画面の中で言葉がすり減っていくのに耐えられなくなった私が、部誌を刷りに飛び込んだ大学の古い活版印刷室で、活字を一本ずつ拾う無口な院生の先輩に組版を教わるうちに惹かれ、雪の降る入稿明けの夜に鉛の匂いのする印刷室で結ばれた話

1. 鉛の匂いの部屋

言葉が、軽い。

私、槙野詩織(まきの しおり)、二十一歳。文学部の三年で、細々と続いている文芸部の部誌をつくっている。スマホの画面に指を滑らせれば、文字はいくらでも湧いてくる。打って、消して、また打つ。けれど最近、自分が並べる言葉がぜんぶ、水で薄めたみたいに頼りなく感じて仕方なかった。打った先から流れて消えていく。誰の心にも、たぶん私自身の心にも、引っかからないまま。

冬号の部誌だけは、今年は紙で刷りたかった。データを印刷所に投げれば一日で終わるのに、私はわざわざ、大学の旧校舎の地下に「まだ使える活版印刷機がある」という噂を頼って、そこへ降りていった。

階段を下りた突き当たり。すりガラスの扉に、色褪せた手書きの札で「活版印刷室」とあった。ノックして、返事を待たずに開けてしまったのを、あとで少しだけ後悔した。

中は、嗅いだことのない匂いで満ちていた。インクと、油と、金属の匂い。鉛の匂い、というのを、私はそのとき初めて知った。

棚という棚に、小さな金属の粒がびっしり詰まっている。活字だ。その壁を背に、ひとりの男の人が、木の枠を手に、活字を一本ずつ拾っていた。私が入ってきても顔も上げない。指先だけが、迷いなく、棚の海から目当ての一本を選び取っていく。

槙野詩織「あ、あの……すみません。ここ、部誌って刷れますか」

紺野樹「……刷れる」

それだけ言って、その人はやっと顔を上げた。

2. 一本ずつ拾う人

紺野樹(こんの いつき)さん。大学院の修士一年で、二十四歳。学部のころからこの印刷室に入り浸って、今はほとんど一人で機械の面倒を見ているのだと、あとから知った。

無口、なんてものじゃなかった。最初の日、紺野さんが口にした言葉は、たぶん十個もなかったと思う。私が「データ、USBに入れてきたんですけど」と差し出すと、紺野さんはちらりとそれを見て、小さく首を振った。

紺野樹「活版は、データから出ない。一文字ずつ、拾って組む」

槙野詩織「一文字ずつ……ぜんぶ、手で?」

紺野樹「そう」

気が遠くなった。部誌は、短い詩や散文を集めて、それでも二十ページ近くある。それを全部、この小さな鉛の粒で組むなんて。

槙野詩織「……それ、何日かかるんですか」

紺野樹「冬号の入稿、いつ」

槙野詩織「来月の、頭です」

紺野さんは、棚の前に立ったまま、少し考えるように黙った。そして、拾いかけていた木の枠——文選箱、というのだと教わった——を、こちらへ少し傾けて見せた。並んだ活字は、ちょうど私の詩の一行になっていた。

紺野樹「最初の一篇、もう拾い始めてる」

槙野詩織「え……勝手に、読んだんですか」

紺野樹「組むには、読まないと拾えない」

その言い方が、なぜか怖くなかった。画面の上で誰に読まれたか分からないまま流れていく私の言葉を、この人は、一文字ずつ手に取って、確かめながら読んでいる。そう思ったら、頬がじわりと熱くなった。

3. 文選箱の中の私

それから私は、ほとんど毎日、地下の印刷室へ通うようになった。

紺野さんは、組版を一から教えてくれた。といっても、口数は相変わらずで、教え方の九割は手本だった。棚の前に立って、活字の並びを指でなぞる。

紺野樹「ここが、いろは順。漢字は、画数で別の棚」

槙野詩織「こんなに……一日で覚えられないです」

紺野樹「覚えなくていい。手が、覚える」

紺野さんの手は、本当にそうだった。会話の途中でも、指は止まらない。棚の海に伸びて、迷いなく一本をつまみ、文選箱に伏せて並べる。かちり、かちり、と小さな音が続く。その手元を、私は気づいたらずっと目で追っていた。

私が拾うと、十本のうち三本は間違える。似た字を取ったり、上下を逆さに置いたり。そのたびに紺野さんは、私の手から活字を受け取って、正しい向きに直す。指先が、ほんの一瞬触れる。冷たい金属に慣れた、少しかさついた指だった。

槙野詩織「……先輩の手、活字みたいですね」

紺野樹「?」

槙野詩織「冷たくて、固くて。でも、ちゃんと、字を選んでる」

言ってから、馴れ馴れしかったかと焦った。紺野さんは、めずらしく、ほんの少しだけ口元をゆるめた。笑った、というには小さすぎる変化。でも、私はそれを見逃さなかった。

その日の帰りぎわ、紺野さんは、組み終えた私の詩を試しに一枚だけ刷って、何も言わずに私の鞄の上に置いた。インクの匂いがまだ生乾きの、私の言葉。画面の上では薄っぺらかったはずの一行が、紙の上で、ずしりと黒く、そこに在った。

私は、それを家に帰ってからも、何度も眺めた。

4. 重さのある言葉

雪が降りはじめた頃、私たちは夜遅くまで印刷室に残ることが増えた。

地下の部屋には窓がない。今が何時かも、外が雪かどうかも、入ってくる人が教えてくれるまで分からない。その夜は、後輩がドアを開けて「雪、積もってますよ」と言い残して帰っていった。二人きりになった部屋で、私はふと、ずっと訊きたかったことを口にした。

槙野詩織「先輩は、どうして活版なんですか。データなら、一瞬なのに」

紺野さんは、組み上がった版を、万力みたいな枠——印刷機の心臓だと教わった——に固定しながら、ぽつりと答えた。

紺野樹「一本、置いたら。簡単には、戻せないから」

槙野詩織「……戻せない?」

紺野樹「画面の字は、消せる。なかったことにできる。活版は、一本拾って置くのに、手間がかかる。だから」

紺野さんは、版の上に並んだ鉛の文字を、指の背でそっと撫でた。

紺野樹「置く前に、ちゃんと考える。この一文字で、いいのかって」

その言葉が、胸の奥に、かちりと音を立てて嵌まった。私が画面の上で、打っては消し、薄めて流していた言葉。それがどうして頼りなかったのか、やっと分かった気がした。私は、戻せることに、甘えていたのだ。

槙野詩織「……私の詩、薄いって、思ってました。ずっと」

紺野樹「薄くない」

即答だった。紺野さんは顔も上げずに続けた。

紺野樹「拾ってて、思った。槙野の字は、間が、いい。詰めすぎない。……組みやすい」

ぶっきらぼうなのに、それは私の言葉を、誰よりちゃんと読んだ人にしか言えない褒め方だった。心臓が、ことり、と鳴った。

5. 待ち遠しい地下

気づけば、私の一日の真ん中が、その地下の部屋になっていた。

授業の合間も、私は印刷室のことを考えていた。あの鉛の匂い。かちりと活字を置く音。紺野さんの、ほとんど動かない表情の中で、ほんの少しだけゆるむ口元。部誌のためじゃない。紺野さんに会いたくて、私は階段を下りているのだと、もう、ごまかせなくなっていた。

同じ文芸部の麻奈に、それを見抜かれたのは、学食でのことだった。

八重樫麻奈「詩織さあ、最近ずっと地下にこもってるけど。あんた、印刷機に惚れたの? 刷り師さんに惚れたの?」

槙野詩織「な……っ、印刷機だよ、印刷機」

八重樫麻奈「ふうん。印刷機の話するとき、そんな顔しないと思うけど」

槙野詩織「どんな顔」

八重樫麻奈「好きな人の話する顔」

否定できなかった。スプーンを握ったまま黙り込んだ私を見て、麻奈はにやりと笑って、それ以上は突っ込まないでくれた。

その夜、いつものように印刷室へ降りると、紺野さんはもう来ていて、私の最後の一篇を組んでいた。背中を見ただけで、胸がぎゅっとなる。期待してるって思われたくなくて、私はわざと、なんでもない声を出した。

槙野詩織「先輩、今日もはやいですね」

紺野樹「……槙野が来ると思って」

さらりと言われて、息が止まった。紺野さんは、こちらを見ずに、ただ活字を拾い続けている。今のは、どういう意味。私が来ると思って、待っていたのか。それとも、作業のことか。訊けないまま、私は隣に立って、自分の文選箱を手に取った。

かちり、かちり、と、二人ぶんの音が、地下の部屋に重なって響いた。

6. 入稿前夜

入稿の締め切りは、翌日の昼だった。

その前の夜、私たちは部誌の最後の刷りを終えるために、地下にこもっていた。組み上がった版を機械にかけて、一枚ずつ刷っていく。手で押すたびに、ローラーが版の上を滑って、インクの乗った文字が紙に移る。その瞬間の、ぎゅっという手応えが、たまらなく好きになっていた。

槙野詩織「……ぜんぶ、刷れましたね」

紺野樹「ああ」

刷り上がった部誌を、二人で重ねていく。私の詩も、後輩の散文も、麻奈の短歌も、ぜんぶ、鉛の重みを通って、紙の上にしっかり在った。画面の中で流れて消えていったはずの言葉が、ここでは、ちゃんと留まっている。

槙野詩織「先輩のおかげです。私、活版じゃなかったら、たぶん、今年もデータで投げてました」

紺野樹「……」

紺野さんは、片付けの手を止めて、棚の引き出しから、小さな紙を一枚取り出した。それを、何も言わずに、私に差し出す。

受け取って、息を呑んだ。

それは、刷り立ての一枚だった。部誌には載せていない、私が春に書いて、ボツにして、画面の中で消したはずの詩。「薄い」と思って、自分で捨てた言葉。それが、活字で組まれて、黒々と、紙の上に在った。

槙野詩織「……これ、なんで。私、これ、消したのに」

紺野樹「最初の日。槙野が帰ったあと、画面に残ってた」

槙野詩織「勝手に……」

紺野樹「拾った。捨てるには、惜しかったから」

紺野さんは、私の目を、まっすぐ見た。あの、表情の動かない人が、そのときだけ、何かをこらえるような顔をしていた。

紺野樹「槙野の言葉、薄くない。……俺が、いちばん、知ってる」

7. 雪の夜の印刷室

地下に窓はないのに、その夜、私には外の雪が見える気がした。

私は、刷り立ての詩を胸に抱いたまま、紺野さんの前から動けなかった。捨てたはずの言葉を、この人は一本ずつ拾って、戻せない場所に、ちゃんと置いてくれた。それがどういうことか、分からないほど、私は子どもじゃなかった。

槙野詩織「先輩。……私のこと、組んでたんですね。ずっと」

紺野樹「……ああ」

槙野詩織「言葉だけ、じゃ、ないですよね」

紺野さんは、答えなかった。代わりに、一歩、私のほうへ踏み出して、私の頬に、インクの匂いのする手を伸ばした。冷たくて、固くて、でも、ためらいながらの優しい手。

紺野樹「……嫌なら、言って」

槙野詩織「……嫌じゃ、ないです」

声が、震えた。画面の上では、いくらでも言葉が出てくるのに、こういうときだけ、たった一言が重い。でも、この重さでいいのだと、紺野さんが教えてくれた。戻せないからこそ、ちゃんと選んで、置く。

紺野さんの顔が、ゆっくり近づいてくる。私は、目を閉じた。

唇が、重なった。

槙野詩織「ん……」

インクと、ほんの少し金属の匂い。固いと思っていた人の唇は、思いがけず柔らかくて、緊張しているのが伝わってきた。一度離れて、目が合って、もう一度、今度は少し深く。

ちゅ……ちゅっ……

槙野詩織「……先輩……」

紺野さんの腕が、私の背中に回った。ぎゅっと抱き寄せられて、胸が、その人の体に押しつけられる。鉛の匂いの部屋で、私は、生まれて初めて、誰かを心からほしいと思った。

8. 戻せない夜

紺野さんは、印刷室の奥、刷り上がった紙を干す作業台の脇に、私をそっと座らせた。

隣に腰を下ろして、もう一度、深く口づけながら、その手が、私のコートのボタンを、一つずつ外していく。活字を拾うときと同じ、ていねいな指先。急がない。一つ外すたびに、私の顔をうかがってくれる。

紺野樹「……やめてほしかったら」

槙野詩織「やめないで、ください」

自分でも驚くくらい、はっきり言えた。紺野さんが、ふっと小さく息を漏らして、私をもう一度抱きしめた。

セーターの裾から、冷たい手が、背中の素肌にそっと触れる。

槙野詩織「ん……っ、つめた……」

紺野樹「……悪い」

槙野詩織「ううん……すぐ、あったかくなる」

手のひらは、すぐに温もって、私の背中をゆっくり撫でた。キスをしながら、セーターが頭から抜かれていく。地下の薄明かりの中で、肌が晒されるのが心許なくて、私は思わず腕で胸を隠した。

紺野樹「……隠さなくて、いい」

槙野詩織「だって……恥ずかしい、です……」

紺野樹「きれいだ。……槙野の字と、同じ」

そんな褒め方をされたら、もう、隠していられなかった。私はおずおずと腕を解いた。ブラのホックが外されて、胸が紺野さんの前にこぼれる。紺野さんは、それを、活字を扱うときよりもずっとそっと、手で包んだ。

槙野詩織「あ……っ」

紺野樹「痛くない?」

槙野詩織「痛く、ない……っ」

指の背が、つんと立った先端をかすめる。それだけで、腰が小さく跳ねた。紺野さんが、先端をそっと口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、声を抑えられなかった。

れろ……ちゅ……

槙野詩織「ん……っ♡ あ……っ♡」

地下の部屋でよかった、と頭の隅で思った。こんな声、誰にも聞かせたくない。紺野さんだけに、聞いていてほしい。

9. 一文字ずつ、確かめるように

胸を可愛がられながら、もう片方の手が、私のスカートの中、太腿の内側を、ゆっくり撫で上げていった。

槙野詩織「ん……っ♡」

紺野樹「……力、抜いて。槙野のペースでいい」

その声に、自然と体がほどけた。いつも組版を、急がず、一本ずつ確かめながら拾っていた人。今も、同じだった。私の様子を一つずつ確かめて、確かめてからでないと、次へ進まない。下着の上から、いちばん敏感なところに、指が触れた。

槙野詩織「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが熱くなっているのが、自分でも分かった。やがて下着が脱がされて、紺野さんの指が、直接そこに触れる。

くちゅ、と。

槙野詩織「ひゃ……っ♡」

紺野樹「……濡れてる」

槙野詩織「言わないで……っ♡ さっきの、キスから……っ」

恥ずかしくて消えたいのに、紺野さんの指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹でくるくると撫でられて、私はその腕にしがみついた。

くちゅ……くちゅ……

槙野詩織「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」

紺野樹「……気持ちいい?」

槙野詩織「……っ♡ うん……っ♡」

指が、ゆっくり中へ入ってくる。

ずぷ……っ

槙野詩織「ん……あぁ……っ♡」

熱い。紺野さんの指が、私の中を、こわごわ、けれど確かめるように広げていく。痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。胸の先と、下の突起と、中を、同時に優しくされて、私はもう、何も考えられなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

槙野詩織「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」

紺野樹「いいよ。……そのまま」

槙野詩織「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」

指の動きが速くなって、私は初めての高みへ押し上げられた。

槙野詩織「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。紺野さんの腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。

紺野樹「……大丈夫か」

槙野詩織「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」

息を切らせる私の額に張りついた前髪を、紺野さんが、活字を直すときと同じ指で、そっとよけてくれた。

10. 最後まで、置く

槙野詩織「……先輩」

紺野樹「ん」

槙野詩織「最後まで、してほしい、です。先輩と、なら」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人となら、言えた。戻せない言葉を、ちゃんと選んで、置けた。紺野さんが、ごくりと喉を鳴らす。

紺野樹「……無理は、するな」

槙野詩織「無理じゃ、ない。私が、したいの」

紺野さんは、鞄から小さな包みを取り出した。ちゃんと用意してくれていたことに、なんだか胸が温かくなる。こういうところまで、この人はていねいだ。

紺野樹「痛かったら、すぐ言って。……止めるから」

槙野詩織「……うん」

作業台の上で、紺野さんが私にそっと覆いかぶさってくる。熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。

紺野樹「いくよ。……ゆっくり」

槙野詩織「……はい……っ」

ずぷ……っ♡

槙野詩織「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は紺野さんの背中に腕を回して、しがみついた。きつい。じんとした痛みがある。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、私の中がその人を受け入れていく。途中で何度も止まって、私の額にキスをして、また少し進む。一文字ずつ、確かめるみたいに。

やがて、根元まで、紺野さんが収まった。繋がった場所から、じんわりと熱が広がっていく。

槙野詩織「……入って、る……?」

紺野樹「ああ。……全部」

槙野詩織「……繋がってるんだ、私たち……」

胸がいっぱいになって、涙がにじんだ。ガラスの向こうの噂でしか知らなかった人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。紺野さんが、私の涙を指でそっと拭った。

紺野樹「……動いて、平気か」

槙野詩織「うん……っ。来て、先輩……っ」

紺野さんが、ゆっくり動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

槙野詩織「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」

最初は、私の体を気遣う、本当にゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。痛みの奥から、じわじわと、知らない感覚が芽生えてくる。無口な人が、私の名前を、何度も呼んでくれた。

紺野樹「詩織……」

槙野詩織「……っ♡ 名前……」

紺野樹「詩織。……ずっと、呼びたかった」

下の名前で呼ばれて、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。私は紺野さんの首に腕を回して、自分から唇を求めた。

ぱちゅ……ぱちゅ……

槙野詩織「ん……っ♡ ふ……っ♡」

紺野樹「詩織。……入稿、終わっても」

槙野詩織「……っ?」

紺野樹「次の号も、その次も。……ずっと、組ませてくれ。槙野の言葉」

槙野詩織「……っ♡♡ うん……っ♡ ずっと……っ♡」

その約束が、繋がった場所から、体の芯まで沁みていく。律動が、少しずつ深くなった。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

槙野詩織「あっ♡ あっ♡ 先輩……っ♡ なんか、また……っ♡」

紺野樹「……俺も、そろそろ」

槙野詩織「一緒が、いい……っ♡ 先輩と、一緒……っ♡」

紺野さんが、私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡

槙野詩織「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 先輩……っ♡♡」

紺野樹「……っ、詩織……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

槙野詩織「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥でびくびくと跳ねる紺野さんを、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。

11. おはようございます

階段を上って地上に出ると、世界が、白かった。

夜のあいだに、雪はすっかり積もっていた。旧校舎の前の植え込みも、自転車置き場も、街灯の光の輪の中で、しんと白く沈んでいる。地下の鉛の匂いから抜け出した私の頬に、冷たい空気が気持ちよかった。

槙野詩織「……雪、こんなに」

紺野樹「……入稿、間に合ったな」

紺野さんは、私の手を、自分のコートのポケットに、繋いだまま入れてくれた。インクの染みた、固い手。でも、もう冷たくなかった。

槙野詩織「先輩。私、活版、続けます。卒業まで、ずっと」

紺野樹「……ああ」

槙野詩織「だから……その、これからも。よろしく、お願いします」

言ってから、なんだか入部の挨拶みたいだと思って、恥ずかしくなった。紺野さんは、雪明かりの中で、今度ははっきりと、口の端を上げて笑った。あの、めったに動かない表情がほどける瞬間が、たまらなく好きだと思った。

紺野樹「……こちらこそ」

槙野詩織「ふふ。先輩でも、そういう挨拶するんですね」

紺野樹「槙野が、組ませたんだろ。俺の言葉」

雪を踏んで、二人で並んで歩いた。胸には、刷り立ての部誌と、捨てたはずの私の詩。画面の中で、いくらでも打って、消して、薄めて流していた言葉。そのどれよりも、活字を通って紙に置かれたこの一行のほうが、ずっと、確かに私のものだった。

槙野詩織「……ねえ、先輩」

紺野樹「ん」

槙野詩織「『おやすみ』じゃなくて、『おはよう』ですね。もう」

紺野樹「……ああ。おはよう、詩織」

白い息が、二つ、朝の光の中に溶けていく。戻せない言葉を、ちゃんと選んで、置く。私はようやく、自分の言葉を、好きになれそうだった。隣にこの人がいてくれるなら、きっと。

紺野さんの手を、ポケットの中で、私はぎゅっと握り返した。

― 終 ―


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