理系の研究室というのは、夜になると世界から切り離される。
僕、三浦悠真(みうら ゆうま)、二十二歳。生命科学部の四年生で、いまは卒業研究の真っ最中だ。配属されたのは細胞生物学の研究室。昼間は学生や院生でごった返しているけれど、夜十時を回るころには、たいてい人がいなくなる。残るのは、培養器のかすかなモーター音と、蛍光灯の白い光と、まだ実験の終わらない僕だけ。
(……また、データが合わない)
その晩も、僕はパソコンの前で頭を抱えていた。卒論のための測定値が、何度やっても理論値からずれる。原因がわからない。締め切りまで、あと二ヶ月もない。
そのとき、背後でドアの開く音がした。
「三浦くん、まだいたの」
振り返ると、芹沢先輩が立っていた。芹沢冬香(せりざわ ふゆか)さん。博士課程の一年で、この研究室でいちばん実験のうまい人だ。
芹沢先輩のことを、僕は最初、ちょっと近寄りがたい人だと思っていた。
いつも白衣をきっちり着て、髪をひとつに結んで、無駄口をたたかない。実験には誰よりも厳しくて、後輩がピペットの使い方を雑にすると、静かに、でもはっきりと指摘する。同期の北村なんて、「芹沢さん、なんか冷たくて緊張するんだよな」とこぼしていた。
「悠真、芹沢さんに測定の相談とかよくできるよな。俺、目見て話すだけで手汗かくわ」
「冷たくはないと思うけど。むしろ……」
「むしろ?」
「いや、なんでもない」
むしろ、誰より面倒見がいい。そう言いかけて、僕は飲み込んだ。なんだか、自分でもよくわからない気持ちを、口に出してしまいそうだったから。
夜遅くまで残っていると、芹沢先輩もまた、自分の実験で居残っていることが多い。博士課程は学部生とは比べものにならないほど忙しい。それでも先輩は、僕がうなっていると、決まってこう言うのだった。
「コーヒー、淹れるけど。三浦くんも飲む?」
そして給湯室の古いコーヒーメーカーで二人分を淹れて、無言で僕のデスクにマグを一つ置いていく。たったそれだけのことなのに、僕はその一杯を、毎晩なんだか大事に飲んでいた。
ある晩、僕は完全に行き詰まっていた。
何度測定しても、吸光度の値がばらつく。グラフにすると、点が綺麗に並ばない。卒論の根幹に関わるデータだ。これがまとまらなければ、考察も何も書けない。
(……もう、何が悪いのか、わからない)
マウスを握る指が冷たくなっていた。ため息をついたとき、芹沢先輩がコーヒーのマグを持って、隣の椅子を引いて座った。
「どこで詰まってるの。見せて」
僕がモニターを向けると、先輩は身を乗り出して、データの羅列を上から下まで目で追った。近い。先輩の結んだ髪から、ほのかにシャンプーの匂いがした。
「……これ、測定値の問題じゃないと思う」
「え?」
「サンプルの調整。希釈の順番、たぶん毎回ちょっとずつ違ってる。だからばらつく。手順を固定すれば、点は並ぶよ」
そう言って先輩は、ホワイトボードに手順を一つずつ書き出してくれた。普段あんなに口数の少ない人が、そのときだけ、僕の目をまっすぐ見て、ていねいに説明してくれた。
「焦って一気にやろうとすると、必ずどこかで雑になる。実験は、いちばん地味なところを揃えた人が勝つの」
「……地味なところ」
「そう。三浦くん、頭はいいけど、せっかちだから」
ふっと先輩が笑った。初めて見る、その柔らかい表情に、僕は不覚にもどきりとした。
翌日、先輩の言うとおりに手順を揃えてやり直すと、嘘みたいに点が並んだ。グラフが、すっと一本の線になる。僕は思わず「やった」と声を出して、給湯室にいた先輩のところまで報告に走った。先輩は、コーヒーを淹れながら、口の端だけで小さく笑った。
「ほらね。地味なのが、いちばん効く」
それからの夜が、僕の一日の真ん中になった。
昼間の研究室は人が多すぎて、先輩とゆっくり話す機会なんてない。でも、夜十時を過ぎて二人だけになると、先輩はぽつぽつと、研究のことや、自分のことを話してくれるようになった。
「先輩って、なんで博士まで行こうと思ったんですか」
「……わからないことが、わからないままなのが、嫌だったから」
「かっこいいですね、それ」
「全然。ただの意地っ張りだよ」
マグを両手で包んで、先輩はぽつりと続けた。
「博士って、孤独なの。みんな就職して、同期もいなくなって。夜の研究室に一人でいると、たまに、自分だけ取り残されたみたいな気持ちになる」
「……」
「だから、最近、三浦くんが残ってると、ちょっと、ほっとする」
さらっと言われて、僕はコーヒーを吹き出しそうになった。心臓が、ばくばくと鳴る。
(……今の、どういう意味)
ただの、後輩への気安さ。そう思おうとしても、頬の熱が引かなかった。窓の外では、晩秋の冷たい雨が降っていて、研究室の中だけが、やけに暖かく感じられた。
学園祭の季節になった。
大学のキャンパスは三日間、模擬店とステージで賑わう。けれど、僕らの研究室は別世界だ。細胞は祭りの都合なんて待ってくれない。培養のスケジュールがあるから、誰かしらが毎日顔を出す。学園祭の最終日も、僕と先輩は、いつものように夜の研究室に残っていた。
遠くから、後夜祭の音楽がかすかに聞こえてくる。窓の外は、模擬店の灯りが消えて、人の波も引いて、すっかり静かになっていた。
「先輩、学園祭、行かなくてよかったんですか」
「実験のほうが好きだもん。……それに」
「それに?」
「祭りの夜の研究室、嫌いじゃない。世界から、二人だけ取り残されたみたいで」
「二人だけ」という言葉に、僕はどきりとした。先輩はそれに気づいていないのか、いつものように、給湯室でコーヒーを淹れていた。
その夜、僕は大事な測定を控えていた。卒論の最後の山場になるデータ。研究室にある、古い分光光度計を使う。何年も前から使われている、ガタの来た装置だ。
サンプルをセットして、測定開始のボタンを押した――そのときだった。
ぶつっ、と音がして、装置のディスプレイが、ふっと暗転した。
「……え。嘘でしょ」
何度ボタンを押しても、装置は反応しない。電源ランプも消えている。背筋が、すうっと冷たくなった。サンプルは時間が経つと劣化する。今夜中に測定できなければ、また一から作り直しだ。締め切りは、もう目の前なのに。
「……どうしよう。これ、壊れたら、僕の卒論……」
声が、情けないくらい震えた。そのとき、コーヒーのマグを置いて、芹沢先輩が装置の前にしゃがみ込んだ。
「落ち着いて。まだ壊れたって決まってない」
先輩は、装置の裏に回って、ケーブルを一本ずつ確かめていった。電源、ヒューズ、内部の基板。白衣の袖をまくって、ペンライトを片手に、淡々と原因を探していく。その横顔が、いつもの実験のときより、ずっと真剣だった。
「……ヒューズかな。古い装置だから、よく飛ぶの。予備、たぶん備品庫にある」
「あるんですか」
「うん。私が修士のとき、同じので一回直してる」
それから二人で、終電なんてとっくに気にしなくなって、装置と格闘した。備品庫を引っくり返してヒューズを探し、交換して、起動して、それでも直らなくて、また別の原因を探す。
「三浦くん、そっちのコネクタ、抜き差ししてみて。……ゆっくり、まっすぐ」
「はい」
「焦らないで。地味に、ひとつずつ」
並んで作業していると、肩が触れそうなほど近い。先輩の額に汗がにじんでいた。普段クールな先輩が、僕の卒論のために、こんなに必死になってくれている。それが、たまらなく胸に来た。
そして、深夜二時を回ったころ。最後にもう一度、僕がボタンを押すと――
ぴ、と小さな電子音がして、ディスプレイに、ぽっと光が戻った。
「……ついた」
「ついた」
二人で、顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、笑い出した。
測定は、無事に終わった。
ディスプレイに表示された数値は、これまででいちばん綺麗な値だった。僕は思わず、隣の先輩のほうを向いた。
「先輩……ありがとうございます。先輩がいなかったら、僕、本当に終わってました」
「大げさ」
「大げさじゃないです。毎晩、コーヒーも、相談も、今日のことも……ぜんぶ、先輩のおかげです」
言いながら、自分の声が熱を帯びていくのがわかった。誰もいない深夜の研究室。培養器のモーター音だけが、低く響いている。先輩は、ちょっと驚いたような顔で、僕を見ていた。
「……三浦くん、私ね」
「はい」
「最近、夜になるのが、楽しみだったの。三浦くんが残ってるから」
その言葉が、深夜の静けさに、ぽつりと落ちた。僕は、心臓が止まりそうになった。
「……それ、僕も、同じです」
「え」
「先輩のコーヒー、毎晩、すごく楽しみでした。実験のためじゃなくて、先輩に会えるから、夜まで残ってたんです」
言ってしまった。もう、後戻りできない。先輩の頬が、蛍光灯の下で、ほんのり赤くなっていくのが見えた。
「……博士の一年生が、四年生の男の子に、こんなこと思うの、変かな」
「変じゃないです。……僕、先輩のこと、好きです」
先輩は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと、僕のほうへ一歩、近づいた。
「……私も。三浦くんのこと、好きみたい」
どちらからともなく、距離が縮まった。
先輩の顔がゆっくり近づいて、僕は無意識に、その肩にそっと手を添えていた。白衣ごしに、細い肩の感触が伝わってくる。
唇が、重なった。
「ん……」
柔らかくて、かすかにコーヒーの味がして、先輩が少し緊張しているのが伝わってきた。一度離れて、目を合わせて、もう一度、今度は少し深く重なる。
ちゅ……ちゅっ……
「……三浦、くん」
「悠真、でいいです」
「……悠真くん」
下の名前で呼ばれて、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。僕は先輩の背中に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せた。研究室には、僕らのほかに誰もいない。ドアの鍵は、とっくに内側からかかっている。
「……こんなとこで。誰か来ないかな」
「来ないですよ。学園祭の夜の、深夜二時ですよ」
「……ばか」
そう言いながら、先輩は逃げなかった。むしろ、僕の白衣の胸に、こつんと額を預けてきた。
研究室の隅、試薬瓶の並んだ棚の陰に、ミーティング用の古いソファがある。僕は先輩の手を引いて、そこに二人で腰を下ろした。
もう一度、深く口づける。キスをしながら、僕は先輩の髪を結んでいたゴムを、そっと外した。さらりと、髪が肩に落ちる。いつも結んでいる先輩の髪を、こうして解いたのは、たぶん僕が初めてだ。
「……髪、おろしてるの、きれいです」
「……やめて。恥ずかしい」
それでも、先輩は僕の首に腕を回してきた。白衣のボタンを、一つずつ外していく。下に着ていたニットの裾から、おそるおそる手を入れると、先輩の素肌は、思ったよりずっと熱かった。
れろ……ちゅ……
「ん……ふ……っ」
背中の素肌を撫でると、先輩の体が、びくりと小さく震えた。クールでいつも冷静な先輩が、僕の手の中で、少しずつ熱を持っていく。それが、どうしようもなく愛おしかった。
「……悠真くん。電気、消して」
「……はい」
僕が立って蛍光灯のスイッチを切ると、研究室は、装置のわずかな表示ランプと、窓から差す街明かりだけになった。薄暗がりの中で、先輩の白い肌が、ほのかに浮かび上がる。
ニットを脱がせると、先輩は恥ずかしそうに、胸の前で腕を組んだ。
「……あんまり、見ないで」
「無理です。きれいすぎて」
「……っ、もう」
僕がブラのホックにそっと触れると、先輩は小さく息を呑んで、それから、こくんと頷いた。ホックが外れて、白い胸が、薄明かりの中にこぼれる。僕は、それを壊れ物みたいに、そっと手で包んだ。
「あ……っ」
「……痛くないですか」
「いた、くない……っ」
指の腹で、つんと立ちはじめた先端をかすめると、先輩の肩がぴくんと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「……ここ?」
「……っ、変な、声、出ちゃう……っ」
口では恥ずかしがるのに、僕が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、先輩の体から、ふっと力が抜けていった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、薄暗い研究室に漏れる。誰もいなくてよかった、と頭の隅で思った。こんな声、誰にも聞かせたくない。僕だけが、知っていたい。
胸を愛撫しながら、もう片方の手で、先輩のスカートの中、太腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「……力、抜いてください。先輩のペースで」
「……っ、悠真くんが、そう言うと、ずるい……っ」
下着の上から、いちばん敏感なところに触れると、もうそこが熱くなっているのがわかった。指でそっと撫でるたびに、先輩の腰が、小さく揺れる。やがて下着を脱がせて、直接そこに触れると――
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……濡れてます」
「言わないで……っ♡ キスのとき、から……っ」
恥ずかしさで顔を背ける先輩に、僕は何度も口づけながら、敏感な突起を、指の腹でくるくると撫でた。先輩が、僕の腕にぎゅっとしがみつく。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「……気持ちいいですか」
「……っ♡ うん……っ♡」
指を、ゆっくり中へ沈めていく。
ずぷ……っ
「ん……あぁ……っ♡」
熱くて、とろとろだった。先輩の中を、こわごわ、けれど確かめるように広げていく。指の動きに合わせて、先輩の体が、だんだん高まっていくのがわかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ なんか、来ちゃう……っ♡」
「いいですよ。そのまま」
「やっ♡ 見ないで……っ♡♡」
指の動きを速めると、先輩の体が、びくびくっと跳ねた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
僕の腕の中で、先輩はぎゅっと体を丸めて、達した。いつも凛としている人が、僕の前で乱れて、肩で息をしている。その姿に、胸が締めつけられた。
「……大丈夫ですか」
「……っ、はぁ……っ、だい、じょうぶ……っ♡」
息を切らす先輩の額に張りついた前髪を、僕はそっとよけた。
「……悠真くん」
「はい」
「……最後まで、してほしい。悠真くんと、なら」
クールな先輩が、頬を染めて、そんなことを言う。僕は、ごくりと喉を鳴らした。
「……無理、してないですか」
「してない。私が、したいの」
僕は、財布の中に念のため入れていた小さな包みを取り出した。先輩が、それを見て、ほっとしたように、ふっと笑う。
「……そういうとこ、ちゃんとしてる」
「先輩に、地味なところが大事だって、教わったので」
「……もう。こんなときに」
狭いソファの上で、僕は先輩にそっと覆いかぶさった。脚の間に体を進めて、熱く張りつめたものを、入り口にあてがう。
「……いきます。痛かったら、すぐ言ってください」
「……うん」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入った瞬間、先輩は僕の背中に腕を回して、しがみついてきた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、ゆっくりと、先輩の中が僕を受け入れていく。
ずず……っ
「っ……あ……っ」
「……止めますか」
「やだ……止めないで……っ♡ 大丈夫、だから……っ」
僕は、先輩の様子を窺いながら、ほんの少しずつ進んだ。途中で何度も止まって、先輩の額にキスを落として、また少し進む。やがて、根元まで、深く繋がった。繋がった場所から、じんわりと熱が広がっていく。
「……全部、入ってる……?」
「はい。……全部」
「……繋がってるんだ、私たち……」
先輩の目に、うっすら涙がにじんでいた。ずっとガラス越しに、装置越しに、コーヒーのマグ越しに見ていた人と、今、こんなに近くで、ひとつになっている。僕は、その涙を指でそっと拭った。
「……動いて、平気ですか」
「うん……っ。来て、悠真くん……っ」
ゆっくりと、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ ん……っ♡ あっ♡」
最初は、先輩の体を気遣う、ゆっくりした律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、先輩の声が漏れる。
「……痛くないですか」
「……っ♡ 平気……っ♡ なんか……変な、感じ……っ♡」
「気持ちよく、なってきました?」
「……っ♡ わかんな……っ♡ でも、悠真くんの、好き……っ♡」
口走ってから、先輩は自分の言葉に、また顔を赤くした。それが体のことなのか、僕自身のことなのか、たぶん、どっちもだったんだと思う。
ぱちゅ……ぱちゅ……
「悠真くん……っ♡」
「冬香さん」
「……っ♡ 名前……」
「冬香さん。……ずっと、こうやって呼びたかった」
下の名前で呼ぶと、先輩は僕の首に腕を回して、自分から唇を求めてきた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。律動が、少しずつ深くなる。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ 悠真くん……っ♡ なんか、また……っ♡」
「……僕も、そろそろ」
「一緒が、いい……っ♡ 悠真くんと、一緒……っ♡」
僕は、先輩をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、少しだけ速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ 悠真くん……っ♡♡」
「……っ、冬香さん……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる僕を、先輩の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。薄暗い研究室で、汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ、悠真くん……」
「……冬香さん。痛くなかったですか」
「……痛かった、けど。……それより、ずっと、幸せだった」
僕は、先輩の汗ばんだ額に、何度もキスを落とした。
研究室の窓から、白々と夜が明けはじめていた。
学園祭の最終夜が終わって、キャンパスはすっかり静まり返っている。僕は、先輩の肩を抱いたまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。先輩の心臓の音が、肩の下で、とくとくと鳴っている。
「……ねえ、悠真くん」
「はい」
「私、あと三年は、博士課程。悠真くんは、来年、就職する?」
「……まだ迷ってます。でも」
「でも?」
「冬香さんを見てたら、ちょっと、大学院も、いいなって思いはじめてます」
先輩が、ぱっと顔を上げた。そして、信じられないものを見るような目で、僕を見つめた。
「……それ、私につられて決めるの、だめだよ」
「わかってます。自分でちゃんと考えます。……でも、同じ研究室に、もう少しいられたら、いいなって」
先輩は、しばらく黙って、それから、ふっと笑った。あの、口の端だけがほんの少し上がる、先輩の笑い方。それが、たまらなく好きだと思った。
「……卒論、ちゃんと仕上げてからね。先輩として、それは譲れない」
「はい。……地味に、ひとつずつ、やります」
「うん。それでいい」
朝日が、研究室の機材を、ひとつずつ照らしていく。昨夜あんなに僕らを困らせた古い分光光度計も、ずらりと並んだ試薬瓶も、やわらかな光の中にあった。
「冬香さん」
「ん?」
「コーヒー、淹れましょうか。今度は、僕が」
先輩は、一瞬きょとんとして、それから、今度ははっきりと笑った。
「……いいね。飲みたい」
僕は給湯室で、いつものコーヒーメーカーを動かした。研究室にいい匂いが広がっていく。マグを二つ持って戻ると、先輩は窓辺で髪を結び直していた。その横顔が、朝日を浴びて、すごくきれいだった。
二人で並んで、湯気の立つマグを手に、明けていくキャンパスを眺めた。ずっと装置や机を一つ隔てていた距離が、今は、ひとつもない。
「……おはよう、悠真くん」
「おはようございます、冬香さん」
窓の外で、晩秋の最後の落ち葉が、朝の光の中を、はらりと一枚、舞い落ちていった。
― 終 ―