弓道場というのは、音のしない場所だと思っていた。
僕、朝倉涼(あさくら りょう)、十八歳。この春、大学に入ったばかりの一年生だ。高校までは野球をやっていた。ピッチャーで、それなりに本気で、甲子園を夢みたこともあった。でも二年の夏に肘を壊して、手術をして、結局マウンドには戻れなかった。白球を握ることをやめてから、僕の世界からは、ずっと音が消えていた。
六月のはじめ、まだ梅雨入り前の夕方だった。サークルの勧誘にも乗りきれず、なんとなくキャンパスの裏手をぶらついていたら、古い武道場の脇を通りかかった。
(……なんだ、今の音)
ぱしっ、と。乾いた、けれど芯のある音が、開け放した戸の奥から聞こえた。野球のミットの音にも、バットの音にも似ていない。もっと静かで、もっと鋭い、一瞬の音。
引き寄せられるように、僕は薄暗い射場をのぞき込んだ。
そこに、ひとりの女の人が立っていた。白い道着に、黒い袴。弓をいっぱいに引き絞って、二十八メートル先の的を、まっすぐに見据えている。動かない。呼吸さえ止まっているみたいに、動かない。
そして――ぱしっ。
矢が放たれて、的の真ん中が、小さく揺れた。
(……きれいだ)
野球をやめてから、何を見ても心が動かなかった僕の胸が、そのとき確かに、ひとつ大きく跳ねた。
次の日も、僕は同じ時間に、同じ場所へ来てしまった。
戸の陰からのぞいていたら、その人がこちらに気づいて、弓を下ろした。
「見学? それとも、入りたいの」
近くで見ると、思ったより小柄な人だった。けれど、背筋がぴんと伸びていて、立っているだけで、空気が一段、静かになる。
「あ……すみません。昨日も、ちょっと見てて。あの音が、なんか……」
「離れの音。いいでしょ、あれ」
「はい。すごく」
その人は、結城凪(ゆうき なぎ)さんといった。三年生で、この弓道部のエース。去年の関東のリーグ戦で個人優勝した人だと、あとで知った。
「弓道、やったことは?」
「ないです。ずっと野球を……でも、もう、やめたんで」
「そう」
凪先輩は、それ以上は聞かなかった。ただ、巻藁(まきわら)という、近くに置かれた藁の束の前に僕を立たせて、ゴム弓という練習用の道具を握らせた。
「弓道はね、的に中てる競技だと思われがちだけど。本当は、自分の形をつくる稽古なの。八つの動作を、ひとつずつ、丁寧に」
「八つ……」
「足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心。覚えなくていい。体で、ゆっくり」
その日のうちに、僕は入部届を書いていた。同じ新歓で迷っていた同期の沢田も、「お前が入るなら」と、なし崩しに一緒に入った。
「朝倉、お前さ、弓道に興味あったっけ」
「……なかった。昨日まで」
「なんだそれ」
なんだそれ、と自分でも思った。でも、あの離れの音と、的を見据える先輩の横顔が、頭から離れなかった。
それから、夕方の弓道場が、僕の一日の終着点になった。
一年生は、しばらく巻藁ばかりだ。射法八節を、ただひたすら繰り返す。地味で、退屈で、でも不思議と、嫌じゃなかった。野球のように、誰かと競い合うわけでもない。ただ、自分の呼吸と、弓と、向き合う。
凪先輩は、忙しいはずなのに、いつも僕らの稽古を見てくれた。
「朝倉くん、肩に力が入りすぎ。引くんじゃなくて、左右に分かれていく感じ」
「分かれていく……難しいです」
「野球のピッチングと一緒。力で投げる球より、抜けた球のほうが速いでしょ」
「……あ。なんか、わかる気がします」
そういう、ふっと核心を突く言い方をする人だった。普段は無駄口をたたかないのに、弓のことになると、急に言葉が増える。
稽古が終わって、一年がみんな帰ったあとも、凪先輩はよく、ひとり射場に残っていた。誰もいない弓道場で、的に向かって、何本も、何本も矢を引いている。
(……あれ。先輩、なんか、表情が違う)
巻藁の片づけをしながら盗み見ると、僕らに教えてくれるときの穏やかな顔が、嘘みたいだった。的の前の先輩は、眉根を寄せて、唇を噛んで、何かと必死に戦っているように見えた。
ぱしっ、と離れの音がして、矢が的の外へ流れた。先輩が、小さく舌打ちをした。あんなにきれいに中てていた人が、外す。何度も、外す。
僕は、声をかけられなかった。
ある晩、稽古のあと、自販機の前で先輩と二人になった。
雨上がりの夜で、射場の軒先から、まだぽたぽたと雫が落ちていた。先輩は缶のお茶を握ったまま、しばらく、暗い的のほうを見ていた。
「先輩。最近、夜遅くまで、残ってますよね」
「……見てたんだ」
「すみません。なんか、気になって」
先輩は、ふっと息を吐いて、軒先の縁に腰を下ろした。僕も、少し離れて隣に座った。
「朝倉くん。『早気(はやけ)』って、知ってる?」
「いえ」
「会が、保てなくなる病気みたいなもの。引き絞って、本当はそこで何秒か、ぐっと溜める。その『間』があって、矢は離れる。……でも、それが、できなくなるの。体が勝手に、はやく放しちゃう」
先輩は、自分の右手を、じっと見つめた。ゆがけをまだ着けたままの、その手を。
「高校からずっと中ててきたのに。去年、優勝までしたのに。今年に入ってから、急に。引き分けて、的を見た瞬間、怖くなって、勝手に指が、ほどけちゃう」
「……怖く、なる?」
「外したら、どうしよう、って。エースなんだから、中てなきゃって。……考えるほど、はやくなる」
その横顔を見て、僕は、胸が詰まった。マウンドの上で、最後の打者に投げる前、僕もまったく同じ顔をしていた気がした。中てなきゃ。抑えなきゃ。期待に、応えなきゃ。
「……わかる気が、します。その怖さ」
「朝倉くんに?」
「はい。僕も、最後のほう、ボールが手から離れるのが、怖かった。投げたら、結果が出ちゃうから。投げなければ、まだ、何も決まらないから」
先輩が、ゆっくりとこちらを向いた。暗がりの中で、その目が、少し揺れていた。
「……そっか。朝倉くんも、そうだったんだ」
リーグ戦は、来週末だと、先輩は言った。三年の、最後の。
それから僕は、毎晩、先輩が残る射場に、最後まで付き合うようになった。
何ができるわけでもない。矢取りを手伝って、安土から先輩の矢を抜いて、また射場へ運ぶ。それだけ。でも先輩は、僕が残っていると、少しだけ、肩の力が抜けるみたいだった。
ある晩、先輩がまた、会を保てずに矢を外した。ぱしっ、と空しい音。先輩は、弓を下ろして、その場にしゃがみ込んでしまった。
「……だめだ。全然、溜まらない」
「先輩」
「もう、わかんない。どうやって、引いてたんだっけ。前は、こんなこと、考えもしなかったのに」
声が、湿っていた。エースの、凛とした人が、誰もいない弓道場で、膝を抱えている。僕は、どうしていいかわからなくて、でも、黙っていられなくて、しゃがんで、目線を合わせた。
「……先輩。さっき的を狙ってるとき、めちゃくちゃ怖い顔、してましたよ」
「……は?」
「最後の打席の、僕みたいでした。中てなきゃ、抑えなきゃ、って、自分で自分を、追い詰めてる顔」
先輩が、顔を上げた。
「でも、いちばん最初に僕が見たとき。先輩、すごく、静かな顔してたんです。的を見てるのに、なんにも力んでなくて。……たぶん、あのときの先輩は、的に中てようとしてなかったんじゃないですか。ただ、きれいに引いてただけで」
しんと、静まった。先輩は、しばらく、僕を見つめていた。それから、ふっと、肩が小さく震えた。笑ったのだ。泣き笑いみたいな、はじめて見る顔で。
「……一年生のくせに。生意気」
「すみません」
「ううん。……ありがとう」
先輩は、目元を袖でぬぐって、立ち上がった。そして、もう一度、的の前に立った。今度は、的を、にらまなかった。やわらかく、ただ前を見て、ゆっくりと弓を引き分けた。
会。一秒、二秒、三秒――溜まった。
ぱしっ。
矢は、的の、すぐ脇に立った。中ってはいない。でも先輩は、ふり返って、泣きそうな顔で笑った。
「……溜まった。久しぶりに、会が、保てた」
「……はい。見てました」
その笑顔を、僕は、たぶん一生忘れない。
リーグ戦の、前夜だった。
その日は、部全体が早めに切り上げた。明日に備えて、みんな体を休めるためだ。僕も帰ろうとしたけれど、道具をしまっていると、射場の奥に、まだ袴姿の先輩が立っているのが見えた。
「先輩。帰らないんですか。明日、本番なのに」
「……眠れる気が、しないの。家で、ひとりでいると、また、怖くなる」
外は、いつのまにか、しとしとと雨が降りはじめていた。初夏の、生ぬるい夜の雨。射場の灯りだけが、まわりの闇から、その一角を切り取っていた。
「朝倉くん。……お願いがあるの」
「はい」
「最後に、一本だけ。見ててくれない? ちゃんと会を保って、きれいに引くところを。……あなたが見ててくれると、なんでか、溜められる気がする」
僕は、黙ってうなずいた。先輩は、射位に立った。
足踏み。胴造り。弓構え。打起し。一つひとつの動作が、夜の空気の中で、ゆっくりとほどけていく。引き分けて――会。
僕は、息を詰めて見守った。一秒。二秒。三秒。四秒。先輩の体は、もう、はやく放そうとしていなかった。張りつめた弓と、張りつめた先輩の体が、ぴたりと、静止していた。
ぱしっ。
離れの音が、雨の音に、すうっと溶けた。矢は、的の、まんなかに突き立った。
「……中った」
「……中りました」
先輩は、残心の姿勢のまま、しばらく動かなかった。それから、弓を下ろして、ゆっくりと、こちらをふり返った。その目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
「朝倉くんが、いたから」
「……僕は、何も」
「ううん。あなたが、見ててくれたから」
雨の音だけが満ちる射場で、僕らは、向かい合っていた。先輩が、一歩、近づいてきた。
「……ねえ、朝倉くん」
「はい」
「あなたを最初に見たとき。野球をやめたって言ったとき。……なんか、放っておけなかったの。同じ目を、してたから」
先輩の手が、そっと、僕の道着の胸に触れた。その手が、まだ少し、震えていた。
「……先輩」
「凪、でいい。今だけ」
「……凪、さん」
名前を呼んだ瞬間、先輩の睫毛が、ふるりと揺れた。僕は、もう、こらえられなかった。そっと、その細い肩に手を回して、引き寄せた。
唇が、重なった。
「ん……」
やわらかくて、雨に冷えた頬とは裏腹に、唇は、熱かった。一度離れて、目が合って、どちらからともなく、もう一度。今度は、少し深く。
ちゅ……ちゅっ……
「……明日、本番なのに」
「……やめますか」
「……やめないで」
先輩は、僕の道着を、きゅっと握った。射場の灯りの下、ふたりのほかには、誰もいない。聞こえるのは、軒を打つ雨の音だけ。
射場の奥に、控えの和室がある。畳の、小さな部屋。僕は、先輩の手を引いて、そこへ二人で入った。
障子を閉めると、雨の音が、少し遠くなった。常夜灯のほのかな明かりだけが、畳の上に、淡く落ちている。もう一度、深く口づけながら、僕は先輩の袴の帯に、おそるおそる手をかけた。
「……結び、教えてあげる。そこ、引いて」
「……はい」
しゅるりと、帯がほどけて、袴が落ちる。白い道着の襟元から、細い鎖骨がのぞいた。いつも凛と着こなしていたその下が、こんなにも華奢だなんて、知らなかった。
「……凪さん、きれいです」
「……やめて。恥ずかしい」
そう言いながら、先輩は逃げなかった。むしろ、僕の首に腕を回して、自分から体を寄せてきた。道着の合わせを、一枚ずつ、そっと開いていく。下に着ていた肌着の裾から手を入れると、先輩の素肌は、雨で冷えた外気が嘘みたいに、熱かった。
れろ……ちゅ……
「ん……っ」
首筋に唇を這わせると、先輩の体が、びくりと小さく震えた。あんなに張りつめていた人が、僕の腕の中で、少しずつ、ほどけていく。それが、たまらなく愛おしかった。
「……朝倉くん。あかり、消して」
「……ここ、これ以上は暗くできないみたいです」
「……っ、もう」
常夜灯のうす明かりの中で、肌着を脱がせると、先輩は、恥ずかしそうに胸の前で腕を組んだ。
「……腕、どけても、いいですか」
「……っ、見ないって、約束できる?」
「無理です。きれいすぎて」
「……ばか」
それでも、先輩は、おずおずと腕をほどいた。常夜灯の淡い光に、白い胸が、ふわりと浮かぶ。僕は、それを壊れ物みたいに、そっと手で包んだ。
「あ……っ」
「……痛くないですか」
「いた、くない……っ」
指の腹で、つんと立ちはじめた先端をかすめると、先輩の肩が、ぴくんと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ?」
「……っ、変な、声、出ちゃう……っ」
口では恥ずかしがるのに、僕がそっと先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、先輩の体から、ふっと力が抜けていった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、雨の音に混じって、和室にこぼれる。誰もいなくてよかった、と頭の隅で思った。こんな声、誰にも聞かせたくない。僕だけが、知っていたい。
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、太腿の内側を、ゆっくりと撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「……力、抜いてください。凪さんのペースで」
「……っ、朝倉くんが、そう言うと、ずるい……っ」
下着の上から、いちばん敏感なところに触れると、もう、そこが熱くなっているのがわかった。指でそっと撫でるたびに、先輩の腰が、小さく揺れる。やがて下着をずらして、直接そこに触れると――
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……濡れてます」
「言わないで……っ♡ キス、のとき、から……っ」
恥ずかしさで顔を背ける先輩に、僕は何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹で、くるくると撫でた。先輩が、僕の腕に、ぎゅっとしがみつく。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「……気持ちいいですか」
「……っ♡ うん……っ♡」
指を、ゆっくりと、中へ沈めていく。
ずぷ……っ
「ん……あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろだった。弓を引くときの、あの張りつめた集中とは、まるで逆。先輩の中は、やわらかく、ほどけていた。指の動きに合わせて、先輩の体が、だんだん高まっていくのがわかる。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
「いいですよ。そのまま」
「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、先輩の体が、びくびくっと跳ねた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
僕の腕の中で、先輩はぎゅっと体を丸めて、達した。いつも凛としている人が、僕の前で乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が締めつけられた。
「……大丈夫ですか」
「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」
息を切らす先輩の額に張りついた前髪を、僕は、そっとよけた。
「……朝倉くん」
「はい」
「……最後まで、してほしい。朝倉くんと、なら」
エースの、凛とした人が、頬を染めて、そんなことを言う。僕は、ごくりと喉を鳴らした。
「……無理、してないですか。明日、本番なのに」
「してない。私が、したいの。……明日のことは、明日の私が、ちゃんとやる」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。やっぱり、強い人だ。僕は、財布の中に念のため入れていた小さな包みを取り出した。先輩が、それを見て、ほっとしたように、ふっと笑う。
「……そういうとこ、ちゃんとしてる」
「凪さんに、地味なところが大事だって、教わったので」
「……もう。こんなときに」
畳の上で、僕は先輩に、そっと覆いかぶさった。脚の間に体を進めて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがう。
「……いきます。痛かったら、すぐ言ってください」
「……うん」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、先輩は僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、先輩の中が僕を受け入れていく。
ずず……っ
「っ……あ……っ」
「……止めますか」
「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
僕は、先輩の様子を窺いながら、ほんの少しずつ進んだ。途中で何度も止まって、先輩の額にキスを落として、また少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。繋がった場所から、じんわりと、熱が広がっていく。
「……全部、入ってる……?」
「はい。……全部」
「……繋がってるんだ、私たち……」
先輩の目に、うっすら涙がにじんでいた。ずっと的越しに、弓越しに、矢取りの距離越しに見ていた人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を、指でそっと拭った。
「……動いて、平気ですか」
「うん……っ。来て、朝倉くん……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、先輩の体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、先輩の声が漏れる。
「……痛くないですか」
「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」
「気持ちよく、なってきました?」
「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、朝倉くんの、好き……っ♡」
口走ってから、先輩は自分の言葉に、また顔を赤くした。それが体のことなのか、僕自身のことなのか、たぶん、どっちもだったんだと思う。
ぱちゅ……ぱちゅ……
「朝倉くん……っ♡」
「凪さん」
「……っ♡ 名前……」
「凪さん。……ずっと、こうやって呼びたかった」
下の名前で呼ぶと、先輩は僕の首に腕を回して、自分から唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ、深くなる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ 朝倉くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
「……僕も、そろそろ」
「一緒が、いい……っ♡ 朝倉くんと、一緒……っ♡」
僕は、先輩をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 朝倉くん……っ♡♡」
「……っ、凪さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、先輩の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。雨の降る夜の和室で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ、朝倉くん……」
「……凪さん。痛くなかったですか」
「……痛かった、けど。……それより、ずっと、幸せだった」
僕は、先輩の汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。
翌日のリーグ戦で、凪先輩は、立った。
僕は、応援席のいちばん端から、その背中を見ていた。射位に立った先輩は、もう、的をにらんでいなかった。ゆっくりと弓を引き分けて、会を、深く、深く、保った。一秒。二秒。三秒、四秒――。
ぱしっ。
矢は、的の、まんなかに突き立った。続けて、二本目も、三本目も、四本目も。先輩は、その日、ほとんどの矢を、的のまんなかへ運んだ。早気は、もう、どこにもなかった。
試合のあと、控室の裏で、僕は先輩をつかまえた。
「凪さん。……すごかったです。会、ちゃんと、保ててました」
「……うん。保てた。昨日の夜、保てたから。たぶん、もう、大丈夫」
「よかった。本当に」
先輩は、少し照れたように、それから、まっすぐに僕を見た。
「ねえ、朝倉くん」
「はい」
「『今だけ』って言ったの、撤回する」
「……え?」
「凪、って、これからも呼んで。今だけじゃなくて。……私の、彼氏として」
梅雨入り前の、よく晴れた午後だった。武道場の窓から差す光が、まだ袴姿の先輩を、やわらかく照らしていた。僕は、野球をやめてからずっと音のなかった胸が、また、ひとつ大きく跳ねるのを感じた。
「……はい。凪さん。喜んで」
「ふふ。生意気な一年生」
「凪さんに、鍛えられたので」
先輩が、声をあげて笑った。あの、誰もいない射場で、はじめて見た泣き笑いとは違う、晴れやかな笑顔だった。
弓道場は、音のしない場所だと思っていた。でも、本当は違った。弦の音も、雨の音も、先輩の声も――僕がもう一度、ちゃんと耳を澄ますことを、思い出させてくれた場所だ。
二人で並んで歩く帰り道、的に向かうときの、あの張りつめた距離は、もう、どこにもなかった。
― 終 ―