六月の信州は、山の匂いがした。
私、望月紬(もちづきつむぎ)、二十八歳。東京の小さな制作会社で、企業のパンフレットやウェブの文章を書いている。十年前、高校を出てすぐにこの町を飛び出して、それからは正月にすら、ろくに帰っていなかった。
帰るきっかけは、母からの電話だった。私を育ててくれた祖母が、畑で転んで足の骨を折り、町の病院に入院したという。命に別状はない。でも、しばらく動けない。留守になった家の様子を見て、伸び放題の畑を少しだけ片付けてきてほしい——母も仕事があって、頻繁には帰れないから。
(……十年、か)
特急とローカル線を乗り継いで、無人駅に降りたのは、午後三時過ぎ。雨上がりの空に、雲が低く流れていた。山の緑が、東京で見るどの緑より濃くて、息を吸うと、湿った土と青葉の匂いが胸の奥まで届いた。懐かしさより先に、自分がここを捨てたんだという後ろめたさが、ちくりと刺さった。
*
実家は、駅から歩いて二十分の集落の端にある。鍵を開けて入ると、祖母の家は時間が止まったみたいだった。仏壇の花は枯れ、縁側に祖母の眼鏡が置きっぱなしになっている。
私は窓を開けて空気を入れ替え、枯れた花を片付けて、買ってきた白い花を活けた。畑の草は、一日では到底終わらない量だった。日が傾いてきて、軍手を外して腰を伸ばしたとき——集落の細い道を、一台の軽トラックが上ってきた。
荷台に、見覚えのある藍色の前掛けと、酒の入った木箱が積まれている。運転席の窓が下りて、日に焼けた男の人が顔を出した。
「……つむぎ? つむぎだよな」
低くなった声。でも、その人懐っこい笑い方は、十年前とちっとも変わっていなかった。
「……樹?」
真島樹(ましまいつき)、二十九歳。私のひとつ年上の幼馴染。家が隣同士で、小学校も中学も一緒で、夏は毎日のように一緒に川で遊んだ、あの樹だ。
「うわ、ほんとにつむぎだ。帰ってたのか。聞いてないぞ」
「急に決めたから……。おばあちゃんが入院したって聞いて」
「ああ、トヨさんとこ、転んだって。うちのばあちゃんが心配してた」
軽トラを路肩に停めて、樹が降りてくる。背が伸びて、肩幅も広くなって、Tシャツの上から藍色の前掛けをして、すっかり大人の男の人になっていた。それでも、目尻が下がる笑い方だけが、昔のままだった。
(……変わってないんだ、ここだけ)
なぜだろう。その顔を見た瞬間、十年分の強がりが、少しだけ緩んでしまった。
*
樹の家は、集落でただ一軒の造り酒屋——真島酒造だ。樹は三年前に東京の蔵元で修行を終えて戻り、体を悪くした父親に代わって、若い蔵元として蔵を継いでいた。
「配達の帰りなんだ。ちょっと寄ってけよ。ばあちゃんもつむぎに会いたがってる」
断る理由もなかった。軽トラの助手席に乗せてもらう。狭い車内に、お酒の甘い匂いと、樹の汗の匂いが混じっていた。昔は気にもしなかったその距離が、今はやけに近く感じられて、私は窓の外ばかり見ていた。
真島酒造の店先に着くと、奥から小柄なおばあさんが出てきた。樹の祖母、トヨさんだ。
「あれまあ、紬ちゃん! 大きゅうなって……まあ、べっぴんさんになって。東京の人みたいだわ」
「ご無沙汰してます。すっかり帰らなくて、すみません」
「ええんよ、ええんよ。トヨさんの足、心配やろ。……樹、紬ちゃんに何か温かいもん出してあげ」
トヨさんは私の手を両手で握って、しわだらけの顔をくしゃっとさせて笑った。その手の温かさに、不意に涙が出そうになって、私は慌てて目を逸らした。
店の奥、土間の続く帳場で、樹が私に冷たい甘酒を出してくれた。ノンアルコールの、夏の甘酒。一口飲むと、優しい甘さが、疲れた体に染み込んでいった。
「……おいしい」
「だろ。今年のは特に米がよかったんだ」
樹が、自分のことみたいに嬉しそうに笑う。その横顔を見ながら、私はぼんやり考えていた。この人は、ずっとここにいたんだ。私が東京で、終電を逃したり、企画を蹴られたり、誰かと付き合っては別れたりしている間、ずっとこの町で、米と水と向き合っていたんだ。
(……気づいたら、目で追ってる)
*
そのあと、樹は当たり前みたいに、私の手伝いを買って出た。
翌日も、その次の日も。朝、軽トラで畑に来て、草を刈り、伸びた枝を落とし、私を病院まで送ってくれた。祖母は思ったより元気で、ベッドの上から「樹くんに送ってもらったんかい、ええ子やねえ」と、何度もにこにこした。
「おばあちゃん、そんなんじゃないから」
「いいじゃん、ばあちゃん喜んでるんだから」
樹は、私が東京で身につけた早口や、相手の出方をうかがう言い方を、何ひとつ持っていなかった。聞かれたことに、まっすぐ答える。困っていると、黙って手を貸す。十年ぶりに会ったとは思えないくらい、彼の隣は、呼吸が楽だった。
帰り道、夕暮れの田んぼ道で、樹がふと言った。
「つむぎ、東京、楽しいか」
「……どうかな。楽しいときもある。しんどいときの方が、多いかも」
「そっか」
それ以上、樹は何も聞かなかった。問い詰めない。説教もしない。ただ、私のペースに合わせて、軽トラのスピードをゆっくり落としてくれた。窓の外を、稲の若い緑が流れていく。
(この人は、昔からそうだ)
なのに私は、十年前、この人に何も言わずに町を出た。本当は——言えなかったのだ。
*
高校三年の冬。東京の専門学校に行くと決めたとき、樹は私に言った。「行ってこいよ。つむぎは、ここじゃ狭すぎる」って。応援してくれた。背中を押してくれた。
でも、その言い方が、あのときの私には、いちばん寂しかった。
本当は、引き止めてほしかったのかもしれない。「行くな」と言われたら、それを口実に、この町に、樹のそばに残れたのかもしれない。だけど樹は、優しすぎて、私の夢を尊重して、そして私は——その優しさに甘えて、自分の気持ちに蓋をしたまま、逃げるように出ていった。
幼馴染。それ以上の言葉を、私は一度も、彼に言ったことがない。
(ずっと、逃げてたんだ。樹からも、自分の気持ちからも)
片付けが一段落した夜、樹からスマホにメッセージが届いた。
『明日の夜、空いてる? 蛍、出てるよ。例の川』
『……まだ、いるの?』
『いるよ。今年は当たり年。子どもの頃より、ずっと多い』
例の川。子どもの頃、二人で何度も蛍を見に行った、集落のはずれの小さな清流。指が震えそうになるのを抑えて、私は返事を打った。
『……行く』
*
翌日の夜。雨上がりの、生ぬるい風の吹く晩だった。
樹が軽トラで迎えに来て、二人で川辺へ向かった。街灯のない道は真っ暗で、ヘッドライトの先に、夜の山がのっぺりと黒く沈んでいる。車を停めて、懐中電灯も点けずに、土手の草を分けて川へ降りた。
「足元、気をつけろよ」
樹が、当たり前みたいに私の手を取った。大きくて、少しごつごつした、働く人の手。その手に引かれて土手を降りると——息を、のんだ。
闇の中に、淡い光が、いくつも、いくつも、ふわりふわりと舞っていた。
「……わあ……」
蛍だった。川面のすぐ上を、黄緑色の光が、まるで星をこぼしたみたいに、ゆっくりと流れていく。点いて、消えて、また点いて。子どもの頃に見たはずなのに、こんなに綺麗だっただろうか。
「すごいだろ。毎年見てても、飽きないんだ」
「……うん。きれい。ほんとに、きれい」
声が、少し震えた。樹の手は、まだ私の手を握ったままだった。離す気配がない。私も、離せなかった。
蛍の光が、樹の横顔を、ぼんやりと浮かび上がらせる。その顔を見ていたら、十年間ずっと胸の奥に押し込めていたものが、ゆっくり、ほどけていくのがわかった。
「ねえ、樹」
「ん」
「私さ、ずっと、樹に謝りたかった」
「謝る? なんで」
「十年前、何も言わずに出てったこと。……ずっと、逃げてたの。樹からも、自分の気持ちからも」
蛍の光が、川を流れていく。樹は、すぐには返事をしなかった。
「……俺もだよ」
「え」
「あのとき、『行ってこい』なんて、かっこつけて言った。ほんとは、行ってほしくなかった。引き止めたかった。……でも、つむぎの夢を、俺なんかが邪魔しちゃいけないと思って」
樹が、繋いだ手に、少し力を込めた。
「つむぎが好きだったよ。あのときも、今も」
蛍が一匹、私たちのすぐそばを、ゆっくり横切った。私は、その光がにじんで見えた。涙が、勝手にこぼれていた。
「……ずるいよ。十年も経って、今さら」
「ずるいな。お互い」
*
樹が、空いたほうの手で、私の濡れた頬にそっと触れた。蛍の光だけが照らす暗闇の中で、彼の顔が、ゆっくり近づいてくる。
「つむぎ。……いいか」
「……聞かないで、そういうの」
それが、答えだった。樹の唇が、私の唇に、そっと重なる。
ちゅ、と。
「ん……っ」
柔らかくて、温かくて。十年も離れていたのに、その唇は、なぜだか初めての気がしなくて。川の音と、蛍の光に包まれて、私は彼の前掛けを、きゅっと握りしめた。一度離れて、目を合わせて、どちらからともなく、もう一度、深く重ねる。
ちゅ……ちゅぷ……
「は……ん……っ」
唇の隙間から舌が触れて、私はおずおずとそれに応えた。十年分の遠回りが、舌先から溶けていくみたいだった。
「……うち、来るか。蔵の二階、俺の部屋」
「……ばあちゃん、いるじゃない」
「今夜は、隣町の親戚んとこ。……つむぎと、ちゃんと、二人になりたい」
低い声に、心臓が跳ねた。私は、こくんと頷いた。理性とか、明日のこととか、東京のこととか、全部、川の音が押し流していった。今だけは、十年前に取れなかったこの手を、ちゃんと握りたかった。
*
蔵の二階の、樹の部屋。窓の外に、夜の山と、わずかに残る蛍の光が見える。畳の上に布団を敷きながら、樹の手が、少し緊張で震えているのに気づいて、私は少しだけ、ほっとした。
「緊張してる?」
「……してる。樹は?」
「俺も。……つむぎが嫌なら、やめる」
「やめないで」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。樹が、少し目を見開いて、それから、あの目尻の下がる笑い方をした。その笑顔のまま、もう一度、唇が重なる。今度のキスは、さっきより深くて、もっと熱かった。
ちゅぷ……れろ……ちゅ……
「ん……ふ……っ」
キスをしながら、樹の手が、私のブラウスのボタンを、一つ、また一つと外していく。急かさない、その手つきの優しさに、かえって体の芯が疼いた。肩からブラウスがするりと落ちて、夜の空気が肌に触れる。
「……きれいだ、つむぎ」
「やだ、言わないで……恥ずかしい……」
「ずっと、こうしたかったんだ。十年、ずっと」
その言葉に、胸の奥が甘く締めつけられた。樹の唇が、首筋へ、鎖骨へと降りてくる。
ちゅ……ちゅっ……
「ん……っ」
唇が落ちるたびに、肌がぴくんと震える。ブラのホックが外されて、胸が彼の前にこぼれ出た。樹の大きな手が、それをそっと包み込む。
「あ……っ」
「……柔らかい」
「もう……いちいち言わないでってば……っ」
やわやわと、形を確かめるように揉まれて、私は顔を背けたくなる。指の腹が、つんと立ちはじめた先端をかすめると、体がびくっと跳ねた。
「ひゃ……っ、そこ……っ」
「ここ、感じる?」
「……っ、意地悪、言わないで……っ」
口では強がるのに、樹が先端を口に含んで、舌で転がしはじめると、もうだめだった。
れろ……ちゅ……ちゅうっ……
「あ……っ、ん……っ♡ やぁ……っ♡」
甘い声が、勝手に漏れる。気持ちいい。彼の手が、唇が、私のことを大事そうに扱ってくれる。それが、たまらなく嬉しかった。胸を愛撫されながら、もう片方の手が、私の腿の内側を、ゆっくり撫で上げていく。
「ん……っ♡」
「力、抜いて。……痛くしないから」
その声に、自然と体の力が抜けた。樹の指が、下着の上から、私のいちばん敏感なところに触れる。
「あっ……♡」
布越しでも、もうそこが熱を持っているのが、自分でもわかった。指がそっと撫でるたびに、腰が小さく揺れてしまう。やがて下着が脱がされて、樹の指が、直接そこに触れた。
くちゅ、と。
「ひゃ……っ♡」
「……もう、こんなに濡れてる」
「言わないで……っ♡ 蛍の、川の、ときから……っ」
恥ずかしさで消えたいのに、樹の指は優しかった。敏感な突起を、指の腹でくるくると円を描くように撫でられて、私は彼の腕にしがみついた。
くちゅ……くちゅ……
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡」
「うん。……ここだろ」
指が、ゆっくり中へ滑り込んでくる。
ずぷ……っ
「あぁ……っ♡」
熱い。彼の指が、私の中を、確かめるようにゆっくり押し広げていく。
「つむぎの中、すごい熱い」
「っ♡♡ 言わないでってば……っ♡」
中の感じる場所を指の腹で擦られて、同時に親指で突起を転がされて、私の腰は、もう自分の意思では止まらなかった。
くちゅくちゅくちゅっ……
「あっ♡ あっ♡ だめ……っ♡ それ続けたら……っ♡」
「いいよ。イって」
「やっ♡ 見ないで……っ♡ 恥ずかしいの……っ♡♡」
指の動きが速くなって、私の体は、あっという間に高みへ押し上げられた。
「あっ♡ あっ♡ あっ♡——っ♡♡♡」
びくびくっ、と腰が跳ねて、頭の中が真っ白になる。樹の腕の中で、私はぎゅっと体を丸めて、達した。
「……イったね」
「……っ、だから、言わないでっ……♡」
息を切らせる私の額に、樹がそっとキスを落とした。汗で張りついた前髪を、指で優しくよけてくれる。その仕草の優しさに、また泣きそうになった。
*
「……ねえ、樹」
「ん」
「私ばっかり、ずるい。……樹のも、ちゃんと、ちょうだい」
自分でも、こんなこと言えるんだ、と思った。でも、彼となら、言えた。樹が、ごくりと喉を鳴らす。私はゆっくり体を起こして、彼のTシャツに手をかけた。脱がせると、米俵を担いできた人の、厚くて硬い胸板が現れる。
樹が私をそっと布団に横たえて、覆いかぶさってくる。脚の間に彼の体が割り込んで、熱く張りつめたものが、入り口にあてがわれた。
「つむぎ。……いいか」
「うん……っ。来て、樹」
「……つけるから、待ってな」
「……うん」
避妊具をつける彼を、私はぼうっと見ていた。こんなときも、ちゃんと私を大事にしてくれる。その律儀さが、いかにも樹らしくて、胸が温かくなった。準備を終えて、樹がもう一度、私の頬に手を添えた。
「いくよ」
「……優しく、して。久しぶり、だから……っ」
ずぷ……っ♡
「ん……あぁ……っ♡♡」
先端が入ってきた瞬間、私は彼の背中に腕を回してしがみついた。きつい。でも、とろとろに濡れているから、痛みより、満たされていく感覚のほうがずっと大きかった。
ずず……っ
「あ……っ♡ 奥まで……来てる……っ♡」
「……っ、つむぎ」
根元まで収まって、樹がふっと息を吐いた。繋がった場所から、十年分の隙間が、じんわり埋まっていく。私は、彼の背中にしがみついたまま、震える声で囁いた。
「……繋がってる。私たち、やっと、繋がってるね……っ♡」
「ああ。……もう、放さないからな」
「っ♡♡ そういうの、ずるいってば……っ♡」
樹が、ゆっくり動きはじめた。
ずちゅ……ぱちゅ……
「あっ♡ あっ♡ ん……っ♡」
最初は、私の体を気遣う、優しい律動。引くたびに切なくて、奥に届くたびに、声が漏れる。彼の額から落ちた汗が、私の胸にぽつりと落ちた。
「つむぎ。気持ちいいか」
「……っ♡ うん……っ♡ すごく……っ♡」
「俺も。……ずっと、こうしたかった」
その言葉に、胸の奥が震えた。私は彼の首に腕を回して、自分から唇を求めた。キスをしながら繋がっているのが、こんなに幸せだなんて、十年前の私は知らなかった。だんだん律動が深くなって、奥のいちばん感じる場所を突かれるたびに、私の体は跳ねた。
ぱちゅ……ぱちゅ……ぱちゅっ♡
「あっ♡ あっ♡ そこ……っ♡ 奥、当たるの……っ♡♡」
「ここ、好きか」
「っ♡♡ 好き……っ♡ 樹の、好きっ……♡♡」
口走ってから、それが体のことなのか、彼自身のことなのか、自分でもわからなくなった。たぶん、どっちもだった。樹が私の脚を抱え直して、結合が深くなる。
ぱちゅんっ♡♡
「ひあっ♡♡ 深いっ……♡♡」
「つむぎ、中、すごい締まってる」
「だって……っ♡ 気持ちよくて……っ♡♡」
川の音と、二人の息と、肌のぶつかる音が、夜の蔵に満ちる。私は、もう何も考えられなかった。ただ、目の前の人が愛しくて、十年分の想いが、体の奥から溢れてくる。
「つむぎ……そろそろ……っ」
「うん……っ♡ 私も……っ♡ 一緒が、いい……っ♡」
樹が私をぎゅっと抱きしめて、最後の律動を速めた。
ぱちゅぱちゅぱちゅっ♡♡♡
「あっ♡ あっ♡ あっ♡♡ イクっ……♡ 樹、一緒に……っ♡♡」
「ああ……っ、つむぎ……っ!」
ぱちゅんっ——♡♡♡
「あぁぁ……っ♡♡♡」
奥でびくびくと跳ねる彼を、私の体が、ぎゅうっと締めつけながら受け止める。二人で、同じ波にさらわれた。樹が、私の上で、はぁ、と大きく息を吐いた。汗ばんだ二つの体が、ぴったり重なったまま、しばらく動けなかった。
「……はぁ……っ♡ すごかった……」
「……つむぎ」
「ん……?」
「好きだ。十年前に、言えなかったぶんも。……好きだ」
私は、もう我慢できなかった。ぽろぽろと涙がこぼれて、笑いながら泣いた。
「……私も。大好き。十年も、遠回りして、ごめんね」
「お互いさまだ」
樹が、涙で濡れた私の頬に、何度もキスを落とした。
*
気づくと、窓の外の闇に、最後の蛍が、一匹、ふわりと光って消えた。
私は樹の腕に頭を預けて、夜の山の影をぼんやり眺めていた。彼の心臓の音が、耳の下で、とくとくと鳴っている。
「……ねえ、樹」
「ん」
「私さ、東京の仕事、すぐには辞められないと思う」
「うん。辞めなくていい」
「でも……もう、逃げない。樹からも、ここからも」
十年前は、東京か、この町か、二つに一つだと思っていた。仕事を選んだら、樹を諦めるしかないと。でも、今は違う。特急とローカル線を乗り継いで、三時間ちょっと。会いたいときに、ここへ来られる。
「ここ、いいとこだろ。蛍だって、毎年いくらでも見れる」
「ふふ。来る口実、できちゃった」
「口実なんていらないよ。……いつでも、帰ってこい」
帰ってこい。その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。私はずっと、この町を「出ていった場所」だと思っていた。でも今、ここは、私が「帰ってくる場所」になった。
「ねえ、樹」
「ん?」
「おばあちゃん、退院したら、樹のお酒、一緒に飲みたいって言ってた」
「いいな。じゃあ、退院祝い、うちのいちばんいいやつ持ってくよ」
「……うん。約束ね」
私は、彼の胸に頬をすり寄せた。十年前の私が、どうしても取れなかった手。今、その手は、私の指にしっかり絡んで、もう離れる気配がなかった。
翌朝。蔵の窓から差し込む夏の朝日で、目が覚めた。隣で、樹がまだ寝息を立てている。日に焼けた、穏やかな寝顔。私は、その顔を、もう目で追うのを我慢しなかった。
階下から、トヨさんが帰ってきた気配と、米を研ぐ音が聞こえてくる。この音の中で、樹は毎朝、起きてきたんだ。これからは、たまにだけど、私もこの音の中で、目を覚ますんだ。
(……ただいま)
十年かかった遠回りの先で、私はやっと、自分が捨てたと思っていた手を、もう一度、握り直した。
窓の外、山あいの田んぼに、夏の光が、きらきらと満ちていた。
― 終 ―