1. 札を払う音
その音を、僕は今でも、はっきり思い出せる。
しゃっ、という、紙と畳の擦れる、鋭くて短い音。それから、ぱぁん、と札が一枚、宙を飛んで、壁に当たる音。
大学一年の、十月の夕方だった。僕、瀬戸律(せと りつ)、十八歳。サークル棟のいちばん奥、めったに人の来ない和室の前を通りかかって、足が止まった。
襖が、少しだけ開いていた。
畳の上に、向かい合って二列、札が並んでいる。その片側に、女の子がひとり、正座していた。誰もいない部屋で、ひとりで、見えない相手と試合をしているみたいだった。
黒木「……瀬をはやみ……」
部屋の隅で、男の人が、低い声で歌を読み上げる。その「せ」の音が空気を撫でた、まさにその瞬間――。
しゃっ。
女の子の手が、消えた。残像も見えなかった。気づいたときには、いちばん端にあった一枚が、もう、畳の上から払い飛ばされていた。
僕は、息をするのも忘れて、その光景を見ていた。
瀬戸律(……なんだ、今の)
たった一音。「せ」と聞こえた、それだけで。彼女の手は、もう、答えを知っていた。
2. 歌が好き、というだけ
黒木「見学? 入るなら歓迎するよ。うち、万年人手不足だから」
声をかけてきたのは、読み手をしていた男の人――四年生で部長の、黒木さんだった。袴姿で、やたらと姿勢がいい。
女の子のほうは、ちらりと僕を見て、また札に目を戻した。長い髪をうしろで一つに結って、白い襟元がきれいだった。表情は、ない。氷みたいに、静かだった。
瀬戸律「あの……競技かるたって、百人一首の、ですよね」
黒木「そう。上の句が読まれて、下の句の札を取る。世界でいちばん速い、座ってやる格闘技」
瀬戸律「……格闘技」
僕が古典の和歌を好きになったのは、高校の古文の授業だった。千年前の誰かが、好きな人を思って詠んだ三十一文字が、今も残っている。それがただ、きれいだと思った。テストの点とは関係なく、ずっと好きだった。
でも、こんなに速く、こんなに激しいものだとは、知らなかった。
瀬戸律「僕、歌は好きなんですけど。……運動神経、全然なくて」
黒木「関係ないよ。最初はみんな取れない。なあ、久住」
久住、と呼ばれた女の子が、顔を上げた。
久住詩織「……取れるようになるかは、本人次第です」
ぴしゃりと、それだけ言った。冷たい、というより、無駄がなかった。
黒木「こいつ、久住詩織(くすみ しおり)。お前と同じ一年。でもキャリアは十年以上。全国でも上のほうのA級だ」
瀬戸律「A級……」
黒木「百枚、ぜんぶ覚えてる。どの札が、どの音で決まるか。──化け物だよ」
久住さんは、褒められても、嬉しそうな顔ひとつしなかった。ただ、並んだ札を、もう一度、無表情に見つめていた。
その日のうちに、僕は入部届に名前を書いていた。歌が好き、というだけの、いちばん下手な新入りとして。
3. 決まり字
競技かるたには、「決まり字」というものがある、と久住さんが教えてくれた。
百枚の札は、全部、上の句のどこかまで聞けば、どの札か決まる。最初の一音で決まる札もあれば、六音目まで聞かないと分からない札もある。
久住詩織「『むすめふさほせ』。この七文字で始まる札は、一字決まり。最初の一音が読まれた瞬間に、取れる」
瀬戸律「いちおん……。コンマ何秒の世界ってことですか」
久住詩織「コンマ、じゃない。千分の一秒。読手が口を開いた、その息で動く」
久住さんは、淡々と札を並べながら、説明を続けた。
久住詩織「最初の音が同じでも、二音目で分かれる札がある。それを『友札』っていう。『はる』と『はな』とか。一音目だけで手を出すと、お手つきになる」
瀬戸律「お手つきすると、どうなるんですか」
久住詩織「相手から、札を一枚送られる。自分の陣が一枚増える。──不利になる」
並べ終わった札を、彼女はじっと見た。二十五枚ずつ、自陣と敵陣。十五分の暗記時間で、この配置を全部、頭に叩き込むのだという。
久住詩織「瀬戸くん。あなた、まず『むすめふさほせ』の七枚だけ覚えて。それだけ取れれば、初心者の試合は形になる」
瀬戸律「七枚……。久住さんは、百枚、ぜんぶ?」
久住詩織「当たり前でしょ。札の位置も、決まり字も、送られたあとの変化も。──ぜんぶ、ただの情報。覚えるだけ」
ただの情報。その言い方が、少しだけ、引っかかった。
千年前の恋の歌が、彼女の口では、「ただの情報」だった。
4. 記号になった歌
最初の一ヶ月、僕は本当に、何も取れなかった。
久住さんと練習試合をすると、二十五枚先に取られて、こっちは三枚、みたいな試合ばかりだった。彼女の手は、読手が一音を発した瞬間にはもう動いている。僕が「あ、この札だ」と気づくころには、札は畳の外まで飛んでいる。
瀬戸律「……今の、なんで分かったんですか。まだ一音目しか」
久住詩織「『せ』は一字決まり。一枚しかない。だから一音目で確定する」
瀬戸律「『せ』……瀬をはやみ、ですよね」
僕がそう言うと、久住さんの手が、ほんの一瞬、止まった。
瀬戸律「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の。──流れの速い川が、岩にせき止められて、二つに分かれる。でも」
久住詩織「……『われても末に あはむとぞ思ふ』」
瀬戸律「そう。分かれても、いつかきっと、また一つになる。──好きな人と引き離されても、最後には逢える、って。崇徳院の恋の歌です。すごく、好きで」
久住さんは、しばらく、僕を見ていた。それから、視線を札に戻して、ぽつりと言った。
久住詩織「……意味なんて、考えたこと、なかった」
瀬戸律「え」
久住詩織「『せ』は、一字決まり。左下段。それだけ。歌の意味なんて、知らなくても取れる。むしろ、考えてたら、遅れる」
その声に、温度がなかった。
久住詩織「百枚、ぜんぶそう。私にとって、札は札。音と、位置と、手の軌道。──歌じゃない」
僕は、なんと言っていいか、分からなかった。
千年前の恋の歌を、誰よりも速く、誰よりも正確に取る人が。その歌が、何を歌っているのか、一度も、考えたことがなかった。
5. クイーンを取り逃した人
そのことを、僕は黒木さんに聞いてみた。久住さんが、どうしてあんなに、歌を「ただの記号」みたいに扱うのか。
黒木さんは、缶コーヒーを飲みながら、少し言いにくそうにした。
黒木「あいつ、去年の正月、クイーン戦の予選で負けてんだよ」
瀬戸律「クイーン……女子の、日本一を決める」
黒木「そう。高校三年で、もう手が届くとこまで行ってた。下馬評は一番だった。なのに、決勝の、最後の一枚で──お手つきした」
瀬戸律「……」
黒木「『友札』の読み違い。二音目で確定する札を、一音目で払いにいった。たった一回の、お手つき。それで、ぜんぶ、終わった」
缶を、くしゃっと、握り潰す。
黒木「あれから、あいつ、変わった。歌を、感じなくなった。『感じて取る』のをやめて、『情報で取る』ようになった。──そのほうが、ミスが出ないから」
僕は、あの無表情を、思い出していた。氷みたいに静かな、あの横顔を。
黒木「速くはなったよ。正確にもなった。でも、見ててな、瀬戸。あいつ、もう、かるた、楽しそうじゃないんだ」
その夜、僕は、ひとりで畳に札を並べてみた。「せ」の札を、左下段に置く。瀬をはやみ。分かれても、末に逢わむ。
瀬戸律(……記号にするには、もったいないよ。こんなにきれいな歌、を)
僕は下手くそだ。一生、久住さんには勝てないだろう。
でも、ひとつだけ、僕にできることが、あるかもしれない、と思った。
6. 一枚ずつ、歌に戻す
それから、僕は練習のたびに、ひとつずつ、歌の話をするようになった。
久住さんが「あ」の札を払えば、その歌の話をする。「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川」――川一面に散った紅葉が、まるで水を真っ赤に染めたみたいで。在原業平が、それを見て、神様の時代でも聞いたことがない、って驚いてるんです、と。
最初、久住さんは、聞き流していた。
でも、何度目かのとき。「あ」の札を取ったあとで、彼女が、ふと手を止めた。
久住詩織「……竜田川って、本物の川?」
瀬戸律「奈良の、紅葉の名所です。今でもあります」
久住詩織「業平は、それを、見たの。実際に」
瀬戸律「たぶん。千年前に、同じ紅葉を見て、きれいだなって思って、それを歌にして。──それが、巡り巡って、今、久住さんの手の中にある」
久住さんは、その「あ」の札を、じっと見つめた。今まで一度も、そんなふうに札を見たことがなかった。情報としてじゃなく、誰かの心として。
久住詩織「……変なの」
瀬戸律「え」
久住詩織「十年以上、何万回も払ってきた札なのに。──今、はじめて、字が、読めた気がした」
晩秋の、夕方だった。和室の窓から、赤い西日が差し込んで、畳を染めていた。
久住詩織「瀬戸くんって、ほんとに、弱いよね」
瀬戸律「……はい。自覚は、あります」
久住詩織「でも。──あなたと取ってると、なんか、息が、しやすい」
そう言って、久住さんは、ほんの少しだけ、笑った。入部して二ヶ月、はじめて見る、彼女の笑顔だった。
その笑顔のほうが、千分の一秒で札を払うどんな瞬間よりも、ずっと、きれいだと思った。
7. 二人の夜練
冬が近づくと、部室に残るのは、たいてい僕と久住さんの二人だけになった。
団体戦が、十二月にある。五人一組で、相手チームと札を取り合う。久住さんは大将。僕は、いちばん下の、五将。勝てるとは、誰も思っていなかった。
でも久住さんは、毎晩、僕に付き合ってくれた。
久住詩織「瀬戸くん、構えが高い。もっと、低く。札に、近く」
瀬戸律「こう、ですか」
久住詩織「……ん。あと、払うとき、腕じゃなくて、指先で。手首のスナップで、札を、撫でるみたいに」
彼女の手が、僕の手首に、そっと添えられた。
ひやりと冷たくて、でも、やわらかい指だった。札を払う、あの凶器みたいな速さの手と、同じ手とは思えなかった。心臓が、跳ねた。
久住詩織「……どうしたの。手、止まってる」
瀬戸律「……いえ。なんでも」
慌てて札に目を戻した僕を、久住さんが、不思議そうに覗き込む。近い。睫毛の一本まで、見えた。
久住詩織「瀬戸くん。耳、赤い」
瀬戸律「……暖房が、効きすぎてて」
久住詩織「……ふうん」
久住さんは、それ以上、追及しなかった。でも、なんとなく、それから二人とも、口数が少なくなった。
しゃっ、しゃっ、と、二人で札を払う音だけが、誰もいないサークル棟に、響いていた。
帰り道、十二月の夜風が冷たかった。久住さんのマフラーが、白い息に、揺れていた。
久住詩織「ねえ、瀬戸くん」
瀬戸律「はい」
久住詩織「団体戦。──あなたがいてくれて、よかった」
それだけ言って、彼女は駅の改札へ消えていった。僕は、しばらく、そこから動けなかった。
8. 怖い、という告白
団体戦の、前夜だった。
夜練を終えて、札を片付けていると、久住さんの手が、止まっていた。並べた札を、じっと見つめたまま、動かない。
瀬戸律「……久住さん?」
久住詩織「……瀬戸くん。私ね。──怖いんだ」
ぽつり、と。氷が、溶けるみたいな声だった。
久住詩織「明日、大将戦。私が落としたら、チームが負ける。……去年の、クイーン戦と、同じ。最後の一枚が、怖い」
握った札が、小さく震えていた。あんなに速く、あんなに正確な手が。
久住詩織「お手つきが、怖い。友札を、読み違えるのが、怖い。──だから私、考えるのをやめたの。歌も、意味も、ぜんぶ消して。情報だけにすれば、ミスしないって。……でも、ぜんぶ消したら、今度は、かるたが、ちっとも、楽しくなくなった」
僕は、その隣に、座った。畳の上の「せ」の札が、目に入った。
瀬戸律「久住さん。──瀬をはやみ、の歌、覚えてますか」
久住詩織「……『われても末に あはむとぞ思ふ』」
瀬戸律「分かれても、末に逢う。崇徳院は、たぶん、すごく不安だったと思うんです。本当に、また逢えるのかなって。──でも、それでも、信じて、歌にした」
久住さんが、顔を上げた。
瀬戸律「明日、もし最後の一枚が来ても。怖くてもいいから、信じて、手を出してください。──歌を、信じて。久住さんが十年やってきた手を、信じて。僕、五将で、ちゃんと、先に勝っときますから」
久住詩織「……瀬戸くんが? いちばん弱いのに?」
瀬戸律「……そこは、流してください」
久住さんが、ふっと、吹き出した。それから、笑いながら、ちょっとだけ、泣いていた。
久住詩織「……うん。信じる。歌を。──瀬戸くんの言う、歌を」
9. 最後の一枚
団体戦、当日。
会場の畳の上で、五対五が、向かい合う。読手の声が、しんと静まった会場に、響きわたる。
僕は、案の定、自分の試合でぼろぼろだった。それでも、夜練で覚えた「むすめふさほせ」の七枚と、「せ」の札だけは、必死に守った。相手も初心者で、僕は、人生で初めて、団体戦で一勝を、もぎ取った。
瀬戸律(……勝った。先に、勝てた。久住さん、見ててくれたかな)
僕が顔を上げたとき、コートはもう、久住さんの、大将戦だけが残っていた。
互いに、残り一枚。運命戦。次の一枚を取ったほうが、勝つ。
会場じゅうが、彼女のコートを見ていた。久住さんの自陣に「せ」、敵陣に、友札のもう一枚。一音目が同じで、二音目で分かれる、二枚。去年、彼女がお手つきした、あの状況と、同じだった。
読手が、息を吸った。会場が、凍りついた。
黒木「……せ……」
その一音で、僕は思わず、立ち上がりかけた。「せ」は一字決まり。一枚しかない。──行け、と、心の中で叫んだ。
久住さんの手が、迷わなかった。
しゃっ。
自陣の「せ」の札が、宙を舞った。瀬をはやみ。岩にせかるる、滝川の。彼女の指が、千年前の恋の歌を、まっすぐに、撫でて飛ばした。
一瞬の、静寂。それから、わっと、会場がどよめいた。
久住さんは、払い飛ばした手のまま、しばらく、動かなかった。それから、客席の僕を、まっすぐに、見た。
その目が、潤んでいた。氷が、ぜんぶ、溶けていた。
久住詩織「……取れた。瀬戸くん。──歌で、取れた」
僕は、何度も、何度も、頷いた。声が、出なかった。
10. 誰もいない和室で
その夜、打ち上げが終わって、みんなが帰ったあと。
僕と久住さんは、なんとなく、二人で、あの和室の部室に戻ってしまった。優勝こそ逃したけれど、久住さんは全勝。僕も、まさかの一勝。片付けそびれた札を、ちゃんとしまっておきたかった。
蛍光灯を点けずに、窓から差す月明かりだけで、二人で札を箱にしまった。畳の上に、最後に「せ」の一枚が、残っていた。
久住詩織「……この札のおかげ、だね」
瀬戸律「久住さんが、信じたからです。歌を」
久住詩織「ううん。──瀬戸くんが、教えてくれたから」
久住さんが、「せ」の札を、両手で、そっと拾い上げた。
久住詩織「ずっと、忘れてた。私、これが好きで、始めたんだ。札じゃなくて、歌が。おばあちゃんが読んでくれる、この歌が」
月明かりの中で、彼女が、こっちを向いた。長い睫毛が、影を落としていた。
久住詩織「瀬戸くん。──私、たぶん、あなたのこと」
瀬戸律「……久住さん」
久住詩織「『われても末に あはむとぞ思ふ』。……分かれても、末に逢う、って。私、もう、瀬戸くんと、分かれたくない、って思っちゃった」
僕は、その「せ」の札を持つ手に、自分の手を、そっと重ねた。
瀬戸律「……分かれませんよ。最初から。──僕、ずっと、久住さんに、引き寄せられてた。あの、札を払う音から」
どちらからともなく、距離が、なくなった。僕は、彼女の細い肩に手を回して、引き寄せた。
唇が、重なった。
久住詩織「ん……」
千分の一秒で札を払う、あの速い人が。今は、僕の腕の中で、ゆっくりと、目を閉じていた。一度離れて、目が合って、もう一度、今度は深く。月明かりの和室に、二人のほかには、誰もいなかった。
11. ほどけていく人
久住詩織「……瀬戸くん。誰か、来ない、かな」
瀬戸律「鍵、閉めてきます」
そっと立って、襖の鍵を閉めた。振り返ると、久住さんが、畳の上で、膝を抱えて、こっちを見ていた。月の光が、白い首筋を、青く照らしていた。
僕は、その隣に座って、もう一度、口づけた。畳の、い草の匂いがした。
瀬戸律「……怖かったら、言ってください」
久住詩織「……ううん。瀬戸くん、だから。いい」
セーターの裾から、そっと手を入れると、久住さんの素肌は、団体戦の熱が、まだ残っているみたいに、熱かった。いつも札の前で張りつめている背中が、僕の手の中で、少しずつ、ほどけていく。
れろ……ちゅ……
久住詩織「ん……っ」
首筋に唇を這わせると、久住さんの体が、びくりと跳ねた。あんなに静かで、氷みたいだった人が、僕の腕の中で、頼りなく震えている。それが、たまらなく、愛おしかった。
久住詩織「……瀬戸くん。月明かり、明るすぎ……」
瀬戸律「久住さんの顔、見たいので」
久住詩織「……っ、もう」
セーターを脱がせると、久住さんは恥ずかしそうに、胸の前で腕を組んだ。すらりとした体に、やわらかなふくらみが、青い光に浮かんだ。
瀬戸律「……久住さん、きれいだ」
久住詩織「……名前。詩織で、いい。──もう、同期じゃ、ないでしょ」
瀬戸律「……詩織」
下の名前を呼ぶと、彼女の睫毛が、ふるりと、震えた。
12. はじめての夜
おずおずと、詩織が腕をほどいた。僕は、そのやわらかな胸を、壊れ物みたいに、そっと手で包んだ。
久住詩織「あ……っ」
瀬戸律「……痛くない?」
久住詩織「いた、くない……っ」
指の腹で、つんと尖りはじめた先端をかすめると、詩織の肩が、ぴくんと跳ねた。
久住詩織「ひゃ……っ、そこ……っ」
瀬戸律「……ここ?」
久住詩織「……っ、声、出ちゃう……っ」
口では恥ずかしがるのに、そっと先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、詩織の体から、ふっと力が抜けていった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
久住詩織「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
札の前ではひとことも漏らさない人が、甘くてほどけた声を、月明かりの和室にこぼす。誰もいなくてよかった、と頭の隅で思った。この声は、僕だけが、聞いていたい。
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、太腿の内側を、ゆっくりと撫で上げていく。
久住詩織「ん……っ♡」
瀬戸律「……力、抜いて。詩織のペースで」
久住詩織「……っ、それ、ずるい……っ。いつも、私が教えるほうなのに……っ」
スカートの中、いちばん敏感なところに、下着の上から触れると、もう、そこが熱を持っているのがわかった。指でそっと撫でるたびに、詩織の腰が、小さく揺れる。やがて下着をずらして、直接そこに触れると――
くちゅ、と。
久住詩織「ひゃ……っ♡」
瀬戸律「……濡れてる」
久住詩織「言わないで……っ♡ さっきの、キス、から……っ」
恥ずかしさで顔を背ける詩織に、何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹で、くるくると撫でた。詩織が、僕の腕に、ぎゅっとしがみつく。
くちゅ……くちゅ……
久住詩織「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
瀬戸律「……気持ちいい?」
久住詩織「……っ♡ うん……っ♡」
指を、ゆっくりと、中へ沈めていく。
ずぷ……っ
久住詩織「ん……あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろだった。指の動きに合わせて、詩織の体が、だんだん高まっていくのがわかる。
くちゅくちゅくちゅっ……
久住詩織「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
瀬戸律「いいよ。そのまま」
久住詩織「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、詩織の体が、びくびくっと跳ねた。
久住詩織「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
僕の腕の中で、詩織はぎゅっと体を丸めて、達した。いつも凛と札の前に座る人が、僕の前で乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が締めつけられた。
13. われても末に
久住詩織「……瀬戸くん」
瀬戸律「ん」
久住詩織「……最後まで、してほしい。瀬戸くん、と」
頬を染めて、上目づかいで、そんなことを言う。僕は、ごくりと喉を鳴らした。
瀬戸律「……無理、してない?」
久住詩織「してない。私が、したいの。──今日、歌を取り戻せたの、瀬戸くんがいたから。だから、今日が、いい」
僕は、財布に念のため入れていた小さな包みを取り出した。詩織が、それを見て、ふっと、ほっとしたように笑う。
久住詩織「……そういうとこ、ちゃんとしてる」
瀬戸律「……段取りは、大事だって。誰かに、教わったので」
久住詩織「……もう。こんなときに」
畳の上で、僕は詩織に、そっと覆いかぶさった。脚の間に体を進めて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがう。
瀬戸律「……いくよ。痛かったら、すぐ言って」
久住詩織「……うん」
ずぷ……っ♡
久住詩織「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、詩織は僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、詩織の中が僕を受け入れていく。
ずず……っ
久住詩織「っ……あ……っ」
瀬戸律「……止める?」
久住詩織「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
僕は、詩織の様子を窺いながら、ほんの少しずつ進んだ。途中で何度も止まって、額にキスを落として、また少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。
久住詩織「……全部、入ってる……?」
瀬戸律「うん。……全部」
久住詩織「……繋がってる。──分かれてた二つが、末に、ひとつに……」
詩織の目に、うっすら涙がにじんでいた。瀬をはやみ。岩にせき止められて、二つに分かれた川が。今、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を、指でそっと拭った。
瀬戸律「……動いて、平気?」
久住詩織「うん……っ。来て、瀬戸くん……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
久住詩織「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、詩織の体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、詩織の声が漏れる。読手の声を待つときみたいに、僕は、詩織の息に、リズムを合わせた。
瀬戸律「……痛くない?」
久住詩織「……っ♡ 平気……っ♡ なんか、変な、感じ……っ♡」
瀬戸律「気持ちよく、なってきた?」
久住詩織「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、瀬戸くんの、好き……っ♡」
口走ってから、詩織は自分の言葉に、また顔を赤くした。
ぱちゅ……ぱちゅ……
久住詩織「律くん……っ♡」
瀬戸律「……っ、詩織」
久住詩織「……っ♡ 名前で、呼んだ……」
瀬戸律「一回、名前で、呼ばれたかった」
下の名前で呼ばれて、僕の腰が、思わず深く沈んだ。詩織が、僕の首に腕を回して、自分から唇を求めてくる。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ、深くなる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
久住詩織「あっ♡ あっ♡ 律くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
瀬戸律「……僕も、そろそろ」
久住詩織「一緒が、いい……っ♡ 律くんと、一緒……っ♡」
僕は、詩織をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
久住詩織「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 律くん……っ♡♡」
瀬戸律「……っ、詩織……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
久住詩織「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、詩織の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。い草の匂いだけがする夜の和室で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
久住詩織「……はぁ……っ、律くん……」
瀬戸律「……詩織。痛くなかった?」
久住詩織「……痛かった、けど。……それより、ずっと、幸せだった」
僕は、詩織の汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。
14. 二人で読む
次の練習の日も、僕らは、いつものように和室にいた。
畳に札を並べて、向かい合う。詩織が読手をやってくれて、僕がへたくそに札を払う。何も変わらない。なのに、何もかもが、違って見えた。
久住詩織「……瀬をはやみ」
瀬戸律「あっ。……取れた! 今の、取れました!」
久住詩織「うん。──歌で、取れたね」
詩織が、ふわっと笑った。氷みたいだった、あの最初の横顔が、嘘みたいだった。
そこへ、襖が開いて、黒木さんが顔を出した。
黒木「お前ら、なんか最近、距離おかしくないか。練習中だぞ」
瀬戸律「……そ、そんなことは」
久住詩織「黒木さん。私たち、付き合ってます」
黒木「……は?」
瀬戸律「ちょっ、詩織さん!?」
黒木さんが、缶コーヒーを吹き出して、げらげらと笑った。
黒木「そっか。──まあ、お前が来てから、久住、楽しそうになったもんな。よかったよ」
黒木さんが出ていったあと、詩織が、こっちを見て、ちょっと、いたずらっぽく笑った。
久住詩織「だって。──分かれたくないんでしょ?」
瀬戸律「……はい。最初から」
久住詩織「われても末に、あはむとぞ思ふ。──でも私たち、もう、分かれないけどね」
僕は、畳に残った「せ」の札を、そっと拾った。瀬をはやみ。岩にせかるる、滝川の。千年前の恋の歌が、今、二人の手の中に、あった。
歌が好き、というだけで飛び込んだ、いちばん下手な新入りの僕に。誰よりも速く札を払う、けれど歌を忘れていた人が、ふり向いてくれた。
瀬戸律「詩織。これからも、隣で、読んでくれますか」
久住詩織「うん。──律くんが、ちゃんと、取ってくれるなら」
瀬戸律「取ります。何回でも。詩織の声なら」
久住詩織「……じゃあ、もう一首。──いくよ」
しんと静まった和室に、詩織の、やわらかな声が、響いた。僕は、その声を待って、畳に、そっと指先を構えた。
二人のあいだに、もう、川一本ぶんの距離も、なかった。
― 終 ―