声が震える私の深夜放送を、調整卓の向こうでいつも黙って支えてくれた無口な音響の先輩と、大学祭最終夜の放送室で結ばれた話

放送室の赤いランプが灯ると、世界から音が消える。

私、七瀬結(ななせゆい)、二十歳。大学二年で放送研究会に所属している。週に一度、水曜の深夜零時から一時間、学内のミニFMで「真夜中の図書室」という番組のパーソナリティをやっている。聴いているのは、たぶん試験勉強で起きている学生か、夜勤明けの近所の人くらい。それでも、マイクの前に座って自分の声が電波になる瞬間は、何度経験しても、手のひらに汗がにじむ。

(……息、吸って。大丈夫。いつもどおり)

そう自分に言い聞かせても、本番のキューランプが光ると、決まって最初のひと言が震えた。

「こ、こんばんは……『真夜中の図書室』、司書の七瀬結です」

噛んだ。また噛んだ。頬が熱くなる。台本の角を握りしめて、私はガラスの向こうへ目をやった。

調整室。ずらりと並んだフェーダーの前に、その人は座っている。冬野透(ふゆのとおる)先輩。四年生で、放送研究会の音響担当。無口で、必要なこと以外は本当に喋らない人。

私が噛んだその瞬間、先輩はヘッドホンの片耳をずらして、ガラス越しに、ゆっくりと頷いた。

(……落ち着け、って言ってる)

不思議だった。その小さな頷きひとつで、暴れていた心臓が、すっと静かになる。私はもう一度息を吸って、台本の二行目を読みはじめた。


冬野先輩のことを、私は最初、ちょっと怖い人だと思っていた。

入会したばかりの頃、機材の使い方を教わったのも先輩だった。でも、説明はいつも最短で、笑顔もほとんどない。同期の麻衣なんて、「あの人、何考えてるか分かんないよね」と言っていた。

「結、よく冬野先輩と二人で深夜やれるよね。あたし沈黙が怖くて無理」

「沈黙、怖くないよ。むしろ……」

「むしろ?」

「ううん、なんでもない」

むしろ、心地いい。そう言いかけて、私は飲み込んだ。なんだか、自分の知らない気持ちを口に出してしまいそうで。

水曜の深夜、放送室には基本的に私と先輩の二人きりだ。番組が始まる前、私が台本を読み返している間、先輩は黙々とケーブルを束ね、レベルを合わせ、無言で水のペットボトルを一本、私の机に置く。

「喉、乾くから」

それだけ言って、調整室へ戻っていく。たったそれだけのことなのに、私はそのペットボトルを、毎週なんだか大事に飲んでいた。


ある水曜、私はひどく緊張していた。その日は、初めてリスナーからのメッセージを生で読む回だったのだ。

本番十分前。台本を持つ指が冷たくなっていた。震えているのが自分でも分かる。すると、調整室のドアが開いて、先輩がブースに入ってきた。

「七瀬」

「は、はい」

「ここ、押さえて」

先輩は、私のマイクの角度を直しながら、もう片方の手で、卓上の原稿の端を、とん、と指で押さえた。

「読むとき、ここ見て。客席じゃなくて、紙でいい。ひとりに話すつもりで」

「ひとりに……」

「全員に届けようとすると、声が散る。ひとりに喋れば、ちゃんと届く」

普段あんなに無口な人が、そのときだけ、私の目をまっすぐ見て言った。近い。マイクを直す先輩の指先が、私の頬のすぐ横にある。石鹸みたいな、清潔な匂いがした。

(……この人、私の声、ちゃんと聴いてくれてるんだ)

毎週ガラス越しに頷いてくれていたのは、気のせいなんかじゃなかった。先輩は、私の声を、誰よりちゃんと聴いていた。

その日の放送で、私は初めて、一度も噛まずにメッセージを読み切った。終わってヘッドホンを外したとき、ガラスの向こうで、先輩がほんの少しだけ、口の端を上げたのが見えた。


それからの水曜が、私の一週間の真ん中になった。

放送が終わるのは深夜一時過ぎ。後片付けをして、先輩と二人で大学を出る頃には、もうキャンパスは静まり返っている。秋が深まって、正門までの銀杏並木は、すっかり黄色く色づいていた。

「先輩、今日のあのジングル、よかったです。曲が切り替わるとこ」

「お前のトークの間に合わせただけ」

「私に?」

「七瀬、間の取り方が独特だから。普通のタイミングで音入れると、ぶつかる」

ぶっきらぼうなのに、ちゃんと私のことを見ている。歩きながら、私は気づいたら先輩の横顔を盗み見ていた。街灯の下で、伏せたまつ毛が長い。

帰り道、いつも二人で寄るコンビニがあった。先輩はホットコーヒー、私は肉まん。レジの前のベンチに並んで座って、白い息を吐きながら食べるのが、いつのまにか決まりになっていた。

「先輩って、なんで音響なんですか。喋るほうじゃなくて」

「……人前で喋るの、苦手だから」

「意外。すごく落ち着いてるのに」

「裏方が性に合ってる。誰かが前で喋るのを、後ろで支えるほうが」

コーヒーのカップを両手で包んで、先輩はぽつりと続けた。

「七瀬の声、いいと思う。だから、支えがいがある」

さらっと言われて、私は肉まんを落としそうになった。心臓が、ばくばくと鳴る。

(……今の、どういう意味)

ただの仕事の評価。そう思おうとしても、頬の熱が引かなかった。


冬が近づくにつれて、私は自分の気持ちに気づかないふりができなくなっていた。

水曜が待ち遠しい。放送のためじゃない。先輩に会えるからだ。ガラス越しの頷き、ペットボトルの水、コンビニのベンチ。そのぜんぶが、私の中で日に日に大きくなっていく。

でも、同時に、ひとつの事実が、ずっと胸に刺さっていた。

先輩は、四年生。この春で、卒業する。

そのことを、麻衣に何気なく言われたとき、私は思わず黙り込んでしまった。

「冬野先輩、卒業したら地元帰るって噂だよ。音響の会社、受かったらしくて」

「……地元って、どこ」

「えっと、確か、新潟? 結構、遠いよね」

「……そっか」

その夜、私はなかなか眠れなかった。あと半年もない。私が水曜のたびに大事に飲んでいたあの時間は、もうすぐ終わってしまう。

(……言わなきゃ、後悔する)

でも、言ってどうなる。先輩はもう、遠くへ行ってしまう人だ。困らせるだけかもしれない。布団の中で、私は何度も同じところをぐるぐる回っていた。


そうして、大学祭の季節になった。

放送研究会は、大学祭の三日間、特別番組を編成する。最終日の夜、私は「真夜中の図書室」の特別生放送を担当することになった。卒業する四年生にとっては、これが最後のステージ。つまり、冬野先輩が音響を担当する、最後の放送だった。

最終夜。模擬店の灯りが消え、後夜祭の喧騒も遠ざかった深夜、放送室には、いつものように私と先輩の二人だけが残った。

「先輩。今日で、最後ですね」

「……ああ」

「私、ちゃんとやれるかな」

「やれる。いつもどおり、俺がいる」

その「俺がいる」のひと言に、泣きそうになった。私は唇を噛んで、ブースに入った。

赤いランプが灯る。最後の放送が始まった。

「こんばんは。『真夜中の図書室』、司書の七瀬結です。今夜は、大学祭の最終夜。眠れない夜を過ごしているあなたに、静かな一時間をお届けします」

噛まなかった。震えなかった。ガラスの向こうの先輩を見ると、いつものように、ゆっくり頷いてくれた。その頷きに支えられて、私は一時間、ずっと喋り続けた。

そして、エンディング。最後の曲を流しながら、私は台本にない言葉を、マイクに乗せた。

「……この番組は、ずっと、ひとりの人に支えてもらってきました。私の声を、誰よりちゃんと聴いてくれた人に。その人に、ちゃんと伝えたいことが、あります」

ガラスの向こうで、先輩の手が、フェーダーの上で止まった。

「それでは、また。おやすみなさい。……司書の、七瀬結でした」

赤いランプが、消えた。


放送が終わっても、私はマイクの前から動けなかった。心臓がうるさい。やがて調整室のドアが開いて、先輩がブースに入ってきた。

「……最後の、あれ」

「はい」

「『ひとりの人』って」

「……先輩のことです」

言ってしまった。もう、後戻りできない。私は立ち上がって、先輩の目を見た。

「私、毎週、水曜が楽しみでした。放送のためじゃなくて、先輩に会えるから。ガラス越しの頷きも、水も、帰りのコンビニも、ぜんぶ……ぜんぶ、好きでした」

声が、震えた。本番では震えなかったのに、こういうときだけ、また震える。

「卒業しちゃうって、聞いて。だから、最後に、ちゃんと言いたくて。……先輩が、好きです」

放送室が、しんと静まり返った。防音の部屋だから、外の音はひとつも入ってこない。聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。

先輩は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくり、私のほうへ一歩近づいた。

「……俺も、水曜が、楽しみだった」

「え」

「ペットボトル、毎週、お前が大事そうに飲むの。それ見るのが、好きだった」

無口な先輩が、絞り出すみたいに、続けた。

「言うつもり、なかった。俺、卒業するし。困らせるだけだと思って。……でも」

「でも?」

「お前に先に言われたら、もう、黙ってられない」

先輩の手が、私の頬に触れた。大きくて、少し冷たい、けれど優しい手。私は逃げなかった。逃げたくなかった。

「七瀬。……俺も、好きだ」

その言葉が、放送室に、静かに響いた。


どちらからともなく、距離が縮まった。先輩の顔がゆっくり近づいて、私はそっと目を閉じた。

唇が、重なる。

「ん……」

柔らかくて、コーヒーの匂いがして、少し緊張しているのが伝わってくる。私の初めてのキスは、防音の放送室の、消えた赤いランプの下だった。一度離れて、目を合わせて、もう一度、今度は少し深く重なる。

ちゅ……ちゅっ……

「は……先輩……」

先輩の腕が、私の背中に回って、ぎゅっと抱き寄せられた。胸が、先輩の体にぴたりと押しつけられる。

「……七瀬。やめてほしかったら、言って」

「……やめないで、ください」

自分でも驚くくらい、はっきり言えた。先輩が、ふっと息を漏らして、もう一度、私を抱きしめた。

唇を重ねながら、先輩の手が、私のニットの裾から、おそるおそる入ってくる。背中の素肌を、温かい手のひらがそっと撫でた。

「ん……っ」

「……震えてる」

「だって……はじめて、なんです……」

その言葉に、先輩の動きが、いっそう優しくなった。急がない。私のペースを、ずっと窺ってくれている。音響卓の前で、いつも私の間に音を合わせてくれたみたいに。

放送室の隅、機材を避けた狭いソファに、先輩は私をそっと座らせた。隣に腰を下ろして、もう一度、深く口づける。キスをしながら、ニットが、ゆっくり脱がされていった。

れろ……ちゅ……

「ん……ふ……っ」


ブラごしに、先輩の手が、私の胸にそっと触れた。

「あ……っ」

「……痛くない?」

「いた……くない、です……」

恥ずかしくて、私は顔を背けた。放送室の薄明かりの中で、自分の肌が晒されているのが、どうしようもなく心許ない。でも、先輩の手つきが優しくて、その優しさに、体の力が少しずつ抜けていった。

ブラのホックが外されて、胸が先輩の前にこぼれる。先輩は、それを壊れ物みたいに、そっと手で包んだ。

「……きれいだ」

「やだ……見ないで、ください……」

「見たい。……だめか?」

その聞き方が、ずるい。私は何も言えなくなって、こくんと小さく頷いた。先輩の指が、つんと立ちはじめた先端を、そっとかすめる。

「ひゃ……っ、そこ……っ」

「……ここ?」

「……っ、変な、声、出ちゃう……」

口では恥ずかしがるのに、先輩が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、勝手に漏れる。防音の部屋でよかった、と頭の隅で思った。こんな声、誰にも聴かせたくない。先輩だけに、聴いていてほしい。

胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私のスカートの中、太腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。

「ん……っ♡」

「力、抜いて。……七瀬のペースでいい」

その声に、自然と体がほどけた。いつも放送で、私の間に音を合わせてくれた人。今も、私のリズムに、ちゃんと合わせてくれている。先輩の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れた。

「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが熱くなっているのが、自分でも分かった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、先輩の指が、直接そこに触れた。

くちゅ、と。

「ひゃ……っ♡」

「……濡れてる」

「言わないで……っ♡ キスのとき、から……っ」

恥ずかしさで消えたいのに、先輩の指は、どこまでも優しかった。敏感な突起を、指の腹でくるくると撫でられて、私は先輩の腕にしがみついた。

くちゅ……くちゅ……

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」

「……気持ちいい?」

「……っ♡ うん……っ♡」

指が、ゆっくり中へ入ってくる。

ずぷ……っ

「ん……あぁ……っ♡」

熱い。先輩の指が、私の中を、こわごわ、けれど確かめるように広げていく。痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。

「……平気か」

「平気……っ♡ 先輩の、優しいから……っ♡」

指の動きに、体がだんだん高まっていく。胸の先と、下の突起と、中を、同時に優しく可愛がられて、私はもう、何も考えられなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」

「いいよ。そのまま」

「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」

指の動きが速くなって、私の体は、初めての高みへ押し上げられた。

「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。先輩の腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。

「……大丈夫?」

「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」

息を切らせる私の額に、汗で張りついた前髪を、先輩がそっとよけてくれた。その仕草の優しさに、また泣きそうになった。


「……先輩」

「ん」

「……最後まで、してほしい、です。先輩と、なら」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、この人となら、言えた。先輩が、ごくりと喉を鳴らす。

「……無理は、するな」

「無理じゃ、ない。私が、したいの」

先輩は、ポケットから小さな包みを取り出した。ちゃんと避妊具を用意してくれていたことに、なんだか胸が温かくなる。こういうところまで、この人は律儀だ。

「痛かったら、すぐ言って。……止めるから」

「……うん」

狭いソファの上で、先輩が私にそっと覆いかぶさってくる。脚の間に体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。

「いくよ。……ゆっくり」

「……はい……っ」

ずぷ……っ♡

「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は先輩の背中に腕を回して、しがみついた。きつい。じんとした痛みがある。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、私の中が先輩を受け入れていく。

ずず……っ

「っ……痛……っ」

「……止める?」

「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」

先輩は、私の様子を窺いながら、ほんの少しずつ、進んでくる。途中で何度も止まって、私の額にキスをして、また少し進む。その気遣いに、痛みが、だんだん別のものに変わっていった。

やがて、根元まで、先輩が収まった。繋がった場所から、じんわりと熱が広がっていく。

「……入って、る……?」

「ああ。……全部」

「……繋がってるんだ、私たち……」

胸がいっぱいになって、涙がにじんだ。ずっとガラス一枚を隔てていた人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。先輩が、私の涙を指でそっと拭った。

「……動いて、平気か」

「うん……っ。来て、先輩……っ」

先輩が、ゆっくり動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」

最初は、私の体を気遣う、本当にゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。痛みの奥から、じわじわと、知らない感覚が芽生えてくる。

「……痛くない?」

「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」

「気持ちよく、なってきた?」

「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、先輩の、好き……っ♡」

口走ってから、それが体のことなのか、先輩自身のことなのか、自分でも分からなくなった。たぶん、どっちもだった。

先輩の額から落ちた汗が、私の胸にぽつりと落ちる。無口な人が、私の名前を、何度も呼んでくれた。

「七瀬……結」

「……っ♡ 名前……」

「結。……ずっと、呼びたかった」

下の名前で呼ばれて、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。私は先輩の首に腕を回して、自分から唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。

ぱちゅ……ぱちゅ……

「ん……っ♡ ふ……っ♡」

「結。……俺、卒業しても」

「……っ?」

「遠くなっても。……ちゃんと、会いに来る。だから」

「……っ♡♡ うん……っ♡ 待ってる……っ♡」

その約束が、繋がった場所から、体の芯まで沁みていく。律動が、少しずつ深くなった。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

「あっ♡ あっ♡ 先輩……っ♡ なんか、また……っ♡」

「……俺も、そろそろ」

「一緒が、いい……っ♡ 先輩と、一緒……っ♡」

先輩が、私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡

「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 先輩……っ♡♡」

「……っ、結……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥でびくびくと跳ねる先輩を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。先輩が、私の上で、はぁ、と大きく息を吐く。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。

「……はぁ……っ、先輩……」

「……結。痛くなかったか」

「……痛かった、けど。……それより、ずっと、幸せでした」

先輩が、私の汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。


放送室の小さな窓から、白々と夜が明けはじめていた。

大学祭の最終夜が終わって、キャンパスはすっかり静まり返っている。私は先輩の腕に頭を預けて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。先輩の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。

「……先輩。卒業したら、新潟、帰っちゃうんですよね」

「……ああ。でも、東京と新潟なんて、新幹線で二時間だ」

「二時間」

「会おうと思えば、いつでも会える。……それに」

「それに?」

「お前の番組、ネットでも聴ける。俺、向こうでも、毎週水曜、聴くから」

その言葉に、胸がじんと熱くなった。ガラスの向こうにいた人が、今度は、二百キロ先から、それでも私の声を聴いていてくれる。

「……じゃあ、毎週、先輩に向けて喋りますね」

「ひとりに、喋るつもりで?」

「はい。……先輩、ひとりに」

先輩が、ふっと笑った。あの、口の端だけがほんの少し上がる、無口な人の笑い方。それが、たまらなく好きだと思った。

「……結」

「ん?」

「卒業しても、放送研究会、たまに顔出していいか。お前の音、合わせに」

「……ずるい。そんなの、嬉しいに決まってるじゃないですか」

私は、先輩の胸に頬をすり寄せた。ずっとガラス一枚で隔てられていた距離が、今は、ひとつもない。先輩の手が、私の指にしっかり絡んで、もう離れる気配がなかった。

朝日が、放送室の機材を、ひとつずつ照らしていく。消えたままの赤いランプも、フェーダーの並ぶ調整卓も、やわらかな光の中にあった。

「……そろそろ、出るか」

「はい。……あ、先輩」

「ん?」

「水、ありがとうございました。毎週。……あれ、すごく、嬉しかったんです」

先輩は、一瞬きょとんとして、それから、今度ははっきりと笑った。

「……気づいてたのか」

「気づきますよ。毎週ですもん」

二人で、ちょっと笑った。私たちは服を着て、機材の電源を落とし、放送室を出た。秋の終わりの冷たい朝の空気が、火照った頬に気持ちいい。

銀杏並木は、すっかり葉を落としかけていた。黄色い絨毯の上を、先輩と手を繋いで歩く。いつものコンビニで、いつものコーヒーと肉まんを買って、ベンチに並んで座った。

「……ねえ、先輩」

「ん」

「来週の水曜も、来てくれますか」

「行く。卒業まで、あと半年あるだろ」

「半年……。じゃあ、その半年で、いっぱい、思い出作りましょうね」

「ああ。……それと、卒業してからも、ずっと」

白い息が、二つ、朝の光の中に溶けていく。ガラスの向こうで、いつも黙って私を支えてくれた人。その人の声を、今は、ガラス越しじゃなく、すぐ隣で聴いている。

私は、コーヒーで温まった先輩の手を、ぎゅっと握り返した。

「……おやすみなさい、じゃなくて。おはようございます、ですね。先輩」

「ああ。……おはよう、結」

朝日を浴びた銀杏が、最後の葉を、はらりと一枚、私たちの足元に落とした。

― 終 ―


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