1. 夜の構内に響く音
腹の底を、誰かに殴られたみたいだった。
篠塚灯里(しのづか あかり)、十九歳。大学二年。六月のはじめ、私はそのとき、暗くなった構内を、ひとりで歩いていた。
理由は、いつもどおりだった。何もない。やることも、行く場所も、会いたい人もいない。サークルにはひとつも入らず、講義が終われば、図書館の隅で時間を潰して、終バスの時刻まで、ただぼんやりしている。そういう二年生だった。
中学から高校まで、私はずっと打楽器をやってきた。吹奏楽部で、ティンパニと、スネアドラム。県大会の、いちばん大事な一拍を、何度も任された。なのに、大学に入ってから、私は楽器の前に座れなくなった。指が、止まる。スティックを握ると、心臓が、冷たくなる。
理由は、自分でも、わかっている。だから、考えないようにしていた。
その夜も、考えないために、私は意味もなく歩いていた。体育館の裏手、もう誰も使っていないような古い武道場の前を通りかかったとき——
ドン、と、音がした。
篠塚灯里(……なに、いまの)
それは、私の知っているどんな打楽器の音とも、違った。スネアの鋭さでも、ティンパニの深さでもない。もっと、太くて、丸くて、空気そのものを揺らすような音。ドン、ドン、と、間を置いて、また鳴る。その「間」が、やけに長い。次がいつ来るのか、まったく読めない。
なのに、来た瞬間、ぴたりと、私の鼓動と、重なった。
引き寄せられるように、私は、武道場の引き戸に近づいた。中から、灯りが漏れている。少しだけ、開いていた隙間から、私は、そっと覗いた。
2. たった一人の打ち手
がらんとした、板張りの道場だった。
その真ん中に、大きな太鼓が、横向きに据えられていた。胴の直径が、人の背丈ほどもある、大太鼓。その前に、ひとりの男の人が、立っていた。
撥を、両手に持って。足を、大きく開いて。腰を、深く落として。
ドン——。
腕を、肩から、まっすぐ振り下ろす。撥が皮に当たった瞬間、音が、道場の空気を、丸ごと押した。私の髪が、揺れた気がした。彼は、打ったあと、すぐには次を打たなかった。撥を高く掲げたまま、じっと、止まっている。一拍。二拍。長い、長い、間。
そして、また——ドン。
私は、息をするのを忘れていた。彼の打つ音には、楽譜がないように見えた。けれど、でたらめでは、絶対になかった。一打ごとに、彼が、何かを、確かめている。音と、音のあいだの、その「無音」の長さを、自分の体で、測っている。
無音が、こんなに、雄弁なんて。
夢中で見ていて、私は、足元の引き戸に、肩をぶつけてしまった。がたん、と音が鳴る。彼が、撥を止めて、こちらを見た。
鳴海律「……誰」
低い声だった。怒っているわけではない。ただ、静かに、こちらを見ている。汗で濡れた前髪の下から、まっすぐな目が、私を捉えた。私は、いつもの癖で、すぐに謝ろうとした。
篠塚灯里「す、すみません、勝手に、覗いて……」
鳴海律「謝らなくていい。──聞いてた?」
篠塚灯里「……はい。あの、すごく、きれいな音で」
彼は、少しだけ、目を見開いた。それから、撥を、ゆっくりと下ろした。
鳴海律「和太鼓部。っていっても、いま、部員、俺ひとりだけど」
3. 撥を、握る
鳴海律(なるみ りつ)。四年生。和太鼓部の、たった一人の部員だった。
道場の隅に置かれた、色あせた部員名簿を、彼は無造作に見せてくれた。在籍者の欄に、鳴海律、の一行。そのあとに、卒業して消えた先輩たちの名前が、何人も、線で消されて並んでいた。
篠塚灯里「ひとりで……毎晩、打ってるんですか」
鳴海律「ああ。ひとりだと、合わせる相手がいないから、ひたすら基本ばっかりになるけどな」
ちっとも、寂しそうではなかった。ただ、太鼓のことを話すときだけ、彼の声に、ほんの少し、熱がこもった。
鳴海律「君、楽器、やってた?」
篠塚灯里「……え」
鳴海律「さっき、俺の打つ音、聞いてた目。あれ、ただの素人の目じゃない。音の、どこを聞けばいいか、知ってる目だった」
どきりとした。たった一打、覗き見られただけのことを、見抜かれた気がした。
篠塚灯里「……打楽器を。中学から、高校まで。でも、もう、やめました」
鳴海律「なんで」
聞き返されて、私は、答えられなかった。喉の奥が、いつものように、冷たくなる。彼は、それ以上、追ってこなかった。代わりに、壁に立てかけてあった、もう一組の撥を、私に差し出した。
鳴海律「打ってみる?」
篠塚灯里「えっ。い、いえ、私は」
鳴海律「いいから。一回だけ」
押し付けられるように、撥を受け取った。スティックよりも、ずっと太くて、重い。私は、吹奏楽の癖で、指先で、きゅっと握り込んだ。彼が、それを見て、首を振った。
鳴海律「握りすぎ。それじゃ、音、死ぬよ」
篠塚灯里「……死ぬ?」
鳴海律「握り込むと、撥が、皮の上で止まる。止まった撥は、音を、押さえつける。──そうじゃなくて、ここ。小指と薬指だけ、軽く引っかけて、あとは、卵を持つみたいに」
彼の手が、私の手に、重なった。
ひやりとした自分の指の上に、太鼓を打ち続けてきた、硬くて、熱い手のひらが、添えられる。私の指を、一本ずつ、ほどくように、ゆるめていく。心臓が、さっきの大太鼓みたいに、ドン、と鳴った。
鳴海律「力、抜いて。撥の重さに、任せる。──そう。当てたら、すぐ、跳ね返させる。打つんじゃなくて、皮に、聞くんだ」
言われるまま、私は、撥を、振り下ろした。
ドン。
さっき彼が出していた音には、ほど遠い。けれど、私が握り込んで出していたはずの、固くて、つまった音とは、明らかに、違った。丸い、開いた音が、道場に、ふわりと広がった。
篠塚灯里「……あ」
鳴海律「いい音」
彼が、初めて、ほんの少しだけ、笑った。
4. 「間」を、待つ
その日から、私の夜は、太鼓でできた。
講義が終わると、私は、あの古い武道場に、通うようになった。鳴海さんは、たいてい先に来ていて、ひとりで、黙々と基本打ちをさらっている。私が引き戸を開けると、撥を止めずに、「来たな」とだけ言う。それだけ。
教わるのは、いつも、地味な基本だった。構え。足の運び。腕の振り。打って、跳ね返して、また打つ。同じ一打を、何百回も。
鳴海律「もう一回。──いまの、速い」
篠塚灯里「速い? ちゃんと、テンポ、合わせてます。私、リズムは、外しません」
鳴海律「リズムの話じゃない。間(ま)の話」
撥を止めて、彼は、私の隣に立った。
鳴海律「和太鼓は、音と音のあいだの、無音が、いちばん大事なんだ。そこを、急ぐな。怖がるな。──次を、ちゃんと、待て」
待つ。私が、いちばん、苦手なことだった。
吹奏楽で、私はずっと、正確であろうとしてきた。一拍も、ずらさない。一ミリも、走らない。メトロノームに、ぴったり貼り付くことが、私の、誇りだった。だから、音と音のあいだの「無音」を、ただ待つなんて、できなかった。間が空くと、不安で、つい、次を、早く打ってしまう。
鳴海律「篠塚は、間が空くと、すぐ埋めようとするな。──なんで、そんなに、急ぐ?」
図星を、突かれた。撥を持つ手が、止まった。
篠塚灯里「……埋めないと、間違ってる、気がするんです。何も鳴ってない時間が、こわい」
彼は、しばらく、私の顔を見ていた。それから、自分の大太鼓の前に戻って、ゆっくりと、撥を構えた。
鳴海律「見てて」
ドン——。
打って、彼は、止まった。撥を、宙に掲げたまま。一拍。二拍。三拍。私なら、とっくに、次を打っている。なのに、彼は、待つ。その「無音」のあいだ、道場の空気が、ぴんと張りつめて、彼の次の一打を、みんなで、待っている気がした。
そして——ドン。
来た瞬間、私の体の、芯が、震えた。
鳴海律「間ってのは、空っぽじゃない。次の音を、いちばん大きく聞かせるための、ためなんだ。──怖がって埋めた間は、死んでる。信じて待った間は、生きてる」
私は、その言葉を、撥を握ったまま、聞いていた。何も鳴っていない時間が、こわい。それは、太鼓の話を、しているはずだった。なのに、私の、空っぽな夜の話を、されている気が、した。
5. メトロノームの呪い
六月も、半ばを過ぎた。
雨が続いて、武道場の屋根を、ざあざあと打った。その雨音に紛れるように、ある夜、私は、ずっと飲み込んでいたことを、口にした。
篠塚灯里「私、高校で、打楽器、やめたんです」
撥の手入れをしていた鳴海さんが、顔を上げた。
篠塚灯里「最後の、いちばん大事なコンクールで。ティンパニの、ソロみたいな見せ場があって。私、一音も、外しませんでした。完璧に、楽譜どおりに、叩いた。──そしたら、講評で、審査の先生に、言われたんです」
雨の音が、やけに、大きく聞こえた。
篠塚灯里「『正確だ。でも、メトロノームみたいだ。あなたの音楽は、どこにあるの?』って」
それは、私の体に、刺さったまま、抜けなくなった棘だった。
篠塚灯里「私、ずっと、正確なのが、いいことだと思ってた。誰よりも、ずれない。誰よりも、間違えない。それが、私の、取り柄だって。……でも、あの一言で、わかっちゃったんです。私の音には、私が、いない。ぴったり合ってるだけで、空っぽなんだって」
それから、私は、スティックを握れなくなった。楽譜の前に座ると、あの言葉が、聞こえる。メトロノームみたいだ。あなたは、どこにいるの。──だから、逃げた。楽器からも、音楽からも。
篠塚灯里「ごめんなさい。……こんな話」
鳴海さんは、しばらく、黙っていた。それから、撥を、ことり、と置いて、言った。
鳴海律「その先生、半分、正しくて、半分、間違ってる」
篠塚灯里「……え」
鳴海律「正確なのは、才能だ。誰でもできることじゃない。──でも、その人は、君に、こう言うべきだった。『じゃあ、一回、外してみろ』って」
篠塚灯里「外す……?」
鳴海律「わざと、楽譜から、はみ出してみる。ためて、待って、ぎりぎりまで、引きつけて、打つ。そこに初めて、『君』が、出る。──正確に打てる人間しか、ちゃんと外せないんだ。君は、外す資格を、もう持ってる。ただ、外す勇気を、まだ知らないだけだ」
雨の音の中で、私は、その言葉を、何度も、頭の中で、繰り返した。
外す資格を、もう持ってる。
誰も、そんなふうに、言ってくれなかった。私の「正確さ」を、否定するんじゃなくて。その先に、行けと、言ってくれた人は。
気づいたら、私は、撥を、握り直していた。
篠塚灯里「……鳴海さん。私に、外し方、教えてください」
彼は、少しだけ、目を細めて、うなずいた。雨の夜の道場で、その横顔から、私は、目を、離せなくなっていた。
6. 雨の夜、重なる手
それからの稽古は、不思議なものだった。
鳴海さんは、私に、わざと「ためる」ことを、教えた。基本どおりに打ったあと、次の一打を、ぎりぎりまで、待つ。一拍、引きつける。怖くなって、つい埋めそうになる、その手を、彼は、何度も、止めた。
鳴海律「まだ。──まだ。……いま」
私の手首に、後ろから、彼の手が、添えられる。間を測る、その指の感触を、私は、いつのまにか、待つようになっていた。
ある雨の夜のことだった。私が、何度やっても、ための途中で、撥を、急いで落としてしまう。鳴海さんが、ため息をついて、私の真後ろに、立った。
鳴海律「貸して」
両腕を、私の腕に、重ねるように。彼の手が、撥を握った私の手の、上から、そっと包んだ。
背中に、彼の体温が、すぐ近くにある。汗と、太鼓の革の、乾いた匂いがした。心臓が、うるさいくらいに、鳴っている。それが、彼に、伝わってしまわないか、こわかった。
鳴海律「息、止めるな。──吸って。吐きながら、待つ。俺の呼吸に、合わせて」
彼の胸が、私の背中で、ゆっくりと、上下する。その呼吸に、私の呼吸を、重ねた。吸って。吐いて。待って。待って。
鳴海律「……いま」
二人の手が、いっしょに、撥を、振り下ろした。
ドン——。
いままで出したことのない、深くて、丸くて、生きた音が、道場いっぱいに、広がった。雨音を、その一打が、押しのけた。
私は、撥を握ったまま、動けなくなった。彼の手も、私の手の上に、重なったまま、止まっていた。少しのあいだ、どちらも、離さなかった。
篠塚灯里「……鳴海さん」
鳴海律「……ん」
篠塚灯里「いまの、私の音でしたか。それとも、鳴海さんの?」
彼は、少し考えて、後ろで、小さく笑った。背中越しに、その振動が、伝わってきた。
鳴海律「半分こ、だな」
半分こ。その言葉が、なぜか、胸の奥で、じんと、温かくなった。私は、彼の手の下から、自分の手を、すぐには、抜けなかった。
7. 奉納太鼓
七月に入ると、雨の合間に、夏の光が、差すようになった。
ある夜、稽古を終えたあと、鳴海さんが、一枚の古いチラシを、私に見せた。色あせた紙に、神社の名前と、「夏祭り 奉納太鼓」の文字。
鳴海律「うちの部、毎年、近くの神社の夏祭りで、奉納太鼓を打ってたんだ。櫓の上で。──去年までは、先輩たちと、何人かで」
篠塚灯里「今年は……」
鳴海律「俺、ひとりだ。だから、今年は、断ろうかと思ってた。大太鼓ひとつじゃ、奉納は、寂しいから」
彼は、チラシを、しばらく見つめてから、ぽつりと言った。
鳴海律「でも──篠塚が、いる」
私の、心臓が、跳ねた。
鳴海律「締太鼓、やってみないか。俺が、大太鼓を打つ。君が、締太鼓で、間を刻む。二人なら、奉納、できる。──君の、外す勇気、本番で、試してみないか」
そのとき、私の頭の中を、よぎったのは、あのコンクールだった。何十人もの、審査の目。完璧に打って、空っぽだと言われた、あの日。人前で打つのが、こわい。また、メトロノームだと、言われるのが、こわい。
でも。
篠塚灯里「……外して、いいんですか。本番で」
鳴海律「外せ。思いきり。──間違えたら、俺の大太鼓が、全部、受け止める」
間違えたら、俺が、受け止める。
そう言いきってくれた人が、いままで、いただろうか。私は、チラシの上の、櫓の絵を、見た。そこに、二人で並んで打つ、自分たちの姿を、想像した。こわかった。けれど、それ以上に、打ちたいと、思った。鳴海さんの隣で。
篠塚灯里「……やります。私、締太鼓、やります」
鳴海さんが、うなずいた。その目に、あの大太鼓を打つときの、まっすぐな光が、宿っていた。
8. もう一人の部員
奉納まで、二週間。
私たちは、毎晩、合わせの稽古をした。締太鼓で、刻む。間を、ためる。鳴海さんの大太鼓が、それを、どっしりと、受け止める。私の小さな音と、彼の大きな音が、噛み合った瞬間の、あの感覚を、私は、覚え始めていた。
ある夜、稽古をしていると、武道場の引き戸が、勢いよく開いた。
三上七海「あっ! やっぱり、いた! 律、あんた、今年も奉納やる気でしょ!」
明るい声の主は、三上七海(みかみ ななみ)さん。三年生で、去年まで、この部の副部長だったという。就活で一度、部から離れていたのが、奉納のチラシを見て、駆けつけてきたらしい。
三上七海「で、この子、誰? 律が、女の子と二人で稽古とか、雪でも降るんじゃないの」
鳴海律「……篠塚。今年から、入った」
三上七海「ええっ、新入部員!? 律が、人を勧誘できたの!? あんた、自分から人に話しかけるの、苦手なくせに!」
七海さんが、目を丸くして、私と鳴海さんを、交互に見た。それから、にやりと笑って、私に耳打ちした。
三上七海「ねえ、知ってる? こいつ、ほんとは、すっごい無口でさ。ひとりで太鼓打ってるときだけ、別人みたいになるの。──その律が、君に、大太鼓の隣、任せてるってことはさ」
篠塚灯里「えっ」
三上七海「相当、信用してるってことだよ。あいつの、いちばん大事な場所だもん。──大事にしなよ、その隣」
その夜から、奉納は、三人になった。七海さんが、横笛で、加わってくれることになったのだ。けれど、櫓の上で、大太鼓と締太鼓を並べて打つのは、鳴海さんと、私。
稽古の帰り道、七海さんが、先に駅へ向かったあと。鳴海さんと、二人きりで、夜道を歩いた。蝉の声が、もう、聞こえ始めていた。
篠塚灯里「鳴海さん。私、ほんとに、隣で打って、いいんですか。──こんな、逃げてきた私が」
鳴海さんは、少し歩いて、立ち止まった。街灯の下で、こちらを見た。
鳴海律「逃げてきた人間にしか、出せない音がある。──俺は、君の音が、聞きたい。だから、隣に、いてほしい」
夜道で、私の頬が、熱くなったのが、自分でも、わかった。隣にいてほしい。それが、締太鼓の話なのか、それとも——私は、聞き返す勇気を、まだ、持てなかった。
9. 真夏の宵宮
夏祭りの、宵宮(よいみや)。
神社の境内は、提灯の灯りで、橙色に染まっていた。浴衣の人波。屋台の匂い。子どもたちの、はしゃぐ声。その真ん中に、組まれた櫓の上に、私たちの太鼓が、据えられていた。
私は、稽古用の半纏(はんてん)を羽織って、櫓の梯子を、上った。下を見ると、思いがけないほどの、人だかりだった。何百もの目が、櫓を、見上げている。──あのコンクールの記憶が、よみがえった。指先が、冷たくなる。
そのとき、隣で、大太鼓の前に立った鳴海さんが、低い声で、言った。
鳴海律「篠塚。客、見るな。──俺の、撥だけ、見てろ」
私は、うなずいて、彼の撥を、見た。彼が、大きく腕を上げる。そして、振り下ろした。
ドーン——。
櫓を、その一打が、震わせた。境内の、ざわめきが、ぴたりと、止んだ。続いて、七海さんの横笛が、夜の空気を、すうっと、切り裂いて、昇っていく。
私の番だった。締太鼓を、構える。鳴海さんの大太鼓に、間を、合わせる。怖がって、埋めるな。信じて、待て。──彼に教わった、その「間」を、私は、自分の体で、測った。
ためて。待って。ぎりぎりまで、引きつけて——
タッ、タカ、ドン。
打った瞬間、わかった。いまの一打は、楽譜の上には、ない。私が、自分の判断で、半拍、ためた音だ。「外した」音だ。なのに、それが、鳴海さんの大太鼓と、ぴたりと、噛み合った。彼が、こちらを見て、一瞬、笑った。間違いじゃない、と、その目が、言っていた。
そこから先は、夢の中のようだった。
私は、もう、客席を見ていなかった。メトロノームのことも、コンクールのことも、忘れていた。ただ、鳴海さんの大太鼓と、自分の締太鼓が、夜の空気の中で、絡まり合って、ひとつの大きな鼓動に、なっていくのを、感じていた。ためて、外して、噛み合って。私の音が、彼の音と、生きている。
最後の一打を、二人で、そろえて、打ち込んだ。
ドドン——!
提灯が、揺れた。一瞬の、静寂のあと。境内が、割れるような、拍手に、包まれた。
私は、撥を握ったまま、肩で、息をしていた。汗が、頬を、伝った。隣で、鳴海さんが、まっすぐ、私を見ていた。
鳴海律「……外せたな」
篠塚灯里「……はい。……はい!」
気づいたら、私は、泣いていた。笑いながら、泣いていた。空っぽだと言われた私の音が、いま、確かに、誰かの胸を、打っていた。
10. 灯りの落ちた境内で
奉納が終わり、祭りの喧騒も引いて、夜が、更けた。
七海さんは、「あとは若い二人で!」と、わざとらしくウインクして、笛を抱えて、帰っていった。後片付けを終えた私と鳴海さんは、人のいなくなった境内の、社殿の裏手の、石段に、並んで座った。提灯の灯りは、もうほとんど落ちて、夏の星が、よく見えた。
篠塚灯里「鳴海さん。私、今日、生まれて初めて、楽器が、楽しいって、思いました」
鳴海律「……うん」
篠塚灯里「ずっと、正確じゃなきゃって、思ってた。間が空くのが、こわかった。何も鳴ってない時間が、自分が空っぽなのが、ばれる気がして。──でも、鳴海さんが、待っていいって、言ってくれたから」
私は、星を見上げながら、言った。
篠塚灯里「あの『間』、こわく、なくなりました。次が来るって、信じられるから。──鳴海さんが、隣に、いてくれたから」
しばらく、鳴海さんは、黙っていた。蝉も鳴きやんだ、静かな夜だった。それから、彼が、ぽつりと、言った。
鳴海律「俺さ。ほんとは、人と合わせるの、苦手なんだ」
篠塚灯里「……え」
鳴海律「ひとりで打ってるほうが、楽だった。誰かと合わせると、相手のことを、考えなきゃいけない。間を、譲ったり、待ったり。……面倒で、怖かった。だから、ずっと、ひとりで打ってた」
彼は、自分の手のひらを、見つめた。太鼓を打ち続けた、硬い手のひらを。
鳴海律「でも、君と合わせると、苦じゃなかった。君の間を、待つのが、楽しかった。次に、君が、どんな音を出すのか、聞きたくて、しょうがなかった。──こんなの、初めてだった」
彼が、顔を上げて、私を見た。星明かりの下で、いつもの、まっすぐな目が、今夜は、少しだけ、揺れていた。
鳴海律「篠塚。俺、君の音だけじゃなくて……君のこと、ちゃんと、好きになってた。気づいたら」
私の番だった。今度は、ためずに、外さずに、まっすぐ、言う。
篠塚灯里「私も、です。──鳴海さんの撥を、ずっと、目で追ってました。太鼓のことより、鳴海さんのこと、ばっかり、考えてた。……好きです。先輩としてじゃ、なくて」
鳴海さんが、そっと、手を伸ばして、私の頬の、涙の跡に、触れた。硬い指先が、撥を教えてくれたときと、同じ、優しさで。私は、逃げなかった。彼の手のひらに、頬を、預けた。
人のいない、夏の境内で。私たちは、そっと、唇を、重ねた。
ちゅ……。
触れたところだけが、提灯の火が移ったみたいに、熱かった。
11. 半纏の下で
唇を離すと、鳴海さんの息が、少し、震えていた。
鳴海律「……篠塚。場所、変えよう。──道場、まだ、開いてる」
二人で、夜道を、手をつないで歩いた。誰もいない武道場に戻って、灯りをつけると、いつもの、太鼓の匂いが、私たちを、迎えた。何百回も、撥を合わせた、この場所で。
鳴海さんが、私の半纏の、襟に、手をかけた。
鳴海律「灯里。……いい?」
初めて、名前で、呼ばれた。頭の芯が、しびれた。
篠塚灯里「……うん。律さん」
半纏を、肩から、そっと脱がされる。汗ばんだ、薄い肌着の下から、胸のふくらみが、ほのかに透けて見えた。鳴海さんの目が、そこに、注がれて、私は、恥ずかしくて、顔を背けた。
篠塚灯里「……あんまり、見ないで」
鳴海律「……きれいだ」
肌着の裾から、手が、滑り込んでくる。太鼓を打ち続けた、大きな手のひらが、私の素肌を、確かめるように、撫でた。
ふにっ。
篠塚灯里「あっ……♡」
撥を握るときの、あの優しい力加減で、彼が、胸を、包んだ。指が、やわらかく、沈み込む。間を待つときと、同じだった。急がない。ためて、確かめて、また、動く。
鳴海律「……心臓、すごい速さだな」
篠塚灯里「だって……律さんの、せいです……♡」
肌着の肩紐を、ずらされて、淡い色の先端が、灯りの下に、こぼれた。彼の指が、そっと、そこに触れる。
くりっ。
篠塚灯里「ひゃっ♡♡」
びくん、と、肩が跳ねた。小さく芯を持ち始めたそこを、彼の指が、間を置いて、また、転がす。打って、ためて、また打つ。太鼓と、同じ、リズムで。
くりくり……くりくり……♡
篠塚灯里「あっ♡ あんっ♡♡ そこ、変な、感じっ……♡」
彼が、顔を寄せて、胸の先に、唇を落とした。ちゅっ。
篠塚灯里「ひぅっ♡♡♡」
舌で転がされながら、もう片方を、揉まれる。間を、ためられるたび、私の体は、次が来るのを、勝手に、待ってしまう。教わったとおりに。
ちゅるっ……れろ……ちゅう……♡♡
篠塚灯里「やっ♡ 吸っちゃ……声、出ちゃうっ♡♡」
真夏の、誰もいない道場。蝉も鳴きやんだ夜に、聞こえるのは、私の、甘い声だけだった。
12. 二人の鼓動
鳴海律「灯里。……下も、いい?」
篠塚灯里「……うん♡ 来て……♡」
帯をほどかれ、浴衣の下の下着を、ゆっくりと、引き下ろされた。膝を立てて閉じようとする、私の脚を、彼の手が、そっと、開かせる。
鳴海律「……もう、濡れてる」
篠塚灯里「やっ♡ 言わないで……♡ キスの、ときから、なの……♡♡」
太鼓を打つ、硬い指先が、私のいちばん敏感なところに、触れた。割れ目の上の、小さな突起を、指の腹で、くるくると、円を描く。
くり……くり……♡
篠塚灯里「あぁっ♡♡♡ そこっ、だめっ……♡♡」
鳴海律「だめじゃ、ないだろ。──気持ちいいんだよな」
篠塚灯里「だってっ♡ 律さんの、指っ……♡♡」
蜜を、指にたっぷりまとわせて、中指を、入り口に、あてがった。
鳴海律「いくぞ」
篠塚灯里「……うんっ♡♡ 来て……♡♡」
ずぷ……♡
篠塚灯里「あああっ♡♡♡」
ゆっくり、指が、沈んでいく。熱くて、きゅうきゅうと、締め付けてしまう。中を、確かめるように、かき混ぜながら、突起を、親指で、同時に、刺激する。打って、ためて、また打つ。彼の指は、太鼓と、同じだった。
ぐちゅっ……ぐちゅっ……♡♡♡
篠塚灯里「あっあっあっ♡♡♡ 両方っ……おかしく、なるっ♡♡♡」
指を二本に増やして、奥の壁を、ぐっと、押し上げる。
篠塚灯里「ひぅっ♡♡♡♡ そこ、やばっ……♡♡♡」
私の腰が、勝手に、跳ね始めた。
篠塚灯里「やっ♡ 来るっ……来ちゃうっ♡♡♡」
ぐちゅぐちゅぐちゅっ♡♡♡♡
篠塚灯里「あああっ♡♡♡ イっ……イくぅっ♡♡♡♡」
びくんっ、びくんっ♡♡♡
背中が、弓なりに反った。中が、ぎゅうっと、彼の指を、締め付けて、やがて、力が抜けて、板張りの床に、敷いた半纏の上に、沈み込む。
篠塚灯里「はぁっ……♡♡ はぁっ……♡♡」
潤んだ目で、私は、彼を、見上げた。震える手を、彼の帯に、伸ばす。
篠塚灯里「……今度は、私……♡ 律さんのも……♡」
帯をゆるめ、下着ごと下ろすと、限界まで張り詰めたものが、跳ね上がった。私は、息を呑んで、おずおずと、顔を寄せ、先端に、口づけた。慣れない舌で、ちろちろと、舐める。
篠塚灯里「ん……れろ……♡♡」
鳴海律「……っ。……それ以上は、もたない」
ぷはっ、と口を離すと、私の唇が、濡れて、光っていた。
篠塚灯里「……最後は、いっしょが、いい♡ 律さんと、ひとつに、なりたい……♡」
鳴海さんが、ちゃんと用意していたゴムを、手早く着けた。半纏の上に、私を、仰向けに横たえて、脚のあいだに、体を進める。先端が、入り口に、あてがわれた。
ぬちゅ……♡
鳴海律「灯里。──いくぞ」
篠塚灯里「うん♡ 来て……♡♡」
ゆっくりと、腰が、押し進められる。間を、ためながら。
ずぷ……ずぷぷ……♡♡
篠塚灯里「あぁっ♡♡♡ 入って、くるっ♡♡♡」
きゅうきゅうと、締め付けながら、奥へ、引き込んでしまう。やがて、ぴたりと、根元まで、収まった。
篠塚灯里「はぁっ♡♡ 全部、入った……♡♡ あったかい……♡♡」
鳴海律「動くぞ」
ゆっくり、腰を引いて、また、打ち込む。大太鼓を打つ、あの、まっすぐな振りで。
ずるっ……ずぷんっ♡♡
篠塚灯里「ああっ♡♡♡」
ためて、待って、また、打つ。彼の動きは、櫓の上で聞いた、あの大太鼓と、同じ「間」を、刻んでいた。私の体が、その次の一打を、待ってしまう。
パンッ……ためて……パンッ……♡♡
篠塚灯里「あっ♡♡ 律さんっ♡♡ 奥っ、当たってるっ♡♡♡」
私の腕が、彼の背中に、回されて、しがみつく。何百回も、二人で撥を合わせた、この道場の床で。私たちは、ひとつの鼓動に、なっていた。
そこから、彼の動きが、少しずつ、速くなる。間が、詰まっていく。最後の連打へ向かう、あの、追い込みのリズムで。
パンパンパンッ♡♡♡
篠塚灯里「やばっ♡♡ また、来ちゃうっ♡♡♡」
鳴海律「……俺も、もう……っ」
篠塚灯里「いっしょに……♡♡♡ いっしょに、イこっ……♡♡♡♡」
私が、両腕で、ぎゅっと、しがみつく。奥に、押し付けるように——最後の、ひと打ち。
篠塚灯里「あぁぁっ♡♡♡♡♡!!」
鳴海律「……っ、イく……!」
どくんっ、どくっ、どくっ……!
篠塚灯里「イっ……イくぅっ♡♡♡♡♡♡」
全身が、震えて、中が、痙攣するように、締め付ける。抱き合ったまま、二人の、荒い呼吸が、太鼓の余韻みたいに、道場に、響いていた。
ちゅ、と、軽く、唇を重ねる。汗ばんだ二つの体が、半纏の上で、ぴったり、重なっていた。彼の心臓の音が、私の胸に、ドン、ドン、と、伝わってくる。それは、あの夜、私を引き寄せた、大太鼓の音と、同じだった。
13. 次の音
──翌朝。
武道場の高い窓から、夏の朝の光が、差し込んでいた。
鳴海さんは、私を、腕に抱えたまま、すうすうと、寝息を立てていた。いつも、無口で、まっすぐな、あの人の。無防備な寝顔が、たまらなく、愛おしかった。
鳴海律「ん……灯里?」
寝起きの、かすれた声で、彼が、目を覚ました。
篠塚灯里「おはようございます。律さん」
半纏を巻いたまま、二人で、窓辺に並んだ。境内のほうから、祭りの幟を片付ける、町の人たちの声が、遠く、聞こえてきた。夏の朝の、澄んだ空気だった。
篠塚灯里「律さん。私、決めました」
鳴海律「ん?」
篠塚灯里「和太鼓部、ちゃんと、続けます。律さんが、卒業しても。──二人いれば、廃部に、ならないんですよね。私、後輩、勧誘します。あの音を、覗き見て、立ち止まる子が、きっと、また来る。私が、そうだったみたいに」
鳴海さんが、目を、見開いた。それから、ふっと、口元を、ゆるめた。
鳴海律「……君が、勧誘するのか。人見知りの俺の、代わりに」
篠塚灯里「はい。だって私、もう、間が、こわくないから。──待てば、ちゃんと、次の音が、来るって、知ってるから」
鳴海さんが、私の手を、ぎゅっと、握った。撥を、教えてくれた、あの手で。
鳴海律「灯里」
篠塚灯里「はい」
鳴海律「卒業しても、ずっと、隣で、打っててくれ。──君の間を、ずっと、待っていたい」
胸の奥が、じんと、熱くなった。私は、彼の手を、握り返した。
篠塚灯里「……はい。ずっと、隣で、打ちます」
正確なだけの自分の音に、心を見失って、楽器から逃げ出した私は、夜の構内で、たった一打の太鼓の音に、引き寄せられた。
そこで出会ったのは、音と音のあいだの、無音を、誰よりも信じている人だった。
何も鳴っていない時間が、こわかった私は、その人の隣で、待つことを、覚えた。待てば、次の音は、必ず来る。──それは、太鼓のことであり、たぶん、これからの、私たちのことでもあった。
朝の光の中で、鳴海さんが、私の額に、ちゅっと、唇を落とした。遠くで、夏祭りの片付けの音が、ドン、と、ひとつ、鳴った気がした。
― 終 ―