十年ぶりに降り立った駅は、記憶よりずっと小さく見えた。
私、水沢結(みずさわ ゆい)、二十八歳。東京の住宅メーカーで、注文住宅の設計をしている。といっても、ここ半年はろくに図面と向き合えていなかった。残業と、合わない上司と、終わらない修正依頼。心のどこかが、ずっと湿気ったまま乾かない感じが続いていた。
そんなとき、母から電話があった。祖母が、転んで腰の骨を折って入院した、と。
(しばらく、帰っておいで。おばあちゃんの家、空っぽにしておくのも心配だし——母さんの、その言葉に甘えた)
有給を、まとめて取った。祖母の見舞いと、誰も住まなくなった古い家の片付け。それを口実に、私はこの町へ逃げ帰ってきたんだと思う。瀬戸内の、小さな港町。潮の匂いと、錆びたトタンと、坂の多い商店街。十八で出ていったきり、お盆にも正月にも、私はほとんど帰ってこなかった町。
駅前のロータリーに立つと、六月の生ぬるい風が、頬を撫でた。空はどんよりと低く、海の方から、雨の匂いがしていた。
(……変わってないな。何もかも)
スーツケースを引いて、祖母の家までの坂道を歩く。シャッターの下りた店が、記憶より増えていた。それでも、いくつかの店は、まだ灯りをつけている。八百屋、米屋、古い喫茶店。そして——商店街のいちばん外れに、見覚えのある、煉瓦の煙突が一本、立っていた。
その煙突の根元から、白い湯気が、もくもくと、雨曇りの空へのぼっている。
(……橘湯、まだやってるんだ)
子どもの頃、よく通った銭湯だった。〈橘湯〉。木の看板も、唐破風の屋根も、昔のまま。ガラス戸の向こうに、暖簾の藍色が揺れている。なつかしさに足が止まって、私はしばらく、その湯気を見上げていた。
祖母の家は、想像していたよりずっと、傷んでいた。
畳は湿気を吸ってぶよぶよで、雨戸は建て付けが悪く、台所の蛇口は赤い水が出た。そして——風呂のボイラーが、完全に壊れていた。スイッチを入れても、うんともすんとも言わない。
(……お湯、出ないのか)
設計の仕事柄、設備の見当はつく。これは部品交換じゃ済まない。業者を呼んでも、田舎だから、すぐには来てくれないだろう。今日からしばらく、ここで寝泊まりするのに、風呂が使えないのは、さすがにこたえる。
途方に暮れて縁側に座っていると、また、あの煙突が目に入った。湯気は、まだのぼっている。
(……そっか。銭湯、行けばいいんだ)
タオルと着替えを、コンビニで買った安いカゴに詰めて、私は夕暮れの商店街を、橘湯へと歩いた。藍色の暖簾を、十年ぶりにくぐる。からり、と建て付けの悪いガラス戸が鳴った。
下足箱の木の鍵の感触も、昔のまま。番台の方から、ラジオの野球中継が、小さく聞こえてくる。
「……すみません。大人ひとり、お願いします」
番台に座っていた人が、雑誌から顔を上げた。その瞬間、私の足が、止まった。
知っている顔だった。日に焼けた、少し無精髭の。けれど、目元の感じと、笑うと片方だけ上がる口の癖は、昔のまま。
「——え。……結? 水沢結、か?」
「……悠斗?」
橘悠斗(たちばな ゆうと)、二十九歳。橘湯の、ひとり息子。私の、ひとつ年上の幼馴染。家がすぐ近所で、保育園から中学まで、毎日のように一緒だった。泥だらけで川に飛び込んでいた、商店街のガキ大将。それが——番台に座って、紺の作務衣を着て、こっちを見て、ぽかんと口を開けていた。
「うわ、ほんとに結だ。……何年ぶりだよ。東京、行ったきりだろ」
「十年、ぶり。……悠斗、銭湯、継いだの?」
「まあ、なりゆきで。親父が腰やっちまって、三年前から、俺が三代目」
三代目、と言ったときの彼の声に、照れと、ほんの少しの誇らしさが混じっていた。私の知っている、鼻を垂らしていた悠斗じゃない。番台の上で、暖簾を背負って座る、その姿は——ちゃんと、ひとりの男の人だった。
(……なんだろう。ちょっと、ずるい)
不意打ちみたいに、胸の奥が、小さく鳴った。
「結、こっち帰ってきたのか? 仕事は?」
「ううん、ちょっと……おばあちゃんが入院して。家の片付けで、しばらくいるの。そしたら、家の風呂、壊れてて」
「ああ、結んとこのばあちゃん。元気だったのに。……じゃあ、風呂は、しばらくうち来いよ。番台代、まけとくから」
くしゃっと笑った顔が、子どもの頃と、まるで同じだった。その笑顔だけは、十年経っても、何も変わっていなかった。私は、なんだか泣きそうになって、慌てて暖簾の奥へ逃げ込んだ。
脱衣所も、浴室も、昔のままだった。高い天井。富士山のペンキ絵。ケロリンの黄色い桶。湯船から立ちのぼる、白い湯気。平日の夕方、客は私のほかに、常連らしいお年寄りが二人だけ。
熱い湯に肩まで浸かると、半年分の強張りが、お腹の底から、ゆっくりほどけていく気がした。
(……あったかい。すごく、あったかい)
東京のユニットバスじゃ、こうはならない。広い湯船に、知らない人と肩を並べて、ただ黙って温まる。それだけのことが、どうしてこんなに、心に効くんだろう。
のぼせる手前で上がって、脱衣所で髪を乾かしていると、番台の悠斗が、ガラス越しにこっちを見て、瓶のコーヒー牛乳を一本、ひょいと差し出してきた。
「ほら。湯上がりは、これだろ」
「……変わってないね、そういうとこ」
「ガキの頃、結、これ飲みたさに、毎日うち来てたもんな」
「……覚えてるんだ、そんなこと」
「覚えてるよ。腰に手当てて、一気飲みするとこまで」
冷たい瓶を握って、腰に手を当てて、一気に飲む。子どもの頃のままの、その仕草を、彼にじっと見られているのが、急に恥ずかしくなった。甘い牛乳の味が、喉の奥で、じんと染みた。
それから私は、毎日、橘湯に通うようになった。
昼間は祖母の家を片付けて、病院へ見舞いに行って、夕方になると、タオルを抱えて坂を下る。風呂が壊れているのは、本当のことだ。でも、それだけが理由じゃないことに、自分でも、薄々気づいていた。
橘湯は、午後四時に開いて、夜十一時に閉まる。私はいつも、客の引ける、閉店間際に行くようになった。そうすれば、番台に、悠斗ひとりだから。
「お、今日も来た。皆勤賞だな」
「……他に、行くとこないだけ」
「素直じゃねえなあ、昔から」
湯上がりに、誰もいなくなった脱衣所の縁台に座って、彼が閉店作業をするのを、私はぼんやり眺める。湯を落とし、桶を片付け、ペンキ絵の前の電気を消す。その手際の良さを見ていると、彼が三年、この場所をひとりで守ってきたことが、伝わってきた。
「……毎日、大変じゃない? 朝から薪割って、釜焚いて」
「まあな。重油は高えし、薪のほうが安く済むから、半分は薪で焚いてる。腰は痛えよ。客も、減る一方だしな」
「……やめようとは、思わないの?」
訊いてから、立ち入りすぎたかな、と思った。でも悠斗は、桶を積む手を止めて、少し笑った。
「思うよ、正直。何度も。けど……閉めるって決めた日のこと、想像すると、無理なんだ。ここ、来てくれる婆ちゃん連中、他に行くとこねえし。湯に浸かりながら、世間話して、それだけが楽しみって人、いるんだよ」
煙突の下で湯を沸かし続ける、その理由を、彼は照れもせず、まっすぐ言った。
(……気づいたら、目で追ってる)
私は、東京で、誰のためでもない図面ばかり描いて、すり減っていた。なのにこの人は、こんな小さな町の、こんな古い湯船を、誰かの楽しみのために、毎日沸かし続けている。その横顔が、夕暮れの脱衣所で、やけに眩しく見えた。
ある晩、いつものように縁台でコーヒー牛乳を飲んでいると、ガラス戸が、勢いよく開いた。
「悠斗ー、トマト余ったから持ってきた——って、あれ? 結じゃない! 結だよね!?」
入ってきたのは、商店街の八百屋の娘、実乃里(みのり)だった。私と同い年で、保育園からの、もうひとりの幼馴染。エプロン姿のまま、目を真ん丸にして、駆け寄ってくる。
「みのり……! うわ、ぜんぜん変わってない」
「あんたこそ! 東京で垢抜けちゃってさ。何、帰ってきてたの? しかも、毎晩、橘湯通ってんの?」
「い、家の風呂が、壊れてて」
「ふーん?」
実乃里が、私と悠斗の顔を、にやにやと見比べた。その目が、何かを面白がっている。
「悠斗さ、結が帰ってきてから、なんか機嫌よくない? 今日なんて、鼻歌うたってたよ、釜の前で」
「……うたってねえよ。トマト置いたら、さっさと帰れ」
「はいはい。お邪魔虫は退散しますよーだ。……結、また今度、ゆっくり喋ろうね」
実乃里は、トマトの袋を番台に押しつけて、ぱたぱたと帰っていった。残された脱衣所に、気まずいような、くすぐったいような沈黙が降りる。悠斗が、ごまかすように、後頭部をかいた。
「……あいつ、昔っから口が軽くて」
「……鼻歌、ほんとに?」
「……うたってねえって」
耳が、ほんの少し、赤かった。それを見たら、私の心臓まで、つられて、とくんと跳ねた。
(……期待してるって、思われたくないのに)
私は、コーヒー牛乳の瓶を、両手でぎゅっと握った。冷たいはずのそれが、手のひらの中で、なぜだか少しも冷たく感じられなかった。
数日後、めずらしく、朝から雨が上がって晴れた日があった。梅雨の合間の、貴重な晴れ。その夜、閉店作業を終えた悠斗が、暖簾をしまいながら、ふと言った。
「なあ結。せっかく晴れたし……ちょっと、付き合えよ」
「え、どこ?」
「いいから。すぐそこ」
連れていかれたのは、商店街の裏を流れる、小さな川だった。子どもの頃、二人でよくザリガニを獲った、あの川。街灯もない暗い土手を、彼の後ろについて歩く。やがて、悠斗が立ち止まって、川の方を、顎で示した。
「ほら」
息が、止まった。
暗い水辺の草むらに、無数の、淡い光が、ふわり、ふわりと、明滅していた。蛍だった。ひとつ、ふたつじゃない。何十、何百という光が、川面のすぐ上を、音もなく漂っている。
「……うそ。蛍、こんなに……」
「この川、何年か前から、地元の有志で、水きれいにする活動してて。そしたら、戻ってきたんだ、こいつら」
並んで、土手の草の上に腰を下ろした。湿った夜の匂いと、川のせせらぎと、淡い光。肩が、触れそうな距離に、彼の体温がある。
「……東京じゃ、絶対、見られない」
「だろ。結に、見せたかったんだ。ガキの頃、ここで遊んだ川だし」
何気なく言われた、その「結に見せたかった」が、胸の奥に、じんわり染みた。光が、ひとつ、私たちのすぐそばまで、流れてくる。私が手のひらを差し出すと、それは、迷うように、指先の上で、ゆっくり点滅した。
「……あったかいね。光が」
「結。お前、東京、しんどかったんだろ」
「……え」
「初めて橘湯来た日の顔、ひでえ顔してたから。……うちの湯に来る、くたびれた客の顔、毎日見てるからさ。わかるんだよ」
見透かされていた。誰にも言っていなかった、半年分の疲れを。私は、手のひらの蛍を、そっと逃がした。光が、ふらりと、川の方へ帰っていく。
「……うん。しんどかった。なんのために働いてるのか、わかんなくなって。家、設計するの、好きだったはずなのに」
「……」
「逃げてきたの、ここに。情けないよね。二十八にもなって」
「情けなくねえよ」
低い声が、はっきりと言った。
「逃げてきた場所が、地元でよかったって、俺は思う。……ここ、結の帰る場所だろ。いつでも、帰ってきていいんだよ」
その言葉に、半年間、ずっと張りつめていた糸が、ぷつりと切れた。気づいたら、私の頬を、涙が伝っていた。暗くてよかった、と思ったのに、悠斗は、ちゃんと気づいた。大きな手が、おずおずと伸びてきて、私の頬の涙を、不器用に拭った。
「……っ」
「悪い。……勝手なこと、言った」
「ううん。……うれしい。すごく、うれしいの」
蛍の光の中で、私たちは、しばらく見つめ合っていた。彼の手が、まだ私の頬に触れている。その手を、私は、自分から、両手で包んだ。
それからの数日、私は、自分の気持ちを持て余していた。
蛍の夜から、悠斗は、何も言ってこない。私も、言えない。会えば、いつも通りの幼馴染の顔をして、コーヒー牛乳を渡してくれる。でも、瓶を受け取るとき、指がほんの少し触れるだけで、心臓が、馬鹿みたいに跳ねる。
(……どうしよう。私、悠斗のこと——)
幼馴染を、こんなふうに見るなんて、思っていなかった。ガキ大将の、鼻垂らしの悠斗。それが今は、彼が暖簾をしまう手も、釜の前で汗をぬぐう横顔も、ぜんぶ、目で追ってしまう。東京に帰る日は、刻一刻と近づいていた。祖母も、もうすぐ退院する。私が、この町にいる理由は、なくなりつつあった。
その夜は、朝から、激しい雨が降っていた。梅雨の、戻り。
橘湯に着く頃には、土砂降りだった。傘なんて、役に立たない。私は、びしょ濡れで、暖簾をくぐった。客は、もう誰もいない。閉店十分前。番台の悠斗が、私を見て、目を見開いた。
「うわ、ずぶ濡れじゃねえか。早く入れよ、風邪ひくぞ」
「……うん」
最後の客として、私は、誰もいない湯船に、ひとりで浸かった。高い天井を、雨が激しく叩いている。富士山のペンキ絵を見上げながら、私は、決めていた。今夜、帰る前に、ちゃんと言おう、と。
湯から上がって、脱衣所に出ると、悠斗が、入り口の鍵を閉めるところだった。がちゃり、と。閉店の、音。広い銭湯に、雨音と、私たち二人だけが、残された。
「……悠斗」
「ん?」
「私、来週、東京に戻るの。おばあちゃんも退院するし、仕事も、あるから」
悠斗の手が、止まった。その背中が、雨音の中で、こわばったのが、わかった。彼は、ゆっくり振り返って、いつもの、片方だけ上がる笑顔を、作ろうとして——失敗した。
「……そっか。まあ、そりゃ、そうだよな」
「……」
「結の場所は、東京だもんな。送ってやるよ、駅まで。……元気で——」
「言わないでよ、そういうの」
自分でも、驚くくらい、強い声が出た。悠斗が、はっと、私を見る。私は、濡れた前髪のまま、彼を、まっすぐ見上げた。
「物分かりのいいふり、しないで。……私、悠斗に、引き止めてほしいの」
雨音が、やけに大きく聞こえた。悠斗の喉が、ごくりと鳴る。彼は、二歩、私に近づいて——そして、ずっとこらえていたみたいな声で、言った。
「……行くな。東京、戻るな、なんて言えねえけど。……でも、お前のこと、ずっと好きだった。ガキの頃から、ずっとだ」
その言葉に、私の中で、最後の迷いが、溶けて消えた。
「……私も。今になって、気づいたの。悠斗のこと、好き」
どちらからともなく、距離が、なくなった。彼の大きな手が、私の濡れた頬を包む。雨の匂いと、湯上がりの石鹸の匂い。私は、目を閉じた。
唇が、そっと、重なった。
ちゅ、と。
「ん……っ」
十年分の距離が、唇の触れたところから、溶けていくみたいだった。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねる。
ちゅ……ちゅぷ……
「は……ん……」
唇の隙間から舌が触れて、私は、おずおずと、それに応えた。幼馴染の、知らない大人のキスに、体の芯が、ぞくりと震えた。
「……結。二階、俺の部屋。来るか」
唇を離して、悠斗が、かすれた声で囁いた。番台の奥の、住居へ続く階段を、目で示す。私は、こくんと、頷いた。雨の夜、誰も来ない、二人だけの銭湯。理性とか、来週のこととか、ぜんぶ、雨の音が、押し流していった。
二階は、簡素で、彼らしい部屋だった。古い柱と、畳の匂い。窓の外で、雨が、ガラスを激しく叩いている。悠斗が、私の手を引いて、そっと、敷いてあった布団に座らせた。隣に座った彼の体温が、肩から、じんわり伝わってくる。
「……濡れてるな。冷えただろ」
「……悠斗が、あっためてよ」
自分でも、驚くくらい、素直に言えた。悠斗が、少し目を見開いて、それから、優しく笑う。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なった。今度のキスは、さっきより、ずっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
「ん……ふ……っ」
キスをしながら、悠斗の手が、私の濡れたブラウスのボタンを、ひとつ、またひとつと外していく。その手つきが、不器用なくせに、丁寧で、急かされないことに、かえって体が疼いた。湿ったブラウスが、肩から、するりと落ちる。
「……きれいだ。結」
「やだ、言わないで……恥ずかしい……」
「ほんとのこと、言っただけだろ」
恥ずかしくて顔を背けたのに、その言葉に、胸の奥が、甘く締めつけられた。悠斗の唇が、首筋に降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
「ん……っ」
鎖骨に、肩に、彼の唇が落ちるたびに、肌が、ぴくんと震える。背中に回った手が、ブラのホックを、ぷつりと外した。胸が、彼の前に、こぼれ出る。悠斗の、大きな手が、それを、そっと包んだ。
「あ……っ」
「……柔らかい。手、震えそうだ」
「もう……いちいち、言わないでってば……っ」
やわやわと、形を確かめるように揉まれて、私は、布団に顔を埋めたくなる。指の腹が、つんと立ちはじめた先端を、かすめると、体が、びくっと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「ここ、弱いのか」
「……知らない……っ」
口では強がるのに、悠斗が、先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もう、だめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。雨音にまぎれて、消えていく。彼の手が、唇が、私の体を、ゆっくり溶かしていく。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていった。
「ん……っ♡」
「……力、抜いてろ。痛くしないから」
その声に、自然と、体の力が抜けた。悠斗の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに、触れる。
「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが、熱を持っているのが、自分でもわかった。指が、そっと撫でるたびに、腰が、小さく揺れてしまう。やがて、下着が脱がされて、悠斗の指が、直接、そこに触れた。
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……もう、こんなに濡れてる」
「言わないで……っ♡ キスの、ときから……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、悠斗の指は、優しい。敏感な突起を、指の腹で、くるくると円を描くように撫でられて、私は、彼の腕に、しがみついた。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 弱いの……っ♡」
「……ここか。覚えとく」
「やだっ……覚えないで……っ♡」
指が、ゆっくり、中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中を、ゆっくり押し広げて、奥の、感じる場所を、探るように撫でる。
「……ここ、か?」
「っ♡♡ そこ、やばい……っ♡ 悠斗の指、ずるい……っ♡」
弱い場所を、指の腹で擦られて、同時に、親指で、突起を転がされて、私の腰は、もう、自分の意思では、止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
「いいよ。イって、結」
「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが、速くなって、私の体は、あっという間に、高みへ押し上げられた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が、真っ白になる。悠斗の腕の中で、私は、ぎゅっと体を丸めて、達した。
「……イったな」
「……っ、言わないで、ってば……っ♡」
息を切らせる私の額に、悠斗が、そっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で、優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また、泣きそうになった。
「……ねえ、悠斗」
「ん」
「私ばっかり、ずるい。……悠斗のも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。悠斗が、ごくりと、喉を鳴らす。私は、ゆっくり、彼の作務衣の帯に、手をかけた。はだけさせると、銭湯の釜を焚いてきた、引き締まった胸板が、現れる。働いてきた人の、体だ、と思った。
悠斗が、私を、そっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に、彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口に、あてがわれた。
「結。……いいか?」
「うん……っ。来て、悠斗」
「……ゴム、つける。待ってろ」
「……うん」
避妊具をつける彼を、私は、ぼうっと見ていた。ちゃんと私を大事にしてくれる、その律儀さも、ガキ大将だった頃からは、想像もつかない。準備を終えて、悠斗が、もう一度、私の頬に、手を添えた。
「……いくぞ。痛かったら、言えよ」
「うん……優しく、して」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は、彼の背中に、腕を回して、しがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうが、ずっと大きかった。
ずず……っ
「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
「……っ、結の中、すげえ熱い」
根元まで収まって、悠斗が、ふっと、息を吐いた。繋がった場所から、十年分の隙間が、じんわり、埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で、囁いた。
「……繋がってる。私たち、繋がってるね……っ♡」
「ああ。……やっと、だ」
「っ♡♡ そういうの、ずるいってば……っ♡」
悠斗が、ゆっくり、動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。窓の外で、雨が、世界に二人しかいないみたいに、ざあざあと降っている。彼の額から落ちた汗が、私の胸に、ぽつりと落ちた。
「結。気持ちいいか」
「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
「俺も。……ずっと、こうしたかった」
その言葉に、胸の奥が、震えた。私は、彼の首に腕を回して、自分から、唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥の、いちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は、跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
「ここ、好きか」
「っ♡♡ 好き……っ♡ 悠斗の、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でも、わからなくなった。たぶん、どっちも、だった。悠斗が、私の脚を抱え直して、結合が、深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
「結、中、すげえ締まってる」
「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
雨の音と、二人の息と、肌のぶつかる音が、古い二階の部屋に、満ちていく。私は、もう、何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、十年分の——ううん、もっと前からの想いが、体の奥から、溢れてくる。
「結……そろそろ……っ」
「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
悠斗が、私を、ぎゅっと抱きしめて、最後の律動を、速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 悠斗、一緒に……っ♡♡」
「ああ……っ、結……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥で、びくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら、受け止める。二人で、同じ波に、さらわれた。悠斗が、私の上で、はぁ、と大きく息を吐く。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく、動けなかった。
「……はぁ……っ♡ すごかった……」
「……結」
「ん……?」
「好きだ。……ガキの頃から、ずっと。今、ちゃんと言わせてくれ。好きだ」
私は、もう、我慢できなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、笑いながら、泣いた。
「……私も。大好き。……十年も、遠回りして、ごめんね」
「お互いさま、だろ」
悠斗が、涙で濡れた私の頬に、何度も、キスを落とした。
気づくと、窓の外の雨が、いつのまにか、小降りになっていた。
布団の中で、悠斗の腕に頭を預けて、私は、その雨音を聞いていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。古い二階の天井の木目を、ぼんやり眺めながら、私は、口を開いた。
「……ねえ、悠斗。私、東京の仕事、すぐには辞められない。担当してる家、途中だし」
「ああ。辞めなくて、いい。お前の仕事、大事にしろよ」
「でも……」
私は、彼の胸に、頬をすり寄せた。
「……月に一回でも、ここ、帰ってくる。風呂、直っても、橘湯、通うから」
「……いいのか。遠いぞ、新幹線」
「いいの。……だって、もう、選ばなくていいんだもん。仕事か、悠斗か、じゃなくて」
蛍の夜に、彼が言ってくれた。ここは、結の帰る場所だ、と。十年、ほとんど帰らなかったこの町に、私は、もう一度、帰る理由を、見つけてしまった。
「……結。俺、いつか、橘湯、建て替えたいんだ。古いまま守るんじゃなくて、もっと、若い客も来たくなる、新しい銭湯に」
「……ほんとに?」
「ああ。けど、俺、設計とか、図面とか、わかんねえし。……誰か、いい設計士、知らねえかな」
その言い方が、あんまり下手なプロポーズみたいで、私は、噴き出してしまった。
「……ずるいよ、それ。私の仕事、ちゃんと、必要にしてくれるんだ」
「いや、これは、その……純粋に、人手として」
「ふふ。……いいよ。私が、設計する。この町の、新しい橘湯」
東京で、誰のためでもない図面を描いて、すり減っていた私。でも、これからは、違う。好きな人が、好きな町で、誰かのために湯を沸かし続ける、その場所を、私の手で、描ける。それは、私がずっと、家を設計する仕事に求めていた、いちばん大事なものだった。
「……約束な。図面、頼んだぞ」
「うん。……一番乗りで、描く」
悠斗が、私の頭に、そっとキスをした。
朝。
雨は、すっかり、上がっていた。
二階の窓を開けると、洗われた商店街の屋根の向こうに、梅雨明け間近の、淡い青空が、覗いていた。橘湯の煙突から、今日も、白い湯気が、まっすぐ、空へのぼっていく。
階段を降りると、もう、番台の戸を開けに来た実乃里が、ガラス越しに、こっちを見て、にやーっと笑っていた。
「……ふーん? 結、その髪、寝ぐせついてるよ。しかも、それ、悠斗の家の方から降りてきたよね、今」
「えっ、あ、これは……っ」
「はいはい、隠さなくていいって。商店街中、もう知ってるからね。橘湯の三代目が、東京から帰ってきた幼馴染に、ベタ惚れだって」
「……実乃里、お前、ほんと口が」
「だってさ。ずーっと、待ってたじゃん、悠斗。結が帰ってくるの。お盆のたびに、来ないかなーって、暖簾の外、見てたの、あたし知ってるよ」
「……っ、悠斗、ほんとに?」
悠斗が、わかりやすく固まって、耳まで、真っ赤になった。実乃里が、けらけら笑いながら、トマトを番台に置いて、帰っていく。
朝の光が差し込む、古い銭湯の番台で、私は、隣に立つ悠斗の手を、そっと握った。日に焼けた、釜を焚き続けてきた、大きな手。十年前、私が、振り返りもせずに出ていった、この町。その手は、今、私の指に、しっかり絡んで、もう、離れる気配が、なかった。
「……ねえ、悠斗。今夜も、来ていい? 番台、コーヒー牛乳、用意しといてね」
「ばーか。お前は、もう、客じゃねえだろ」
「……ふふ。じゃあ、何?」
「……それは、その。……これから、ゆっくり、決めてけよ。何回でも、帰ってきて」
煉瓦の煙突から、湯気がのぼる、瀬戸内の小さな町。逃げ帰ってきたつもりだった私は、十年ぶりに、自分の帰る場所と、いちばん近くにいた人を、もう一度、見つけ直した。
藍色の暖簾の向こうで、梅雨明けの空が、どこまでも青く、澄んでいた。
― 終 ―