夜型の暮らしに擦り切れて越してきた下町で、夜明けにひとつだけ湯気を上げる古い豆腐屋に通ううち、よく笑う同い年の若主人と、いちばん夜が短い夏至の朝に結ばれた話

越してきて最初に覚えたのは、夜が明ける匂いだった。

私、七尾灯里(ななお あかり)、二十八歳。フリーのデザイナーをしている。会社を辞めて独立してから、もう二年。クライアントの都合に合わせていたら、いつのまにか昼と夜が裏返って、太陽を見ない暮らしになっていた。納期前は三日徹夜なんて当たり前で、気づけば、人と目を合わせて話したのが、いつだったかも思い出せなくなっていた。

家賃と、それから、誰にも急かされない静けさが欲しくて、私は私鉄沿線の下町に引っ越した。駅から歩いて十分、古い商店街の途中。アーケードの天井は所々錆びていて、シャッターの下りた店も多い。それでも、朝になると魚屋や八百屋がぽつぽつ開いて、人の声が戻ってくる、そういう町だった。

(……まあ、寝に帰るだけだし)

引っ越した最初の夜も、私は仕事をしていた。明け方の四時、目の奥がじりじりして、どうにも画面が見られなくなって、私はパソコンを閉じた。眠れもしないのに、横になるのも怖かった。財布だけ持って、外へ出た。

夜明け前の商店街は、しんと静かだった。

そのとき——通りの先に、ひとつだけ、白い湯気が上がっているのが見えた。

夜明けの湯気

シャッターばかりの通りの中で、その店だけが、引き戸を半分開けて、灯りをつけていた。

近づくと、ふわりと、甘い匂いがした。煮豆みたいな、でも、もっとやわらかい匂い。古い木の看板に、墨で〈桐谷豆腐店〉とある。店先の大きな水槽みたいな台に、真っ白な豆腐が、いくつも沈んでいた。

奥の作業場から、もうもうと湯気が立ちのぼっている。その湯気の向こうで、ひとり、男の人が動いていた。

(こんな時間に、開いてるんだ……)

豆腐屋なんて、生まれて初めて、ちゃんと見た。スーパーのパックしか知らなかった私には、その白い湯気が、なんだか、別の国の景色みたいに見えた。立ち止まって、ぼんやり眺めていたら、湯気の向こうの人が、ふいにこちらに気づいた。

「あ、いらっしゃい。……って、まだ何も並べてないんですけど」

明るい声だった。タオルを首にかけた、同い年くらいの人。汗で前髪が額に貼りついていて、でも、目がくしゃっと笑っていた。寝不足でささくれていた私の胸に、その笑い方が、やけにまぶしかった。

「あ……すみません。湯気が、見えて、つい」

「いい時間でしょ、これ。いちばん豆腐が美味い時間」

彼は、できたばかりだという豆腐を、木の型から、そっと水に放った。その手つきが、大きいのに、びっくりするくらい優しかった。

「お姉さん、この辺の人? 見ない顔だ」

「……昨日、越してきたんです。そこの、アパートに」

「マジで。じゃあご近所だ。——ちょっと待ってて」

彼は、奥から小さな紙コップを持ってきて、温かい何かを注いで、差し出した。湯気が立っている。

「できたての豆乳。砂糖も何も入ってない、ただの豆乳。引っ越し祝い」

おそるおそる、口をつけた。

——あまい。

砂糖なんて入っていないのに、大豆そのものの、濃くて、やさしい甘さが、舌の上に広がった。冷えて固まっていた体の芯に、それが、じわっと染みていく。なんでもない一杯のはずなのに、私は、不覚にも、泣きそうになった。

「……おいしい」

「でしょ」

得意げに笑う彼の名札に、〈桐谷 颯太〉とあった。

三時に起きる人

それから、私は、明け方になると、〈桐谷豆腐店〉の前を通るようになった。

最初は、ただの散歩のつもりだった。眠れない夜の、行き場のない時間を、あの湯気のところまで歩いて、つぶしているだけ。そう、自分には言い聞かせていた。でも、何日か通ううちに、それだけじゃないことに、自分でも、気づきはじめていた。

桐谷さんは、いつも、湯気の向こうにいた。豆腐を作り、油揚げを揚げ、店先に並べる。その合間に、私を見つけると、必ず、片手を上げて、笑った。

「お、灯里さん。今日も眠れない人だ」

「……桐谷さんこそ、いつ寝てるんですか」

「俺? 夜の九時。で、三時起き」

「三時……」

「豆腐はね、夜中に仕込まないと、朝に間に合わないんですよ。じいちゃんの代からずっとこれ。もう、体が勝手に三時に目ぇ覚ます」

私が、三日も四日も昼夜を裏返して、ぼろぼろになって作っていたものと、彼が、毎日きっかり三時に起きて作るもの。同じ「夜中に働く」でも、ぜんぜん違った。彼の作るものは、毎朝、誰かの食卓に、ちゃんと届く。その健やかさが、まぶしくて、少しだけ、せつなかった。

「えらいですね。毎日、休まずに」

「えらかないですよ。好きでやってるだけ。——灯里さんは? 何の仕事してるの、そんな夜中まで」

「……デザイナー。フリーの。パソコンで、ずっと」

「へえ、かっこいい。俺、豆腐しか作れないからなあ」

そう言って、彼は、また、くしゃっと笑った。誰かに「かっこいい」なんて、いつぶりに言われただろう。仕事の話をすると、いつもは胃のあたりが重くなるのに、彼の前では、不思議と、軽く言えた。

帰り道、私は、買ったばかりの、まだあたたかい絹ごし豆腐を、両手で包んで歩いた。何年ぶりだろう。誰かのために作られたものを、こんなふうに、大事に持って帰るのなんて。

古沢さんのおせっかい

ある朝、店に着くと、めずらしく、先客がいた。

割烹着の上にカーディガンを羽織った、小柄なおばあさん。毎朝、いちばんに豆腐を買いにくる、古沢さんという人だった。私が越してきた挨拶のとき、廊下で会って、煮物をおすそ分けしてくれた、隣の隣の住人。私を見つけると、古沢さんは、目をきらきらさせた。

「あら、灯里ちゃん。やだ、あなたも颯太くんとこの常連になったの?」

「あ、古沢さん。……はい、つい、毎朝」

「ふふ、わかるわぁ。颯太くんの豆腐、美味しいものねえ。それに——」

古沢さんは、私と桐谷さんの顔を、にやにやと見比べた。

「この子ね、お父さんが早くに亡くなって、おじいちゃんと二人で、この店、守ってきたのよ。大学も行かないで、ずうっと、三時起き。えらい子なの」

「古沢さん、その話はいいって」

「いいじゃないの。——でね、その颯太くんがね、最近、機嫌がいいのよ。明け方になると、しょっちゅう表のほう、見てるの。誰か来ないかなあって顔して」

「ちょっ……古沢さん」

桐谷さんが、めずらしく、慌てて湯気の向こうに顔を背けた。タオルで、ごしごし顔を拭くふりをしている。その耳が、湯気のせいだけじゃなく、赤い気がした。

(……期待してるって、思われたくないのに)

胸の奥が、勝手に、とくんと鳴る。古沢さんが、油揚げの袋を提げて、ご機嫌で帰っていったあと、店には、また、私と桐谷さんの二人きりになった。気まずいような、くすぐったいような沈黙。

「……あの人、口が軽くて、すみません」

「……ほんとに、表のほう、見てたんですか」

「……」

彼は、答えなかった。代わりに、できたての厚揚げを、ひとつ、紙に包んで、私に押しつけた。

「これ、おまけ。焼いて、生姜醤油で食べて。……灯里さん、ちゃんと飯食ってなさそうだから」

ちゃんと見られていた。徹夜明けの、ろくに食べていない私を。それがわかって、頬が熱くなった。答えないことが、答えみたいに思えて、私の心臓まで、つられて、跳ねた。

夏至の前の川辺

六月も、半ばを過ぎた。

夜が、どんどん短くなっていた。四時にはもう、空の端が白んでいる。一年でいちばん夜が短い夏至が、もうすぐそこまで来ていた。

その日、私は、大きな仕事の修正が立て込んで、二晩、ほとんど眠れていなかった。クライアントからの、何度も繰り返される「やっぱり前の案で」というメール。積み上げては崩される徒労に、心が、ぱきぱきと音を立てて、ひび割れていくみたいだった。明け方、店に着いた私は、たぶん、ひどい顔をしていた。

桐谷さんが、私を見て、湯気の向こうで、手を止めた。

「……灯里さん。ひどい顔」

「……わかります?」

「毎朝見てれば、わかりますよ」

毎朝見てれば——その一言で、なぜか、こらえていたものが、ふっと、決壊した。涙が、勝手に、ぼろっとこぼれた。自分でも、びっくりした。

「……あ、ごめんなさい、私、なんで……」

桐谷さんは、慌てなかった。エプロンを外して、「ちょっと、待ってて」と、手早く店先に「仕込み中」の札を出した。そして、私に、温かい豆乳を一杯持たせると、店の裏の、川のほうへ、私を連れて歩きだした。

商店街を抜けた先に、小さな川が流れていた。その土手に、二人で並んで座った。空が、藍色から、だんだん、淡い水色へ変わっていく。鳥が、鳴きはじめていた。

「俺、しんどいとき、いつもここで、夜明け見るんです」

「……桐谷さんも、しんどいこと、あるんですか」

「ありますよ。じいちゃん倒れたときとか。一人で全部やんなきゃで、もう辞めようかって、何回も思った」

彼は、川面を見たまま、ぽつりと言った。いつもの笑い顔じゃなかった。

「でもね、夜明けって、毎日来るんですよ。どんなにひどい夜でも、ぜったい、朝になる。……それ見てると、まあ、もう一日やるか、って思える」

「……」

「灯里さんも、ちゃんと、夜が明けてる。だいじょうぶ」

その言葉が、ひび割れた胸の隙間に、温かい豆乳みたいに、じわっと染みていった。私は、もう、自分の気持ちを、ごまかせなかった。空が白んでいくのを見ながら、私は、隣の人の横顔を、ずっと、目で追っていた。

いちばん短い夜

それから二日後。六月二十一日。夏至の、前の夜だった。

その夜、私は、仕事をする気になれなかった。ベッドに横になっても、目が冴えて、ただ、天井を見ていた。頭に浮かぶのは、川辺で見た、彼の横顔ばかりだった。

午前三時。私は、起きた。眠れないからじゃなかった。彼が、起きる時間だったからだ。

ふらふらと、商店街へ歩いた。〈桐谷豆腐店〉は、まだ、表のシャッターを半分しか上げていない、仕込みの真っ最中だった。引き戸の隙間から、湯気と、灯りが、漏れている。私が立っていると、桐谷さんが、気づいて、引き戸を開けてくれた。

「……灯里さん? こんな時間に、どうしたの。三時だよ」

「……桐谷さんが、起きてる時間だと、思って」

言ってから、自分の言葉の意味に、自分で、かあっと、顔が熱くなった。桐谷さんが、めずらしく、何も言わずに、私を見ていた。湯気の向こうの、その目が、まっすぐで、逃げられなかった。

「……灯里さん。入って」

招かれて、私は、初めて、作業場に足を踏み入れた。中は、湯気で、むわっと温かかった。大きな釜、木の型、にがりの匂い。彼の世界の、いちばん奥。誰にも見せない時間に、私は、招かれていた。

「あのさ。……俺、灯里さんが毎朝来るの、ほんとに、楽しみで」

「……っ」

「三時に起きるの、しんどい日もあるんだけど。今日は灯里さん来るかな、って思うと、起きれる。……変かな、こんなこと言って」

「……変じゃないです。私も、同じだから」

湯気の中で、距離が、なくなっていった。彼の大きな手が、おずおずと、私の頬に触れる。豆腐を、壊れ物みたいに扱う、その手。迷って、それから、決めたみたいに、近づいてきた。

唇が、そっと、重なった。

ちゅ、と。

「ん……っ」

温かかった。湯気みたいに。すり減って、ささくれていた胸の奥が、ゆっくり、ほどけていくみたいだった。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く、重ねた。

湯気の向こうの部屋

「……二階、来る? 俺の部屋」

唇を離して、桐谷さんが、かすれた声で言った。店の奥の、急な階段の上。そこが、彼の住まいだという。仕込みは、もう、ひと段落していた。私は、こくんと、頷いた。

二階の小さな和室は、彼らしく、簡素で、きれいに片付いていた。窓の外は、まだ藍色。でも、その端が、もう、白みはじめていた。一年でいちばん早い、夏至の夜明けが、近づいていた。

「……急に、ごめん。いやだったら」

「……いやじゃない。颯太さんと、いたい」

自分でも、驚くくらい、素直に、名前を呼べた。桐谷さんが、少し目を見開いて、それから、ふっと、いつものように、くしゃっと笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なった。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。

ちゅ……ちゅぷ……れろ……

「ん……ふ……っ」

唇の隙間から舌が触れて、私は、おずおずと、それに応えた。豆腐を扱う、あの大きくて優しい手が、私のシャツのボタンを、ひとつ、またひとつ、外していく。急かさない、その手つきに、かえって、体の芯が、疼いた。

「……きれいだ」

「やだ……言わないで。恥ずかしい……」

「ほんとのこと。……俺、豆腐褒めるくらいしか、言葉知らないのに」

恥ずかしくて顔を背けたのに、その不器用な言い方に、胸の奥が、甘く締めつけられた。彼の唇が、首筋に降りてくる。

ちゅ……ちゅっ……

「ん……っ」

鎖骨に、肩に、唇が落ちるたびに、肌が、ぴくんと震える。背中に回った手が、ブラのホックを、そっと外した。胸が、彼の前に、こぼれ出る。桐谷さんの手が、それを、できたての豆腐みたいに、そっと、両手で包んだ。

「あ……っ」

「……やわらかい。……壊しそうで、こわい」

「もう……豆腐じゃ、ないんだから……っ」

やわやわと、形を確かめるように揉まれて、指の腹が、つんと立ちはじめた先端を、かすめると、体が、びくっと跳ねた。

「ひゃ……っ、そこ……っ」

「……ここ、弱いんだ」

「……知らな……っ」

口では強がるのに、彼が、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、だめだった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、勝手に漏れる。静かな部屋に、それだけが、響いた。彼の手が、唇が、私の体を、ゆっくり、ていねいに、溶かしていく。

ほどけていく

胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、撫で上げていった。

「ん……っ♡」

「……力、抜いて。痛くしないから」

その声に、自然と、体の力が抜けた。彼の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに、触れる。

「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが、熱を持っているのが、自分でもわかった。やがて、下着が脱がされて、指が、直接、そこに触れた。

くちゅ、と。

「ひゃ……っ♡」

「……もう、こんなに」

「言わないで……っ♡ キスの、ときから……っ」

恥ずかしさで消えたいのに、彼の指は、どこまでも優しい。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は、彼の腕に、しがみついた。

くちゅ……くちゅ……

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」

「……ここ、覚えとく」

「やだっ……覚えないで……っ♡」

指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。

ずぷ……っ

「あぁ……っ♡」

熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、奥の、感じる場所を、探るように撫でる。

「……ここ?」

「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 颯太さんの指、ずるい……っ♡」

弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で、突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では、止まらなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」

「いいよ。……イって」

「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」

指の動きが、速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。

「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。彼の腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。

「……イったね」

「……っ、言わないで、ってば……っ♡」

息を切らせる私の額に、彼が、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。

夏至の朝が来る前に

「……ねえ、颯太さん」

「ん」

「私ばっかり、ずるい。……颯太さんのも、ちゃんと、ちょうだい」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。桐谷さんが、ごくりと、喉を鳴らす。私は、ゆっくり、彼のTシャツをめくりあげた。毎日、重い大豆を運び、豆腐を作る人の、引き締まった胸板と腕が、現れる。

桐谷さんが、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口に、あてがわれた。

「……灯里さん。いい?」

「うん……っ。来て、颯太さん」

「……ゴム、つけるね。待ってて」

「……うん」

避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。こんなときも、ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さが、彼らしかった。準備を終えて、桐谷さんが、もう一度、私の頬に、手を添えた。

「……いくよ。痛かったら、言って」

「うん……優しく、して」

ずぷ……っ♡

「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に、腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。

ずず……っ

「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」

「……っ、灯里さんの中、すごく、あったかい」

根元まで収まって、桐谷さんが、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、ずっとひとりで詰まっていた胸の隙間が、じんわり、埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で、囁いた。

「……繋がってる。私たち、繋がってるね……っ♡」

「……うん。……やっと、だ」

桐谷さんが、ゆっくり、動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」

最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。窓の外が、だんだん、白んでいく。藍色の部屋に、夜明けの光が、少しずつ、差しはじめていた。

「灯里さん。……気持ち、いい?」

「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」

「……俺も。ずっと、こうしたかった」

その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥の、いちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は、跳ねた。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」

「……ここ、好き?」

「っ♡♡ 好き……っ♡ 颯太さんの、好きっ……♡♡」

口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちも、だった。桐谷さんが、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。

ぱちゅんっ♡♡

「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」

「……灯里さんの中、すごく、締まってる」

「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」

小さな和室に、二人の息と、肌のぶつかる音が、満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、ずっとひとりで抱えていた苦しさが、体の奥から、溶けて、溢れてくる。

「灯里さん……そろそろ……っ」

「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」

桐谷さんが、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡

「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 颯太さん、一緒に……っ♡♡」

「……っ、灯里……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。桐谷さんが、私の上で、はぁ、と大きく息を吐く。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。

いちばん夜が短い朝に

「……はぁ……っ♡ すごかった……」

「……灯里さん」

「ん……?」

「……好きだ。じいちゃんの豆腐より、好き」

「……ふふっ、何それ」

笑ったのに、目から、ぽろぽろ、涙がこぼれた。笑いながら、泣いた。彼の言葉は、いつも、不器用で、まっすぐで、私のいちばん柔らかいところに、まっすぐ届いた。

「……私も。大好き。……毎朝、湯気を、上げててくれて、ありがとう」

「……これからも、上げるよ。灯里さんが、降りてこられるように」

桐谷さんが、涙で濡れた私の頬に、何度も、不器用に、キスを落とした。

ふと、窓の外が、やけに明るかった。

体を起こして、窓を開けると、商店街の屋根の向こうから、夏至の朝日が、のぼってくるところだった。一年でいちばん夜が短い朝の、いちばん最初の光。それが、汗ばんだ二人の肌を、金色に染めた。

「……今日、いちばん、夜が短い日なんだよ」

「……知ってる。だから、来たの」

太陽を見ない暮らしを、二年も続けていた私。でも、今、私は、誰かと、いちばん早い夜明けを、見ていた。

「灯里さん。……これから毎朝、いちばんに、灯里さんの分の豆腐、取っといていい?」

「……それ、どういう意味?」

「えっ……いや、その。……つまり。……付き合ってほしい、ってこと」

赤くなって、口ごもる彼が、おかしくて、愛しくて、私は、彼の胸に、こてんと頭をあずけた。

「……はい。よろしくお願いします、颯太さん」

その日の朝。私は、生まれて初めて、できたての豆腐を、店の二階で、彼と二人で食べた。冷奴に、彼が、削った鰹節と、刻んだ葱を、たっぷりのせてくれた。ひとくち食べて、また、泣きそうになった。あまくて、やさしくて、温かい味だった。

階段を降りると、ちょうど店の前に、いちばん乗りの古沢さんが立っていた。私たちを見て、にやーっと笑う。

「あらあら。灯里ちゃん、その寝ぐせ。……しかも、颯太くんとこの二階から、降りてきたわねえ、今」

「えっ、あ、これは……っ」

「いいのいいの、隠さなくて。商店街中、もう知ってるわよ。颯太くんが、越してきたデザイナーのお嬢さんに、ベタ惚れだって」

「……古沢さん。ほんとに、口が」

「だってねえ。あの子、あなたが越してきてから、毎朝、表のほう、そわそわ見てたのよ。今日は来るかなあって。……あたし、知ってるんだから」

古沢さんは、けらけら笑いながら、いつものように、いちばんの豆腐を買って、帰っていった。

夏至の朝の光の中で、私は、隣に立つ颯太さんの手を、そっと握った。重い大豆を運び、毎朝、誰かのために湯気を上げる、その大きな手。昼夜を裏返して、ひとりで擦り切れていた私。その手は、今、私の指に、しっかり絡んで、もう、離れる気配が、なかった。

「……ねえ、颯太さん。明日も、三時に、起きるの?」

「起きるよ。毎日」

「……じゃあ、私も、起きる。湯気、見にくる」

「……いや、灯里さんは、ちゃんと寝なよ。夜は」

「ふふ。……善処します」

太陽を避けて逃げてきたはずのこの町で、私は、いちばん早い朝日と、いちばん近くにいたい人を、見つけてしまった。

〈桐谷豆腐店〉の白い湯気が、夏至の朝の空へ、まっすぐ、のぼっていった。

― 終 ―


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