夜の大学というのは、昼とはまるで別の場所になる。
僕、谷川航(たにがわ こう)、二十二歳。工学部の四年生で、研究室の隅で卒業研究のデータと、就活の祈りメールに、半年がかりで少しずつ削られていた。第一志望は最終で落ちた。実験は思った数値が出ない。気づけば終電も逃して、誰もいない夜のキャンパスを、意味もなく歩きまわるのが癖になっていた。
その晩も、僕は研究棟を出て、ふらふらと構内の奥へ歩いていた。
取り壊しが決まって、もう使われていない旧校舎。錆びた門の向こうの、本来なら真っ暗なはずの三階に、ひとつだけ、ぽつんと灯りがついていた。
(……誰か、いるのか)
肝試しみたいな気分で、僕は割れかけたガラス戸を押した。
きしむ階段を上って、灯りの漏れる教室をのぞいた瞬間、僕は思わず息を止めた。
がらんとした空き教室の真ん中に、人の背丈ほどもある大きなキャンバスが立てられていた。その前で、ひとりの女の人が、絵筆を持ったまま、こちらを振り向いていた。
絵具で汚れたシャツの袖をまくって、髪をうしろで無造作に結んで、頬には青い絵具がひと筋ついている。床にはチューブと、何枚もの下絵と、空いたコーヒーの缶。蛍光灯ではなくて、持ち込んだらしい作業灯が、彼女とキャンバスだけを白く照らしていた。
「……人? 幽霊じゃなくて?」
「す、すみません。灯りが見えて、つい」
「ふうん。……まあ、いいや。声、かけてこないでくれるなら」
そう言って、彼女はもう僕に興味をなくしたみたいに、キャンバスへ向き直った。
僕は帰るべきだった。でも、その大きな絵から、目が離せなかった。描きかけの、夜明け前みたいな色をした海。半分だけ塗られた空が、どうしてだか、いまの僕の胸の中とそっくりだった。
久瀬詩織(くぜ しおり)。
名前を知ったのは、その数日あと、同じ学年だと気づいてからだった。学籍番号でいえば、僕とそう変わらない。彼女は教育学部の美術専攻の四年で、卒業制作の油絵を、この旧校舎の空き教室で描いていた。
「アトリエ、学部にあるんじゃないんですか。ちゃんとした」
「あるよ。みんなそこで描いてる。……私だけ、描けないだけ」
「描けない?」
「人がいると、描けないの。誰かに見られてると思うと、手が止まる。だから、誰もいない夜に、誰も来ない部屋で描いてるわけ」
絵筆の先で空の色を溶かしながら、彼女はあっさりとそう言った。
「変でしょ。絵描きのくせに、見られるのが、いちばん怖いの」
「……変じゃないです。僕も、最近、人の目がしんどくて。だから夜歩いてるので」
「……ふうん」
彼女は手を止めて、ちらりとこちらを見た。さっきまでの「声をかけてくるな」という顔とは、ほんの少しだけ、違う目だった。
研究室で唯一まともに喋る同期の三宅に、その話をしたら、妙な顔をされた。
「久瀬って、あの久瀬? 美術の。お前、よく喋れたな」
「有名なのか」
「一年のときの公募展で賞獲ってて、教授も期待してるとか。でも途中からほとんど大学に来なくなって、講評にも顔出さないって。気難しいで通ってるぞ」
賞を獲った絵描きが、人の目が怖くて、誰もいない夜の廃校で描いている。
噂と本人とのあいだの、その距離が、僕にはどうしようもなく気になった。最終で落とされてから、自分は何者にもなれないんじゃないかと、ずっと足元が抜けたみたいだった。そんなときに見た、彼女のあの大きな海が、なぜか頭から離れなかった。
「やめとけよ。お前、いま病んでんだから」
「病んでるからかもな。あの絵、見てると、ちょっとだけ息ができるんだ」
それから、僕はほとんど毎晩、旧校舎の三階へ通うようになった。
口実は「絵の番」だった。深夜に女ひとりで廃校にいるのは物騒だから、と。実際それは半分本気で、半分は、ただあの教室の空気の中にいたかっただけだった。
僕は教室の隅に座って、卒論の資料を読むふりをしながら、彼女が絵を描くのを眺めていた。久瀬さんは、絵の前では別人みたいに、よく喋った。
「谷川くんがそこにいるの、なんか平気なんだよね。不思議」
「邪魔じゃないですか」
「邪魔な人は、私の絵、見ようとしないもん。値踏みする目で見る。谷川くんは、ただ見てるだけ。……それは、平気」
筆を置いて、彼女は缶コーヒーを僕にひとつ放った。床に並んで座って、ぬるい甘いコーヒーを飲む。作業灯のまわりだけが明るくて、その外は、しんと暗かった。
「就活、うまくいってないんだ」
「ばれてました?」
「顔に描いてある。……色でわかるよ。いまの谷川くん、ぜんぶ、夜明け前の色してる」
夜明け前の色。彼女のキャンバスの、あの海の色だった。
ある晩、画材が切れたと言うので、二人で夜の街へ買い出しに行った。
二十四時間営業の大型書店の画材コーナーで、彼女は油絵具のチューブを真剣な顔で選んでいた。同じ青に見える色を、何本も手のひらに並べて、ためらっている。
「海の、いちばん深いところの青が、まだ見つからないの」
「これ、とか」
「……あ。それ、近い」
僕がなんとなく取った一本を、彼女はじっと見て、こくんと頷いた。レジで、彼女がぽつりと言った。
「人と画材買うの、はじめて。いつも、ひとりだったから」
帰り道、夜風が少しだけ蒸していた。並んで歩く肩が、ときどき触れた。彼女は前を向いたまま、
「あのさ。あの海、なんで描いてるか、聞かないんだね」
「聞いていいんですか」
「……いい。谷川くんになら」
立ち止まって、彼女は夜の空を見上げた。
「子どもの頃、海のそばに住んでて。毎朝、夜明け前の海を見てたの。あの時間だけは、誰も私を見てなくて、息ができた。……あの色を、もう一回ちゃんと描けたら、私、人の前でも生きていける気がして」
卒業制作の提出は、夏至の翌日に迫っていた。
その数日前から、彼女の絵は、最後の追い込みに入っていた。空の色が、夜明け前の藍から、ほんのわずかに白んでいく――その境目の、たった数センチを、彼女は何日もかけて塗っては削り、削っては塗っていた。
「ここが、出ないの。夜が明ける、いちばん最初の色。いちばん大事なのに」
「……手伝えることは」
「いてくれるだけでいい。谷川くんがいると、手が止まらないの」
夏至の夜。一年でいちばん、夜が短い日だった。
窓の外がうっすら白みはじめた、明け方近く。彼女の筆が、すっと、空と海のあいだに、淡い一本の光を引いた。
時間が、止まった気がした。
夜明け前の藍の海の上に、ほんのひとすじ、これから昇る光の予感が滲んでいた。それは、もう完成していた。誰が見ても、わかるくらいに。
「……できた」
「……すごい。出てます。色、ちゃんと、出てます」
「……うん。出た」
彼女は筆を落として、その場にぺたりと座り込んだ。そして、肩を震わせて、声を殺して泣きはじめた。何年も探していた色を、ようやくつかまえた人の泣き方だった。
僕は、絵の前にしゃがんで泣く彼女の、すぐ隣に座った。
「久瀬さん」
「……なに」
「この絵の番、もう要らなくなりますね。卒制、出したら」
「……そうだね。終わっちゃう」
「……それ、いやなんです。僕」
彼女が、濡れた目で、こちらを見た。作業灯の白い光に、頬の絵具と、涙の跡が光っていた。
「絵の番じゃなくていいから、これからも、久瀬さんの隣にいたいです。……好きなんだと思います。たぶん、最初に、あの海を見たときから」
しばらく、教室には、外の鳥の声と、二人の息の音だけが満ちていた。やがて彼女は、絵具で汚れた手で、僕のシャツの裾を、ぎゅっとつかんだ。
「……ずるいよ、谷川くん。いちばん、無防備なときに」
「……すみません」
「謝らないで。……私も、谷川くんがいない夜が、もう、想像できないの。怖いくらい」
声が、最後はかすれていた。僕は、彼女の頬についた青い絵具を、指先でそっと拭った。
どちらからともなく、顔が近づいて――唇が、重なった。
「ん……」
絵具とコーヒーの匂いの奥に、かすかに塩の味がした。一度離れて、目を合わせて、もう一度、今度は少し深く重なる。
ちゅ……ちゅっ……
「……谷川くん」
「航、でいいです」
「……航くん」
夏至の夜明けは、すぐそこまで来ていた。けれど、旧校舎の三階の、この教室にだけは、まだ夜が残っていた。
「……誰も、来ませんよね」
「来ない。この校舎に来るの、もう、私たちだけだから」
僕は、彼女の髪を結んでいたゴムを、そっと外した。さらりと、結んでいた髪が肩に落ちる。絵を描くときいつも結んでいる彼女の髪を解いたのは、たぶん、僕が初めてだった。
「……髪、おろしてるの、きれいです」
「……絵具まみれだよ、私」
「それも込みで、きれいです」
「……ずるい。ほんと、ずるい」
彼女は、僕の首に腕を回してきた。絵具で汚れたシャツのボタンを、僕は一つずつ外していく。下から現れた素肌は、作業灯の白い光に、薄く色づいて見えた。手のひらを背中に滑らせると、彼女の体が、びくりと小さく震えた。
れろ……ちゅ……
「ん……ふ……っ」
いつも絵の前でだけ饒舌な彼女が、僕の手の中で、少しずつ言葉をなくしていく。それが、どうしようもなく愛おしかった。
絵具のついていない床に、彼女の上着を広げて、そっと座らせた。
シャツを肩から落とすと、彼女は恥ずかしそうに、胸の前で腕を組んだ。
「……あんまり、見ないで。見られるの、苦手なの」
「……じゃあ、僕だけ。僕にだけは、見せてください」
「……っ、もう」
ブラのホックにそっと触れると、彼女は小さく息を呑んで、それから、こくんと頷いた。ホックが外れて、白い胸が、作業灯の薄明かりの中にこぼれる。僕は、それを壊れ物みたいに、そっと手で包んだ。
「あ……っ」
「……痛くないですか」
「いた、くない……っ」
指の腹で、つんと立ちはじめた先端をかすめると、彼女の肩がぴくんと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ?」
「……っ、変な、声、出ちゃう……っ」
口では恥ずかしがるのに、僕が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、彼女の体から、ふっと力が抜けていった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、がらんとした教室に漏れる。誰も来ないこの旧校舎なら、どんな声も、外には届かない。誰にも聞かせたくない声を、僕だけが、独り占めしていた。
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、彼女のスカートの中、太腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「……力、抜いてください。久瀬さんのペースで」
「……っ、航くんが、そう言うと、ずるい……っ」
下着の上から、いちばん敏感なところに触れると、もうそこが熱くなっているのがわかった。指でそっと撫でるたびに、彼女の腰が、小さく揺れる。やがて下着をずらして、直接そこに触れると――
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……濡れてます」
「言わないで……っ♡ さっき、キスのとき、から……っ」
恥ずかしさで顔を背ける彼女に、僕は何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹でくるくると撫でた。彼女が、僕の腕にぎゅっとしがみつく。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「……気持ちいいですか」
「……っ♡ うん……っ♡」
指を、ゆっくり中へ沈めていく。
ずぷ……っ
「ん……あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろだった。彼女の中を、こわごわ、けれど確かめるように広げていく。指の動きに合わせて、彼女の体が、だんだん高まっていくのがわかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
「いいですよ。そのまま」
「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、彼女の体が、びくびくっと跳ねた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
僕の腕の中で、彼女はぎゅっと体を丸めて、達した。人の目を怖がる人が、僕の前でだけ乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が締めつけられた。
「……大丈夫ですか」
「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」
息を切らす彼女の額に張りついた前髪を、僕はそっとよけた。
「……航くん」
「はい」
「……最後まで、してほしい。この絵が、完成した夜に。航くんと、なら」
人前ではほとんど喋らない彼女が、頬を染めて、そんなことを言う。僕は、ごくりと喉を鳴らした。
「……無理、してないですか」
「してない。私が、したいの。……はじめて、見られても怖くない人だから」
僕は、財布の中に念のため入れていた小さな包みを取り出した。彼女が、それを見て、ほっとしたように、ふっと笑う。
「……そういうとこ、ちゃんとしてるんだ」
「大事な人なので」
「……もう。こんなときに」
広げた上着の上で、僕は彼女にそっと覆いかぶさった。脚の間に体を進めて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがう。
「……いきます。痛かったら、すぐ言ってください」
「……うん」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、彼女は僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、彼女の中が僕を受け入れていく。
ずず……っ
「っ……あ……っ」
「……止めますか」
「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
僕は、彼女の様子を窺いながら、ほんの少しずつ進んだ。途中で何度も止まって、彼女の額にキスを落として、また少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。繋がった場所から、じんわりと熱が広がっていく。
「……全部、入ってる……?」
「はい。……全部」
「……繋がってるんだ、私たち……」
彼女の目に、うっすら涙がにじんでいた。ずっとキャンバス越しに見ていた人と、いま、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を指でそっと拭った。
「……動いて、平気ですか」
「うん……っ。来て、航くん……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、彼女の体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、彼女の声が漏れる。窓の外の、白みはじめた光が、汗ばんだ二つの体を、ほのかに照らしていた。
「……痛くないですか」
「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」
「気持ちよく、なってきました?」
「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、航くんの、好き……っ♡」
口走ってから、彼女は自分の言葉に、また顔を赤くした。それが体のことなのか、僕自身のことなのか、たぶん、どっちもだったんだと思う。
ぱちゅ……ぱちゅ……
「航くん……っ♡」
「詩織さん」
「……っ♡ 名前……」
「詩織さん。……ずっと、こうやって呼びたかった」
下の名前で呼ぶと、彼女は僕の首に腕を回して、自分から唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ深くなる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ 航くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
「……僕も、そろそろ」
「一緒が、いい……っ♡ 航くんと、一緒……っ♡」
僕は、彼女をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 航くん……っ♡♡」
「……っ、詩織さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、彼女の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。白みはじめた夜明けの光の中で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ、航くん……」
「……詩織さん。痛くなかったですか」
「……痛かった、けど。……それより、ずっと、幸せだった」
僕は、彼女の汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。
気づくと、窓の外は、すっかり明けていた。
夏至の朝。一年でいちばん短い夜が終わって、新しい光が、がらんとした教室に差し込んでいた。その光が、立てかけられた大きなキャンバスを、まっすぐ照らしている。
夜明け前の藍の海に、ひとすじの光。彼女が何年も探していた、その色が、ほんものの朝日の中で、静かに輝いていた。
「……朝が来ちゃったね」
「はい」
「……不思議。いつもは、朝が来ると、現実に戻されるみたいで怖かったのに。……いまは、ぜんぜん怖くない」
「どうしてですか」
「……航くんがいる朝なら、見られても、平気な気がするから」
彼女は、まだ少し絵具のついた手で、僕の手をそっと握った。朝の光の中で、その指は、もう震えていなかった。
「詩織さん。卒業しても、隣にいさせてください。……絵の番じゃなくて、恋人として」
「……当たり前でしょ。むしろ、私のほうが、お願いしたいくらい」
そう言って、彼女は、人前では絶対に見せないやわらかい顔で、声を出して笑った。
「……あのさ、航くん。次の絵、描いていい?」
「何を描くんですか」
「夜明けの色を、いちばん最初に一緒に見てくれた人。……人がいると描けない私が、唯一、見ながら描ける人」
朝日の差し込む教室で、僕らは手を繋いだまま、彼女の海の絵を、いつまでも並んで眺めていた。
夜が明けても、消えない色だった。
― 終 ―