東京での仕事に疲れて地元の港町へ戻ったら、幼馴染が亡き祖母の食堂を一人で継いでいて、通ううちに恋に落ちて結ばれた話

俺、安西涼介、二十九歳。

東京のシステム会社で六年働いて、心と体を両方すり減らして、結局そこを辞めた。 次の当てがあったわけじゃない。ただ、もうこれ以上あの街にいたら、自分が自分でなくなる気がした。

そうして帰ってきたのが、生まれ育った瀬戸内の小さな港町だ。

駅から坂を下りれば、すぐに海の匂いがする。 防波堤に沿って漁船が並んで、夕方になると風がぴたりと止む。地元の人間が「夕凪」と呼ぶ、あの蒸し暑くて、でもどこか懐かしい時間。

十年以上ぶりの故郷は、思っていたよりずっと変わっていなかった。 変わっていなかったぶん、東京で擦り切れた自分だけが、やけに浮いて見えた。

1. 路地裏の「なぎさ食堂」

実家に荷物を置いて、夕方、なんとなく町をぶらついた。

腹が減っていた。 コンビニ弁当を買う気にもなれなくて、商店街から一本入った路地を歩いていると、すりガラスの引き戸から、ぼんやりと暖かい灯りが漏れている店があった。

色あせた藍色の暖簾に、白い字で「なぎさ食堂」。

こんな店、昔あっただろうか。 記憶を探る前に、腹の虫が勝った。引き戸をガラガラと開ける。

「……やってますか?」

カウンターの奥、湯気の向こうから、女の人の声が飛んできた。

「やってるよー。好きなとこ座って」

エプロン姿で振り向いたその顔を見て、俺は固まった。

切れ長の目に、きつめの眉。髪を後ろで無造作にひとつにまとめて、額には汗。 向こうも、おたまを持ったまま動きを止めた。

「……え。涼介?」

「……七海?」

七海だった。 小学校から中学まで、家が三軒隣の幼馴染。喧嘩ばかりして、泣かされたのは大体俺のほうだった、あの七海。

「うっそ。何、生きてたの」

「失礼すぎるだろ。生きてるよ」

十何年ぶりの再会の第一声がそれか、と思いながら、俺は笑ってしまった。 東京を出てから、初めて自然に笑った気がした。

2. 十年分の距離

カウンター席に座らされて、頼んでもいないのに、目の前にどんどん皿が並んだ。

鯵の南蛮漬け、ひじきの煮物、出汁巻き、それに白飯と味噌汁。

「とりあえず食べな。顔色わるいよ、あんた」

「いや、頼んでな……」

「いいから。久しぶりに帰ってきたお祝い」

箸をつけると、出汁の効いた味が、じんわり体に染みた。 東京で食べていたものが、急にぜんぶ嘘くさく思えるくらい、まっとうに美味い。

「……うま」

「でしょ」

得意げに鼻を鳴らす横顔が、昔と全然変わっていなくて、なんだか可笑しかった。

聞けば、この店は七海の祖母が長年やっていた食堂なのだという。 俺もおぼろげに覚えていた。子どもの頃、七海に連れられて裏口からこっそりコロッケをもらいに来たことがある。あの優しいお祖母さんの店だ。

「ばあちゃん、二年前に亡くなってさ」

「……そっか。知らなかった。ごめん」

「いいよ、東京いたんだもん。──で、店たたむのもったいないから、あたしが継いだ」

東京の会社で働いていたのを辞めて、地元に戻ってきたのだと、彼女はさらりと言った。 俺と、似たような道を通ってきたのかもしれない。

「ひとりで?」

「ひとりで。文句ある?」

「ないよ。……すごいな、お前」

そう言うと、七海は一瞬きょとんとして、それから照れ隠しみたいにそっぽを向いた。

「なに急に。気持ち悪いんだけど」

口は悪い。でも、皿の鯵をもう一切れ、黙って足してくれた。

3. 通うようになった

それから俺は、週に三日も四日も、なぎさ食堂に通うようになった。

実家暮らしに戻ったとはいえ、両親は共働きで夜は遅い。 ひとりで食う飯はどうにも味気なくて、気づけば足が路地のほうへ向いていた。

──いや、本当は飯だけが理由じゃなかった。

「またあんた? 暇人だね」

「絶賛求職中なの。文句あるか」

「ないない。常連様々です」

カウンター越しの、こういうやり取りが妙に心地よかった。 東京で誰かと話すときは、いつもどこかで損得を計算していた。 七海の前では、その必要がまるでない。

夜八時を過ぎると、客はぱたりと途切れる。 小さな港町の、小さな食堂だ。長っ尻の常連が帰ると、たいてい俺と七海の二人きりになった。

「ねえ。あんた、なんで帰ってきたの」

ある夜、洗い物の手を止めずに、彼女がふいに聞いてきた。

「……壊れたんだよ、ちょっと。東京で」

「ふうん」

「笑わないんだな」

「笑うわけないじゃん。あたしも同じだもん」

濡れた手をエプロンで拭いて、七海は俺の隣の席に、どすんと腰を下ろした。

「無理して笑う場所より、無理しないで黙ってられる場所のほうが、いいときもあるよ」

その横顔を、俺は思わず見つめてしまった。 気が強くて口が悪い幼馴染の中に、いつの間にか、こんな大人の顔が育っていた。

4. 閉店後の手伝い

通ううちに、自然と店仕舞いを手伝うようになった。

椅子を上げて、床を掃いて、暖簾をしまう。 七海が皿を洗う横で、俺がそれを拭く。 求職中の身には時間だけはあったし、何より、彼女と過ごすこの時間が惜しかった。

「手際いいじゃん。意外」

「ひとり暮らし長いからな」

「東京の男はやっぱ違うね」

「東京関係ないだろ」

軽口を叩き合いながら、肩が触れる距離で並んで立つ。 洗剤と、出汁と、彼女のうなじから香る汗の匂いが混ざって、心臓のあたりがそわそわした。

ある晩、最後の皿を拭き終えたとき、七海がぽつりと言った。

「あんたが帰ってきてから、この店、ちょっと明るくなった気がする」

「……そう?」

「うん。ばあちゃんが死んでから、ずっと、誰もいない店で洗い物してたからさ」

きつい目元が、その瞬間だけ、少しだけ柔らかくなった。

「……なんてね。湿っぽいの、なし」

「いいよ、聞くよ。いくらでも」

言ってから、自分の声が思ったより真剣だったことに気づいて、俺たちは二人して黙りこんだ。 換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえた。

5. 夕凪の防波堤

同級生の健太と、町でばったり会ったのはそんな頃だ。

地元で漁師を継いだ健太は、俺の顔を見るなり、にやにやと笑った。

「お前、なぎさ食堂に入り浸ってるって?」

「飯食ってるだけだよ」

「七海ちゃん、めっちゃ別嬪になったろ。あいつ、店一筋で誰の誘いも乗らねえんだぜ。お前だけだよ、あんなに通わせてんの」

その一言が、妙に胸に残った。

その週末、めずらしく七海が「今日は早く閉める」と言った。 誘われるまま、二人で防波堤まで歩いた。

風がぴたりと止んだ、夕凪の時間。 オレンジ色の海に、漁船のシルエットが浮かんでいる。

「あたしさ、この景色見ると、帰ってきてよかったって思うんだよね」

「……わかる気がする」

「あんたは? 帰ってきて、よかった?」

俺は少し迷って、それから素直に答えた。

「よかった。──お前がいたから」

七海が、ぱっとこっちを見た。 潮風に乱れた髪を押さえながら、何か言いかけて、やめて、また海のほうを向く。

「……さらっと、そういうこと言うな、ばか」

耳が赤い。 夕陽のせいだけじゃないことを、俺はもう知っていた。

6. 雨の夜の本音

梅雨入り間近の、雨の夜だった。

その日は客がひとりも来ず、七海は早々に暖簾を下ろした。 カウンターに二人、温い日本酒を分け合いながら、雨音を聞いていた。

「ねえ、涼介。あたし、ほんとはさ」

ぽつ、と彼女が言葉を落とした。

「この店、たたもうかって、何回も思ったんだよ」

「……そうなのか」

「ひとりだと、しんどくて。誰も来ない夜は、ばあちゃんの仏壇の前で泣いたりしてた」

いつも強気な彼女の、初めて見せる弱さだった。

「でも、やめなくてよかった。あんたが、来てくれるようになったから」

猪口を置いて、七海がこっちを見た。 目が、少し潤んでいる。

「七海」

「ん……」

「俺、お前のこと──幼馴染とか、もうそういうんじゃ、なくなってる」

言ってしまった。 雨の音が、やけに遠く聞こえた。

「……知ってるよ。あたしも、とっくに」

消え入りそうな声だった。 気づけば、カウンター越しに伸ばした手が、彼女の手にそっと重なっていた。

7. 二階の部屋へ

「……上、来る?」

七海が、店の奥の階段を目で示した。 二階は、彼女が祖母から受け継いだ住居になっている。

俺が黙って頷くと、彼女は俺の手を引いて、軋む階段をのぼった。

通された部屋は、古いけれど綺麗に片づいていて、彼女らしかった。 窓の外では、雨が降り続いている。

「……あんま、見ないで。緊張する」

「俺もだよ」

向き合うと、急に互いの呼吸の音まで聞こえる気がした。 何十年も知っているはずの幼馴染が、今は、まるで知らない女の人みたいに見える。

「七海」

「……なに」

肩にそっと手を置く。 彼女は逃げなかった。逃げるどころか、ほんの少し、こちらへ体を傾けてきた。

8. はじめてのキス

ゆっくりと顔を寄せると、七海が目を閉じた。

唇が触れる。 強気な彼女からは想像できないくらい、柔らかくて、おずおずとしたキスだった。

「ん……」

「……いやじゃない?」

「いやだったら、上になんか上げない……ばか」

もう一度、今度は少し深く重ねる。 薄く開いた唇の隙間から、舌を差し入れると、彼女の体がぴくりと震えた。

「ん……ふ……♡」

「……っ」

抱き寄せると、エプロンを外した部屋着越しに、思っていたよりずっと女らしい体の線が伝わってきた。 舌を絡め合ううちに、七海の手が、俺の背中にきゅっとしがみついてくる。

「はぁ……っ、涼介……♡」

「名前、そんなふうに呼ぶの、ずるいだろ」

「うるさい……っ♡」

照れて睨んでくる目が、もう完全に潤んでいた。 俺はそのまま、彼女を奥の布団へと導いた。

9. 結ばれる夜

布団に横たえた七海の、部屋着のボタンを、ひとつずつ外していく。

「電気……消して」

「ちょっとだけ、つけさせて。見たい」

「……ばか」

露わになった肌は、白くて、思っていたよりずっと豊かだった。 ブラを外すと、形のいい胸がこぼれる。

「綺麗だ」

「言わなくていいっ……んっ♡」

胸の先にそっと触れると、七海の口から甘い声が漏れた。 舌で転がし、もう片方を手で包んで揉むと、彼女の腰がもどかしげに揺れる。

「あっ……ん、んっ……♡」

「敏感なんだな」

「言う……なってば……っ♡」

下着の中へ手を滑らせると、そこはもうしっとりと潤んでいた。 指でそっと撫でるたび、七海は背中をのけぞらせる。

「やっ……それ、だめ……っ♡」

「だめじゃないだろ。すごいことになってる」

「いじわる……っ♡」

指を動かし続けると、彼女はあっという間に高みへ昇っていった。

「あっ、あっ……いっちゃう、から……っ♡」

「いいよ。いって」

「んんっ……!♡」

びくびくと体を震わせて、七海が達した。 肩で息をする彼女が、潤んだ目でこちらを見上げてくる。

「……涼介の、も。来て……」

「いいのか?」

「いいから……ずっと、こうなりたかったんだもん……♡」

その一言で、理性が溶けた。 ゆっくりと脚を開かせて、つながっていく。

「あっ……んん……っ♡」

「……っ、七海」

「うん……っ、来て……♡」

奥まで収まると、七海が俺の背中に腕を回して、きつく抱きついてきた。 喧嘩ばかりしていたあの頃の彼女と、今この腕の中にいる彼女が、ひとつに重なる。

「動くぞ」

「うん……っ、ゆっくり……♡」

ゆっくりと腰を動かすたび、彼女の甘い声が雨音に混じる。

「あっ、ん、んっ……♡ 涼介ぇ……♡」

「七海……っ、好きだ」

「あたしも……っ、ずっと好きだった……っ♡」

唇を重ねたまま、どんどん動きが激しくなっていく。 お互いの汗ばんだ肌が触れ合って、もう、どこまでが自分でどこからが彼女なのか分からなくなる。

「やばっ……また、いっちゃう……っ♡」

「俺も、そろそろ……っ」

「一緒に……っ、一緒がいい……♡」

抱き合ったまま、二人で一気に駆け上がった。

「あっ、あっ……いくっ……!♡」

「……っ!」

びくりと跳ねる彼女を抱きしめながら、俺も限界を迎えた。 雨の音だけが残る部屋で、しばらく、二人とも動けなかった。

10. 朝凪の食堂で

気づけば、窓の外が白んでいた。

雨はあがって、遠くで海鳥が鳴いている。 腕の中で、七海がもぞもぞと身じろぎした。

「……朝じゃん。寝坊した」

「店、大丈夫か」

「仕込み、手伝ってくれるなら許す」

「了解。──雇われ店員一号だな」

裸の肩に毛布を巻いた七海が、ふっと笑った。 昨日までの、強がりの笑いじゃない。心からの、やわらかい笑顔だった。

「ねえ、涼介」

「ん?」

「あたしたち、これって……つきあってる、ってことで、いいんだよね?」

「当たり前だろ。──幼馴染は、卒業」

「……うん。恋人、ね」

照れながらそう言って、彼女は俺の胸に額をこつんと押しつけた。

二人で階段を下りて、まだ誰もいない食堂の電気をつける。 七海がエプロンをつけて、俺が出汁の鍋に火を入れる。

夕凪の町に帰ってきて、俺は、無理して笑わなくていい場所と、隣で笑っていたい人を、両方とも見つけてしまった。

「ほら、ぼーっとしない! 開店までに、間に合わせるよ」

「はいはい。──店長」

その日から、なぎさ食堂のカウンターの中には、いつも二人分の気配があるようになった。


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