小劇場の終演後、ひとり帰る商店街でただ一軒、深夜だけ暖簾を出す小さな中華そば屋に通ううちに、湯気の向こうで麺を打つ寡黙な若い店主と、梅雨明けの夜に結ばれた話

引っ越してきて最初に覚えたのは、その商店街が、夜になると真っ暗だということだった。

私、結城真昼(ゆうき まひる)、二十七歳。小さな劇場で、照明の仕事をしている。客席を暗く落として、舞台の上の人だけに、光を当てる仕事。きっかけの一秒を逃さないように、暗い操作室で、ずっと息を詰めている。終演後、機材を片づけて、客出しが終わって、劇場を出るのは、いつも、日付が変わったあとだった。

転職と引っ越しを、同じ月にした。前の劇場を辞めて、この町の小劇場に移って、駅から歩いて十分の、古いアパートの二階を借りた。シャッターばかりの、寂れた商店街の、いちばん奥。家賃が安かったのと、誰にも干渉されなさそうだったのと、それだけで決めた部屋だった。

(……まあ、寝に帰るだけだし)

舞台では、あんなにたくさんの光を扱うのに、自分の帰り道は、いつも真っ暗だった。終電の客もいない時間。商店街のアーケードは、半分しか電気がついていなくて、足元の影が、やけに長く伸びる。

そんな夜の、いちばん奥で。

ぽつりと、一軒だけ。あたたかい色の灯りと、紺色の暖簾を出している店があった。


暖簾には、白い字で、ただ〈中華そば〉とだけ、染め抜いてあった。

昼間、引っ越しの片づけで通りを歩いたときには、その店はシャッターが下りていて、私は空き店舗だと思っていた。でも、夜——日付が変わったその時間に、その店だけが、湯気を立てて、開いていた。

(……こんな時間に、やってるんだ)

ガラス戸の向こうに、白いタイルのカウンターと、湯気が見えた。カウンターは、たった六席。その奥で、ひとり、若い男の人が、寸胴の前に立っていた。

疲れていた。本当は、まっすぐ部屋に帰って、シャワーも浴びずに倒れ込みたかった。でも、お腹が、ぐう、と鳴った。終演前から、何も食べていなかった。湯気のあたたかさに、足が、勝手に止まった。

からり、と、立て付けの少し重いガラス戸を、私は開けた。

鶏と、醤油と、何かの香味野菜の、いい匂いがした。

「……いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

低い、落ち着いた声だった。鍋から顔を上げた人は、思っていたより若かった。三十くらいだろうか。短く刈った髪に、白い和帽子。痩せて見えるのに、腕だけは、しっかりしていた。それきり、彼は、また手元に視線を戻した。私を、じろじろ見ない人だった。

放っておかれたことに、ほっとした。私は、いちばん端の席に座って、品書きを見た。中華そば、味玉中華そば、それと、わんたんめん。それだけ。

「……中華そば、ひとつ、お願いします」

「はい。……少し、お待ちください」

彼は、まな板の上で、自分で打った麺を、すっと茹で釜に入れた。湯気の向こうで、丼にたれを引いて、寸胴から、澄んだスープを注ぐ。その手つきに、無駄が、ひとつもなかった。慌てず、けれど、淀みなく。光の当て方を間違えない、舞台の上のベテランみたいだと、私は、なぜだか、そう思った。

ことり、と、目の前に、丼が置かれた。

金色に澄んだスープに、細い麺。薄く切ったチャーシューと、刻んだ葱と、めんま。それだけの、飾り気のない一杯。

「……いただきます」

ひとくち、スープを啜って、私は、思わず、息を止めた。

優しかった。深いのに、軽くて、疲れた体に、すうっと、染みていく。気づいたら、私は、無心で、麺を手繰っていた。終演後の、誰とも喋らない夜に。誰かの作ったあたたかいものが、こんなに、しみるなんて、知らなかった。

(……なんだろう。これ。……泣きそう)

最後の一滴まで、私は、飲み干していた。空になった丼を見て、自分でも、少し驚いた。

「……お粗末さまでした」

「あの……すごく、おいしかったです」

「……どうも」

彼は、それだけ言って、また、寸胴のほうへ向き直った。よけいなことは、何も言わない人だった。でも、丼を下げるとき、私の食べ方を見て、ほんの少しだけ、口元がゆるんだのを、私は、見ていた。


それから、私は、終演後、その店に通うようになった。

劇場を出て、暗い商店街を歩いて、いちばん奥の、あの暖簾へ。最初は、お腹が空いていたから、だった。でも、何日か通ううちに、それだけじゃないことに、自分でも、気づきはじめていた。

店主の名は、久世樹(くぜ いつき)さん、というらしかった。カウンターの隅に貼られた、保健所の許可証で、それを知った。寡黙な人だった。注文以外、ほとんど喋らない。でも、三度目に行ったとき、私が席に着く前に、彼は、ぽつりと言った。

「……中華そばで、いいですか」

「え……あ、はい」

「……いつも、それなので」

覚えていてくれた。たった二回、頼んだだけの注文を。それに気づいた瞬間、胸の奥が、とくん、と鳴った。

ある晩、ひどく疲れて、声も出ないくらいの夜があった。仕込みのトラブルで、本番中、ずっと気を張りっぱなしだった日。カウンターに突っ伏したい気分で、私は、ただ、座っていた。すると、出てきた中華そばが、いつもより、少しだけ、優しい味がした。

「……あの、今日の、なんか、いつもより、まろやかな気がして」

「……わかりますか」

「え?」

「……顔色が、よくなかったので。少し、たれを、薄めに」

なんでもないことみたいに、彼は言った。寸胴の灰汁を、おたまで、そっとすくいながら。私の顔色なんて、見ていないと思っていた。じろじろ見ない人だと、思っていた。なのに、ちゃんと、見ていた。

(……気づいたら、目で追ってる)

湯気の向こうで麺を打つ、その腕。鍋の前で、まっすぐに伸びた背筋。注文を受けるときだけ、わずかにこちらを見る、静かな目。私は、いつのまにか、丼より、その人を、見ていた。


梅雨に入って、雨の続く夜だった。

その日は、客が、私のほかに、もうひとりいた。割烹着の上にカーディガンを羽織った、年配の女性。商店街の途中で、古いクリーニング屋をやっている、田所さんだった。引っ越しの挨拶で、洗剤のおまけをくれた、近所の人。私を見つけると、田所さんは、目をきらきらさせた。

「あら! あなた、奥のアパートに越してきた、照明のお嬢さんね。やだ、あなたも、ここの常連になったの?」

「あ、田所さん。……はい、つい、毎晩」

「ふふ、わかるわぁ。樹くんの中華そば、しみるものねえ」

田所さんは、久世さんの、昔からの知り合いらしかった。彼が、亡くなったお父さんの屋台を継いで、昼は別の店で修業しながら、夜だけ、この店を開けていること。商店街が寂れて、人が減っても、頑なに暖簾を出しつづけていること。田所さんは、まるで身内のことみたいに、話してくれた。

「樹くん、無口でしょ。でもね、味のことになると、人が変わるのよ。……ねえ、樹くん、最近、出汁、変えた?」

「……変えてないです」

「あらそう? なんだか、優しくなった気がするんだけど。……お客さんのおかげかしらねえ」

田所さんが、私と久世さんの顔を、にやにやと見比べた。久世さんが、めずらしく、おたまを持つ手を止めて、目を逸らした。和帽子の下の耳が、ほんの少し、赤い気がした。

(……期待してるって、思われたくないのに)

田所さんが帰ったあと、店には、また、雨の音と、私たち二人きりが、残された。気まずいような、くすぐったいような沈黙。久世さんが、ごまかすように、寸胴の火加減を、意味もなく見にいった。

「……田所さん、口が、軽くて。すみません」

「……ほんとに、優しくなったんですか? 味」

「……」

彼は、答えなかった。でも、答えないことが、答えみたいに思えて、私の心臓まで、つられて、とくんと跳ねた。


次の日、私は、職場で、後輩に、からかわれた。

音響の真鍋七海(まなべ ななみ)。私より三つ下の、遠慮のない子。終演後の片づけのあいだ、私が、なんとなくそわそわしているのを、目ざとく、見つけた。

「先輩、最近、片づけ終わるの、やたら早くないですか? どっか、寄ってるでしょ」

「……べつに。お腹が空くから、ごはん食べて帰ってるだけ」

「へえ。じゃ、今日、ついてっていいですか。お腹空いたし」

断る理由が、思いつかなかった。その夜、私は、七海を連れて、あの暖簾をくぐった。久世さんが、私を見て、いつものように、ぽつりと「中華そばで」と言いかけて、隣の七海に気づいて、口を、つぐんだ。

「……お連れさま、ですか」

「あ、はい。職場の、後輩で」

「……ごゆっくり」

二杯の中華そばが、出てきた。七海は、ひとくち啜って、目を丸くして、「うっま」と、行儀悪く言った。それから、ちらちらと、久世さんと、私を、見比べはじめた。店を出て、暗い通りを歩きながら、七海は、にやーっと笑った。

「先輩。あの店主の人、先輩のときだけ、葱、多くないですか?」

「え……?」

「私の丼、葱、ちょっとだったもん。先輩の、こんもりだった。……あと、先輩が啜るたび、ちらっと、見てましたよ。あの人」

「……気のせいでしょ」

「ふうん。先輩こそ、丼より、あの人のこと見てたくせに」

図星を、刺された。私は、言い返せなくて、雨上がりの、濡れたアスファルトに視線を落とした。葱が多いのも、味が優しくなったのも、ぜんぶ、気のせいだと、思いたかった。期待して、勝手に舞い上がって、あとで、ひとりで恥をかくのが、こわかった。

でも、心臓は、もう、正直だった。


梅雨の終わりの、よく晴れた夜だった。

その日は、私が、最後の客だった。閉店の時間が近づいて、久世さんが、暖簾を、内側へ、しまった。私は、帰ろうと、財布を出しかけた。すると、彼が、ふと、手を止めて、言った。

「……結城さん。少し、待ってもらえますか」

「え……」

「……賄い、作るので。一杯だけ。……付き合ってもらえたら」

名前を、覚えてくれていた。一度、出前の取り置きで書いただけの名前を。私が、こくんと頷くと、彼は、いつもとは違う鍋を出して、何かを、作りはじめた。

出てきたのは、品書きにない、まかないの中華そばだった。具は、端っこのチャーシューと、味玉の割れたのと、葱。けれど、スープが、いつもと違った。深くて、こっくりとして、少し、贅沢な味がした。

「……これ、いつもと、違う」

「……閉めたあと、自分用に作るやつです。だしを、贅沢に取った、夜食の」

「……こんなの、毎晩、ひとりで食べてるんですか」

「……ええ。客のいなくなった店で、ひとりで」

それを聞いて、胸の奥が、きゅっと、痛くなった。たくさんの人をあたためる一杯を作りながら、この人は、毎晩、誰もいなくなった店で、ひとり、夜食をすすっていた。私が、終演後の暗い帰り道を、ひとり歩いていたのと、同じだった。

「……ねえ、久世さん。私、転職して、この町に来たんです。前の場所で、ちょっと、すり減って」

「……そうですか」

「舞台では、人に光を当てる仕事なのに。自分の帰り道は、いつも、真っ暗で。……でも、ここの灯りだけ、毎晩、ついてて。それで、なんか……救われてた」

言ってから、恥ずかしくなって、私は、丼に目を落とした。久世さんが、カウンターの中から、私を、まっすぐ見た。

「……俺も、です」

「え?」

「……あなたが、暖簾をくぐってくる時間が。……いつのまにか、待ち遠しくて」

寡黙な人が、言葉を選びながら、まっすぐに、それを言った。澄んだスープの湯気の向こうで、彼の、静かな目が、揺れていた。

「閉めようかと、何度も思った店なんです。父の代から、もう、客も少なくて。……でも、今は、消したくない。あなたが、帰ってこられなくなるから」

私は、もう、自分の気持ちを、ごまかせなかった。

「……私も。帰り道が、つらくなくなったの。奥に、この灯りが、ついてるって、思うから」


久世さんが、カウンターを回って、私の隣に来た。たった六席の、小さな店の、すぐ近くに、彼の体温があった。鶏と、醤油と、彼自身の、汗のまじった匂いがした。

「……結城さん」

「……真昼で、いいです」

「……真昼さん」

名前を呼ばれただけで、体の芯が、じんと、熱くなった。彼の手が、おずおずと、私の頬に触れる。麺を打つときの、あの、しっかりした手。迷って、それから、決めたみたいに、彼の顔が、近づいてきた。

唇が、そっと、重なった。

ちゅ、と。

「ん……っ」

湯気のたちこめる、あたたかい店の中で、ずっとひとりで張りつめていた胸が、ゆっくり、ほどけていくみたいだった。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねた。

「……真昼さん。店の、奥。……来ますか」

唇を離して、久世さんが、かすれた声で言った。店の奥、暖簾の向こうが、彼の住まいも兼ねた、小さな部屋になっているらしかった。私は、こくんと、頷いた。

店の灯りを落として、布の暖簾をくぐると、畳の小さな部屋があった。古い扇風機が、首を振っている。電気スタンドの、やわらかい橙色の光。彼が、私の手を引いて、そっと、座らせてくれた。隣に座った彼の体温が、肩から、じんわり伝わってくる。

「……急に、こんな。……いやだったら」

「……いやじゃ、ないです。久世さんと、いたい」

自分でも、驚くくらい、素直に言えた。久世さんが、少し目を見開いて、それから、和帽子を外して、傍らに置いた。帽子のない頭は、思ったより、若くて、無防備だった。その顔のまま、もう一度、唇が重なった。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。

ちゅ……ちゅぷ……れろ……

「ん……ふ……っ」

唇の隙間から舌が触れて、私は、おずおずと、それに応えた。麺を打つときの、あの大きな手が、私のブラウスのボタンを、ひとつ、またひとつ、外していく。慌てない指。その丁寧さに、かえって、体の奥が、疼いた。

「……きれいだ」

「やだ……言わないで。恥ずかしい……」

「……味のこと以外で、こんなに言葉が出るの、初めてです」

恥ずかしくて顔を背けたのに、その言い方に、胸の奥が、甘く締めつけられた。彼の唇が、首筋に降りてくる。

ちゅ……ちゅっ……

「ん……っ」

鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌が、ぴくんと震える。背中に回った手が、ブラのホックを、そっと外した。胸が、彼の前に、こぼれ出る。久世さんの手が、それを、壊れ物みたいに、そっと包んだ。

「あ……っ」

「……やわらかい。……手が、震えそうだ」

「もう……いちいち、言わないで……っ」

やわやわと、形を確かめるように揉まれて、指の腹が、つんと立ちはじめた先端を、かすめると、体が、びくっと跳ねた。

「ひゃ……っ、そこ……っ」

「……ここ、弱いんですね」

「……知らな……っ」

口では強がるのに、彼が、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、だめだった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、勝手に漏れる。扇風機の音しかない部屋に、それだけが、響いた。彼の手が、唇が、私の体を、一杯のだしを取るみたいに、ゆっくり、ていねいに、溶かしていく。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、撫で上げていった。

「ん……っ♡」

「……力、抜いて。痛くしないから」

その声に、自然と、体の力が抜けた。彼の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに、触れる。

「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが、熱を持っているのが、自分でもわかった。やがて、下着が脱がされて、指が、直接、そこに触れた。

くちゅ、と。

「ひゃ……っ♡」

「……もう、こんなに」

「言わないで……っ♡ キスの、ときから……っ」

恥ずかしさで消えたいのに、彼の指は、どこまでも優しい。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は、彼の腕に、しがみついた。

くちゅ……くちゅ……

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」

「……ここ、覚えておきます」

「やだっ……覚えないで……っ♡」

指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。

ずぷ……っ

「あぁ……っ♡」

熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、奥の、感じる場所を、探るように撫でる。

「……ここ、ですか」

「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 久世さんの指、ずるい……っ♡」

弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で、突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では、止まらなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」

「いいですよ。……イって」

「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」

指の動きが、速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。

「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。彼の腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。

「……イきましたね」

「……っ、言わないで、ってば……っ♡」

息を切らせる私の額に、彼が、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。


「……ねえ、久世さん」

「ん」

「私ばっかり、ずるい。……久世さんのも、ちゃんと、ちょうだい」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。久世さんが、ごくりと、喉を鳴らす。私は、ゆっくり、彼の作務衣の合わせに、手をかけた。はだけさせると、痩せて見えて、意外と、引き締まった胸板が、現れる。火傷の痕がいくつもある、料理人の腕だった。

久世さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口に、あてがわれた。

「……真昼さん。いい、ですか」

「うん……っ。来て、久世さん」

「……ゴム、つけます。待ってて」

「……うん」

避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。こんなときも、ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さが、彼らしかった。準備を終えて、久世さんが、もう一度、私の頬に、手を添えた。

「……いきます。痛かったら、言って」

「うん……優しく、して」

ずぷ……っ♡

「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に、腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。

ずず……っ

「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」

「……っ、真昼さんの中、すごく、熱い」

根元まで収まって、久世さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっとひとりで詰まっていた胸の隙間が、じんわり、埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で、囁いた。

「……繋がってる。私たち、繋がってるね……っ♡」

「……ええ。……やっと、です」

久世さんが、ゆっくり、動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」

最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。古い電気スタンドの、橙色の光の中で、彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。

「真昼さん。……気持ち、いいですか」

「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」

「……俺も。ずっと、こうしたかった」

その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥の、いちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は、跳ねた。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」

「……ここ、好きですか」

「っ♡♡ 好き……っ♡ 久世さんの、好きっ……♡♡」

口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちも、だった。久世さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。

ぱちゅんっ♡♡

「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」

「……真昼さんの中、すごく、締まってる」

「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」

湯気の名残のある、小さな部屋に、二人の息と、肌のぶつかる音が、満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっとひとりで抱えていた寂しさが、体の奥から、溶けて、溢れてくる。

「真昼さん……そろそろ……っ」

「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」

久世さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡

「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 久世さん、一緒に……っ♡♡」

「……っ、真昼さん……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。久世さんが、私の上で、はぁ、と大きく息を吐く。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。

「……はぁ……っ♡ すごかった……」

「……真昼さん」

「ん……?」

「……好きです。……うまく言えないけど。あなたが、好きだ」

寡黙な人が、ありったけの言葉で、それを言った。私は、もう、我慢できなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、笑いながら、泣いた。

「……私も。大好き。……毎晩、灯りを、つけててくれて、ありがとう」

「……これからも、つけます。あなたが、帰ってこられるように」

久世さんが、涙で濡れた私の頬に、何度も、不器用に、キスを落とした。


朝。

すりガラスの窓から、淡い光が差し込んでいた。

布団の中で、久世さんの腕に頭を預けて、私は、まだ少し、夢の続きみたいな気持ちでいた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。台所のほうから、まだ、かすかに、だしの匂いがした。

「……ねえ、久世さん。私、まだ、新しい職場、慣れないの。前みたいに、また、すり減るかもって、こわい」

「……無理しなくて、いいです」

「でも……」

私は、彼の胸に、頬をすり寄せた。火傷の痕の上に、そっと、唇をあてた。

「……でも、ここに帰ってくると思ったら、頑張れる気がする。あの暖簾が、出てると思ったら」

久世さんが、私の髪を、そっと撫でた。

「……真昼さん。ひとつ、お願いが」

「ん?」

「……まかないの中華そば。あれ、毎晩、ひとりで食べるの、もう、いやなんです」

「……それって」

「……終演のあと。閉めた店で、一緒に、食べてくれませんか。……二人ぶん、作るので」

その言い方が、あんまり下手な口説き文句みたいで、私は、噴き出してしまった。

「……ずるいよ、それ。私の帰る場所、ちゃんと、用意してくれるんだ」

「……いや、これは、その。……単純に、ひとりが、寂しくて」

「ふふ。……いいよ。食べる。仕事のあと、ここで、あなたと、夜食を。……それ、すごく、いいな」

舞台で人に光を当てて、自分の帰り道は真っ暗だった私。でも、これからは、違う。終演後の暗い商店街の、いちばん奥に、私の帰る暖簾がある。ひとりぶんじゃなく、二人ぶんの湯気の立つ、あたたかい店が。

戸を開けると、商店街に、雨上がりの、夏の朝の匂いが、流れ込んできた。長かった梅雨が、ようやく、明けたらしかった。アーケードの隙間から、青い空が、のぞいている。

通りの向こうから、クリーニング屋の田所さんが歩いてきて、私たちを見て、にやーっと笑った。

「あらあら。お嬢さん、その寝ぐせ。……しかも、樹くんの店のほうから、出てきたわねえ、今」

「えっ、あ、これは……っ」

「いいのいいの、隠さなくて。商店街中、もう知ってるわよ。樹くんが、奥に越してきた照明のお嬢さんに、ベタ惚れだって」

「……田所さん。本当に、口が」

「だってねえ。あの子、あなたが越してきてから、毎晩、暖簾の外、ちらちら見てたのよ。今日は来るかなって。……あたし、知ってるんだから」

「……っ、久世さん、ほんとに?」

久世さんが、わかりやすく固まって、耳まで、真っ赤になった。田所さんが、けらけら笑いながら、「朝ごはんは、うちの茶でも飲んでいきなさいな」と、店のほうへ歩いていく。

夏の朝の光の差し込む、小さな中華そば屋の前で、私は、隣に立つ久世さんの手を、そっと握った。麺を打ち、だしを取り、たくさんの人をあたためてきた、火傷だらけの、大きな手。引っ越してきた夜、ひとりで、暗い帰り道を歩いていた私。その手は、今、私の指に、しっかり絡んで、もう、離れる気配が、なかった。

「……ねえ、久世さん。今夜も、来ていい? お店」

「……真昼さんは、もう、客じゃ、ないでしょう」

「……ふふ。じゃあ、何?」

「……それは、その。……これから、ゆっくり、決めていけば、いいです」

梅雨明けの、夏のはじまりの朝。寝に帰るだけだったはずのこの町で、私は、いちばん帰りたい場所と、いちばん近くにいたい人を、見つけてしまった。

〈中華そば〉と染め抜かれた紺の暖簾が、朝の風に、ゆっくりと、揺れていた。

― 終 ―


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