六月の山あいは、青い葉の匂いがした。
刈ったばかりの茶葉の、生(なま)っぽくて、どこか甘い匂い。それが谷じゅうに満ちていて、車の窓を開けると、十年前の自分が一気に押し寄せてくるみたいだった。
俺、植村啓太(うえむら けいた)、二十八歳。東京の広告代理店で六年、ひたすら数字とスケジュールに追われて、気づいたら、笑い方を忘れていた。眠れなくなって、飯の味もわからなくなって、ある朝、満員電車のホームで足が動かなくなった。それで、長い休みをもらった。療養という名前の、宙ぶらりんの時間だ。
帰る場所は、ここしかなかった。静岡の、山に挟まれた小さな茶どころ。斜面という斜面が、きれいに刈り込まれた茶畑になっている、あの村だ。
母から電話が来ていた。父が腰を痛めて、うちの茶畑がもう手に負えない、と。山際の、二反ばかりの古い茶畑。「もう、茶問屋に断りを入れて、畑は手放そうかと思ってる。あんたが帰ってくるなら、一度、見にだけ来てちょうだい」と。
畑を、畳む。その相談のために、俺は十年ぶりに、この谷へ帰ってきた。
1. 谷じゅうが、茶の匂い
実家に荷物を置いて、夕方、なんとなく村を歩いた。
東京を出てから、まだ半日も経っていないのに、空気がまるで違う。重たい湿気の中に、刈った茶葉の匂いが溶けている。六月は二番茶——一番茶の新茶を摘んだあと、初夏にもう一度伸びてくる、二度目の葉を摘む季節だ。子どもの頃は、村じゅうが朝から晩までこの匂いになるこの時期が、なんとなく好きだった。
谷の底、川沿いに、一軒だけ煌々と灯りのついた建物があった。
トタン屋根の、古い平屋。低い唸りのような機械の音と、もうもうと立ちのぼる白い湯気。蒸した茶葉の、青くて濃い匂いが、ここからいちばん強く流れてくる。
「沢口製茶」。色あせた木の看板。
ああ、と思った。村の茶農家が摘んだ葉を、生葉のまま持ち込んで、蒸して、揉んで、荒茶に仕上げる、村でただ一軒の小さな製茶工場。子どもの頃、ここの娘とは、嫌になるほど一緒に遊んだ。
その娘の顔を思い出す前に、開けっぱなしの工場の戸口から、声が飛んできた。
葉月「そこ、立ってると邪魔。生葉持ってきたなら、奥のコンテナに空けて」
蒸気の向こうから、エプロン姿の女が、振り向きもせずに言った。額に汗を貼りつかせて、手元の機械から目を離さない。腕まくりした腕も、エプロンも、緑色の茶の粉でうっすら汚れている。
啓太「いや……俺、生葉とか、持ってきてないけど」
その声に、女がやっと顔を上げた。切れ長の目に、きつめの眉。前髪を無造作にピンで留めて、頬に茶の粉がついている。向こうも、機械の調節つまみに手をかけたまま、動きを止めた。
葉月「……は? 啓太?」
啓太「……葉月?」
沢口葉月(さわぐち はづき)。小学校から中学まで、隣の集落の幼馴染。負けず嫌いで、口が悪くて、相撲を取れば俺が泣かされたほうだった、あの葉月だ。
葉月「うっそ。あんた、東京で消えたんじゃなかったの」
啓太「消えてねえよ。ちゃんと生きてる」
十年ぶりの再会の第一声がそれか、と思いながら、俺はつい、笑ってしまった。東京を出てから、初めて、頬の筋肉が自然にゆるんだ気がした。
2. 工場をひとりで
葉月「ちょっと待ってて。今、揉んでる途中だから、手ぇ離せない」
そう言って、葉月はまた機械に向き直った。
ごとごとと低く回る、古い揉(も)み機。その中で、蒸された茶葉が、人の手のひらでこねるみたいに、ぐるぐると揉まれていく。葉月は、機械から立つ匂いを嗅ぎ、葉を一つまみ取って指でこすり、温度のつまみをほんの少しいじる。その横顔が、ふざけてばかりいた子どもの頃とはまるで違う、職人の顔をしていて、俺は思わず見入ってしまった。
ひと区切りついたのか、葉月がタオルで汗を拭いて、こっちを向いた。
葉月「で? なんで帰ってきたの。盆でもないのに」
啓太「……うちの茶畑、畳むかどうか、見に来た。親父が腰やっちまって。もう、誰も手入れできないからって」
葉月「……植村さんとこの、山際の畑」
啓太「そう。母さんが、茶問屋に断り入れるって言ってる」
葉月は、しばらく黙って、それから、ふっと小さく息を吐いた。
葉月「あの畑の葉、うちが蒸してたんだよ。ずっと。……まあ、いいや。その話は、また今度」
工場を見回す。生葉を蒸す機械、揉む機械、乾かす機械。どれも年季が入っている。そして、それを動かしているのは、どう見ても、葉月ひとりだった。
啓太「お前……これ、一人でやってんの?」
葉月「父さんが三年前に倒れてさ。今はリハビリ。母さんは介護で手いっぱい。だから、私が継いだ。文句ある?」
啓太「……ないよ。すげえな、って思っただけ」
葉月は、ふん、と鼻を鳴らして、また機械の前に戻った。でも、その耳が、ほんの少し赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
製茶の最盛期、村じゅうの茶農家が、その日摘んだ生葉を、夕方から夜にかけて運び込んでくる。摘んだ葉は、その日のうちに蒸さないと、味が落ちる。だから、この工場の灯りは、二番茶のあいだじゅう、夜どおし消えないのだと、葉月は言った。
葉月「暇なら、明日、来れば。あんたんとこの畑、見てやるついでに、二番茶の摘み方くらい、教えてやってもいいけど」
啓太「……いいのか?」
葉月「畳むにしても、最後にちゃんと一回、摘んでやんなよ。可哀想でしょ、畑が」
そっけない言い方だった。でも、その言葉の選び方が、なぜか、胸に残った。
3. 二番茶の畑で
翌朝、俺は山際の畑へ向かった。
十年放っておかれかけた、植村家の二反の茶畑。それでも、畝は意外なほど青々として、二番茶の柔らかい新芽が、一面に伸びていた。
葉月は、もう来ていた。麦わら帽子をかぶって、腰に大きな籠をくくりつけて、畝のあいだにしゃがんでいる。
葉月「遅い。茶摘みは朝だっつーの。日が高くなると、葉が傷む」
啓太「悪い。……で、どうやんの、これ」
葉月「見てな」
葉月の指が、すっと枝先に伸びた。
葉月「上から、芯の若い芽と、その下の二枚。『一芯二葉』。ここだけを、爪を立てずに、指の腹で、ぷつっと折る。——ほら」
緑の芽が、葉月の指先で、軽い音を立てて摘み取られる。無駄のない、迷いのない手つきだった。俺も真似してみるが、どれが摘んでいい芽なのか、固いのか柔らかいのか、まるでわからない。
啓太「……難しいな、これ」
葉月「下手くそ。それ、もう開きすぎ。固いやつ混ぜると、味落ちるんだよ」
葉月が、俺の手元を覗き込んできた。近い。日に焼けた首筋から、汗と、青い茶葉の匂いがした。彼女が、俺の指に自分の指を添えて、摘む芽を教えてくれる。
葉月「ここ。この、産毛が生えてる、柔らかいとこ。——わかる?」
啓太「……ああ。わかった気がする」
指先に伝わる、葉月の手の体温。ごつごつしてはいないけれど、よく働く、しっかりした手だった。子どもの頃、相撲で俺の手首をつかんで投げ飛ばした、あの手だ。それが今、俺の指に、こんなに柔らかく触れている。妙に、落ち着かなくなった。
二人で、畝に並んでしゃがんで、ひたすら芽を摘んだ。慣れてくると、無心になれた。東京で、頭の中をいつもいっぱいにしていた数字も、締切も、ここには一つもない。あるのは、青い匂いと、鳥の声と、籠に積もっていく緑の芽だけだった。
啓太「……なんか、頭、空っぽになるな。これ」
葉月「でしょ。茶摘みはね、考えごとには向かないの。手が忙しいから。……あんた、東京で、考えすぎて壊れたんでしょ」
ふいに、図星を突かれて、俺は手を止めた。葉月は、こっちを見ずに、淡々と芽を摘み続けている。
葉月「顔見りゃわかるよ。死にそうな顔して帰ってきたもん。……まあ、ここにいるあいだは、余計なこと考えんな。茶のこと考えてりゃいい」
ぶっきらぼうな優しさだった。俺は、なんだか泣きそうになって、ごまかすように、また芽を摘んだ。
4. 蒸して、揉んで
その日の夕方、摘んだ生葉を籠ごと、沢口製茶へ運んだ。
葉月「ほら、自分で摘んだ葉だ。最後まで見てけば。荒茶になるとこまで」
工場の中は、むっとするほど蒸気が立ちこめていた。蒸し機に生葉を入れると、ほんの十数秒で、葉が鮮やかな緑に変わって、青くさい匂いが、甘く濃い、あの「お茶」の匂いに一変する。
啓太「うわ。……匂い、変わった」
葉月「これが製茶。生葉のままだと発酵しちゃうから、蒸して止めるの。日本の緑茶は、これが命。——蒸しすぎても、足りなくても、だめ。秒の世界」
蒸した葉を、葉月が揉み機に移す。ごとごとと回る機械の中で、葉が少しずつ細く、針みたいに縒(よ)れていく。葉月は、その様子を、まるで生きものでも世話するみたいに、つきっきりで見ていた。
啓太「……ずっと、見てるんだな。機械任せじゃ、ないんだ」
葉月「その日の葉で、水分も、柔らかさも、全部違うもん。同じに揉んだら、同じ味になんないの。茶葉のご機嫌、伺いながらやるんだよ」
汗を拭きながら、葉月が笑った。久しぶりに見る、子どもの頃のままの、屈託のない笑顔だった。
葉月「機械が古いから、人の手で見てやんないと、すぐ拗ねるしね。この子たち」
啓太「……お前、楽しそうだな。茶の話してるとき」
葉月「……うるさい」
それから、葉月は、昔ながらの手揉みも見せてくれた。熱く乾いた焙炉(ほいろ)の上で、蒸した葉を、両手で転がし、よじり、伸ばしていく。気が遠くなるほど地道な作業だ。
葉月「やってみる? 手、出して」
言われるまま手を出すと、葉月が、俺の両手を取って、葉の塊を握らせ、その上から自分の手を重ねた。
葉月「こう。押し転がして、葉の角を立てるの。——力じゃない。手のひら全体で、優しく」
背中から覆いかぶさるように、葉月が手を添えてくる。彼女の体温と、息が、すぐ後ろにあった。重ねられた手のひらの柔らかさと、鼻先をかすめる茶の匂いに、俺は、葉のことなんか、半分も頭に入っていなかった。
啓太「……葉月」
葉月「ちゃんと手、動かしな。気ぃ抜くと、焦げるよ」
声が、すぐ耳の後ろで聞こえて、俺の心臓は、勝手に速くなった。
5. 健二の話
何日か、俺は毎日、沢口製茶に通った。
朝は畑で摘み、夕方は工場で蒸して揉む。畳むはずだった植村家の畑の二番茶が、少しずつ、緑の針みたいな荒茶になっていく。その手伝いをしているうちに、東京で凍りついていた何かが、ゆっくりほどけていくのがわかった。
ある日の昼、村の商店へ飲み物を買いに行くと、レジにいたのは、もう一人の幼馴染、健二だった。実家の雑貨屋を継いだ、人のいい、おしゃべりな男だ。
健二「うわ、啓太じゃん! 帰ってきてるって、噂で聞いたぞ。沢口んとこ、毎日通ってるんだって?」
啓太「……この村、噂が回るの早すぎだろ」
健二「軽トラがどこ停まってるかなんて、半日で広まるからな。……で、どうなんだよ、葉月とは」
健二は、にやにやしながら、俺にお茶のペットボトルを押しつけてきた。
健二「あいつ、苦労したんだぞ。親父さん倒れて、いきなり工場背負ってさ。最初の頃なんか、揉み方わかんなくて、夜中に何度も荒茶ぜんぶ駄目にして、泣いてたって話だ」
啓太「……葉月が、泣く?」
健二「お前の知ってる葉月じゃ、もうないよ。あいつ、強くなった。強くならざるを得なかったんだ」
健二は、少し声を落とした。
健二「町の大きい製茶会社から、何度も誘われてたらしいぜ。『うちに来れば、こんな古い工場で苦労しなくていい』って。条件もよかったって。……でも、ぜんぶ断った」
啓太「……なんで」
健二「『村の茶農家の葉を、最後まで蒸すとこがなくなったら、この谷の茶畑が、ぜんぶ終わる』って。あいつ、それが嫌なんだと。一人で、この村の茶、背負っちまってるんだよ」
俺は、ペットボトルを握りしめたまま、何も言えなかった。
俺は、自分の家の畑を「畳む」相談をしに、ここへ帰ってきた。その畑の葉を、最後まで蒸すと言ってくれていたのが、葉月だったのだと、ようやく気づいた。
健二「なあ、啓太。あいつ、ああ見えて、ずっと一人で踏ん張ってるんだ。……お前が帰ってきてから、ちょっと、顔がやわらかくなった。久しぶりに見たよ、あいつのあんな顔」
健二の言葉が、帰り道の、青い茶畑の匂いの中で、ずっと頭から離れなかった。
6. 高台のお茶
その日の夕暮れ、二番茶のひと区切りがついて、葉月が「ちょっと付き合え」と言った。
連れていかれたのは、谷を見下ろす高台だった。斜面いちめんの茶畑が、夕日に染まって、緑から金色に光っている。葉月は、保温ポットと、湯呑みを二つ持ってきていた。
葉月「ほら。あんたの畑の二番茶。今日できたての荒茶を、仕上げて淹れてみた。飲んでみ」
差し出された湯呑みの中で、淡い黄緑色の茶が、湯気を立てている。ひと口、含んだ。
爽やかな渋みのあとに、ふわっと甘みが広がって、鼻に、あの青い茶畑の匂いが抜けていった。じんわりと、目の奥が熱くなった。
啓太「……うまい。なんだこれ。……すげえ、うまい」
葉月「でしょ。あんたが摘んで、あんたが揉んだ茶だよ。——畳むはずだった畑の」
葉月は、自分の湯呑みを両手で包んで、夕日に光る茶畑を見ていた。
葉月「ねえ、啓太。あの畑、ほんとに畳むの?」
啓太「……正直、わからなくなった。ここに来るまでは、畳むもんだと思ってたけど」
葉月「私はね、嫌なんだ。この谷の茶畑が、一枚ずつ消えてくの。畑が消えると、その葉を蒸す理由も、一個ずつ消える。……いつか、この工場の灯りも、消えるんだろうなって」
横顔が、夕日に照らされて、少しさみしそうだった。子どもの頃、俺を投げ飛ばして大笑いしていた、あの強気な葉月の、いちばん柔らかいところを、初めて見た気がした。
啓太「……葉月。お前、一人で、よくやってきたな」
葉月「……なんだよ、急に」
啓太「健二に聞いた。町の会社の誘い、ぜんぶ断ったって。村の茶のために」
葉月「……あいつ、ほんと口が軽い」
葉月は、湯呑みに口をつけて、ごまかすように茶を飲んだ。その手が、少しだけ、震えていた。
葉月「……べつに、立派なことじゃないよ。私はただ、この谷の匂いが、好きなだけ。二番茶のこの匂いが消えたら、私、たぶん、生きてけない。それだけ」
夕日が、茶畑の向こうの稜線に、ゆっくり落ちていく。俺は、隣に座る幼馴染のことが、どうしようもなく、愛しかった。
7. 夜どおし、茶を揉む
その夜、いちばん大きな茶農家から、二番茶最後の生葉が、どっと運び込まれた。
葉月「今夜は、徹夜だ。これ蒸さないと、明日には葉が傷む。……啓太、帰っていいよ。明日、早いだろ」
啓太「いや。手伝う。……一人にできるかよ」
葉月は、少し驚いた顔で俺を見て、それから、ふっと笑った。
葉月「……じゃ、頼むわ。生葉、蒸し機に入れてって」
夜の工場で、二人きりだった。蒸気の音、揉み機の低い唸り。窓の外は、谷の闇と、虫の声。俺たちは、黙々と、葉を蒸して、揉んで、乾かした。汗だくになって、茶の粉まみれになって、それでも、不思議と疲れなかった。
夜中の二時、最後のひと釜が、揉み機に入った。あとは、機械が仕上げるのを待つだけ。葉月が、ふう、と大きく息を吐いて、作業場の隅の、古い木の椅子に、どさっと腰を下ろした。
葉月「……終わった。二番茶、これで、ぜんぶ」
啓太「お疲れ。……すごかったな、本当に」
俺は、彼女の隣に座った。汗で張りついた髪を、葉月が手の甲で払う。その頬に、茶の粉がついていた。俺は、つい、手を伸ばして、その粉を、指でそっと拭った。
葉月「……っ、なに」
啓太「粉、ついてた」
葉月が、こっちを見上げた。揉み機の上の、ぼんやりした裸電球の灯りの下で、その目が、いつもの強気とは違う、揺れた色をしていた。
啓太「……葉月。俺、ここに来てから、ずっとお前のこと、目で追ってた。茶摘みも、手揉みも、半分、口実だったかもしれない。……お前と、一緒にいたかった」
葉月は、しばらく、何も言わなかった。揉み機が、ごとごとと、二人のあいだの沈黙を埋めていた。
葉月「……ずるいよ、啓太。あんた、東京帰るくせに」
啓太「……まだ、決めてない」
葉月「私はずっと、ここにいる。逃げらんない。……期待、させないでよ」
声が、震えていた。俺は、彼女の手を、握った。茶を揉んで、少しかさついた、温かい手だった。
啓太「期待、していい。……俺、お前のこと、好きだ。子どもの頃の葉月じゃなくて、今の、一人で工場背負ってる、この葉月が」
葉月の目から、ぽろっと、涙がこぼれた。強気な顔のまま、涙だけが、こぼれていた。
葉月「……バカ。十年も、どこ行ってたんだよ」
8. 茶の匂いの中で
俺は、こぼれた涙を指で拭って、そのまま、葉月の頬を両手で包んだ。
啓太「……キス、していいか」
葉月「……いちいち、聞くな」
それが、答えだった。顔を寄せて、唇を重ねる。茶の匂いのする、温かい唇だった。
ちゅ、と。
葉月「ん……」
一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねた。十年分の距離が、唇から、溶けていくみたいだった。
ちゅ……ちゅぷ……
葉月「は……っ、啓太……」
唇の隙間から舌が触れて、葉月が、おずおずとそれに応える。相撲で俺を投げ飛ばしていた強気な幼馴染が、俺の腕の中で、こんなに柔らかく震えていることが、信じられなかった。
啓太「……奥の、休憩室。布団、あるんだろ」
葉月「……うん。あるけど。……古いよ、畳」
啓太「かまわない」
工場の奥の、小さな休憩室。古い畳と、煎れたての茶みたいな匂いが、染みついていた。葉月を布団に座らせて、隣に腰を下ろす。窓の外で、揉み機の唸りと、虫の声が、混じり合っていた。
啓太「緊張してる?」
葉月「……してる。だって、相手、あんただぞ。小さい頃、鼻水で泣かせてやった啓太だぞ」
啓太「それ、今言うことかよ」
葉月「……でも。啓太でよかった。……他の誰でもなくて」
その一言で、胸の奥が、熱くなった。もう一度、唇を重ねる。今度のキスは、さっきより深くて、もっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
葉月「ん……ふ……っ」
キスをしながら、葉月のエプロンの肩紐を外し、シャツのボタンを、一つ、また一つと外していく。茶葉のご機嫌を伺うときと同じくらい、丁寧に。急かされないことに、葉月の体が、かえって疼くのがわかった。
啓太「……きれいだ。葉月」
葉月「やめろ……っ、恥ずかしい……」
啓太「ほんとのことだろ」
俺の唇が、汗ばんだ首筋に降りていく。
ちゅ……ちゅっ……
葉月「ん……っ」
鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震えた。ブラのホックを外すと、胸が、灯りの下にこぼれ出る。俺の手が、それをそっと包んだ。
葉月「あ……っ」
啓太「……柔らかい」
葉月「もう……っ、いちいち、言うなって……っ」
形を確かめるように揉むと、葉月は、口元を手の甲で押さえた。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねる。
葉月「ひゃ……っ、そこ……っ」
啓太「ここ?」
葉月「っ……意地悪、すんな……っ」
口では強がるのに、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
葉月「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。強気な葉月の、こんな声を聞けるのは、たぶん、世界で俺だけだ。そう思うと、たまらなかった。胸を愛撫しながら、もう片方の手で、汗で湿った腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
葉月「ん……っ♡」
啓太「力、抜いて。……痛くしない」
その声に、葉月の体から、少しずつ力が抜けた。下着の上から、いちばん敏感なところに触れる。
葉月「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、わかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れる。下着を脱がせて、直接そこに触れると——
くちゅ、と。
葉月「ひゃ……っ♡」
啓太「……もう、こんなに」
葉月「言うな……っ♡ 啓太の、せいだからな……っ」
恥ずかしさで消えそうな顔をして、それでも葉月は、俺の腕にしがみついてきた。敏感な突起を、指の腹でくるくると円を描くように撫でると、彼女の腰が、跳ねた。
くちゅ……くちゅ……
葉月「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
啓太「葉月、すごい顔してる。……可愛い」
葉月「やっ……見るな……っ♡」
指が、ゆっくり中へ滑り込んでいく。
ずぷ……っ
葉月「あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろに濡れていた。揉み機の音が、葉月の声を、優しく隠してくれている。弱い場所を指の腹で擦りながら、親指で突起を転がすと、葉月の体は、もう自分では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
葉月「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
啓太「いいよ。イって」
葉月「やっ♡ 恥ずかしい……っ♡♡」
指の動きを速めると、葉月の体は、あっという間に高みへ押し上げられた。
葉月「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、葉月が、俺の腕の中で、ぎゅっと体を丸めた。
啓太「……イったな」
葉月「……っ、言うなって……っ♡」
息を切らせる葉月の額に、そっとキスを落とす。汗で張りついた前髪を、指で優しくよけてやった。
9. 繋がる
葉月「……ねえ、啓太」
啓太「ん」
葉月「私ばっかり、ずるい。……あんたも、来いよ」
強気な口ぶりなのに、声は、甘く震えていた。俺がシャツを脱ぐと、葉月が、ぼうっとそれを見ていた。彼女をそっと布団に横たえて、覆いかぶさる。脚の間に体を割り込ませて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがった。
啓太「……葉月。いいか」
葉月「うん……っ。来て、啓太」
啓太「……つけるから、待ってろ」
葉月「……うん」
避妊具をつける俺を、葉月が、潤んだ目で見ていた。こんな夜でも、ちゃんと手順を守る俺を、葉月が、ふっと笑った。
葉月「……そういうとこ、昔から、真面目だよな。あんた」
啓太「……お前を、大事にしたいだけだ」
もう一度、頬に手を添える。
啓太「いくぞ」
葉月「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
葉月「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、葉月が、俺の背中に腕を回してしがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きいのがわかった。
ずず……っ
葉月「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
啓太「……っ、葉月の中、すごく熱い」
根元まで収まって、俺は、ふっと息を吐いた。繋がった場所から、十年分の距離が、じんわり埋まっていく。葉月が、俺の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。
葉月「……繋がってる。あの啓太と、私……っ♡ 変な感じ……っ♡」
啓太「もう、鼻水垂らしてたあの啓太じゃない。……お前を、ちゃんと幸せにできる男だ」
葉月「っ♡♡ そういうの、ずるいって……っ♡」
ゆっくり、動きはじめる。
ずちゅ……ぱちゅ……
葉月「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、葉月の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、彼女の声が漏れる。額から落ちた汗が、葉月の胸に、ぽつりと落ちた。
啓太「葉月。気持ちいいか」
葉月「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
啓太「俺も。……ずっと、こうしたかった」
その言葉に、葉月が、俺の首に腕を回して、自分から唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、東京で数字ばかり追っていた俺は、知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突くたびに、葉月の体が跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
葉月「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
啓太「ここ、いいか」
葉月「っ♡♡ いいっ……♡ 啓太の、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、俺自身のことなのか、葉月にも、わからなくなったようだった。たぶん、どっちもだ。彼女の脚を抱え直して、結合が深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
葉月「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
啓太「葉月、中、すごい締まってる」
葉月「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
揉み機の唸りと、二人の息と、肌のぶつかる音が、古い休憩室に満ちる。俺は、もう何も考えられなかった。ただ、目の前の幼馴染が愛しくて、十年分の想いが、体の奥から溢れてくる。
啓太「葉月……そろそろ……っ」
葉月「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
葉月をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速める。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
葉月「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 啓太、一緒に……っ♡♡」
啓太「ああ……っ、葉月……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
葉月「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる俺を、葉月の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。俺は、汗ばんだ葉月の上に、しばらく動けないまま、重なっていた。
葉月「……はぁ……っ♡ すごかった……」
啓太「……葉月」
葉月「ん……?」
啓太「好きだ。……相撲で泣かされてた頃から、たぶん、ずっと」
葉月「もう……っ、それ、いちばん格好つかないとこじゃん……っ」
葉月が泣き笑いすると、俺は、汗で濡れたその頬に、何度もキスを落とした。
10. 二番茶の朝
気づくと、窓の外が、白みはじめていた。
谷の上のほうから、夜明けの薄青い光が、少しずつ差し込んでくる。揉み機は、いつのまにか止まっていて、最後の荒茶が、きれいな針みたいに仕上がっていた。俺は、葉月の腕枕に頭を預けて——いや、逆だ。葉月が、俺の腕に頭を預けて、まだ少し火照った顔で、天井の古い木目を、ぼんやり眺めていた。
葉月「……ねえ、啓太」
啓太「ん」
葉月「あんた、東京、戻るんだろ」
啓太「……戻る。一回はな。休職、片付けてくる」
葉月が、ぴくっと、肩を強張らせた。俺は、その肩を、ぎゅっと抱き寄せた。
啓太「でも、うちの畑、畳むのは、やめる」
葉月「……え」
啓太「お前が言っただろ。畑が一枚消えると、その葉を蒸す理由も、一個消えるって。……俺、うちの畑、残すよ。お前の工場に、葉を持っていく理由を、一個、残しておきたい」
葉月が、ぱっと顔を上げて、俺を見た。俺は、天井を見上げたまま、続けた。
啓太「東京の仕事、いきなりは辞められない。情けないけど。……でも、いずれ、こっちに軸足を移したい。茶のこと、お前に、一から教わりながら。……植村家の二反、お前と一緒に、ちゃんと守っていきたい」
葉月「……それ、本気で言ってる?」
啓太「本気。——お前が摘み方教えてくれた畑の茶が、あんなにうまかったんだ。畳めるわけ、ないだろ」
葉月の目に、また涙が盛り上がった。今度は、笑いながらだった。
葉月「……バカ。一人で背負ってんの、もう疲れたって、ずっと言えなかったのに。……あんた、なんで、今ごろ帰ってくんの」
啓太「悪い。十年、遠回りした。……でも、もう、一人で背負わせない」
俺は、彼女の手を握った。茶を揉んで、少しかさついた、よく働く手。子どもの頃、俺を投げ飛ばした、あの手だ。それが今、俺の指に、しっかり絡んで、もう離れる気配がなかった。
葉月「……次、いつ帰ってくる」
啓太「秋。番茶の頃には、また来る。仕事の合間、縫ってでも」
葉月「……待ってる。植村さんとこの畑、私が見ててやるから」
啓太「ああ。頼む。——沢口製茶の、看板娘さん」
葉月「もう。誰が看板娘だ」
葉月が、俺の胸を、ぽかっと叩いて、それから、その胸に、頬をすり寄せてきた。
開け放った戸口から、夜明けの、ひんやりした谷の空気が流れ込んでくる。刈り終えた二番茶の畑の、青い匂い。蒸したての茶の、甘い匂い。十年前、俺がこの谷に背を向けたとき、どうしても見えていなかった、すぐ隣にあった気持ち。
東京と、この茶の里。どちらか一つを選ばなきゃいけないと思っていた。でも、違った。新幹線と在来線を乗り継いで、会いに来ればいい。守りたいものが、二つになるだけだ。一つは、祖父から受け継いだ畑。もう一つは、その畑の葉を、世界一丁寧に蒸してくれる、この強気な幼馴染だ。
啓太「葉月。次の二番茶も、その次も。……ずっと、一緒に揉もうな」
葉月「……うん。約束」
夜明けの光が、少しずつ強くなって、仕上がったばかりの荒茶の上で、淡く光った。俺は、もう、この幼馴染の顔を見るのを、我慢しなかった。十年の遠回りの先で、俺はやっと、ずっと隣にあった手を、握り返したのだった。
― 終 ―