僕、高瀬涼介、二十八歳。
都内の小さな会社で、システムの保守みたいな仕事をしている。
派手なことは何もない、ごく普通の会社員だ。
そんな僕が、月に一度だけ、ちょっと特別な気持ちになる日がある。
献血の日だ。
きっかけは、二年前の冬。
会社の前に献血バスが停まっていて、同期の大野に半ば無理やり連れていかれたのが始まりだった。
大野「高瀬、献血しようぜ。お菓子もジュースもタダだし、社会貢献にもなる」
涼介「いや、俺、注射とか苦手なんだけど」
大野「大丈夫だって。チクッとするだけ」
その「チクッ」が一番苦手なんだよ、と思いながら、断りきれずに腕をまくった。
正直、あの日のことはあまり覚えていない。
針を見ないように、ずっと天井を睨んでいた気がする。
ただ、終わったあとに飲んだ無料の野菜ジュースが、妙に美味しかったことだけは覚えている。
それから僕は、なんとなく献血を続けるようになった。
最初は大野に付き合うつもりだったのに、いつのまにか大野のほうが来なくなって、僕だけが残った。
二ヶ月に一度。やがて、全血の間隔が空くのが惜しくなって、月に一度。
針が苦手なくせに、なんで続けてるんだろう。
——その答えは、自分が一番よく知っていた。
駅前のビルの四階にある、献血ルーム。
そこに、真琴さんがいるからだ。
初めて真琴さんに担当してもらったのは、去年の春だった。
採血の椅子に座った僕は、その日もガチガチに緊張していた。
腕を消毒される段になって、思わず目を閉じた。
涼介「……すみません、僕、針があんまり得意じゃなくて」
そう白状すると、隣で柔らかい声がした。
真琴「大丈夫ですよ。じゃあ、わたしの声だけ聞いていてください」
目を開けると、看護師さんがこちらを覗き込んでいた。
きれいに結んだ黒髪に、白衣。
切れ長の優しい目が、ふっと笑うと、目尻に小さくしわが寄る。
胸元のネームプレートには、「真琴」とだけ書いてあった。
真琴「高瀬さん、ですね。深呼吸、できますか。吸って——はい、ゆっくり吐いて」
言われるままに息を吐いた、ちょうどその瞬間だった。
真琴「はい、入りました。もう終わりです」
涼介「……え、もう?」
真琴「ふふ、はい。痛かったですか?」
涼介「……全然」
痛みを感じる前に、もう針が入っていた。
正確には、彼女の声に気を取られて、痛みどころじゃなかったのだ。
採血の間、真琴さんはずっと隣にいてくれた。
血圧の話や、その日の天気の話。
たいした内容じゃないのに、不思議と心がほどけていく声だった。
真琴「高瀬さん、ちゃんと水分とってから来てくださってますね。えらいです」
涼介「あ……はい。前に貼ってあったポスター見て」
真琴「えらい。優等生さんですね」
そんなふうに褒められて、なんだか妙にくすぐったかった。
献血が終わって、待合スペースで紙パックのジュースを飲みながら、僕は思った。
——また来よう、と。
それからだ。
僕が、毎月この献血ルームに通うようになったのは。
もちろん建前は社会貢献だ。
でも本音は、月に一度、真琴さんと十五分だけ話せる、それだけのためだった。
我ながら、不純な献血者だと思う。
それでも、血を抜かれてるんだから、誰にも文句は言われないだろう、と勝手に開き直っていた。
通ううちに、真琴さんは僕の顔を覚えてくれた。
受付で問診票を出すと、奥から「あ、高瀬さん」と声をかけてくれることもあった。
担当が別の看護師さんの日は、正直、少しがっかりした。
逆に真琴さんが担当だと、それだけでその月がいい月になった気がした。
真琴「高瀬さん、今月も来てくれたんですね」
涼介「はい。なんか、習慣になっちゃって」
真琴「いいことです。常連さんは大歓迎ですよ」
常連、という言葉に、ちょっとだけ照れた。
真琴さんは、僕より一つ上の二十九歳——だと、ずいぶん後になって知った。
落ち着いていて、でも時々いたずらっぽく笑う。
採血のとき、僕がまだ針を怖がっているのを見抜くと、わざと余計なおしゃべりをして気を逸らしてくれる。
その手のひらが腕に添えられると、不思議と緊張がほどけた。
今年の六月、梅雨に入った。
東京は、もう一週間ずっと雨だった。
その日も、朝から細かい雨が降っていた。
僕はいつものように仕事を早めに切り上げて、駅前の献血ルームに向かった。
傘を畳んでエレベーターに乗ると、四階のフロアには、雨のせいか人が少なかった。
受付で問診票を出すと、奥から白衣の彼女が出てきた。
真琴「あ、高瀬さん。今日も雨の中、ありがとうございます」
涼介「真琴さん、こんばんは」
真琴「ふふ、こんばんは。今日はわたしが担当しますね」
それだけで、雨の鬱陶しさが、少し晴れた気がした。
問診と血圧を済ませて、採血の椅子に座る。
二年も通っているのに、僕はいまだに針の瞬間だけは慣れない。
真琴「相変わらず、針のところだけ顔が固まりますね、高瀬さん」
涼介「……これだけは、どうしても」
真琴「いいんですよ。じゃあ今日も、わたしの話を聞いていてください」
真琴「最近、何かいいことありました?」
涼介「いいこと……うーん、特には。雨ばっかりで」
真琴「ふふ、わたしも。洗濯物が乾かなくて困ってます」
涼介「あ、それ、わかります。部屋干しの匂いがして」
真琴「そうなんです。——はい、入りました」
また、やられた。
話している間に、もう針が入っていた。
涼介「……ほんと、毎回うまいですね」
真琴「お仕事ですから」
そう言って笑った彼女の横顔を、僕はつい、見つめてしまった。
蛍光灯の白い光の下で、彼女のまつ毛が、伏せるたびに小さく影を落とす。
採血はだいたい十分くらい。
その間、真琴さんはいつもより少しだけ、話を続けてくれた。
真琴「高瀬さん、お仕事は何をされてるんですか?」
涼介「会社で、システムの保守みたいなことを。地味な仕事です」
真琴「すごい。わたし、パソコンのこと全然だめで」
涼介「いや、僕も看護のことなんて全然わからないですよ。お互い様です」
真琴「ふふ、たしかに」
真琴「でも高瀬さん、二年もずっと続けて来てくれてますよね。なかなかいないですよ、そういう人」
ドキッとした。
二年。彼女は、ちゃんと数えていてくれたのか。
涼介「……覚えてて、くれたんですね」
真琴「もちろん。だって、毎月のことですもん」
その「毎月のこと」という言い方が、なんだかくすぐったくて、嬉しかった。
採血が終わって、絆創膏を貼ってもらう。
真琴「はい、お疲れさまでした。あちらでゆっくり休んでいってくださいね」
待合スペースで、僕は紙パックのアップルジュースを飲みながら、雨に濡れた窓の外をぼんやり眺めていた。
時刻は夜の八時前。
雨はさっきよりも強くなっていて、窓ガラスに細い線をいくつも引いていた。
しばらくすると、白衣を脱いだ真琴さんが、休憩なのか、自販機のほうへ歩いてきた。
私服——というか、白衣の下に着ていたらしい薄手のカーディガン姿。
それだけで、急に距離が近くなった気がして、僕は変に緊張した。
真琴「あ、高瀬さん。まだいたんですね」
涼介「あ……はい。雨、強くなってきたんで、ちょっと様子見てて」
真琴「ほんと、すごい降りですね」
彼女は缶のお茶を買って、少し迷ってから、僕の斜め向かいに腰を下ろした。
真琴「隣、いいですか? ちょうど休憩なんです」
涼介「あ、どうぞどうぞ」
白衣のときとは違う、少しだけ砕けた口調。
僕は、心臓がうるさくなるのを必死で隠した。
真琴「高瀬さんって、いつも一人で来ますよね」
涼介「あ、はい。最初は同期に誘われたんですけど、そいつはもう来なくなって」
真琴「ふふ、あるあるです。誘った人ほど続かない」
涼介「ほんとそれです」
二人で笑った。
白衣越しじゃない真琴さんは、思っていたよりもよく笑う人だった。
話していると、彼女が休日に古い喫茶店を巡るのが好きだということ、雨の音が嫌いじゃないこと、コーヒーはブラック派なこと——そんな小さなことが、ひとつずつわかっていった。
そのどれもが、僕には宝物みたいに思えた。
真琴「高瀬さんは、お休みの日って何してるんですか?」
涼介「うーん……だいたい家にいます。映画見たり、たまに散歩したり」
真琴「いいですね、そういうの。わたしも休みは一人でぶらぶらするの好きです」
涼介「あ、僕も喫茶店、好きですよ。古い感じの」
真琴「えっ、ほんとですか? わたし、すごく好きで」
彼女の目が、ぱっと輝いた。
その瞬間、僕の中で何かが、ことんと音を立てて決まった。
——今日、言わなきゃ。
たぶん、こんなチャンスはもう来ない。
毎月会えるといっても、それは「献血者と看護師」としてだ。
この線を一歩越えなきゃ、僕は一生、ただの常連のままだ。
休憩時間が終わるのか、真琴さんが缶のお茶を飲み干して、立ち上がりかけた。
真琴「あ、わたしそろそろ——」
涼介「あ、あの!」
思わず、声が大きくなった。
自分でもびっくりするくらい、心臓が跳ねていた。
真琴「はい?」
涼介「……えっと。あの、変なこと言ったらすみません」
涼介「もしよかったら、その……仕事じゃないところでも、真琴さんと話してみたいなって、思って」
言ってしまった。
顔が、自分でもわかるくらい熱い。
真琴さんは、一瞬きょとんとして、それから——ふわっと笑った。
真琴「それって、連絡先を聞いてくれてる、ってことですか?」
涼介「……はい。そうです。すみません、急に」
真琴「謝らないでください」
彼女は、ちょっと困ったように、でも嬉しそうに、髪を耳にかけた。
真琴「……実は、わたしも。高瀬さんが来る日、ちょっと楽しみにしてたんです」
涼介「……え」
真琴「言っちゃった。看護師として、これはどうなんだろうって、ずっと我慢してたのに」
そう言って、彼女は照れたように笑った。
僕は、しばらく言葉が出なかった。
二年間、ずっと片想いだと思っていた相手が、同じ気持ちでいてくれた。
それだけで、雨の音さえ、優しく聞こえた。
真琴「じゃあ……交換、しましょうか。連絡先」
僕たちはスマホを取り出して、メッセージアプリのIDを交換した。
彼女のアイコンは、どこかの喫茶店のコーヒーカップの写真だった。
涼介「あの、今度、その喫茶店、一緒に行きませんか。真琴さんのおすすめの」
真琴「ふふ、いいですよ。じゃあ、今度の日曜、どうですか?」
——とんとん拍子だった。
二年かけて、一歩も進まなかった距離が、雨の夜にいっきに縮まった。
献血ルームを出ると、雨はまだ降っていた。
でも、不思議と気持ちは、晴れていた。
約束の日曜日も、やっぱり雨だった。
待ち合わせは、彼女のおすすめだという、路地裏の古い喫茶店。
僕が傘を差して着くと、すでに彼女が店の前で待っていた。
白衣でも、カーディガンでもない。
淡い水色のワンピースに、小さな白いバッグ。
献血ルームで見る彼女とは、まるで別人みたいだった。
真琴「あ、高瀬さん。……なんか、こうやって会うの、変な感じですね」
涼介「ですね。白衣じゃない真琴さん、新鮮です」
真琴「ふふ、それ、お互いさまです。高瀬さんも、いつも採血の椅子に座ってる人だから」
二人で笑って、店に入った。
薄暗い店内に、古いジャズが流れていた。
豆を挽く香りと、雨の匂いが混じって、なんとも言えず落ち着く空間だった。
真琴「ここのブレンド、すごく美味しいんですよ」
涼介「じゃあ、それで」
向かい合って座ると、献血ルームの十分間とは比べものにならないくらい、時間がたっぷりあった。
彼女が看護師になった理由。
昔、おばあちゃんが入院したときに、優しくしてくれた看護師さんに憧れたこと。
針が苦手な人を、どうやって安心させるか、新人の頃ずいぶん練習したこと。
真琴「だから、高瀬さんみたいに針が苦手な人を見ると、ちょっと張り切っちゃうんです」
涼介「……じゃあ、僕、いいカモだったんですね」
真琴「ふふ、そうかもしれません」
冗談を言い合って、また笑う。
気づけば、外の雨はますます強くなっていた。
二時間以上、僕たちはそこで話し込んでいた。
真琴「あ……もうこんな時間。雨、すごいですね」
店を出ると、雨は本降りになっていた。
涼介「真琴さん、傘、持ってます?」
真琴「あ……折りたたみは持ってきたんですけど、これ、ちょっと小さくて」
彼女が鞄から出した傘は、ずいぶん小ぶりだった。
涼介「じゃあ、駅まで、僕の傘で。一本のほうが、濡れないと思うので」
真琴「……いいんですか?」
涼介「はい。あの、変な意味じゃなくて」
真琴「ふふ、わかってます」
一本の傘に、二人で入った。
肩が触れそうな距離。
彼女の髪から、雨に濡れた甘い匂いがした。
歩くたびに、肩がぶつかって、そのたびに、お互い少しだけ笑った。
真琴「……なんだか、緊張しますね」
涼介「僕も。採血のときより、ずっと緊張してます」
真琴「ふふ、それは緊張しすぎです」
駅までの道は、本当はそんなに遠くなかった。
でも、僕も彼女も、わざとゆっくり歩いていた気がする。
赤信号で立ち止まったとき、彼女がそっと、僕の傘を持つ手に、自分の手を添えた。
真琴「……持つの、半分こ、しましょう」
冷たい雨の中で、その手だけが、あたたかかった。
僕は、思いきって、その手をそっと握った。
彼女は振りほどかなかった。
それどころか、ほんの少し、握り返してくれた。
涼介「……真琴さん」
真琴「はい」
涼介「僕、真琴さんのこと、ちゃんと好きです。献血の常連、とかじゃなくて」
信号が青に変わっても、僕たちは動かなかった。
彼女は、傘の下で、僕を見上げた。
真琴「……わたしも、です」
真琴「高瀬さんが毎月来てくれるの、ほんとは、すごく嬉しかった」
雨の音だけが、僕たちを包んでいた。
どちらからともなく、顔が近づいた。
傘の中で、僕たちは、初めてのキスをした。
雨に濡れた彼女の唇は、少しだけ冷たくて、でもすぐに、あたたかくなった。
唇が離れると、彼女は恥ずかしそうに、僕の胸に額を寄せた。
真琴「……こんなの、初めてです。患者さんと、こんなことになるなんて」
涼介「僕も。献血が、こんなことになるなんて」
二人で、くすくす笑った。
真琴「ねえ、高瀬さん」
涼介「はい」
真琴「……もう少し、一緒にいたいです。こんな雨だし」
その言葉の意味を、僕は、ちゃんとわかっていた。
彼女のマンションは、駅から少し歩いたところにあった。
部屋に入ると、雨で濡れた服が、急に心もとなくなった。
真琴「タオル、使ってください。……あんまり、片付いてなくて、ごめんなさい」
涼介「いえ。すごく、真琴さんらしい部屋ですね」
本棚には、彼女が話していた喫茶店のガイドブックや、看護の本が並んでいた。
小さな部屋に、彼女の暮らしが、ぎゅっと詰まっていた。
タオルで髪を拭いていると、彼女がそっと、僕の隣に座った。
濡れた前髪が、頬に張りついている。
蛍光灯じゃない、やわらかな間接照明の下で見る彼女は、献血ルームのときよりも、ずっと無防備で、きれいだった。
真琴「……あんまり、見ないでください」
涼介「すみません。でも、きれいで」
彼女は、何も言わずに、ただ目を伏せた。
その肩に、そっと手を回す。
彼女の体は、雨で冷えていたけれど、抱き寄せると、少しずつあたたかくなっていった。
もう一度、唇を重ねた。
さっきの傘の下のキスとは違う、もっと深いキス。
彼女の手が、僕のシャツをきゅっと掴んだ。
真琴「……高瀬さん」
涼介「涼介で、いいです」
真琴「……涼介、さん」
僕の名前を呼ぶ声が、少しだけ震えていた。
その夜、僕たちは、初めて結ばれた。
いつも僕の腕に針を入れていた、あの繊細な指先が、今は僕の背中に回されている。
そのことが、なんだか不思議で、たまらなく愛おしかった。
真琴「……涼介さんの心臓、すごく速い」
涼介「……採血のときより、ずっと速いです」
真琴「ふふ、看護師として、ちょっと心配かも」
彼女が、僕の胸に耳をあてて、くすくす笑った。
その笑い声が、雨の音に溶けていった。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。
でも、彼女の腕の中は、どこまでもあたたかかった。
翌朝、目を覚ますと、雨はやんでいた。
カーテンの隙間から、久しぶりの朝日が差し込んでいた。
隣で、真琴さんがまだ眠っていた。
寝顔は、献血ルームで見せるしっかりした表情とは違って、あどけなかった。
しばらくして、彼女が目を開けた。
真琴「……おはよう、ございます」
涼介「おはようございます。雨、やみましたよ」
真琴「ほんとだ。久しぶりの晴れ」
彼女は、まぶしそうに窓のほうを見て、それから、僕のほうを向いて、少し照れたように笑った。
真琴「……ねえ、涼介さん」
涼介「はい」
真琴「これからも、献血、続けてくれますか?」
涼介「……え?」
真琴「だって、来てくれないと、職場で会えなくなっちゃう」
そう言って、彼女はいたずらっぽく笑った。
涼介「……それはもう、皆勤賞、目指します」
真琴「ふふ、頼もしい」
真琴「でも、ちゃんと健康管理してくださいね。彼氏が貧血で倒れたら、看護師として恥ずかしいので」
——彼氏。
その響きに、僕は思わず、にやけそうになった。
涼介「……今、彼氏って」
真琴「言いました。だめでしたか?」
涼介「いえ。最高です」
彼女が、ふふっと笑って、僕の胸にもう一度、顔を寄せた。
二年間、針が苦手なくせに、毎月通い続けた献血ルーム。
社会貢献なんて、半分は建前だった。
でも、その不純な動機が、こんな朝に繋がるなんて、あの頃の僕は思ってもいなかった。
長かった梅雨は、まだしばらく続くらしい。
それでも、もう雨は、嫌いじゃなくなった。
だって、雨の夜の傘の下で、僕は真琴さんと、結ばれたんだから。
次の献血の日が、待ち遠しくてたまらない。
― 終 ―