並んで、赤い灯りを、夜にこぼしていた。屋台の匂い。子どもたちの声。浴衣姿の人たち。久しぶりに見る、人いきれと、にぎわいだった。
境内の隅に、あの、見慣れた自転車があった。
その前に、詩織さんがいた。
いつもの作務衣ではなく、藍色の浴衣を着て、髪を、きれいに結い上げていた。提灯の灯りに照らされた横顔に、僕は、一瞬、息をするのを忘れた。
「あ。……来てくれた」
「……すごく、きれいです」
口から、勝手に、こぼれていた。詩織さんが、ぱちぱちと、瞬きをして、それから、扇子で、ぱっと口元を隠した。
「……お兄さん。今日は、なんか、ずるい」
その夜の紙芝居には、たくさんの人が集まった。子どもも、大人も、浴衣のお年寄りも。ベンチには、もちろん、持田さんがいた。
詩織さんの声が、提灯の下で、いつも以上に、伸びやかに響いた。何十人もの客が、彼女の一枚一枚に、笑い、息を呑み、聞き入った。
その語りを、僕は、人垣のいちばんうしろから、見ていた。
声優になる夢を、その他大勢の声に、すり減らされた人。けれど今、彼女の声は、まぎれもなく、この境内の主役だった。誰の代わりでもない、七尾詩織の声だった。
最後の一枚をめくって、かちん、と拍子木が鳴ったとき、境内に、大きな拍手が起きた。
僕も、力いっぱい、手を叩いた。
詩織さんが、人垣の向こうの僕を、まっすぐ、見つけた。そして、提灯の灯りの下で、泣き笑いみたいな顔で、ぺこりと、僕にだけ、頭を下げた。
二人の境内
祭りの喧騒が、少しずつ引いていく。
屋台が片づき、客がまばらになった境内で、僕は、詩織さんの自転車の片づけを、手伝った。提灯の灯りが、半分ほど落とされて、あたりが、しんと静かになる。
「……ねえ、お兄さん」
絵の束を箱にしまいながら、詩織さんが、ぽつりと言った。
「わたし、東京で声の仕事してたとき、ずっと、自分の声が、誰かの代わりだって思ってた。わたしじゃなくても、いい声だって」
「……」
「でも、お兄さんが、毎晩、立ち見に来てくれて。『色がたくさんある声』だって、言ってくれて。……はじめて、わたしの声を、わたしの声として、聞いてくれる人がいるって、思えたの」
彼女が、箱を閉じる手を止めて、僕を見た。
提灯の、最後の赤い灯りが、その瞳に、ゆらゆらと映っていた。
「お兄さんの声も、わたし、好きだよ。叱られたって、しょげてた、あの夜の声も。……ちゃんと、色がある」
「詩織さん」
僕は、もう、迷わなかった。
「僕、毎日、機械に読ませる言葉ばっかり書いて、自分の声を、失くしてました。……でも、あなたの紙芝居を聞くようになって、思い出したんです。声って、誰かに、気持ちを届けるためにあるんだって」
一歩、彼女に近づいた。
「だから、ちゃんと、自分の声で、言います。……好きです。あなたが」
詩織さんの目が、大きく、見開かれた。
そして、ゆっくりと、潤んでいった。
「……ずるいよ、それ。わたしが、いちばん、言われたかった言い方で」
扇子が、はらりと、彼女の手から落ちた。
「わたしも。……笠原さんが、好き」
初めて、名前で呼ばれた。
誰もいなくなった境内で、僕は、詩織さんの頬に、そっと手を添えた。浴衣の襟元から、汗ばんだ肌の、甘い匂いがした。彼女が、目を閉じる。結い上げた髪のうなじが、提灯の灯りに、白く浮かんだ。
唇を、重ねた。
ちゅ、と。
やわらかくて、ほんの少し、水あめの味がした。
「ん……」
一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねた。
小屋の灯り
「……うち、来る? すぐ、そこなの」
唇を離して、詩織さんが、かすれた声で言った。
神社の裏手に、彼女の祖父が遺した、古い家があった。紙芝居の自転車や、絵を仕舞っておく、小さな物置小屋を兼ねた、一軒家。僕は、自転車を押して、彼女のあとについていった。
引き戸を開けると、墨と、古い紙の匂いがした。
壁一面に、何十年ぶんもの紙芝居の絵が、束ねて立てかけてある。祖父の代から受け継いだ、声の倉庫みたいな部屋だった。彼女が、小さな電気スタンドを点ける。橙色の、やわらかい光が、畳の上に広がった。
「……散らかってて、ごめん」
「いや。……あなたの声が、ぜんぶ、ここにあるみたいだ」
詩織さんが、ふっと笑って、それから、少しうつむいた。
「笠原さんの前だと、なんか、いつもみたいに、声が出ない」
僕は、彼女の手を取った。拍子木を打ち、絵をめくり続けてきた、その手は、思ったより、小さくて、温かかった。
もう一度、唇を重ねる。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。
ちゅ……ちゅぷ……れろ……
「ん……ふ……っ」
唇の隙間から、舌先が、おずおずと触れてくる。僕は、それに応えながら、浴衣の帯に、手をかけた。
しゅるり、と、帯を解く。
「……あんまり、見ないで。心臓、うるさいの」
「……詩織さんの、声が好きだって言ったの、嘘じゃない。今の声も、好きだ」
「……っ、もう。そういうこと、言わないで……」
浴衣の合わせを、そっと開く。白い肩と、なだらかな鎖骨が、橙色の光の中に現れた。汗ばんだ肌が、しっとりと光っている。
肩から浴衣を滑らせると、思いのほか華奢な体が、布の中から、こぼれるように現れた。
声をほどく
畳の上に、詩織さんを、そっと横たえた。
電気スタンドの灯りが、彼女の頬を、橙色に染めている。下着の肩紐に指をかけると、彼女が、きゅっと、目を閉じた。
「……いい?」
「……うん。笠原さんなら」
肩紐を外し、背中のホックに手を回す。ぱちん、と、小さな音がして、胸が、彼女の前に、こぼれ出た。白くて、やわらかそうで、先端が、もう、色づいて尖っている。
「……やだ、恥ずかしい。隠させて……」
胸を腕で隠そうとする手を、僕は、そっとどけた。
「きれいだよ。すごく」
「っ……ばか……」
両手で、そっと包む。むにゅ、と、指が沈んだ。
「あ……っ」
声を、噛み殺すように、詩織さんが、唇を結んだ。あんなに伸びやかに語る人が、今は、必死に、声をこらえている。その落差に、たまらなくなった。
ゆっくり揉みしだくと、手のひらの中で、形が変わる。色づいた先端を、指先で、くにっと挟むと――
「ん、んっ……だめ、声、出ちゃう……っ」
「出していい。……ここには、僕しか、いないから」
片方の胸に、口をつけた。ちゅ、と吸い上げ、舌先で、転がす。
「あ……っ、ん、ぁっ……♡」
こらえきれなくなった声が、絵に囲まれた部屋に、ぽつりと、落ちた。あの拍子木の声とも、語りの声とも違う、彼女の、いちばん奥の声だった。
帯と浴衣を、脚から、そっと抜き取る。下着越しに、脚の間に触れると、布の奥は、もう、しっとりと、熱を持っていた。
「……やだ、わかっちゃう……」
「我慢してたんだ」
「……自転車、押してもらうたびに。……こうなりそうで、困ってた」
その告白に、頭が灼けた。下着を、そっと脱がせて、指先で、濡れたそこを、つ、となぞる。
くち、と、小さな音がした。
「ぁっ……!♡」
敏感な突起を、円を描くように、ゆっくり、いじる。
「あっ……ん、っ……そこ、っ……♡」
腰が、揺れ始める。畳をつかむ指に、力がこもる。脚の間に、顔を伏せて、舌先で、舐め上げた。
れろ、と、一筋。
「ひぁっ……だめ、っ、それ、だめ……っ♡」
だめ、と言いながら、太ももが、僕の頭を挟んで、離さない。突起を舌で転がしながら、指を、そっと、沈めた。
ずぷ、と。
「あ、ぁっ……入って、る……っ♡」
中を、ゆっくり、かき混ぜる。
「笠原さ……っ、わたし、もう……っ、声、止まらない……っ♡」
「いいよ。聞かせて。……詩織さんの声、全部」
「ん、んっ——っ……!♡」
びくん、と、腰が跳ねた。中が、僕の指を、きゅうっと締めつける。彼女の体が、弓なりにしなって、ゆっくりと、崩れた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……♡」
とろんとした瞳が、潤んで、僕を見上げた。
重なる声
「……ずるい。わたしばっかり」
体を起こした詩織さんが、僕のベルトに、手をかけた。拍子木を握る、その指が、少しだけ、震えていた。
服を脱いだ僕を見て、彼女が、小さく息を呑む。細い指が、おずおずと触れてきて、先端に、そっと唇を寄せた。
「っ……」
「……変じゃない? 下手で」
「最高だよ」
ぱくっ、と、口に含む。たどたどしく、けれど、一生懸命に、頭を動かす。結い上げた髪が崩れて、時々、上目遣いに、こちらを見る。その視線だけで、限界が、近づいた。
「詩織さん、もう……このままだと」
ちゅぽ、と口を離して、詩織さんが、畳の上に、仰向けになった。汗で湿った肌が、橙色の光に、光る。潤んだ瞳で、両手を、そっと、広げた。
「……来て。笠原さんの声、いちばん近くで、聞きたい」
避妊具をつけて、覆いかぶさる。先端をあてがうと、濡れたそこが、ぬるりと、迎えた。
「入れるよ」
「……うん。ゆっくり」
ずぷ、と。
「あ……っ、ん……入って、くる……っ♡」
ゆっくりと、奥へ進む。詩織さんの腕が、僕の背中に回って、ぎゅっと、しがみついた。
「はぁ……っ、いっぱい……っ♡」
根元まで収めると、彼女が、深く、息を吐いた。中が、僕の形を確かめるように、きゅうきゅうと、締まる。
「動くよ」
ずちゅ、ずちゅ、と、ゆっくり、腰を動かし始める。
「あ……っ、ん、っ……笠原さ……っ♡」
伸びやかに語る人の、こらえきれない声が、絵に囲まれた部屋に、響く。揺れる胸を、片手で、そっと包んだ。
「あっ……揺らさ、ないで……っ、恥ずかし……っ♡」
「詩織さんの声、ずっと、聞いていたい」
「ば、か……っ♡」
そう言いながら、両脚が、腰に絡みついて、もっと、と、ねだるように引き寄せる。
ずちゅ、ずちゅ、と、少しずつ、深く、速くしていく。
「あっ、あっ……奥、っ……そこ、っ……♡」
「ここ?」
「ん、んっ……そこ、すごいの……っ♡」
外の祭り囃子も、もう、聞こえなかった。詩織さんの声と、肌の熱だけが、すべてだった。
「笠原さ……っ、わたし、また……っ、イっちゃう……っ♡」
「一緒に、イこう」
「うん……っ、一緒、がいい……っ♡」
奥を、ぐっと、突き上げる。
「あ、あっ——っ、イく……っ、イっちゃ……っ——!♡♡」
びくん、と、彼女の体が跳ねて、中が、きゅうっと、締めつけてきた。その締めつけに、僕も、限界を超えた。
「出る——っ」
「来て……っ、全部、っ……!♡」
避妊具越しに、奥へ、放った。
「あぁ……っ……♡」
詩織さんが、ぎゅっとしがみついて、震え続けた。汗ばんだ肌と肌が、ぴたりと、重なる。
繋がったまま、二人で、息を整えた。心臓の音が、重なって、聞こえた。
「……はぁ……っ。……笠原さんの声、こんなに近くで、聞いたの、初めて」
「僕も。……ずっと、機械の声しか、聞いてなかったから」
朝の拍子木
目を覚ますと、引き戸の隙間から、白い光が、差し込んでいた。
夜が、明けていた。絵に囲まれた小さな部屋に、夏の朝の光が、まっすぐ差している。
僕のシャツを羽織った詩織さんが、壁の前にしゃがんで、絵の束を、一枚一枚、めくっていた。裾から覗く白い脚に、目が吸い寄せられる。
「……起きた?」
「うん。……おはよう」
「おはよう」
彼女が、絵の束の中から、一枚を、僕に差し出した。
まだ、何も描かれていない、まっさらな紙だった。
「新しいお話、作ろうと思って。……声をなくした男の人が、夜の公園で、声を取り戻す話」
「……それ」
「笠原さんの話。……書いてくれない? お話。お兄さん、言葉を作るの、上手でしょ。わたしが、声をつける」
その意味が、じわじわと、胸に広がって、熱くなった。
機械に読ませるための言葉を、削り続けてきた僕の言葉に。彼女が、声を、つけてくれるという。色を、つけてくれるという。
「……詩織さん。僕、平日は仕事で、毎晩は、来られないかもしれない。それでも、いいですか」
「いいよ。来られる夜だけで。……立ち見の常連さんが、いてくれるだけで、わたしの声、ちゃんと、色が出るから」
ふっと笑って、詩織さんが、僕の隣に戻ってきた。肩に、こてんと、頭をあずけてくる。
「詩織さん。僕と、付き合ってください」
彼女の目が、ゆっくりと見開かれて――そして、今まででいちばん、やわらかく、笑った。
「……はい。よろしくお願いします、透さん」
初めて、下の名前で呼ばれて、胸の奥が、熱くなった。
その日の夕方。
僕は、はやく仕事を片づけて、いつもの児童公園へ向かった。
裸電球の灯った自転車の前で、詩織さんが、拍子木を、かちん、と鳴らす。ベンチには、もちろん、持田さんがいた。僕を見つけて、皺だらけの手で、水あめの割り箸を、ひょいと上げる。
「おう、兄さん。今日も、立ち見か」
「……ええ。いちばん前で、見てもいいですか」
「ふん。……いい返事だ。詩織ちゃんのじいさんも、惚れた相手には、いっとう、いい声で語ったもんだ」
にやりと笑って、持田さんは、ベンチの隣を、ぽんと叩いた。
夜の公園に、拍子木の音が、響く。
「さあさあ、こんばんは。今夜も始まるよ、夜の紙芝居」
通る声が、夏の夜に、いくつもの色を、ひろげていく。
機械に読ませる、体温のない言葉ばかり書いて、自分の声を失くしていた僕は。
たった一台の自転車の灯りの下で、もう一度、自分の声を――そして、いちばん聞いていたい声を、見つけたのだった。
かちん、と、拍子木が鳴る。
僕は、いちばん前の席で、彼女の声に、ぜんぶ、聞き入っていた。
END