俺、藤村航(ふじむらわたる)、28歳。 この春から、勤めているメーカーの金沢支社に転勤になった。
東京で7年。やっと仕事に慣れてきたと思ったら、辞令一枚で北陸暮らしだ。 正直、最初は気が重かった。知り合いもいない。土地勘もない。 そのうえ、来てみたら梅雨だった。
金沢の6月は、本当によく降る。 朝はしとしと、昼はざあざあ、夜はまた、しとしと。 傘が手放せない毎日で、慣れない街の湿った空気に、なんだか気持ちまで湿気っていた。
支社に来て二週間。髪が、いいかげん鬱陶しく伸びていた。 東京で通っていた店にはもう行けない。どこで切ればいいのか分からず、放っていたのだ。
「このへんで、どっかいい美容室ないですかね」
昼休み、隣の席の田所さんに、なんとなく聞いてみた。 金沢生まれ、金沢育ち。面倒見のいい先輩だ。
「美容室? ああ、それなら、うちの近所にいい店あるよ。こぢんまりした個人店なんやけど」
「個人店ですか」
「うん。女の人が一人でやってる店でな。腕いいし、丁寧やよ。予約、ネットで取れるはずや」
田所さんが教えてくれた店の名前を、スマホにメモした。 『hair atelier nana』。 住所は、犀川のほとり。古い町家を改装した小さなサロンらしい。
その夜、写真を見てみた。 木目の壁に、アンティークの鏡が一枚。席は二つだけ。 落ち着いた、いい店だな、と思った。 深く考えず、土曜の午後で予約を入れた。
そのときの俺は、まさかその店が、俺の人生をひっくり返すなんて、思ってもいなかった。
2. シャンプー台の声
土曜日も、やっぱり雨だった。 傘を畳んで、町家の引き戸を開ける。
「いらっしゃいませ」
奥から、女性の声がした。 カウンターの陰になっていて、最初は顔が見えなかった。
「ご予約の藤村さまですね。どうぞ、こちらへ」
案内されるまま、鏡の前の椅子に座る。 店内は、写真のとおり静かで、雨の音がよく聞こえた。 ふわりと、シャンプーの甘い匂いがする。
「今日はどんな感じにしましょうか」
「あー、全体的に短く。サイドと襟足、すっきりさせてもらえれば」
「かしこまりました。じゃあ、先にシャンプーからいきますね」
シャンプー台に移って、仰向けになる。 温かいお湯が、頭にかかる。指が、丁寧に頭皮を洗っていく。 気持ちよくて、目を閉じた。
「お湯加減、熱くないですか?」
「あ、大丈夫です」
その声を、聞いた瞬間。 ん、と思った。 この声、どこかで——。
泡を流す指の動きが、ふと、止まった。 しばらく、沈黙。 雨の音だけが、店に響いていた。
「……航くん?」
心臓が、跳ねた。 名前。下の名前。それも、この、懐かしい呼び方。 目を開けると、逆さまの視界に、彼女の顔があった。 覗き込むようにして、俺を見ている。
「……七海?」
白石七海(しらいしななみ)。 七年前、俺が東京に就職するのを機に別れた、元カノだった。
3. 七年ぶり
シャンプーを終えて、もう一度、鏡の前の椅子に戻る。 鏡越しに、お互いの顔を見た。気まずさで、最初はうまく言葉が出てこなかった。
「びっくりした……。予約名、藤村って見たとき、まさかとは思ったけど」
「俺も……まさか、七海の店だったなんて」
「ふふ。世間って、狭いね」
七海は、タオルで俺の髪を拭きながら、困ったように笑った。 七年前と、面影は変わらない。 でも、ずいぶん大人びていた。
付き合っていたころの七海は、美容専門学校の学生だった。 夢を語るときだけ、子どもみたいに目を輝かせる子だった。 今、目の前にいるのは、自分の店を構えた、落ち着いた一人の女性だ。
「店、やってるんだ。すごいな」
「うん。三年前に、独立して。ずっと、いつかは自分の店をって思ってたから」
「……ちゃんと、夢、叶えたんだな」
「まあね。借金まみれだけど」
くすっと笑って、七海はハサミを手に取った。 鏡の中で、目が合う。すぐに、お互い逸らした。
「航くんは? 金沢、どうしたの。出張?」
「いや、転勤。この春から、支社勤務」
「えっ、転勤。じゃあ、しばらくこっちに?」
「そう。当分は」
七海の手が、一瞬、止まった気がした。 でも、すぐにまた、しゃきしゃきとハサミが動き出す。
俺たちは、別れて以来だった。 七年前、東京と金沢。遠距離になるのに耐えられる自信がなくて、というより—— 夢を追い始めた七海を、俺のわがままで縛りたくなくて、俺から、別れを切り出した。
(あのとき、俺が……)
言いかけて、やめた。今さら、言える立場じゃない。 ハサミの音と、雨の音だけが、店に満ちていた。
4. 切り終わるまで
カットは、丁寧だった。 七海は、昔の話には触れずに、当たり障りのない世間話を続けた。 金沢のいいところ。雨の多さ。美味しい店。
「金沢、来たばっかりだと、雨ばっかりで嫌になるでしょ」
「正直、ちょっと滅入ってた」
「ふふ。でもね、慣れると、雨の音、けっこう好きになるよ。特にこの町家、雨の日がいちばん落ち着くの」
そう言って、七海は窓の外を見た。 犀川に、雨が静かに降っていた。
切り終わって、鏡を見る。 さっぱりした、いい仕上がりだった。
「……うまいな、やっぱり」
「七年も腕磨いてますから」
「だな。完敗だ」
会計を済ませて、引き戸に手をかける。 帰り際、七海が、ためらいがちに口を開いた。
「あのさ、航くん」
「ん?」
「……また、来てくれる? お客さんとして」
「……ああ。もちろん」
「よかった。じゃあ、次もちゃんと、綺麗にするね」
笑った七海の顔が、一瞬、昔のままに見えた。 店を出ると、雨は、少しだけ小降りになっていた。
その夜。 スマホに、知らない番号からメッセージが来た。 『さっきはびっくりしたね。これ、私の個人の連絡先。予約じゃなくても、よかったら』 七海だった。 店の予約フォームに、俺の番号が残っていたんだろう。
俺は、しばらく画面を見つめて、それから、ゆっくり返信を打った。 湿った金沢の夜が、その日だけ、少しだけ、温かく感じた。
5. 雨の日の約束
それから、俺たちは、ぽつぽつと連絡を取り合うようになった。 最初は当たり障りのない近況から。やがて、少しずつ、昔の話も。
二週間後の、また雨の土曜日。 俺は、七海に誘われて、店の近くの小料理屋にいた。
「ここ、私の行きつけ。のどぐろ、美味しいんだよ」
「のどぐろって、高いやつだろ」
「いいの。再会祝いってことで」
カウンターに並んで座って、地酒を飲んだ。 七海は、酒が強くなっていた。昔はビール一杯で赤くなってたのに。
「お前、強くなったな」
「美容師の付き合いで鍛えられたの。失礼しちゃう」
酔いが回ってくると、自然と、口が軽くなった。 七年分の話を、お互い、ぽつぽつとこぼしていく。 俺の東京での仕事のこと。七海が店を出すまでの苦労。
「独立した最初の年なんてね、お客さん全然来なくて。一日、誰も来ない日もあったんだから」
「マジか」
「うん。一人で店に座って、雨の音、ずっと聞いてた。……あのときが、いちばん心細かったな」
ぽつり、と言った七海の横顔を、俺は見ていられなかった。 その心細い時間、俺はそばにいなかった。当たり前だ。俺が、別れたんだから。
「……七海」
「ん?」
「あのとき、別れて、ごめん」
七海が、おちょこを置いた。 店の中は静かで、外の雨音だけがした。
「……なんで、今さら謝るの」
「ずっと、ひっかかってたんだ。お前の夢を応援するふりして、結局、自分が遠距離に耐えられなかっただけだった」
しばらく、七海は黙っていた。 それから、ふっと、小さく笑った。
「……知ってたよ、そんなこと」
「え」
「航くん、嘘つくの下手だもん。あのとき、無理して笑ってたの、ぜんぶ分かってた」
6. 置いてきた気持ち
七海は、おちょこに、地酒を注ぎ足した。
「私もね、ずっと、後悔してたんだ」
「七海が?」
「うん。あのとき、引き止めればよかったって。夢、夢って言って、結局、いちばん大事なもの、自分から手放したんじゃないかって」
雨の音が、強くなった。 七海の声は、静かで、でも、まっすぐだった。
「店が軌道に乗って、ちょっと余裕が出てきたころにね。ふと思ったの。私、なんのために頑張ってたんだろうって」
「……」
「叶えた夢の隣に、航くんがいないことに、やっと気づいたんだ。七年もかかって」
俺は、何も言えなかった。 七海の目が、少し潤んでいた。でも、泣かなかった。
「……俺も、同じだ」
「同じ?」
「東京で、それなりにやってきた。でも、ずっと、どっかで思ってた。あのとき、別れなければって」
七海が、こっちを見た。 鏡越しじゃない、まっすぐな視線だった。
「……それ、本気で言ってる?」
「ああ。本気だ」
しばらく、二人で見つめ合った。 七年分の時間が、ゆっくりと、溶けていくみたいだった。
「……ねぇ、航くん」
「ん?」
「うち、来る? 店の二階、住居にしてるの。雨、ひどくなってきたし」
その声は、酔いのせいだけじゃない、震えを含んでいた。 俺は、頷いた。
7. 二階の部屋
小料理屋を出て、傘を一本だけ差して、二人で歩いた。 七海の店まで、歩いて五分。 肩が、何度も触れた。そのたびに、お互い、ちょっとずつ距離を詰めていく。
町家の引き戸を開けて、急な階段を上がる。 二階は、こぢんまりとした、居心地のよさそうな部屋だった。 本棚と、小さなソファと、ドライフラワー。雨の匂いが、窓から薄く流れ込んでいた。
「散らかってて、ごめんね」
「いや、いい部屋だ。お前らしい」
「……そういうの、ずるいよ」
七海が、タオルを二枚持ってきて、一枚を俺に渡した。 傘を差してたのに、肩が少し濡れていた。
「髪、濡れてる。せっかく切ったのに」
そう言って、七海が、俺の髪をタオルで拭いてくれた。 さっき、店でしてくれたのと同じ手つき。 でも、距離が、さっきよりずっと近かった。
顔を上げると、すぐ目の前に、七海の顔があった。 拭く手が、止まる。 お互いの息が、かかるくらいの距離。
「……航くん」
「七海」
どちらからともなく、だった。 ゆっくりと、顔が近づいて——。
ちゅ。
唇が、触れた。 七年ぶりの、キスだった。
8. 七年ぶりのキス
軽く触れて、離れる。 七海が、潤んだ目で俺を見た。
「……夢じゃ、ないよね」
「夢じゃない」
今度は、俺から、唇を重ねた。 七海の腕が、そっと俺の背中に回る。
ちゅっ……ちゅ……
「ん……♡」
最初は触れるだけだったキスが、だんだん深くなる。 七海の唇は、柔らかくて、少しだけ、地酒の味がした。
ちゅぷ……れろ……ちゅるっ……
「は……っ、ん……♡」
舌が、絡む。 七年の時間を埋めるみたいに、お互い、夢中になっていた。 離れると、二人の唇の間に、透明な糸が引いた。
「……っ、はぁ……」
「七海、俺——」
「言わなくていい。……今は、何も言わないで」
七海が、俺の手を取った。 そして、奥のベッドへと、俺を導いていく。 窓の外は、まだ雨が降っていた。雨音が、二人の鼓動を隠してくれているみたいだった。
「……シャワー、浴びる?」
「……あとで。今は、七海といたい」
「……っ、もう」
頬を赤くして、七海が俯いた。 その仕草が、昔のままで、たまらなく愛しかった。
9. 雨の夜に
ベッドに、二人で腰を下ろす。 スプリングが、きしっと鳴った。
「……緊張する。昔より、ずっと」
「俺もだ」
「ふふ。おそろいだね」
俺は、七海の頬に手を添えて、もう一度キスをした。 ブラウスのボタンを、ひとつずつ外していく。 七海は、抵抗しなかった。ただ、まっすぐ俺を見ていた。
ブラウスを脱がせると、白い肩と、淡い色のブラが現れた。 昔より、女らしく、柔らかくなった体。
「……綺麗になったな、七海」
「……っ、急に言わないでよ」
ホックを外すと、ふるんと、胸がこぼれた。 形のいい、白い胸。先端が、薄く色づいて、つんと尖っていた。
「……」
「……あんまり、見ないで。恥ずかしい」
「無理だ。綺麗すぎる」
俺は、そっと胸に手を這わせた。
むにゅっ。
「あ……っ♡」
柔らかい。手のひらに、吸い付くようだった。 やさしく揉みしだくと、七海の体が、びくびくと跳ねた。
「ん……っ♡ 航くんの手、おっきい……♡」
「気持ちいい?」
「……うん♡」
先端を、指先でくりっと転がす。
「あぁっ♡ そこ、だめっ……♡」
胸の先に、唇を落とす。 ちゅっ、と吸って、舌で転がす。
ちゅぷ……ちろ……ちゅっ……
「ひゃぁっ♡♡ んっ……♡」
七海の声が、どんどん甘くなっていく。 雨の音に混ざって、その声が、部屋に響いた。
10. 溶けていく時間
七海の体が、火照ってきた。 スカートをめくり上げ、太ももを撫でる。内ももが、しっとりと湿っていた。
「……七海、もう」
「言わないで……っ、恥ずかしいから……♡」
下着の上から、そっと触れる。 くちゅ、と、小さな音がした。
「あぁっ♡」
布越しに、ゆっくり撫でる。 そのたびに、七海の腰が、もどかしそうに揺れた。
「航くんっ……♡ じれったいよぉ……♡」
「直接、してほしい?」
「……っ、いじわる」
下着を、ゆっくり脱がせる。 とろり、と糸を引いた。もう、すっかり潤んでいた。
「すごいな……」
「言わないでってば……♡」
指先で、そっと撫でる。
くちゅ……くちゅっ……
「ひゃあっ♡♡ んっ……♡ あっ……♡」
敏感な突起を、優しく転がすと、七海が大きく仰け反った。
「あぁっ♡♡ そこっ……♡ だめ、すぐイっちゃうっ……♡♡」
「イっていいよ」
「やっ……一人だけ、やだぁ……♡」
七海が、潤んだ目で俺を見上げた。 そして、震える手で、俺のベルトに手をかけた。
「……航くんも、脱いで。一緒がいい」
俺は、服を脱ぎ捨てた。 七海が、もう硬くなっているそこを見て、息を呑んだ。
「……七年経っても、変わらないね」
「お前を前にしたら、こうなるよ」
「……っ、もう」
11. もう一度、ひとつに
七海を、そっとベッドに横たえる。 脚の間に、体を割り込ませた。 とろとろに濡れた入り口に、先端を当てる。
「……いい?」
「うん……♡ 来て、航くん……♡」
ずぷ……ずぷぷっ……
「あぁっ……♡♡」
ゆっくりと、奥へ。 七年ぶりの七海の中は、熱くて、きつくて、それでいて、とろけるように俺を包み込んだ。
ずぷん……♡
「ん……っ、全部、入った……♡♡」
「……すげえ、締まる」
「航くんの形……まだ、覚えてる……♡」
しばらく、二人で動かずに、繋がったまま見つめ合った。 七海の目から、つう、と涙が伝った。
「……戻ってこれた、みたい」
「ああ。戻ってきた」
ゆっくりと、腰を動かし始める。
ぐちゅっ……ぐちゅっ……
「あっ……♡ ん……っ♡」
最初は、優しく。 七海の反応を確かめながら、少しずつ、リズムをつけていく。
ぱんっ……ぱんっ……
「あんっ♡ あっ♡ 奥っ……当たるぅ……♡♡」
揺れる胸に、手を伸ばす。 突くたびに、ぷるぷると揺れるそれを、やさしく包んだ。
「あぁっ♡♡ 胸とっ……一緒、だめぇ……♡♡」
「気持ちいいんだろ?」
「いいっ……♡♡ 航くんとするの、やっぱり、いちばんいいっ……♡♡」
雨の音が、強くなる。 それに重なるように、七海の喘ぎ声が、高くなっていった。
ぱんぱんぱんっ♡♡♡
「あっ♡あっ♡あっ♡♡ 航くんっ、私っ……♡♡」
「俺も、そろそろ……」
「一緒にっ……♡♡ 今度は、ずっと、一緒がいいっ……♡♡♡」
俺は、体を起こして、七海を強く抱きしめた。 汗ばんだ肌と肌が、ぴったりと密着する。
「あぁっ♡♡ 近いっ……♡ 航くんの、鼓動っ……♡」
「七海、好きだ。もう一度、ちゃんと好きになった」
「っ……♡♡ 私もっ……ずっと、好きだったっ……♡♡♡」
ぐちゅぐちゅぐちゅっ♡♡♡
七海の中が、ぎゅうっと締まった。
「イクっ……♡♡ 航くん、私、イっちゃうっ♡♡♡」
「七海、外に……っ」
「うんっ……♡♡ ぎりぎりまで、奥でっ……♡♡♡」
最後に、思いきり奥を突いた。
ずぷんっっ♡♡♡
「——————っっ♡♡♡♡」
びくんびくんっ♡♡♡
七海が達した瞬間、俺は引き抜いた。
どくっ……どくどくっ……
「く……っ」
七海の、白いお腹に、熱が飛び散る。
「はぁっ……♡♡ はぁっ……♡ すごかった……♡」
七海が、ぐったりと、俺の胸にもたれかかってきた。 荒い息が、首筋にかかる。 しばらく、二人で抱き合ったまま、呼吸を整えていた。
12. 雨上がりの朝
目が覚めると、窓の外が、明るかった。 カーテンの隙間から、久しぶりの陽射しが差し込んでいる。 雨が、上がっていた。
隣で、七海が、すうすうと寝息を立てていた。 その寝顔を見ていたら、なんだか、胸がいっぱいになった。
しばらくして、七海が、目を開けた。
「……おはよ」
「おはよう」
「雨、やんでる」
「ああ。久しぶりの晴れだ」
七海が、俺の胸に、頬を寄せた。
「ねぇ、航くん」
「ん?」
「昨日の『もう一度好きになった』って……本気?」
「当たり前だろ。今さら取り消すわけない」
七海が、ぱあっと、顔をほころばせた。 それから、ちょっと、いたずらっぽい顔になる。
「……あのね。私、もう、夢は叶えたの。店も持った」
「ああ」
「だから、次に欲しいのは、夢じゃなくて……隣にいてくれる人」
そう言って、七海は、俺の手を、ぎゅっと握った。
「七年前は、夢のために、航くんを手放した。……でも、もう、手放さない」
「……七海」
「今度こそ、ずっと、一緒にいて。金沢に、転勤してきてくれたんだから。……これ、運命でしょ?」
「ああ。運命だ」
俺は、七海を抱き寄せて、額にキスをした。
「俺も、もう手放さない。今度こそ、ちゃんと、隣にいる」
「……うん♡」
七海が、俺の胸に顔を埋めて、小さく笑った。 その笑い方は、七年前の、付き合いたてのころと、同じだった。
しばらくして、七海が、ぱっと体を起こした。
「……あ、そうだ。航くん、昨日せっかく切った髪、寝癖ついてる」
「マジか」
「ふふ。下、店だから。直してあげる。彼女として、特別サービスね」
「彼女、か」
「……そうだよ。今度は、ちゃんと、彼女」
雨上がりの陽射しの中で、七海が、にっこり笑った。 七年前、俺が手放した彼女は、夢を叶えて、自分の店を持って、強くなって。 そして今、もう一度、俺の隣に戻ってきてくれた。
「ほら、行こ。下、降りて」
「ああ」
急な階段を、二人で降りる。 小さな美容室には、朝の光が満ちていた。 鏡の前の椅子に座ると、七海が、俺の髪に、そっと指を通した。
「……おかえり、航くん」
「ただいま、七海」
鏡の中で、二人で笑った。 窓の外では、犀川が、雨上がりの光を反射して、きらきらと輝いていた。
長かった七年の遠回りの果てに、俺は、やっと、帰る場所を見つけた気がした。
― 終 ―