人の顔色ばかりうかがって自分の言葉を飲み込んでいた僕が、部員のいなくなった大学の落語研究会で、たった一人で高座を守る歯に衣着せぬ四年の先輩に古典の一席を仕込まれるうちに惹かれ、学園祭の千秋楽をはねた秋の夜に誰もいない和室の部室で結ばれた話

1. 笑い声のする部屋

旧校舎の三階で、誰かが、一人で笑っていた。

笠原透(かさはら とおる)、二十歳。大学二年。十月のなかば、僕はそのとき、人気のない旧校舎の廊下を、ただあてもなく歩いていた。

理由は、いつものことだった。サークルの飲み会で、僕は今日も、言いたいことを何ひとつ言えなかった。先輩が「これ、面白くね?」と振ってくれた話に、ほんとうは少しも面白いと思わなかったのに、僕は笑って「っすね」と頷いた。場の空気が、こわかった。誰かの機嫌を損ねるのが、こわかった。だから僕は、自分の言葉を、ぜんぶ喉の奥に飲み込んで生きてきた。

飲み会を抜けて、まっすぐ帰る気にもなれず、僕は人のいない旧校舎まで来てしまった。授業ではもう使われない、古い建物。その三階の、いちばん奥。

「和室」と札の出た引き戸の向こうから、声が、聞こえた。

一人の声だった。なのに、二人ぶん、三人ぶんの会話が、そこにあった。怒鳴る父親の声。ふくれっ面の子どもの声。それが、めまぐるしく入れ替わる。そして、ひときわ高い、子どもの泣き声のあとに——その人が、笑った。心の底から、ころころと。

笠原透(……なんだ、これ)

引き寄せられるように、僕は、引き戸に手をかけた。少しだけ、開けた。

畳敷きの、がらんとした部屋だった。正面に、座布団が一枚。その上に、一人の女性が、きちんと正座をして座っていた。手に、扇子。傍らに、たたんだ手ぬぐい。彼女は、誰もいない座敷に向かって、たった一人で、落語を語っていた。

僕の気配に気づいて、彼女が、語りを止めた。こちらを見る。涼しげな目が、すっと細くなった。

御影詩月「……盗み聞きとは、いい度胸だね」

低くて、よく通る声だった。怒っているわけではない。なのに、ぴしゃりと、空気が引き締まる。僕は、いつもの癖で、すぐに謝ろうとした。

笠原透「す、すみません、あの、僕」

御影詩月「謝んなくていい。客なら、そこ座って聞きな。──落語研究会だよ、ここ」

2. たった一人の部員

御影詩月(みかげ しづき)。四年生。落語研究会の、部長だった。

座布団の脇に置かれた部誌の名簿を、彼女は無造作にめくって見せた。在籍者の欄に、御影詩月、の一行。あとは、線で消された卒業生の名前が、ずらりと並んでいる。

御影詩月「見てのとおり。部員、あたし一人」

笠原透「一人で……寄席を?」

御影詩月「寄席っていうほどのもんじゃない。一人で部室の鍵開けて、一人で座布団敷いて、一人で喋って、一人で笑ってる。──さっき、あんたが盗み聞きした、あれ」

ちっとも寂しそうではなかった。むしろ、面白がっているような口ぶりだった。それなのに、僕の胸の奥が、なぜか、ぎゅっとなった。

笠原透「さっきの、あれ……御影さんが、ぜんぶ、一人で?」

御影詩月「『初天神』。親父と、餓鬼の、二人の噺。落語ってのはね、一人で何人でも演じ分けるの。右向いて親父、左向いて餓鬼。扇子一本で、飴にも、凧にもなる」

彼女は、手にした扇子を、すっと横にした。次の瞬間、それは箸になり、彼女が何かをすするしぐさをすると、ほんとうに、湯気の立つ蕎麦が、そこに見えた気がした。何もない座敷に、世界が立ち上がる。僕は、息を呑んだ。

笠原透「……すごい」

御影詩月「ふん。素人は、みんなそう言う」

つっけんどんな返事だった。でも、その口の端が、ほんの少しだけ、嬉しそうに上がったのを、僕は見逃さなかった。

御影詩月「で? あんた、見学? 入部?」

笠原透「えっ」

御影詩月「言っとくけど、うち、新歓もコンパも追いコンもない。やることは、ただ喋って、ただ笑わせる。それだけ。──それでもいいなら、名前、そこに書きな」

差し出された名簿と、ペンを、僕は、しばらく見つめた。

人の顔色ばかりうかがって、自分の言葉を飲み込んできた僕が、こともあろうに、人前で喋って人を笑わせる場所に。──向いてないに決まっている。そう思うのに、僕の手は、勝手に、ペンを握っていた。さっき聞いた、あの笑い声が、まだ耳の奥で、ころころと鳴っていた。

笠原透「……入部、します」

御影詩月「へえ。変わってんね、あんた」

笠原透「御影さんに、言われたくないです」

そう返すと、御影さんは、一瞬きょとんとして──それから、初めて、声を出して笑った。さっき盗み聞きした、あの、ころころと転がる笑い声だった。

3. 一席、仕込む

その日から、僕の放課後は、落語でできた。

部室に行くと、たいてい御影さんが、先に来ていた。座布団に座って、扇子を片手に、ぶつぶつと何かをさらっている。僕が引き戸を開けると、顔も上げずに「来たね」と言う。それだけ。

最初に渡された噺は、『初天神』だった。父親に連れられた子どもが、飴だ、団子だと、あれこれ買ってもらおうとねだる、短い噺。

御影詩月「まず、覚えな。一字一句。落語は、台本を読むんじゃない。体に、噺を、住まわせるの」

笠原透「住まわせる……」

御影詩月「そう。あんたの中に、親父と、餓鬼を、二人、住まわせる。で、そいつらに、勝手に喋らせる」

言われたとおり、僕は家でも、風呂でも、噺をさらった。けれど、いざ座布団に座って、御影さんの前で語ろうとすると、最初のひと言が、出てこない。

笠原透「えー……む、昔は、子どもを……」

御影詩月「声が、小さい」

笠原透「……すみません」

御影詩月「謝るな。あんた、その『すみません』、今日で何回目だ。──いいか、笠原。高座の上には、上下(かみしも)しかない。客の顔色をうかがう余地なんか、一ミリもない。あんたが親父なら、堂々と親父をやれ。間違えてもいい。でかい声で、間違えろ」

でかい声で、間違えろ。

そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。いつも、間違えないように、誰の機嫌も損ねないように、息をひそめて生きてきた僕に。

おそるおそる、僕は、腹の底から声を出してみた。父親の、怒鳴り声を。座敷に、僕の声が、響いた。

笠原透「こら、何だその顔は! 団子なんざ、買ってやらねえぞ!」

語り終えて、自分でもびっくりした。こんな大きな声を、人前で出したのは、いつ以来だろう。御影さんは、腕を組んで、僕をじっと見ていた。それから、ぼそりと言った。

御影詩月「……今の、餓鬼じゃなくて、親父のほうが、あんたに似てたよ」

笠原透「え、どこがですか」

御影詩月「不器用なとこ」

そう言って、御影さんは、にっと笑った。

4. 上下を切る

毎日、僕は部室に通った。

御影さんは、口は悪いけれど、教え方は、不思議とていねいだった。扇子の置き方。手ぬぐいのたたみ方。お辞儀の角度。「上下を切る」──右と左に顔を向けて、二人の人物を演じ分ける、その首の振り方ひとつにも、彼女には、譲れないものがあった。

御影詩月「そこ、首だけで振るな。目線が、相手の高さに行ってない。親父が餓鬼を見るときは、ちょっと下。餓鬼が親父を見上げるときは、こう」

御影さんが、すっと顎を上げる。その瞬間、四年生のはずの彼女が、ほんとうに、五つか六つの子どもに見えた。生意気で、甘えたで、目をきらきらさせた、小さな男の子に。僕は、ぞくりとした。

笠原透「……御影さん、なんで、そんなに上手いんですか」

御影詩月「四年も、一人でやってりゃ、嫌でも上手くなる」

そう言って、彼女は、ふと、語るのをやめた。座布団の上で、膝を抱えるように座り直す。

御影詩月「あたしね、ふだん、人と喋るの、苦手なんだ」

笠原透「……嘘でしょう。こんなに、喋るのに」

御影詩月「これは、あたしじゃないもん。高座の上にいるのは、酔亭次郎吉(よいてい じろきち)。あたしがつけた、高座名。──次郎吉なら、いくらでも喋れる。誰の顔色もうかがわなくていい。でも、座布団を降りた御影詩月は……あんたと、たいして変わんないよ」

意外だった。いつも歯に衣着せず、ずばずばと物を言う、この人が。

御影詩月「だから、わかるんだ。あんたが、何を飲み込んでるか」

その言葉が、胸に、すとんと落ちた。彼女は、座布団の上では別人になれる。僕は、その別人に、教わっている。けれど、座布団を降りた彼女のほうを、僕は、もっと知りたいと思い始めていた。

5. 飲み込んだ言葉

十一月に入って、日が短くなった。

放課後の部室は、すぐに暗くなる。蛍光灯をつけるのも忘れて、僕らは、夕闇の中で、よく喋った。といっても、喋るのはたいてい御影さんで、僕は、聞いていた。

ある夕方、御影さんが、ぽつりと言った。

御影詩月「あたし、高校のとき、クラスで、一回も発言しなかったんだ」

笠原透「……御影さんが?」

御影詩月「手を挙げて、何か言おうとすると、心臓が、ばくばくして。声が、出なくなる。みんなが、あたしを見てる。間違えたら、笑われる。そう思ったら、もう、だめ。──ずっと、教室の隅で、息、ひそめてた」

僕は、黙って、聞いていた。それは、僕自身の話でも、あった。

御影詩月「でね、ある日、深夜にテレビで、落語、やってたの。一人の人が、座布団に座って、何人もの人を演じてた。怒ったり、泣いたり、笑ったり。……あたし、それ見て、思ったの。あ、あの座布団の上なら、あたしも、喋れるかもしれないって」

笠原透「……それで、落研に」

御影詩月「うん。次郎吉になれば、いくらでも、大きな声が出せる。誰の顔色も、うかがわなくていい。──あの座布団は、あたしの、逃げ場所で、居場所だった」

夕闇の中で、彼女の横顔が、ほんのり、青白く浮かんでいた。

笠原透「……僕も、わかります。その感じ」

御影詩月「あんたも?」

笠原透「人の機嫌を、損ねるのが、こわくて。言いたいこと、ぜんぶ、飲み込んできました。笑いたくないのに、笑って。……自分の言葉が、どんな味だったか、もう、思い出せないくらい」

御影さんは、しばらく黙って、それから、僕のほうを見ずに、小さく言った。

御影詩月「……じゃあ、お互いさまだ」

笠原透「お互いさま?」

御影詩月「あんたが来てから、あたし、一人で喋って、一人で笑う部活じゃ、なくなったから」

その耳が、夕闇の中で、ほんのり赤いのが、わかった。僕の心臓が、ことり、と鳴った。

6. 千秋楽の知らせ

異変に気づいたのは、その数日あとだった。

部室に行くと、御影さんが、一枚の書類を手に、じっと座っていた。いつものふてぶてしさが、その日は、なかった。

笠原透「御影さん? どうしたんですか」

御影詩月「学生課から。──来年度、落研、正式に廃部だってさ」

笠原透「えっ」

御影詩月「あたしが卒業したら、部員、また、あんた一人になるだろ。一人じゃ、部の存続条件を満たせない。だから、あたしの卒業と、いっしょに、おしまい」

書類を持つ手を、御影さんは、ぱたんと膝に落とした。

御影詩月「ま、しょうがないよね。四年も人が増えなかったんだ。この座布団も、たぶん、どっかの倉庫に──」

笠原透「御影さん」

御影詩月「ん?」

笠原透「悔しく、ないんですか」

口をついて出ていた。御影さんが、目を見開いて、僕を見る。飲み込むのが癖だった僕の言葉が、その日は、なぜか、止まらなかった。

笠原透「四年も、一人で、この部室、守ってきたんでしょう。一人で鍵開けて、一人で座布団敷いて。……なのに、最後、紙一枚で、おしまいなんて。僕は、悔しいです。御影さんが、それを、しょうがないって言うのが」

御影さんは、しばらく、何も言わなかった。それから、ふっと、肩の力を抜いて、笑った。今度は、少しだけ、泣きそうな笑いだった。

御影詩月「……あんた、ほんと、変な後輩だね」

笠原透「よく言われます」

御影詩月「ふふ。……ありがとう。悔しがってくれて」

僕は、決めた。飲み込まずに、言った。

笠原透「御影さん。最後に、一席、やりましょう。学園祭で。次郎吉の、千秋楽です」

御影詩月「千秋楽……」

笠原透「この部の、いちばん最後の高座として。誰に頼まれなくていい。御影さんが、いちばんやりたい噺を、いちばんいい場所で。──僕も、前座、やります。下手でも、でかい声で、間違えます」

御影さんの目が、揺れた。それから、ゆっくりと、うなずいた。

御影詩月「……『芝浜』、やろうかな」

笠原透「しばはま?」

御影詩月「夫婦の噺。酒で身を持ち崩した魚屋と、その女房の。──大ネタだよ。四年やってきて、まだ、人前でやったことない。けど」

その目に、ひさしぶりに、座布団の上の、あの光が、戻っていた。

御影詩月「最後だもん。逃げてた噺、やる」

7. 出囃子と老教授

学園祭まで、二週間を切っていた。

問題は、高座の場所だった。落研には、もう、まともな発表枠がない。困った僕らに、手を貸してくれたのは、落研の顧問──といっても、名前を貸しているだけの、鶴田教授だった。文学部の、白髪の老教授。学生からは「狸先生」と呼ばれている、変わり者だ。

研究室を訪ねて事情を話すと、鶴田教授は、分厚い眼鏡の奥で、目を細めた。

鶴田教授「ほう。御影くんが、後輩を連れてくるとはな。雪でも降るんじゃないか」

御影詩月「教授。茶化さないでください」

鶴田教授「茶化しとらんよ。──『芝浜』を、学園祭で、か。いいじゃないか。あれは、いい噺だ。負けて、負けて、それでも、もういっぺん立ち上がる噺だ」

教授は、机の引き出しから、古いカセットテープを一本、取り出した。

鶴田教授「旧館の小ホール、あそこは学園祭でも、たいてい空いとる。わしが話を通しておこう。座布団と、毛氈と、めくり台くらいは、物置にある。──それと、これは、わしの若い頃に録った、出囃子のテープだ。使うといい」

笠原透「いいんですか、そんな」

鶴田教授「かまわんよ。あの座布団を、最後に、いちばん客のいる場所へ、連れて行ってやってくれ。──それが、わしから、落研への、餞別だ」

教授は、テープを、御影さんの手のひらに、そっと載せた。

鶴田教授「御影くん。きみは、よく、一人で、あの部室を守った。誰も褒めんかったろうが。……わしは、ずっと、見とったよ」

御影さんが、テープを握りしめて、深々と、頭を下げた。その肩が、少しだけ、震えていた。

帰り道、僕らは、銀杏の散る坂道を、並んで歩いた。

御影詩月「……ねえ、笠原」

笠原透「はい」

御影詩月「あたしの千秋楽、あんたが前座だなんて。……客、逃げないかな」

笠原透「逃げたら、追いかけて、座らせます」

御影詩月「ふは。なにそれ」

御影さんが、声を出して笑った。落ち葉を踏む足音が、二人ぶん、夕暮れの坂道に、重なっていた。

8. 学園祭、千秋楽

学園祭の、最終日。

旧館の小ホールに、僕らは、座布団を敷き、赤い毛氈をかけ、めくり台を立てた。即席の、けれど、ちゃんとした高座だった。最初は、まばらだった客席が、教授が学内に貼ってくれた手書きのビラのおかげか、開演の頃には、思いがけず、半分ほど埋まっていた。

鶴田教授の出囃子のテープが、ぱちぱちと雑音まじりに、鳴りはじめる。

先に上がったのは、僕だった。

座布団に座って、客席を見たとき、心臓が、口から出そうだった。何十人もの目が、こっちを見ている。──いつもの僕なら、ここで、固まっていた。言葉を、飲み込んでいた。

でも、御影さんの声が、頭の中で、響いた。

「客の顔色をうかがう余地なんか、一ミリもない。でかい声で、間違えろ」

僕は、息を、腹の底まで吸った。そして、扇子を、ぱちん、と鳴らした。

笠原透「えー……昔は、子どもを、よく天神様へ連れて行ったもんで」

声が、出た。震えなかった。『初天神』の、生意気な餓鬼と、不器用な親父が、僕の中で、勝手に喋りはじめた。途中、一か所、噛んだ。客が、笑った。でも、もう、こわくなかった。間違えたって、いい。僕は、僕の言葉で、人を笑わせていた。

サゲを言い終えて、頭を下げると、客席から、拍手が起こった。僕の言葉に、拍手が。袖にはけると、御影さんが、めずらしく、両手を、ぱちぱちと叩いていた。

御影詩月「……でかい声で、間違えたね」

笠原透「はい。気持ち、よかったです」

御影詩月「いってきます」

そう言って、御影さんは──いや、酔亭次郎吉は、高座へ上がった。

『芝浜』。酒に溺れた魚屋が、浜で大金の入った財布を拾い、女房の機転で立ち直っていく、夫婦の噺。御影さんの声が、ホールいっぱいに、広がった。だらしない亭主。それを支える、けなげな女房。一人の体から、二人の人生が、立ち上がる。

僕は、袖から、その背中を見ていた。座布団の上の彼女は、いつもの、ぶっきらぼうな御影詩月では、なかった。誰の顔色もうかがわない、まっすぐな、酔亭次郎吉だった。客席が、しんと、聞き入っている。誰かが、鼻をすすった。

サゲの、あの有名なひと言──「よそう。また夢になるといけねえ」を、御影さんが、静かに言ったとき。

ホールが、一瞬の静寂のあと、割れるような拍手に、包まれた。

御影さんが、深々と、頭を下げる。上げた顔が、客席の照明に、きらりと光った。泣いていた。笑いながら、泣いていた。

9. 誰もいない部室で

学園祭の喧騒が引いて、夜になった。

片付けを終えた僕らは、座布団とめくり台を抱えて、旧校舎の三階、いつもの和室の部室へ戻った。蛍光灯をつけると、がらんとした畳の部屋が、いつもどおり、そこにあった。けれど、今夜で、この部屋は、終わる。

御影詩月「……はー。終わった。あたしの、四年間」

御影さんが、座布団の上に、ぺたんと座り込んだ。僕も、その隣に、腰を下ろす。二人きりの、最後の部室。窓の外は、もう、真っ暗だった。

笠原透「御影さんの『芝浜』、すごかったです。……お客さん、泣いてました」

御影詩月「あんたも、泣いてたろ。袖で」

笠原透「……見えてたんですか」

御影詩月「次郎吉は、客席、ぜんぶ見えるんだよ」

ふふ、と笑って、御影さんは、膝の上で、扇子を、もてあそんだ。それから、ふいに、声のトーンが、変わった。

御影詩月「ねえ、笠原。あたし、卒業したら、もう、ここには、来ない」

笠原透「……はい」

御影詩月「この座布団も、たぶん、もう、誰も、座らない。──だからさ、最後に、座布団の上じゃない、あたしの言葉で、言っとく」

御影さんが、扇子を、置いた。次郎吉ではない、御影詩月の、少し頼りない声で、彼女は言った。

御影詩月「あんたが来てから、あたし、この部室に来るの、楽しみだったんだ。一人で喋って、一人で笑ってたあたしを……あんたが、客席に、いてくれたから」

僕は、御影さんの顔を、見た。いつもの、ふてぶてしさは、なかった。高校の教室の隅で、息をひそめていたという、その人の、素顔だった。

僕の番だった。飲み込まずに、言う。今度は、僕の言葉で。

笠原透「御影さん。僕、落語、教わってるうちに……気づいたら、噺より、御影さんのこと、ばっかり、考えてました。座布団の上の次郎吉も、座布団を降りた御影さんも。……好きです。先輩として、じゃなくて」

御影さんの目から、つうっと、一粒、こぼれた。学園祭の照明の下で見たのと、同じ涙だった。

御影詩月「……ずるい。こんな、最後の日に、言うなんて」

笠原透「だめ、でしたか」

御影詩月「だめじゃ、ない。──あたしも、同じこと、ずっと、飲み込んでた」

僕は、御影さんの、涙に濡れた頬に、そっと手を添えた。彼女は、逃げなかった。潤んだ瞳で、まっすぐ、僕を見ていた。

誰もいない、畳の部屋で。僕らは、そっと、唇を、重ねた。

ちゅ……。

扇子と手ぬぐいの、乾いた匂いの中で、触れたところだけが、燃えるように、熱かった。

10. 座布団の上で

唇を離すと、御影さんの息が、震えていた。

御影詩月「……笠原。あたし、ふだんは、こんな、大胆じゃ、ないんだよ」

笠原透「知ってます。座布団の上だけ、別人だって」

御影詩月「……今日だけ。次郎吉の、力、借りていい?」

僕は、答える代わりに、もう一度、深く、口づけた。御影さんの手が、僕のシャツの裾を、きゅっと握る。畳の上に、二枚の座布団を、並べて敷いた。

ちゅ……れろ……ちゅるっ……♡

御影詩月「ん……♡」

舌先で、唇のあわいをなぞると、御影さんの体が、びくっと震えた。からめると、彼女の手が、僕の背中に、回ってくる。

御影詩月「んむ……っ♡ 笠原……」

笠原透「透で、いいです」

御影詩月「……透」

名前を呼ばれて、頭の芯が、痺れた。

カーディガンのボタンを、ひとつずつ、外していく。薄手のブラウスの下から、思いのほか豊かな胸のふくらみが、現れた。いつも、地味な普段着に隠れていた体は、想像していたよりも、ずっと、女性らしい線をしていた。

御影詩月「……あんまり、見ないで。恥ずかしい」

笠原透「……きれいです」

御影詩月「もう……次郎吉でも、それは、慣れてないんだから♡」

ブラウスをはだけ、背中に手を回して、ホックを外す。カチッ、と小さな音がして、白いブラが、ゆるんだ。蛍光灯の灯りに、雪のように白い肌と、淡い色の先端が、ふわりと、浮かび上がった。

右手で、そっと、左の胸を包む。

ふにっ。

御影詩月「あっ……♡」

手のひらに吸い付くような、やわらかさだった。指を沈めると、形を変えて、また戻る。もう片方の手も添えて、両方を、ゆっくりと、揉みしだいた。

御影詩月「ん……っ♡ 透の手、あったかい……♡」

親指で、淡い色の先端を、くりっと転がす。

御影詩月「ひゃっ♡♡」

びくん、と、御影さんの肩が跳ねた。小さく芯を持ちはじめた先端が、指先に、こりっと伝わってくる。

くりくり……くりくり……♡

御影詩月「あっ♡ あんっ♡♡ そこ、変な感じっ……♡」

唇を、胸の先に落とした。ちゅっ。

御影詩月「ひぅっ♡♡♡」

舌で転がしながら、反対の胸を、揉み続ける。

ちゅるっ……れろ……ちゅう……♡♡

御影詩月「やっ♡ 吸っちゃ……次郎吉でも、声、出ちゃうっ♡♡」

旧校舎の三階。学園祭の喧騒も、もう届かない。聞こえるのは、彼女の、甘い声だけだった。

11. 飲み込まない夜

笠原透「御影さん、下も……いい?」

御影詩月「……詩月、って、呼んで?」

笠原透「……詩月さん」

御影詩月「うん♡ いいよ。来て……♡」

スカートの中に、手を滑り込ませる。タイツと下着を、まとめて、ゆっくり引き下ろした。膝を立てて閉じようとする、白い太ももを、そっと開かせる。

笠原透「……もう、濡れてる」

御影詩月「やっ♡ 言わないで……♡ キスの、ときから、なの♡♡」

薄い茂みの奥が、蛍光灯の灯りに、とろりと濡れて光っていた。指先で、そっと、なぞる。

くちゅ……。

御影詩月「ひゃあっ♡♡」

びくん、と腰が跳ねた。割れ目の上の、小さな突起を見つけて、指の腹で、くるくると円を描く。

くり……くり……♡

御影詩月「あぁっ♡♡♡ そこっ、だめっ……♡♡」

笠原透「だめじゃ、ないでしょう。気持ちいいんですよね?」

御影詩月「だってっ♡ 透の、指っ……♡♡」

蜜を、指にたっぷりまとわせて、中指を、入り口にあてがった。

笠原透「指、入れますね」

御影詩月「……うんっ♡♡ 来て……♡♡」

ずぷ……♡

御影詩月「あああっ♡♡♡」

ゆっくり、指が沈んでいく。熱い。きゅうきゅうと、締め付けてくる。中をかき混ぜながら、突起を、親指で、同時に刺激する。

ぐちゅっ……ぐちゅっ……♡♡♡

御影詩月「あっあっあっ♡♡♡ それっ、両方っ……次郎吉、おかしくなるっ♡♡♡」

指を二本に増やして、奥の壁を、ぐっと押し上げる。

御影詩月「ひぅっ♡♡♡♡ そこ、やばっ……♡♡♡」

御影さんの体が、びくびくと跳ねはじめた。

御影詩月「やっ♡ 来るっ……来ちゃうっ♡♡♡」

指の動きを速める。

ぐちゅぐちゅぐちゅっ♡♡♡♡

御影詩月「あああっ♡♡♡ イっ……イくぅっ♡♡♡♡」

びくんっ、びくんっ♡♡♡

御影さんの背中が、弓なりに反った。中が、ぎゅうっと指を締め付けて、やがて、力が抜けたように、座布団に沈み込む。

御影詩月「はぁっ……♡♡ はぁっ……♡♡ ……指だけで、こんなの、初めて……♡」

潤んだ瞳で、御影さんが、僕を見上げた。それから、震える手を、僕のベルトに伸ばしてくる。

御影詩月「……今度は、あたし。透のも、見せて……?」

ベルトをゆるめ、下着ごと引き下ろすと──限界まで張り詰めたものが、ばちん、と跳ね上がった。御影さんが、息を呑む。

御影詩月「……っ♡ おっきい……♡」

おずおずと顔を近づけて、先端に、ちゅっと口づけた。それから、舌を出して、ちろちろと舐めてくる。

御影詩月「ん……れろ……♡♡」

慣れない手つきが、かえって、たまらなかった。やがて、ぱくりと口に含んで、ゆっくりと、頭を上下させる。さらりと垂れた髪の隙間から、上目遣いの瞳が、こちらを覗いていた。

御影詩月「ん……じゅるっ♡♡ ……気持ち、いい?」

笠原透「……やば、すぎます。でも、それ以上は、イっちゃうから」

ぷはっ、と口を離した御影さんの唇が、濡れて、てらてらと光っていた。

御影詩月「……最後は、いっしょがいい♡ 透と、ひとつに、なりたい♡」

僕は、財布に入れておいたゴムを、取り出した。

御影詩月「ふふ……ちゃんと、用意してたんだ?」

笠原透「いや、これは、その……万一の、備えで」

御影詩月「ふふっ♡ 責めてないよ。……えらい♡」

手早く着けて、御影さんを、座布団の上に、仰向けに横たえた。蛍光灯の灯りに、白い肌が、やわらかく染まっている。脚のあいだに体を進め、先端を、入り口にあてがった。

ぬちゅ……♡

笠原透「いきますね、詩月さん」

御影詩月「うん♡ 来て……♡♡」

ゆっくりと、腰を押し進める。

ずぷ……ずぷぷ……♡♡

御影詩月「あぁっ♡♡♡ 入って、くるっ♡♡♡」

きゅうきゅうと締め付けながら、奥へ引き込んでくる。やがて、ぴたりと、根元まで収まった。

御影詩月「はぁっ♡♡ 全部、入った……♡♡ ……あったかい♡♡」

笠原透「動きますよ」

ゆっくり腰を引いて、また、押し込む。

ずるっ……ずぷんっ♡♡

御影詩月「ああっ♡♡♡」

リズミカルに、打ちつけはじめる。肌と肌がぶつかる音が、静まりかえった部室に、響いた。

パンッ……パンッ……♡♡

御影詩月「あっあっあっ♡♡♡ 透っ♡♡ 奥っ、当たってるっ♡♡♡」

御影さんの腕が、僕の背中に回されて、しがみついてくる。四年間、彼女がたった一人で守ってきた、この畳の上で。僕らは、ひとつに、なっていた。

パンパンパンッ♡♡♡

御影詩月「やばっ♡♡ また、来ちゃうっ♡♡♡」

笠原透「僕も、もう……っ」

御影詩月「いっしょに……♡♡♡ いっしょに、イこっ……♡♡♡♡」

御影さんが、両腕で、ぎゅっとしがみついてくる。奥に押し付けるように──最後の、ひと突き。

御影詩月「あぁぁっ♡♡♡♡♡!!」

笠原透「イく……っ!」

どくんっ、どくっ、どくっ……!

御影詩月「イっ……イくぅっ♡♡♡♡♡♡」

御影さんの全身が震えて、中が、痙攣するように締め付けてくる。抱き合ったまま、僕らは、荒い呼吸を繰り返した。

ちゅ、と、軽く、唇を重ねる。汗ばんだ二つの体が、座布団の上で、ぴったり重なっていた。

12. また会う約束

──翌朝。

窓から差し込む朝の光で、目が覚めた。

御影さんは、僕の腕の中で、すうすうと寝息を立てていた。乱れた髪が、頬にかかって、無防備な寝顔が、とんでもなく、可愛かった。ふだん、歯に衣着せず、ずばずばと物を言う、あの人の。

御影詩月「ん……♡ ……透?」

御影さんが、目を覚ました。寝起きの、少しかすれた声。

笠原透「おはようございます。詩月さん」

毛布を巻いたまま、僕らは、窓辺に並んだ。旧校舎の窓から、銀杏並木が見えた。昨日までの学園祭の幟が、もうすっかり片付けられて、構内は、しんと静かだった。

笠原透「詩月さん。部、廃部になっても」

御影詩月「ん?」

笠原透「僕、落語、やめないです。一人でも、この座布団に座って、喋ります。──次郎吉に、教わった一席を」

御影さんが、目を見開いた。

笠原透「来年、新歓、がんばります。一人でも、二人でも、後輩、連れてきます。部員が二人いれば、存続条件、満たせるんですよね。……詩月さんが、四年守ってきたこの部室、僕が、引き継ぎます」

御影さんの瞳が、じわっと潤んだ。ぽろっと、一粒、頬を転がり落ちる。

御影詩月「……ずるい。朝から、泣かせる気?」

笠原透「泣かないでください。──それで、返事は?」

御影詩月「……うん。あたしも、透のことが、好き♡ 卒業しても、ずっと、いっしょにいたい。……今日から、恋人ね♡」

御影さんが、背伸びをして、僕の唇に、ちゅっと、軽くキスをした。それから、いたずらっぽく笑う。座布団の上の、次郎吉みたいに、目を、きらきらさせて。

御影詩月「ねえ、透。『芝浜』のサゲ、覚えてる?」

笠原透「『よそう。また夢になるといけねえ』」

御影詩月「うん。──でもね。あたしと、あんたのは、夢じゃ、ないよ」

御影さんが、僕の手を、ぎゅっと握った。

御影詩月「ちゃんと、目が覚めても、あんたが、隣にいる。……これは、夢じゃ、ない」

人の顔色ばかりうかがって、言いたいことを、ぜんぶ飲み込んできた僕は、誰も来ない旧校舎の、たった一人の落語研究会に、迷い込んだ。

そこで出会ったのは、座布団の上でだけ、本当のことを言えた、一人の人だった。

僕らは、お互いに、飲み込んできた言葉を、やっと、声に出した。それは、どんな高座のサゲよりも、まっすぐで、確かな、二人の言葉だった。

笠原透「詩月さん。……これからも、よろしくお願いします」

御影詩月「ふは。なにそれ。入部の挨拶?」

笠原透「はい。たった二人の、落語研究会の」

朝の光の中で、御影さんが、声を出して笑った。あの、ころころと転がる、僕がいちばん好きな笑い声だった。

― 終 ―


編集部プロフィール画像

編集部が運営。「あの夜」で読める恋の体験談を厳選して公開しています。