亡くなった祖母の食堂を片づけに、十年ぶりに瀬戸内の港町へ帰ったら、隣の家の幼馴染が船大工になっていた話

瀬戸内の港町は、潮の匂いがした。

私、安西汐里(あんざい しおり)、二十七歳。東京で、雑貨メーカーの商品企画をしている。今日、十年ぶりにこの町へ帰ってきたのは、観光でも里帰りでもない。春に亡くなった祖母が遺した、港のそばの小さな食堂を片づけるためだった。

『食堂 しおさい』

色の褪せた暖簾はもう外されて、すりガラスの引き戸に、白い「閉店」の貼り紙がしてあった。祖母が一人で五十年やってきた店。私が高校を出てこの町を離れるまで、夏休みのたびに手伝った場所。鍵を開けるのが、なんだか怖かった。

(……ただいま、おばあちゃん)

梅雨入り前の、よく晴れた昼下がりだった。雨を覚悟していたのに、空は拍子抜けするくらい青くて、湾の海が、凪いで、きらきら光っている。港には小さな漁船が何隻も並んで、どこかでカンカンと、金属を叩く音が響いていた。

引き戸に手をかけたとき、隣の家のほうから、足音が近づいてきた。

「……汐里? 汐里か」

低い、けれど聞き覚えのある声だった。振り返ると、作業用のつなぎを腰で結んだ、背の高い男の人が立っていた。日に焼けた腕、節くれだった大きな手。短く刈った髪に、汗で湿いた前髪。

その顔を見た瞬間、十年が、するりと飛んだ。

「……航(わたる)?」

浜野航(はまの わたる)、三十歳。隣の家の幼馴染。私が三つ下で、子どもの頃は、毎日のように一緒に防波堤で釣りをして、祖母の食堂でラムネを飲んだ。最後に会ったのは、私が町を出る前。あの頃はまだ、ひょろっとした青年だったのに。

「久しぶり。……ばあちゃんのこと、聞いたよ。なんも、力になれんで」

「ううん。……お通夜、来てくれたんだってね。母から聞いた。私、東京で仕事が抜けられなくて、お葬式しか帰れなくて」

「気にすんな。みんな、わかっとる」

その方言の柔らかさに、ふいに、喉の奥がつかえた。


航は、隣の浜野造船所を継いでいた。木造船をつくる、船大工になったのだという。

「船大工って……航、大学行くって言ってなかった?」

「行ったよ。出て、向こうで何年か働いて。……でも、親父が腰やってな。帰ってきて、継いだ」

「そっか」

「木の船なんて、もう注文もそんな来んけどな。直しの仕事と、半分は趣味みたいなもんよ」

そう言って、航は照れたように笑った。その笑い方が、子どもの頃のままで、胸の奥がくすぐったくなる。

引き戸の鍵が、固くて開かなかった。私が手こずっていると、航が「貸してみ」と手を伸ばしてきた。大きな手が、鍵をくるりと回す。かちゃ、と、あっけなく開いた。

「この戸、昔っから建て付け悪いんよ。コツがいる」

「……よく知ってるね」

「ばあちゃんに、何回も呼ばれて直したからな。最近は、電球替えたり、雨どい掃除したり……まあ、近所のよしみで」

さらっと言われて、私は、言葉に詰まった。東京で仕事に追われていた十年のあいだ、この人は、祖母の隣で、ずっとそういうことをしてくれていたんだ。

「……ありがとう。私、なんも、知らなくて」

「礼なんかいらん。……ばあちゃんの飯、俺、ずっと食わせてもろてたんよ。こっちが世話になりっぱなしや」

開いた引き戸の奥から、埃と、出汁の名残みたいな匂いがした。誰もいなくなった食堂は、時間が止まったみたいに、静かだった。


その日から、私は祖母の食堂に通って、少しずつ中を片づけはじめた。

棚に並んだ、欠けた茶碗。年季の入った大きな寸胴。壁に貼られた、手書きの品書き。一つひとつ手に取るたびに、祖母の声が聞こえてくるようで、なかなか作業が進まなかった。

航は、仕事の合間に、ふらりと顔を出した。

「重いもん、あるやろ。冷蔵庫とか、一人じゃ無理や」

「いいよ、航だって仕事あるのに」

「隣やからな。叫んだら聞こえる」

そう言って、彼は大きな業務用の冷蔵庫を、軽々と壁から引き離してくれた。汗をぬぐうその腕に、太い血管が浮いている。働く人の腕だ、と思った。

(……気づいたら、目で追ってる)

軽く挨拶して、必要なときだけ手伝ってもらおう。最初はそう思っていたのに、彼が来ると、店の空気がふっと和らぐのが、自分でもわかった。重い荷物を運びながら、航は、子どもの頃の話をした。

「覚えとる? 汐里が防波堤から落ちて、俺が飛び込んで助けたん」

「あれ、航が押したんでしょ!」

「押してへんわ! 人聞きの悪い。……まあ、あのとき、汐里、泣きながら俺の手、ぎゅーって握っとったな」

「……覚えてないってば、そんなの」

覚えていた。海水でびしょ濡れの、航の手の温かさを。でも、それを言うのが、なんだか急に恥ずかしくて、私は寸胴を磨くふりをして、顔を背けた。


夕方、港の魚屋の佳代(かよ)さんが、店をのぞきに来た。祖母と仲のよかった、世話焼きのおばちゃんだ。

「あらまあ、汐里ちゃん! 立派になって。東京もんになったねえ」

「ご無沙汰してます、佳代さん。おばあちゃんが、お世話になりました」

「水くさいこと言わんの。……それより、航くんと、また一緒におるんやねえ」

佳代さんは、私と、冷蔵庫を運んでいる航の背中を見比べて、にやっと笑った。

「あんたが東京行ってから、航くん、よう、ばあちゃんの店、手伝うとったんよ。『汐里ちゃん、いつ帰ってくるかね』って、ばあちゃん、ようこの子と話しとった」

「……佳代さん。余計なこと言わんでええ」

「ええやん、ほんまのことやろ。航くん、あんたが帰ってくるって聞いて、今週ずっとそわそわしとったよ。ねえ?」

「……仕事、戻るわ」

航が、耳まで赤くして、逃げるように造船所へ戻っていった。佳代さんは、その背中を見送って、けらけら笑う。私は、どう反応していいかわからなくて、ただ顔が熱くなった。

「あの子なあ、ほんま不器用やけど、ええ子よ。……汐里ちゃん、ちょっとは、わかってあげなね」

佳代さんが帰ったあと、私は、誰もいない食堂で、一人、しばらく動けなかった。そわそわしてたって。私が帰ってくるって聞いて。——胸の奥が、ことん、と音を立てた気がした。


片づけが一段落した、四日目の夕方。航が、思いがけないことを言った。

「汐里。明日、時間あるか。……見せたいもんがある」

「見せたいもの?」

「ええから。夕方、港に来て。日が沈む前」

翌日、言われたとおり港へ行くと、航が、一艘の小さな木の船のそばに立っていた。磨き上げられた、艶のある木肌。新しい船だ。

「これ……」

「俺が、一から作った。仕事の合間に、三年かけて。……乗ってみるか」

差し出された手を取って、私は船に乗り込んだ。航がエンジンをかけて、船は、凪いだ夕方の海へ、ゆっくりと滑り出していく。

オレンジ色に染まりはじめた空。点々と浮かぶ島影。波の音と、エンジンの低い唸り。風が、私の髪を撫でていく。航は、舵を握りながら、まっすぐ前を見ていた。その横顔が、夕陽に照らされて、ひどく大人びて見えた。

「この景色な、俺、ずっと、汐里に見せたかったんよ」

「……え」

「東京から帰ってきて、船作りながら、何回も思った。いつか汐里が帰ってきたら、この船で、ここ、連れてきたいなって」

凪いだ海の上で、彼の声だけが、やけにはっきりと聞こえた。私は、何も言えなかった。

「……変か。十年も会うてへんのに」

「ううん。……変じゃ、ないよ」

エンジンを切ると、船はゆっくり止まって、あたりは、波の音だけになった。夕凪。風が、ぴたりとやむ時間。海が、鏡みたいに、空を映していた。


「汐里。片づけ、もうすぐ終わるやろ」

「うん。……あと二日くらいで。終わったら、東京に戻る」

「……そっか」

航が、舵から手を離して、私のほうを向いた。夕陽を背負ったその目が、まっすぐ私を見ている。

「なあ、汐里。俺、不器用やから、回りくどいの、ようわからん。だから、はっきり言うわ」

「……航?」

「子どもの頃から、ずっと好きやった。汐里が町を出てからも、ずっと。……今も、変わらん」

凪いだ海の上で、その言葉が、まっすぐ私の胸に届いた。十年。私が東京で、忙しさにかまけて、すっかり忘れたつもりでいた場所に、この人は、ずっといてくれた。

「……ずるいよ、航」

「ずるい?」

「私、明日にでも東京に帰る人間だよ。なのに、そんなこと言われたら……っ」

声が、震えた。本当は、片づけをしながら、ずっと気づいていた。航が来ると、ほっとする自分に。彼の手を、目で追ってしまう自分に。その気持ちに、名前をつけるのが、怖かっただけだ。

「……私も。たぶん、ずっと前から。……今日、この景色見て、はっきり、わかった」

言い終わると、航が、ゆっくり手を伸ばして、私の頬に触れた。潮と、木の匂いのする、大きな手。その手のひらの温かさが、防波堤から落ちたあの日の記憶と、重なった。

「汐里。……キス、していいか」

「……聞かないでよ、そういうの」

それが、答えだった。夕凪の海の上で、航の唇が、そっと私の唇に重なった。

ちゅ、と。

「ん……」

柔らかくて、少し塩辛くて、温かい。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねた。波が、船を、ゆっくり揺らしていた。


港に戻る頃には、空はすっかり藍色に沈んで、ぽつぽつと、町の灯りがともりはじめていた。航は、船を岸に着けると、私の手を引いて、造船所の二階——彼の住まいへ、連れて上がった。

簡素だけれど、きちんと片づいた部屋だった。窓の外に、暗い海と、漁船の灯りが見える。航は、私を、そっと畳に座らせて、隣に腰を下ろした。その肩から、体温が、じんわり伝わってくる。

「……緊張、しとる?」

「……してる。だって、航だよ。あの、防波堤の航」

「俺も、緊張しとる。……汐里が嫌なら、やめる」

「やめないで」

自分でも驚くくらい、はっきり言えた。航が、少し目を見開いて、それから、優しく笑った。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより深くて、ずっと熱かった。

ちゅ……れろ……ちゅ……

「ん……ふ……っ」

キスをしながら、航の手が、私のブラウスのボタンを、一つ、また一つと外していく。その手つきが、船の木肌を撫でるみたいに丁寧で、急かされないことに、かえって体が疼いた。

「……きれいや、汐里」

「やだ、見ないで……恥ずかしい……」

「見たい。ずっと、好きやった子やから」

恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が甘く締めつけられた。航の唇が、首筋に降りてくる。

ちゅ……ちゅっ……

「ん……っ」

鎖骨に、肩に、彼の唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震える。ブラのホックが外されて、胸が彼の前にこぼれ出た。航の大きな手が、それを、こわごわと包む。

「あ……っ」

「……柔らかい。汐里、ほんまに、女になったんやな」

「もう……変なこと、言わないで……っ」

やわやわと、形を確かめるように揉まれて、私は彼の腕にしがみついた。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。

「ひゃ……っ、そこ……っ」

「ここ?」

「……っ、意地悪、しないで……っ」

口では強がるのに、航が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。

れろ……ちゅ……ちゅうっ……

「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」

甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。彼の不器用な手が、唇が、私のことを、こんなに大事に触れてくれる。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。

「ん……っ♡」

「力、抜いて。……痛いこと、せんから」

その声に、自然と体の力が抜けた。航の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。

「あっ……♡」

布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、航の指が、直接そこに触れた。

くちゅ、と。

「ひゃ……っ♡」

「……もう、こんなに濡れとる」

「言わないで……っ♡ 船の上、から……っ」

恥ずかしさで消えたいのに、航の指は優しい。敏感な突起を、指の腹でくるくると撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。

くちゅ……くちゅ……

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」

「汐里。……気持ちええんか」

「……っ♡ うん……っ♡ いいの……っ♡」

指が、ゆっくり中へ滑り込んでくる。

ずぷ……っ

「あぁ……っ♡」

熱い。彼の太い指が、私の中を、ゆっくり押し広げていく。船をつくる、節くれだった指。それが、私の奥を、確かめるように撫でる。

「……汐里の中、すごい、熱い」

「っ♡♡ 言わないでってば……っ♡」

弱い場所を指の腹で擦られて、同時に親指で突起を転がされて、私の腰は、もう自分の意思では止まらなかった。

くちゅくちゅくちゅっ……

「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」

「ええよ。……イって、汐里」

「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」

指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に高みへ押し上げられた。

「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」

びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。航の腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。

「……イったな」

「……っ、だから、言わないでってば……っ♡」

息を切らせる私の額に、航がそっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また泣きそうになった。


「……ねえ、航」

「ん」

「私ばっかり、ずるい。……航のも、ちゃんと、ちょうだい」

自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。航が、ごくりと喉を鳴らす。私はゆっくり体を起こして、彼のつなぎに手をかけた。脱がせると、日に焼けて、引き締まった胸板が現れる。海と船で生きてきた人の体だ、と思った。

航が私をそっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。

「汐里。……ええか」

「うん……っ。来て、航」

「……つけるから、待っとって」

「……うん」

避妊具をつける彼を、私はぼうっと見ていた。ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さも、不器用な彼らしかった。準備を終えて、航がもう一度、私の頬に手を添えた。

「いくで」

「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」

ずぷ……っ♡

「ん……あぁ……っ♡♡」

先端が入ってきた瞬間、私は彼の背中に腕を回してしがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。

ずず……っ

「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」

「……っ、汐里。すごい、締まる」

根元まで収まって、航がふっと息を吐いた。繋がった場所から、十年分の距離が、じんわり埋まっていくみたいだった。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。

「……繋がってる。私たち、今……っ♡」

「ああ。……もう、どこにも行かすかよ」

「っ♡♡ そういうの、ずるいってば……っ♡」

航が、ゆっくり動きはじめた。

ずちゅ……ぱちゅ……

「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」

最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。

「汐里。……気持ちええか」

「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」

「俺も。……ずっと、こうしたかった。夢みたいや」

その言葉に、胸の奥が震えた。私は彼の首に腕を回して、自分から唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、十年前の私は知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。

ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡

「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」

「ここか。……汐里の、ええとこ」

「っ♡♡ そこ、好き……っ♡ 航の、好きっ……♡♡」

口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でもわからなくなった。たぶん、どっちもだった。航が私の脚を抱え直して、結合が深くなる。

ぱちゅんっ♡♡

「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」

「汐里……っ、もう、離れられん」

「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」

波の音と、二人の息と、肌のぶつかる音が、部屋に満ちる。窓の外で、漁船の灯りが、暗い海に、ゆらゆら揺れていた。私は、もう何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、十年分の想いが、体の奥から溢れてくる。

「汐里……そろそろ……っ」

「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」

航が私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速めた。

ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡

「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 航、一緒に……っ♡♡」

「ああ……っ、汐里……っ!」

ぱちゅんっ——♡♡♡

「あぁぁ……っ♡♡♡」

奥でびくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。航が、私の上で、はぁ、と大きく息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。

「……はぁ……っ♡ すごかった……」

「……汐里」

「ん……?」

「好きや。……改めて言うわ。ずっと、好きやった。これからも、好きや」

私は、もう我慢できなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、笑いながら泣いた。

「……私も。大好き。十年も、気づかないふりして、ごめんね」

「ええよ。……帰ってきてくれただけで」

航が、涙で濡れた私の頬に、何度もキスを落とした。


気づくと、窓の外の海が、明け方の薄い光で、白みはじめていた。

凪いだ瀬戸内の朝。漁に出る船のエンジン音が、遠くで、ぽつぽつと鳴っている。私は航の腕に頭を預けて、その景色をぼんやり眺めていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。

「……ねえ、航」

「ん」

「私さ、東京の仕事、すぐには辞められない」

「うん。わかっとる。無理せんでええ」

「でも……おばあちゃんの食堂、壊すの、やめようと思う」

ずっと、迷っていた。閉めるか、人に貸すか、いっそ更地にするか。でも、昨日の夜、決めた。

「いつか、私がここに戻ってきて、また開けたい。……すぐには無理でも、少しずつ。週末ごとに通って、準備して」

「……ええな、それ」

「航の船で、私を運んでよ。東京と、この町と。……どっちか一個じゃなくて、両方」

「ああ。何回でも、迎えに行く。……汐里が帰ってくる港、ずっとここにある」

十年前、私はこの町を、振り返りもせずに出ていった。狭くて、なにもない場所だと思っていた。でも、ここには、ずっと私を待っていてくれた人がいた。祖母が遺した店も、彼がつないでくれた縁も、ぜんぶ、ここにあった。

「ねえ、航」

「ん?」

「食堂、また開けたらさ。航、いちばんに食べに来てよ。子どもの頃みたいに」

「行くに決まっとるやろ。……ラムネ、忘れんといてな」

「ふふ。冷やしとく。いちばん冷たいの」

航が、ちょっと笑って、私の頭にキスをした。

私たちは、布団から起き出して、二人で窓辺に立った。明け方の港。凪いだ海が、淡い光を映して、きらきら光っている。航が作った木の船が、岸で、波に、ゆらゆら揺れていた。

「朝飯、食うか。……うまいもん、作れんけど」

「いいよ。私が作る。……おばあちゃんの出汁、ちゃんと覚えてるんだから」

十年かけて遠回りした先で、私はやっと、自分が置いてきたと思っていた手を、もう一度、握り直した。隣で笑う彼の手は、もう、離れる気配がなかった。

窓の外、明けていく瀬戸内の空に、一番星が、まだ静かに光っていた。

― 終 ―


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