土を掘る、というのは、ただ穴を開けることだと思っていた。
僕、真壁航(まかべ こう)、二十一歳。大学の文学部で、考古学を専攻している三年生だ。なんとなく古いものが好きで、なんとなくこの専攻を選んで、気づけば三年になっていた。でも、正直に言えば、迷っていた。土器のかけらを並べて、図面を引いて、論文を読んで——それが、自分の将来とどう繋がるのか、まるで見えなかった。
考古学なんかで、食っていけるのか。同期はもうみんな就活の話をしている。僕だけが、夏になっても、何も決められずにいた。
そんな六月の終わり、ゼミの必修だという理由だけで、僕は山あいの町で行われる夏の発掘調査実習に参加した。最寄り駅からバスで四十分。携帯の電波もろくに入らない、緑ばかりの谷だった。
(……ほんとに、こんなところに、遺跡なんてあるのか)
宿舎は、十年前に閉校したという、古い木造の小学校だった。校庭の隅にテントを張った発掘現場まで、毎朝歩いて通う。初日の朝、まだ涼しいうちに現場へ着くと、そこにはもう、ひとりの人が立っていた。
麦わら帽子に、泥のついた作業着。地面に膝をついて、移植ゴテの先で、ほんの少しずつ、土を削っている。集中して、こちらに気づきもしない。日に焼けた首筋に、汗がひとすじ、光っていた。
(……誰だ、あの人)
その人が顔を上げて、僕を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
「あなた、今年の実習生? 真壁くん?」
「あ……はい。真壁、です」
「遠野(とおの)。院の二年。今回の現場、私が回してるから。よろしく」
遠野詩織(とおの しおり)さん。大学院の修士二年で、この発掘現場の責任者だった。歳は僕の二つ上の、二十三。すらりと背が高くて、麦わら帽子の下の目が、まっすぐで、強い。
「じゃあ、さっそくだけど。これ、持って」
渡されたのは、移植ゴテと、竹べら、それから刷毛。たったそれだけ。
「あの……スコップとか、つるはしとかは」
「使わない。少なくとも、あなたが入るトレンチでは」
トレンチ、というのは、調査のために細長く掘り下げた発掘区画のことだ、と遠野さんは言った。深く掘ればいいってものじゃない。土の色が、ほんの少し変わるところ。そこに、千年前、二千年前の人の暮らしの跡が、眠っている。
「土をどけるんじゃないの。土の中から、過去を、起こしてあげるの。乱暴にやったら、二度と戻らない。だから——ゆっくり」
そう言って、遠野さんは僕の隣にしゃがんだ。移植ゴテの先で、土の表面を、薄く、薄く、削いでいく。しゃ、しゃ、と、かすかな音。
「ほら。この茶色と、こっちの、ちょっと黒っぽいの。違うでしょ」
「……あ。ほんとだ」
「この黒いのが、昔、人が火を焚いた跡。覚えて。色で、土を読むの」
その横顔を見て、僕は、なんだか胸の奥が、しんとした。普段はサバサバしていそうなのに、土に向かうときの遠野さんは、別人みたいに、静かで、鋭かった。
その日から、僕の夏は、土の色を読むことに費やされた。
炎天下のトレンチに、朝から夕方まで、しゃがみこむ。移植ゴテで土を削り、竹べらで均し、刷毛で払う。地味で、腰が痛くて、汗が目に入ってひりひりする。同じ実習に来ていた同期の戸田は、二日目には、もう音を上げていた。
「真壁、お前よくやるな。俺もう、無理。こんなの、ただ土いじってるだけじゃん」
「……まあ、確かに、地味だよな」
「だろ? こんなの何の役に立つんだか」
正直、僕も最初はそう思っていた。でも——遠野さんに教わるうちに、少しずつ、土が違って見えてきた。
「真壁くん。さっきより、ずっといい。手が、丁寧になってきた」
「……ほんとですか」
「うん。あなた、向いてるかもしれない。雑なやつは、何年やっても雑だから」
遠野さんは、めったに人を褒めなかった。だからその一言が、炎天下で、やけに胸に染みた。
ある午後、僕の移植ゴテの先が、こつ、と固いものに当たった。
「……あれ。先輩、なんか、当たりました」
「待って。掘らないで。そのまま、刷毛で」
遠野さんが、すっと僕の隣に来た。二人で、息を詰めて、土を払っていく。やがて、土の中から、灰色の、ざらりとした曲面が現れた。模様のついた、土器のかけら。
「……縄文だ。これ、たぶん中期の」
「縄文……って、何千年前ですか」
「四千年とか、五千年とか。——真壁くんが、いま、起こしたんだよ。五千年ぶりに、日の当たるところに」
遠野さんが、子どもみたいに、ぱっと笑った。日に焼けた頬に、白い歯がこぼれて、僕は一瞬、心臓を撃ち抜かれたみたいになった。
(……うわ。きれいに、笑うんだ、この人)
五千年前の土のかけらより、僕はそのとき、隣で笑う遠野さんの横顔に、夢中になっていた。
実習中は、宿舎の廃校で寝起きする。男子は元・図工室、女子は元・音楽室に、雑魚寝だ。夜は当番制で、出土した遺物を水で洗って、乾かす作業がある。
その晩、洗い場の当番が、たまたま、僕と遠野さんの二人になった。
蛇口の水で、土器のかけらについた土を、歯ブラシでそっと落としていく。山の夜は、思ったより冷たくて、川の音だけが、ずっと聞こえていた。
「先輩は、どうして、考古学を?」
「……なんでだろうね。小さいころ、おじいちゃんの畑から、矢じりが出たことがあって。それを握ったとき、なんか、ぞくっとしたの。これ、何千年も前の誰かが、作って、使って、落としたものなんだって」
「……ロマン、ですね」
「うん。ロマンだけじゃ、食べていけないけどね」
遠野さんは、ふっと、自嘲するように笑った。
「私もね、迷ったよ。院に入って、まわりが就職していくのを見て。考古なんかやって、どうするのって、親にも言われて。……でも、結局、土の前にしゃがむと、迷いが、消えるの。私は、これが好きなんだって、思い出す」
その言葉が、ずっと迷っていた僕の、いちばん柔らかいところに、触れた。
「……僕、実は、進路、全然決まってなくて。考古なんかやって、何になるんだろうって、ずっと」
「うん。知ってた。あなた、最初、そういう目してた」
「え」
「迷子の目。でもね、土器を起こしたとき、あなた、変わったよ。いい顔してた」
川の音の中で、遠野さんが、こちらを見た。洗い場の裸電球の、頼りない光に、その目が、やわらかく濡れていた。
「……先輩に、教わったからです」
「ふふ。生意気」
そう言いながら、遠野さんは、嫌そうじゃなかった。むしろ、少しだけ、距離が近くなった気がした。
実習も後半に入った、ある夜のことだった。
夕方から、空の様子がおかしかった。山の向こうで、ごろごろと雷が鳴って、宿舎に着くころには、大粒の雨が、屋根を叩きはじめた。夏の、激しい雷雨だった。
夕食のあと、遠野さんが、はっと顔を上げた。
「……まずい。トレンチ」
「え」
「この降り方だと、水が溜まる。あの土器が出た区画、まだ図面取ってない。水没したら、土の層が崩れる。——五千年が、ぜんぶ、流れる」
遠野さんは、もう立ち上がっていた。雨合羽をつかんで、長靴を履いて。僕は、迷わなかった。
「行きます。僕も」
「危ないよ」
「先輩ひとりで行かせられません。あの土器、僕が起こしたんです」
遠野さんが、一瞬、僕を見て——それから、ふっと、頼もしそうに笑った。
「……うん。来て」
戸田たちはもう寝入っていた。僕と遠野さんは、二人だけで、土砂降りの闇の中を、懐中電灯ひとつで、現場へ駆けた。
トレンチには、もう、茶色い水が溜まりはじめていた。
「ブルーシート! そっち持って! 風で煽られないように、端を石で押さえて!」
「はい!」
叩きつける雨の中で、僕らは、必死だった。シートを張って、溜まった水を、バケツで掻き出して、また張り直して。雷が光るたびに、遠野さんの、泥だらけの真剣な横顔が、白く浮かび上がった。
「真壁くん、そっち、排水溝掘って! トレンチの外に、水を逃がすの!」
「わかりました!」
どれくらい、そうしていたのか。雨脚が、ようやく弱まったころには、僕らは二人とも、全身、泥と雨でぐしょ濡れになっていた。でも——トレンチの中の、あの土器が出た層は、無事だった。
「……守れた」
「……守れましたね」
二人で、泥の中にへたりこんで、しばらく、肩で息をしていた。そして、どちらからともなく、笑い出した。こんなに、ずぶ濡れで、泥だらけで、それなのに、おかしくて、たまらなかった。
「……ありがとう、真壁くん。ひとりだったら、たぶん、守れなかった」
「……二人で、よかったです」
雨上がりの空に、雲の切れ間から、星が、いくつか、のぞいていた。
廃校に戻ったときには、もう、真夜中をとっくに過ぎていた。
二人とも、泥まみれで、震えるほど冷えていた。みんなを起こさないように、僕らは、足音を忍ばせて、廊下の奥の、元・保健室へ向かった。そこには、古いシャワーと、着替えと、ストーブがあった。
遠野さんが先にシャワーを浴びて、僕が後に入った。出てくると、遠野さんは、乾いたタオルを肩にかけて、ストーブの前に膝を抱えて座っていた。濡れた髪が、頬に張りついて、いつもの、麦わら帽子の下の凛とした人とは、まるで違って見えた。
「……風邪、ひかないでくださいよ」
「真壁くんこそ」
僕が隣に座ると、遠野さんは、ふっと、肩をこちらに預けてきた。
「……まだ、震えが、止まらない」
「……先輩」
タオル越しに、その肩は、まだ少し冷たかった。僕は、おそるおそる、その肩に手を回した。遠野さんは、逃げなかった。むしろ、僕の胸に、こてんと、頭を預けてきた。
「……ねえ、真壁くん」
「はい」
「私、さっき、あなたが『行きます』って言ったとき。——すごく、かっこいいと思った」
「……それ、僕も。先輩が、雨の中で、必死で土を守ってるの見て……惚れ直しました」
「……『直した』って。じゃあ、その前から、惚れてたんだ?」
しまった、と思ったときには、もう遅かった。でも、遠野さんは、責めなかった。顔を上げて、すぐ近くで、僕を見た。濡れた睫毛の下の目が、ストーブの火に、ほのかに揺れていた。
「……はい。たぶん、最初に、笑った顔を見たときから」
遠野さんの頬が、火のせいだけじゃなく、赤くなった。そして、目を閉じた。
僕は、もう、こらえられなかった。その冷たい頬に手を添えて、そっと、唇を重ねた。
「ん……」
唇は、雨に冷えた頬とは裏腹に、やわらかくて、熱かった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し深く。
ちゅ……ちゅっ……
「……真壁くん」
「……はい」
「もっと、あたためて。……まだ、寒いの」
それが、口実だってことは、二人ともわかっていた。それでも僕は、その言葉に、おそるおそる、遠野さんを抱きしめた。タオル一枚の肩が、腕の中で、小さく震えた。
「……先輩、きれいです」
「……やめて。すっぴんだし、髪、ぐしゃぐしゃだし」
「それでも、きれいです」
そう言いながら、僕は、肩にかかったタオルを、そっとずらした。日に焼けた肩と、その下の、陽の当たらない場所の、白い肌。いつも作業着の下に隠れていたその素肌が、ストーブの灯りに、淡く浮かんだ。
「……あんまり、見ないで」
「……無理です」
れろ……ちゅ……
「ん……っ」
首筋に唇を這わせると、遠野さんの体が、びくりと跳ねた。土の前ではあんなに鋭い人が、僕の腕の中で、少しずつ、ほどけていく。それが、たまらなく愛おしかった。
「……真壁くん。ストーブ、暑い……」
「……じゃあ、こっち、来てください」
保健室の隅の、古いベッド。僕は、遠野さんの手を引いて、そこへ二人で、身を寄せた。
横たわった遠野さんに、僕は、ゆっくりと覆いかぶさった。タオルの合わせを、一枚ずつ、そっと開いていく。あらわになった胸を、壊れ物みたいに、手で包んだ。
「あ……っ」
「……痛くないですか」
「いた、くない……っ」
指の腹で、つんと立ちはじめた先端をかすめると、遠野さんの肩が、ぴくんと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ?」
「……っ、変な、声、出ちゃう……っ」
口では恥ずかしがるのに、僕がそっと先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、遠野さんの体から、ふっと力が抜けていった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、雨上がりの夜のしずけさに、こぼれる。みんな寝ていてよかった、と頭の隅で思った。こんな声、誰にも聞かせたくない。僕だけが、知っていたい。
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、太腿の内側を、ゆっくりと撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「……力、抜いてください。先輩のペースで」
「……っ、真壁くんが、そう言うと、ずるい……っ」
いちばん敏感なところに、指でそっと触れると、もう、そこが熱くなっているのがわかった。撫でるたびに、遠野さんの腰が、小さく揺れる。やがて直接そこに触れると——
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……濡れてます」
「言わないで……っ♡ キス、の、ときから……っ」
恥ずかしさで顔を背ける遠野さんに、僕は何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹で、くるくると撫でた。遠野さんが、僕の腕に、ぎゅっとしがみつく。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「……気持ちいいですか」
「……っ♡ うん……っ♡」
指を、ゆっくりと、中へ沈めていく。
ずぷ……っ
「ん……あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろだった。土を読むときの、あの張りつめた集中とは、まるで逆。遠野さんの中は、やわらかく、ほどけていた。指の動きに合わせて、その体が、だんだん高まっていくのがわかる。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
「いいですよ。そのまま」
「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、遠野さんの体が、びくびくっと跳ねた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
僕の腕の中で、遠野さんはぎゅっと体を丸めて、達した。いつも現場を仕切る、凛とした人が、僕の前で乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が締めつけられた。
「……大丈夫ですか」
「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」
息を切らす遠野さんの額に張りついた前髪を、僕は、そっとよけた。
「……真壁くん」
「はい」
「……最後まで、してほしい。真壁くんと、なら」
現場では誰よりも頼もしいその人が、頬を染めて、そんなことを言う。僕は、ごくりと喉を鳴らした。
「……無理、してないですか」
「してない。私が、したいの。……今夜のことは、私が、ちゃんと、覚えてたいの」
その言葉に、僕は思わず、胸が熱くなった。僕は、財布の中に念のため入れていた小さな包みを取り出した。遠野さんが、それを見て、ほっとしたように、ふっと笑う。
「……そういうとこ、ちゃんとしてる」
「先輩に、丁寧にやれって、教わったので」
「……もう。こんなときに」
古いベッドの上で、僕は遠野さんに、そっと体を進めた。熱く張りつめたものを、入り口にあてがう。
「……いきます。痛かったら、すぐ言ってください」
「……うん」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、遠野さんは僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、遠野さんの中が僕を受け入れていく。
ずず……っ
「っ……あ……っ」
「……止めますか」
「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
僕は、遠野さんの様子を窺いながら、ほんの少しずつ進んだ。途中で何度も止まって、額にキスを落として、また少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。繋がった場所から、じんわりと、熱が広がっていく。
「……全部、入ってる……?」
「はい。……全部」
「……繋がってるんだ、私たち……」
遠野さんの目に、うっすら涙がにじんでいた。ずっと、土越しに、トレンチ越しに、教わる距離越しに見ていた人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を、指でそっと拭った。
「……動いて、平気ですか」
「うん……っ。来て、真壁くん……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、遠野さんの体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、その声が漏れる。
「……痛くないですか」
「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」
「気持ちよく、なってきました?」
「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、真壁くんの、好き……っ♡」
口走ってから、遠野さんは自分の言葉に、また顔を赤くした。それが体のことなのか、僕自身のことなのか、たぶん、どっちもだったんだと思う。
ぱちゅ……ぱちゅ……
「真壁くん……っ♡」
「詩織さん」
「……っ♡ 名前……」
「詩織さん。……ずっと、こう呼びたかった」
下の名前で呼ぶと、遠野さんは僕の首に腕を回して、自分から唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ、深くなる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ 真壁くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
「……僕も、そろそろ」
「一緒が、いい……っ♡ 真壁くんと、一緒……っ♡」
僕は、遠野さんをぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 真壁くん……っ♡♡」
「……っ、詩織さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、遠野さんの体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。雨上がりの夜の保健室で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ、真壁くん……」
「……詩織さん。痛くなかったですか」
「……痛かった、けど。……それより、ずっと、あったかかった」
僕は、遠野さんの汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。
翌朝、雨はすっかり上がって、谷には、まぶしいくらいの夏の光が満ちていた。
現場へ行くと、トレンチの中の、あの土器が出た層は、昨夜の僕らの働きのおかげで、きれいに残っていた。遠野さんが、しゃがみこんで、嬉しそうに図面を引きはじめる。その横顔は、もう、いつもの凛とした現場責任者の顔だった。でも、ときどき、僕と目が合うと、ほんの少し、頬を赤くする。
実習の、最終日だった。みんなで道具を片づけて、廃校の校庭で、解散の挨拶をした。戸田が、僕の肩を叩いた。
「真壁、お前、最後まで真面目にやってたな。……っていうか、お前、なんか、変わったよな」
「……そうかな」
「うん。最初、迷子みたいな顔してたのに。今は、なんか、決まってる顔してる」
迷子みたいな顔。遠野さんと、同じことを言うんだな、と思って、僕はおかしくなった。
帰りのバスを待つ、バス停で。遠野さんが、僕の隣に、そっと立った。
「真壁くん。進路、まだ、迷ってる?」
「……いえ。決めました」
「ふうん。なに?」
「大学院、行こうと思います。考古、もっとやりたくなったんで。……先輩の、後輩として」
遠野さんが、目を丸くして——それから、くしゃっと笑った。あの、土器を起こしたときに見た、僕が惚れた笑顔だった。
「……それ、私を追いかけてくる口実?」
「半分は。……もう半分は、本気です。土の前にしゃがむと、迷いが消えるって、先輩が言ったの。あれ、ほんとでした」
「……生意気な後輩」
「先輩に、鍛えられたので」
夏の光の中で、遠野さんが、そっと、僕の手を握った。日に焼けた、土の匂いのする手だった。
「ねえ、真壁くん。——『先輩』じゃなくて、これからは、詩織って呼んで。今夜だけ、じゃなくて」
「……いいんですか」
「うん。私の、彼氏として」
谷を抜ける風が、二人の間を通り抜けていった。土を掘る、というのは、ただ穴を開けることだと思っていた。でも、本当は違った。土の色を読むように、人の心も、ゆっくり、丁寧に、読んでいくものなんだと——この夏、僕は、彼女に、教わった。
五千年前の土器を起こしたあの手で、僕は今、隣に立つ人の手を、しっかりと握り返した。
― 終 ―