いつも誰かに傘を差してばかりで自分は濡れていた私が、梅雨の金沢でひとり迷い込んだ和傘工房で、骨を組み紙を張る寡黙な若い職人に手ほどきを受けるうちに、生まれて初めて誰かの傘の下に入りたくなって、長雨の夜の工房で結ばれた話

特急が長いトンネルを抜けると、窓の外は灰色の雨だった。金沢の駅に降りたときには、もう本降りになっていた。

私、須藤七海(すどう ななみ)、二十九歳。都内の小さな会社で、経理の事務をしている。請求書を確認して、伝票を起こして、月末に数字を合わせる。間違いがあってはいけない仕事を、たぶん、誰よりも丁寧にやってきた。

須藤七海(……なんで、私、ここにいるんだろう)

先週、いちばん下の妹が結婚した。父が私の高校のときに亡くなって、それから、私はずっと、家の傘を差す側の人間だった。母の代わりに妹たちの三者面談に行って、上の妹の奨学金の書類を書いて、下の妹のウェディングドレスの試着に、母と並んで涙をこらえた。

それが、先週、全部、終わった。

妹のブーケが宙に舞って、知らない誰かの手に収まった瞬間、私は、自分の中で何かが、すとんと音を立てて空っぽになるのを感じた。役目が、終わってしまった。それなのに、晴れやかさより先に来たのは、行き場のない、しんとした寂しさだった。

衝動だった。有給を二日くっつけて、行き先も決めずに新幹線に乗って、乗り換えて、気づいたら、金沢にいた。母が昔、一度でいいから行ってみたいねえ、と言っていた街。母自身は、結局一度も来られなかった街。

須藤七海「……傘、買わなきゃ」

駅で買った透明のビニール傘は、東山のあたりまで歩いたところで、突風にあおられて、骨が一本、ぐにゃりと折れた。安物の傘は、こういうとき、いつも、いちばん助けてほしい瞬間に裏切る。

雨脚が強くなる。私は、折れた傘を半分しか差せないまま、肩を濡らして、古い町並みの細い路地に走り込んだ。

格子戸の続く通りの、いちばん奥まったところに、その店はあった。

低い軒先に、色とりどりの和傘が、何本も立てかけて干してある。藍、朱、白、深い緑。雨に濡れた紙の傘が、薄暗い軒下で、しっとりと色を沈ませている。看板には、墨で「紺野和傘」とだけ書いてあった。

雨宿りのつもりで、私は、その軒下に身を寄せた。折れたビニール傘を持て余して、立ち尽くしていると、開け放した戸の奥から、声がした。

紺野律「……濡れますよ。入ってください、そこ」

低い声だった。急いでいない、底の落ち着いた声。土間の奥で、男の人が一人、和傘の骨を、膝の上で組んでいた。背が高くて、目元が静かで、こちらをじっと見るでもなく、ふっと一度だけ目を上げて、すぐにまた手元に視線を落とした。

須藤七海「すみません……ちょっと、雨宿りだけ。傘、折れちゃって」

紺野律「ああ。今日の風、急に来ますからね」

そう言って、男の人は、立てかけてあった一本の番傘を、無造作に私のほうへ寄こした。

紺野律「それ、使ってください。返すのは、いつでもいい」

須藤七海「えっ……いえ、そんな。お借りするわけには」

紺野律「貸し傘です。うち、昔から。……濡れて帰すほうが、寝覚めが悪いので」

ぶっきらぼうなのに、なぜか、突き放す感じがしなかった。言葉を、選んでいるんだと思った。奥から、小柄なおばあさんが、手ぬぐいを持って出てきた。

房江さん「あらあら、びしょ濡れ。律(りつ)、お客さんに傘貸すなら、先に拭くもん出しなさいよ。……ほら、お嬢さん、これで肩、拭いて」

須藤七海「あ……ありがとうございます」

律、と呼ばれた人が、ばつが悪そうに、また手元の骨に目を戻した。おばあさんは房江(ふさえ)さんといって、律さんの大叔母にあたるらしい。私は、勧められるまま、上がり框に腰を下ろして、手ぬぐいで肩を拭いた。

雨は、いっこうにやみそうになかった。

土間には、作りかけの和傘が、いくつも横たわっていた。

骨だけのもの、紙を張ったばかりのもの、油を引いて乾かしているもの。竹と紙と、かすかな油の匂いが、雨の湿気と混じって、店の中に満ちている。律さんは、私がいることなど忘れたみたいに、黙々と、細い竹の骨を一本ずつ、糸で繋いでいく。

私は、その手つきを、なんとなく、ずっと目で追っていた。

四十本以上あるという細い骨を、一本も狂わせずに、放射状に組んでいく。指が、竹の硬さと撓(しな)りを確かめるみたいに、ゆっくり動く。乱暴じゃないのに、迷いがない。きれいな手だ、と思った。きれいというより、信用できる手だ、と。

須藤七海「……すごい。それ、全部、手で?」

紺野律「ええ。機械じゃ、組めないので。骨の一本一本、撓りが違うから。同じ竹なんて、二本とない」

須藤七海「一本、作るのに、どのくらい?」

紺野律「ものによるけど。……骨組んで、紙張って、油引いて、乾かして。早くて、ひと月」

ひと月。私が伝票を何百枚も切る時間で、この人は、たった一本の傘を、丁寧に育てている。その時間の流れの違いに、私は、なぜか、肩の力が抜けた。

房江さんが、奥から、和傘づくりの一日体験ができる、という小さな案内を持ってきた。観光客向けに、小さな飾り傘を組む、半日の教室をやっているらしい。

房江さん「お嬢さん、雨やむまで暇でしょう。やってみたら? 律が見てくれるから。……この子、口は重いけど、教えるのは、丁寧よ」

紺野律「……俺、いいとは言ってないけど」

房江さん「いいじゃないの。どうせ今日、ほかにお客さん来やしないんだから」

律さんが、軽く息を吐いて、それから、私のほうを見た。今度は、ちゃんと、目が合った。

紺野律「……やります?」

断る理由が、なかった。というより、なぜか、この人の手元を、もっと近くで見ていたかった。私は、こくりと頷いた。

前掛けを借りて、作業台の前に座った。律さんが、隣に腰を下ろす。肩が触れそうな近さに、私は、少しだけ、息を詰めた。

紺野律「まず、骨を、轆轤(ろくろ)に挿します。……これ、頭のところ。穴に、一本ずつ」

小さな飾り傘とはいえ、骨は何十本もある。私が、最初の一本を、おそるおそる挿そうとして、手元を狂わせると、律さんの手が、すっと伸びてきた。

紺野律「力、入れすぎ。竹が折れる。……もっと、預けるみたいに」

私の指の上から、彼の指が、軽く添えられた。土の匂いではなく、竹と、かすかな糊の匂いのする手だった。一秒もなかった。骨が、すとんと、穴に収まる。すぐに、彼の手は離れた。その距離の取り方が、妙に、私の心臓に残った。

須藤七海「……あ。入った」

紺野律「でしょう。竹は、無理に押し込むと、折れる。撓りに、任せるんです」

撓りに、任せる。私は、その言葉を、口の中で、もう一度繰り返した。私は、たぶん、何にでも力を入れすぎる人間だった。妹たちのことも、母のことも、仕事のことも、全部、自分が踏ん張らなきゃ折れる、と思って生きてきた。

須藤七海「……律さんは、ずっと、ここで?」

紺野律「いや。前は、東京で。デザインの仕事してました」

須藤七海「えっ、そうなんですか」

紺野律「画面の中で、きれいなものを、いくらでも作れた。けど……自分の手では、何ひとつ、形にできなくて。それが、だんだん、こわくなって」

ぽつり、ぽつりと、彼は喋った。十年前、ここの先代――房江さんの夫にあたる人――の和傘を、たまたま展示会で見て、雷に打たれたみたいになったこと。仕事を辞めて、弟子入りを志願したこと。三年前にその先代が亡くなって、今は、この古い工房を、たった一人で守っていること。

紺野律「金にはならないし。継ぎ手も、いない。……でも、これがなくなるのは、なんか、嫌で」

誰に頼まれたわけでもなく、儲かるわけでもないものを、黙って守っている。その横顔を、私は、いつのまにか、また目で追っていた。

気づけば、半日が経っていた。

私の手の中で、不格好だけれど、ちゃんと開く小さな和傘が、できあがっていた。藍色の紙が、雨の薄明かりに、きれいに透ける。

須藤七海「……できた。私、こういうの、作ったの、初めてです」

紺野律「筋、いいですよ。最初にしては」

ぼそっと言われた、その一言が、なぜか、じわっと胸にしみた。私は、誰かに「よくやった」と言われることが、ほとんどない人生を送ってきた。やって当たり前。できて当たり前。長女だから。しっかりしてるから。

外を見ると、雨は、まだ降っていた。明日には東京へ帰る予定だったのに、私は、気づけば、口を開いていた。

須藤七海「あの……明日も、来ていいですか。今度は、ちゃんとした傘の、紙を張るところ、見てみたくて」

律さんが、少し、目を見開いた。それから、ふっと、口の端を上げた。

紺野律「……どうぞ。雨、明日もみたいだから。傘屋には、いい日です」

房江さんが、奥で、くすくす笑っているのが聞こえた。私は、慌てて、借りた番傘を差して、宿へ帰った。傘の下は、不思議と、雨の音が遠かった。誰かに作ってもらった傘の下を、私が、自分のために差して歩くのは、考えてみれば、ずいぶん久しぶりのことだった。

翌日も、雨だった。

私は、約束どおり、工房を訪ねた。律さんは、大きな和傘に、刷毛で糊を引いて、薄い和紙を、骨に張りつけているところだった。

紙を、ぴんと張る。皺の一つも、許さない。彼の集中した横顔を、私は、邪魔をしないように、息を殺して見ていた。房江さんが、お茶を淹れてくれて、私たちは、作業の合間に、縁側で湯呑みを傾けた。

房江さん「お嬢さん、東京で、何してるの」

須藤七海「経理の事務です。会社の、お金の計算」

房江さん「まあ。間違えられない、大事なお仕事だ」

須藤七海「……はい。でも、それだけ、なんです。私、ずっと、人の分の計算ばっかりしてて。家のことも、妹たちのことも、母のことも。……気づいたら、自分の分が、空っぽで」

ぽろっと、こぼれた。会ったばかりの人たちに、東京では同僚にも言えなかった本音を。言ってから、自分でも、力なく笑ってしまった。

律さんが、紙を張る手を、止めた。急かさない、静かな目で、私を見る。

紺野律「……傘って、変なもんで」

須藤七海「え?」

紺野律「差してる本人は、案外、濡れてるんですよ。人にちゃんと差してあげようとすると、自分の肩は、こう、外に出る」

彼は、刷毛を置いて、自分の肩を、軽く叩いた。

紺野律「あなた、昨日、ずっと右肩だけ、濡れてた。折れた傘を、左の荷物にばっかり、傾けてたから」

息が、止まった。気づかれていたなんて、思わなかった。私は、自分の右肩を、そっと押さえた。荷物を濡らさないように、自分の肩を雨に差し出すのは、もう、癖になっていて、自分では、意識すらしていなかった。

須藤七海「……よく、見てますね」

紺野律「傘屋なんで。誰がどう濡れてるかは、つい」

さらりと言って、律さんは、また紙に向き直った。私は、湯呑みを両手で包んだまま、しばらく、何も言えなかった。誰かに見てもらった右肩が、じんと、熱を持っていた。

夕方になっても、雨はやまなかった。

そろそろ宿へ、と腰を上げた私に、律さんが、土間に立てかけてあった一本の番傘を取って、言った。

紺野律「送ります。今日の雨、傘一本じゃ、足りない」

須藤七海「えっ、いいですよ、そんな。借りた傘、ありますし」

紺野律「あれ、飾り紙の傘。本降りには弱い。……これ、油、しっかり引いてあるやつだから」

押し問答をする間もなく、律さんは、もう、戸口で傘を開いていた。大きな、深い藍の番傘。彼が差すと、それは、ふわりと音を立てて、夜の路地に、丸い屋根を作った。

紺野律「……入って」

たった一言。私は、おずおずと、その傘の下に、身を寄せた。

肩が、触れそうで、触れない。雨が、傘の油紙を、ぱらぱらと打つ。その音が、すぐ頭の上で、心地よく響いていた。並んで歩き出すと、律さんは、傘を、ほんの少しだけ、私のほうへ傾けた。

須藤七海「……律さん、肩、濡れてます」

紺野律「ん? ああ。……いいんですよ。これくらい」

彼の右肩が、しっとりと、夜の雨に濡れていた。昨日の私と、同じだった。私のために、自分の肩を、雨に差し出している。それに気づいた瞬間、胸の奥が、きゅう、と締めつけられた。

須藤七海「……だめ。濡れないで」

私は、自分でも驚くくらい、とっさに、彼のほうへ、傘の柄を押し戻していた。彼の手の上に、私の手が重なる。律さんが、こちらを見た。回る街灯の明かりが、一瞬、彼の目を照らした。いつもの静かな目と、少し違った。

紺野律「……二人で入ると、傘って、難しいですね」

須藤七海「……そうですね。どっちかが、必ず、濡れちゃう」

紺野律「いや」

彼は、傘の柄を握り直して、私の肩を、そっと、自分のほうへ引き寄せた。雨の屋根の、ちょうど真ん中に、二人の肩が、おさまった。

紺野律「……こうすれば、どっちも、濡れない」

近づいた肩から、彼の体温が、伝わってきた。私は、もう、その手を押し返せなかった。

宿の前まで来ても、私は、別れがたかった。

須藤七海「……あの。もう一度だけ、工房、見せてもらえませんか。さっき、まだ乾いてなかった傘、どうなるのか……気になって」

苦しい言い訳だと、自分でも思った。律さんは、しばらく私を見て、それから、静かに頷いた。

工房に戻ると、房江さんは、もう自宅へ帰ったあとだった。雨の夜の古い町家に、客は私一人。土間に灯る、裸電球の明かりだけが、作りかけの和傘たちを、淡く照らしていた。世界が、この工房の中だけになったみたいだった。

須藤七海「……静かですね」

紺野律「雨の夜は、いつもこう。……紙の傘は、湿気を吸うから、こういう夜は、よく眠る、って先代が言ってた」

彼は、乾きかけの傘に、そっと触れた。その手つきの優しさを、私は、見ていられなかった。

須藤七海「律さん」

紺野律「ん」

須藤七海「私、明日、帰ります。東京に」

紺野律「……ですよね」

須藤七海「帰ったら、私、また、誰かの傘を差す人に、戻るんだと思う。それが、嫌なわけじゃ、ないんです。でも……」

言葉が、つかえた。律さんが、傘から手を離して、私のほうへ、一歩、近づいた。

紺野律「でも?」

須藤七海「……今夜だけ。誰かの傘の下に、入ってみたい。私、生まれて初めて、そう思っちゃった。……律さんの、傘の下に」

言ってしまってから、頬が、かっと熱くなった。雨の音が、急に、大きく聞こえた。律さんが、ゆっくり、私の頬に、手を添えた。竹と、かすかな油の匂いのする、温かい手だった。

紺野律「……濡れた肩、ずっと、ほっとけなかった。昨日から」

顔が、近づいてくる。急がない人だ、と思った。その、急がなさに、かえって、体の奥が、疼いた。

唇が、重なった。

ちゅ……。

須藤七海「ん……っ」

雨に湿った、柔らかいキスだった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し深く。彼の唇が、私の唇を、確かめるように食む。

ちゅ……ちゅぷ……

須藤七海「は……ん……っ」

唇の隙間から、舌が、おずおずと触れあう。私は、自分から、彼の前掛けを、きゅっと握っていた。離れたくなくて。

紺野律「……奥、二階。先代の部屋、使ってる。……いい?」

須藤七海「……うん」

二階の部屋は、本と、傘の図面と、竹を削る道具が散らばった、彼らしい部屋だった。窓の外は、まだ、しとしとと雨。律さんが、私を、布団の上にそっと座らせる。隣に座った彼の肩から、温度が伝わってくる。

紺野律「……緊張、してる?」

須藤七海「してる。……でも、嫌じゃない。むしろ、こうしたかったの。たぶん、昨日、傘を貸してもらった、あのときから」

自分で言って、驚いた。でも、本当だった。律さんが、少し目を見開いて、それから、優しく笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。

ちゅぷ……れろ……ちゅ……

須藤七海「ん……ふ……っ」

キスをしながら、彼の手が、私のブラウスのボタンを、一つ、また一つと外していく。紙を張るのと同じ、迷いのない、でも乱暴じゃない手つき。急かされないのに、いや、急かされないからこそ、肌が、勝手に熱くなる。

紺野律「……きれいだ」

須藤七海「やだ……見ないで。電気、明るい……」

紺野律「雨で、外、真っ暗だから。……ここだけ、明るい」

恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が、甘く締めつけられた。彼の唇が、首筋に降りてくる。

ちゅ……ちゅっ……

須藤七海「ん……っ」

鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震えた。濡れていた右肩に、彼の唇が、そっと触れる。

紺野律「……ここ、昨日、濡れてた肩」

須藤七海「……っ、覚えてるの……?」

紺野律「ずっと、気になってたから」

背中に回った手が、ブラのホックを外す。胸が、彼の前にこぼれ出た。律さんの手が、それを、そっと包む。

須藤七海「あ……っ」

紺野律「……柔らかい」

須藤七海「もう……いちいち、言わないで……っ」

竹の撓りを確かめるみたいに、ゆっくりと、形を確かめるように揉まれて、私は枕に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと尖りはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。

須藤七海「ひゃ……っ、そこ……っ」

紺野律「ここ、弱い?」

須藤七海「……っ、意地悪……言わないでよぉ……っ」

口では強がるのに、律さんが、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

須藤七海「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。誰にも頼まれなくても傘を守るこの人の手と唇が、今は、私のことだけを、丁寧に世話してくれている。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。

須藤七海「ん……っ♡」

紺野律「力、抜いて。……竹と、同じ。預けて」

その声に、自然と、体の力が抜けた。いつも力を入れすぎる私の体から、初めて、誰かに預けるみたいに、力が抜けていく。律さんの指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。

須藤七海「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が、小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、彼の指が、直接、そこに触れた。

くちゅ、と。

須藤七海「ひゃ……っ♡」

紺野律「……もう、こんなに」

須藤七海「言わないで……っ♡ 傘の、下で、肩、引き寄せられた、とき、から……っ」

恥ずかしさで消えたいのに、律さんの指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。

くちゅ……くちゅ……

須藤七海「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」

紺野律「うん。……わかった」

指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。

ずぷ……っ

須藤七海「あぁ……っ♡」

熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、いちばん感じる場所を、探り当てるように撫でる。

紺野律「……ここ?」

須藤七海「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 探すの、上手すぎ……っ♡」

弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では止まらなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

須藤七海「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」

紺野律「いいよ。……イって」

須藤七海「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」

指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。

須藤七海「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。降りやまない雨みたいに。律さんの腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。

紺野律「……イったね」

須藤七海「……っ、言わないで、ってば……っ♡」

息を切らせる私の額に、律さんが、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。

須藤七海「……ねえ、律さん」

紺野律「ん」

須藤七海「私ばっかり、ずるい。……律さんのも、ちゃんと、ちょうだい」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人になら、言えた。律さんが、ごくりと喉を鳴らす。私は、ゆっくり体を起こして、彼のシャツに手をかけた。脱がせると、しなやかに引き締まった体が現れる。一日中、竹と紙に向き合ってきた人の体だ、と思った。

律さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。

紺野律「……いい?」

須藤七海「うん……っ。来て」

紺野律「……つけるから、待って」

須藤七海「……うん」

避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。雨の夜の工房に、突然飛び込んできた私を、それでも、ちゃんと大事にしてくれる。その律儀さも、誰も見ていない和傘を黙って仕上げる手と、同じだ、と思った。準備を終えて、律さんが、もう一度、私の頬に手を添えた。

紺野律「……いくよ」

須藤七海「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」

ずぷ……っ♡

須藤七海「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。

ずず……っ

須藤七海「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」

紺野律「……っ、すごく、熱い」

根元まで収まって、律さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっと空っぽだった私の体の真ん中が、じんわり、満たされていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。

須藤七海「……傘の下、みたい。……あなたの中に、すっぽり、入っちゃった……っ♡」

紺野律「ああ。……もう、濡らさないから。動くよ」

律さんが、ゆっくり、動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

須藤七海「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」

最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。雨だれみたいに。

紺野律「……気持ちいい?」

須藤七海「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」

紺野律「俺も。……昨日、傘貸したときから、ずっと、こうしたかった」

その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、いつも自分の分を後回しにしてきた私は、すっかり、忘れていた。だんだん、律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

須藤七海「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」

紺野律「ここ、好き?」

須藤七海「っ♡♡ 好き……っ♡ 律さんの、好きっ……♡♡」

口走ってから、それが、体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちもだった。律さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。

ぱちゅんっ♡♡

須藤七海「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」

紺野律「……っ、すごい、締まってる」

須藤七海「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」

雨の夜の、しとしとという音と、二人の息と、肌のぶつかる音だけが、部屋に満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっと空っぽだった胸の真ん中が、彼でいっぱいに満たされていく。

紺野律「……七海さん、そろそろ……っ」

須藤七海「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」

律さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡

須藤七海「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 一緒に……っ♡♡」

紺野律「ああ……っ、七海……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

須藤七海「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。律さんが、私の上で、はぁ、と大きく、息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。

須藤七海「……はぁ……っ♡ すごかった……」

紺野律「……七海さん」

須藤七海「ん……?」

紺野律「呼び捨て、しちゃった。さっき。……ごめん」

須藤七海「……ふふ。いいよ。むしろ、嬉しかった」

雨の音の中で、私たちは、しばらく、そうして抱き合っていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。私は、生まれて初めて、誰かの傘の下で、自分が、ちゃんと、雨に濡れずにいられた気がした。

朝、目が覚めると、窓の外の雨が、嘘みたいに、小降りになっていた。

雲の切れ間から、淡い光が差して、向かいの瓦屋根を、しっとりと光らせている。私は、律さんの腕に頭を預けて、その景色を、ぼんやり眺めていた。

須藤七海「……ねえ、律さん」

紺野律「ん」

須藤七海「私、今日、帰るね。東京に」

紺野律「……うん」

須藤七海「帰ったら、私、また、家のことや、会社のことで、誰かの傘を差す人に、戻ると思う。それは、変わらない。……でも」

私は、体を起こして、ゆうべ二人で歩いた、藍の番傘を見た。土間に立てかけられた、彼の作った傘。

須藤七海「これからは、ときどき、思い出す。……私にも、入れる傘の下が、ある、って。だから、もう、ひとりで全部、濡れなくていいんだって」

律さんが、しばらく黙って、それから、ゆっくり身を起こした。階下に降りて、何かを抱えて戻ってくる。藍色の、新しい番傘だった。

紺野律「……これ、持っていって」

須藤七海「えっ、そんな、悪いよ。だって、ひと月もかけて……」

紺野律「先代の遺した、いちばんいい竹で組んだやつ。……ずっと、誰に渡すか、決められなかった」

彼は、傘を、私の手に、そっと預けた。

紺野律「東京の雨、強いでしょう。……これ差して、自分の肩、ちゃんと、入れて。荷物より、先に」

息が、止まった。私は、その傘を、両手で、ぎゅっと抱きしめた。ぽろぽろと、涙がこぼれて、笑いながら、頷いた。

須藤七海「……うん。差す。絶対、自分のために、差す」

工房を出ると、房江さんが、隣の家から出てきて、私たちの顔を見比べて、目を細めた。

房江さん「あらあら。お嬢さん、お帰り? ……ずいぶん、いいお顔して」

紺野律「……房江さん。余計なこと、言わないで」

房江さん「だってねぇ。律が、自分の傘を、客に持たせるなんて、初めてよ。この子、自分の作った傘、なかなか手放さないんだから。よっぽど、ねえ。……お嬢さん。この子、口は重いけど、根は、あの傘みたいに、丈夫だから。また、おいで。雨の日に」

須藤七海「……はい。必ず」

律さんが、決まり悪そうに、空のほうを向いた。その耳が、少し赤かった。私は、おかしくて、それから、胸がいっぱいになって、笑った。

駅まで、律さんが送ってくれた。雨は、もう、ほとんどやんでいた。それでも、私は、もらった藍の番傘を、半分だけ開いて、自分の肩の上に、差してみた。

紺野律「……やんでるのに」

須藤七海「いいの。差したかったの。……自分のために」

律さんが、ふっと笑って、竹と油の匂いのする手で、私の頭を、くしゃっと撫でた。

改札で振り返ると、彼が、まだ、そこに立っていた。雨上がりの、淡い光の中で。

須藤七海(……見つけたんだ。私)

ずっと、誰かに傘を差してばかりで、自分の肩は、いつも雨に濡れていた。でも、私がほんとうに欲しかったのは、たぶん、ずっと、こういうものだった。入っていい、と言ってくれる、誰かの傘の下。そこへ、肩を引き寄せてくれる、温かい手。

膝の上の藍の傘に、私は、そっと頬を寄せた。次にこの傘を開くのは、東京の、強い雨の日だ。そのとき私は、きっと、自分の肩を、いちばん先に、その下に入れる。

須藤七海(……それでいいんだ。もう)

特急が、ホームに滑り込んでくる。窓の外の金沢の空が、雨上がりの、やわらかな銀色に光っていた。次にここへ来るのは、きっと、雨の日がいい。私には、もう、それがわかっていた。

― 終 ―


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