俺、滝沢一真、29歳。
都心の編集プロダクションで働いている。雑誌とウェブの記事を作る仕事だ。
言い方を変えると、締め切りに追われて一日が溶けていく仕事でもある。
朝から晩までモニターを睨んで、文字を直して、また直して。気づけば窓の外が暗くなっている。そんな毎日だった。
その頃の俺は、正直、少し擦り切れていたと思う。
休みの日も、何をしていいのか分からない。映画は昔から好きだったけど、配信で観ようとしても、十分で眠ってしまう。
そんな六月のある金曜の夜のことだ。
残業を切り上げて、会社のある下町を当てもなく歩いていた。
細い路地に入ったとき、ふと、古い建物の灯りが目に入った。
くすんだ朱色のタイル張りの、二階建て。
入口の上に、手書きみたいな丸い書体で「月見座」と看板が出ている。
その下に、小さなガラスケース。中に貼ってあるのは、色あせた映画のポスターだった。
(……映画館? こんなところに?)
ケースの隅に、白い紙が一枚。
「当館は毎週金曜のみ開館。三十五ミリフィルム上映。本日二十一時、最終回」
手書きの、まっすぐな字だった。
時計を見ると、二十時五十分。
俺は、吸い込まれるように、その重たいガラス扉を押していた。
中は、想像よりずっと小さかった。
赤い絨毯のロビーに、木枠の小さな売店。ポップコーンの機械はなくて、瓶のラムネと、紙箱のチョコレートが並んでいるだけ。
売店の奥に、白髪を短く刈った、痩せた男の人が座っていた。たぶん七十は越えている。
「いらっしゃい。お客さん、初めてだね」
「あ……はい。看板を見て、つい」
「今日はね、五十年前の白黒だよ。それでもいいかい」
「はい。ぜひ」
「千円。ありがとうね」
おじいさんは、嬉しそうに目尻を下げて、もぎりのチケットを半分にちぎってくれた。
そして、ロビーの天井を指さした。
「映写は、姪っ子がやってる。腕は確かだから、安心して観てってよ」
その指の先、ロビーの吹き抜けの上に、小さな四角い窓があった。
映写室の窓だ。
その奥に、ほんの一瞬、人影が見えた気がした。
長い黒髪を、後ろで一つに束ねた、横顔。
すぐに、機械の陰に隠れて見えなくなった。
客席に入ると、椅子は全部で五十ほど。古い木の座面が、座るときゅっと鳴った。
その夜の客は、俺を入れて、たった三人だった。
二十一時ちょうど。
ロビーの灯りが落ちて、頭の上の小窓から、白い光の帯が伸びた。
その光が、埃を浮かべながら、まっすぐスクリーンに届く。
ジジ……と微かな音がして、画面に古い白黒の映像が滲み出した。
俺は、その瞬間に、背筋が震えた。
配信の、つるりとした映像じゃない。
画面の端が少しだけ揺れて、フィルムの細かい傷が、雨みたいに走っている。
光そのものが、生きて動いているみたいだった。
映画が終わって、客席の灯りがついたとき、頬が少し濡れていることに気づいた。
別に泣くような話じゃなかったのに。
ただ、暗い客席で、誰かが回してくれた光を浴びていた——その時間そのものが、やけに沁みた。
ロビーに出ると、さっきのおじいさんが手を振ってくれた。
「どうだった、お客さん」
「……すごく、よかったです。また、来ます」
社交辞令じゃなかった。
俺は本当に、次の金曜が待ち遠しくなっていた。
*
翌週の金曜も、俺は仕事を無理やり切り上げて、月見座に通った。
その次の週も、また次の週も。
金曜の夜だけ開く、小さな名画座。
それが、擦り切れていた俺の、唯一の灯りみたいになっていた。
何度か通ううちに、おじいさん——支配人の久我さんとは、すっかり顔なじみになった。
「お、滝沢くん。今週も来たね」
「久我さん、こんばんは。今日は何を?」
「今日はいいよ。フランスの、恋の話だ。あの子の、いちばん好きなやつでね」
「あの子、っていうのは……映写技師の方ですか」
「そう。俺の姪の、七瀬。喋らない子だけどね、フィルムのことなら誰にも負けない」
久我さんは、また天井の小窓を見上げた。
その夜も、小窓の奥に、束ねた黒髪の横顔があった。
俺はまだ、彼女の声を聞いたことがなかった。
映写室の人。
光を回す人。
俺にとって、その人は、まだスクリーンの向こう側みたいに遠い存在だった。
それが変わったのは、梅雨の雨が、いちばん強く降った夜だった。
*
その金曜は、朝からずっと雨だった。
夜になっても止まず、傘が役に立たないくらいの、横殴りの雨。
月見座にたどり着いたときには、肩から下がぐっしょり濡れていた。
「ひどい雨だねえ。今日は、お客さん、君だけかもしれないよ」
実際、その夜の客は、俺ひとりだった。
五十席の客席に、たった一人。
それでも、二十一時ちょうどに、頭の上の小窓から光が伸びた。
たった一人の客のために、彼女はフィルムを回してくれた。
そのことが、なんだか胸に来た。
映画が中盤に差しかかった、そのときだ。
ぶつっ、という音とともに、画面が真っ白に飛んだ。
光が、止まった。
スクリーンに、焦げたみたいな茶色いシミがじわっと広がって、すぐにフッと暗くなる。
客席に、非常灯のオレンジだけが残った。
(……フィルムが、切れた?)
しばらくして、客席の後ろのドアが、そっと開いた。
足音が近づいてくる。
振り返ると、彼女が立っていた。
映写技師の人。
近くで見るのは、初めてだった。
濃紺の作業エプロンに、袖をまくった白いシャツ。
束ねた黒髪から、ほつれた毛が頬にかかっている。
化粧っ気はほとんどなくて、その分、白い肌と、まっすぐな眉が際立っていた。
歳は、俺と同じくらいか、少し下。あとで聞いたら、二十七だった。
「……申し訳、ありません」
低くて、少しかすれた声だった。
それが、彼女の声を聞いた、最初の瞬間だった。
「フィルムが、切れてしまって。古い玉なので……繋ぐのに、少し時間が」
「あ、全然、大丈夫です。急がないので」
「……はい。すみません」
彼女は、深く頭を下げて、戻ろうとした。
その背中に、俺はつい、声をかけていた。
「あの。さっきの、切れた瞬間の、画面のシミ」
彼女が、足を止めた。
「茶色く焦げて、広がって、消えて。あれ……すごく、綺麗でしたね」
言ってから、変なことを言ったかな、と思った。
故障を「綺麗」だなんて、失礼だったかもしれない。
でも、彼女は、振り返って、少しだけ目を見開いた。
「……あれを、綺麗って言う人、初めてです」
初めて、彼女の表情が、ほんの少しだけ動いた。
唇の端が、迷うように、わずかに上がる。
「フィルムが、熱で焼ける瞬間です。本当は……起こしちゃ、いけないものなんですけど」
「でも、フィルムだから、起こるんですよね。それ」
「……はい。データには、ないものです」
彼女は、しばらく黙って、俺を見ていた。
それから、小さな声で言った。
「……あの。繋ぐところ、見ますか」
*
映写室は、思っていたより狭くて、暑かった。
大きな映写機が二台。鉄の塊みたいな機械が、まだ熱を持って、低く唸っている。
壁には、丸い金属の缶が、何十個も積まれていた。フィルムの缶だ。
部屋いっぱいに、酢みたいな、古い薬品の匂いが満ちている。
「狭くて、すみません。あと……匂いも」
「いえ。なんか……いい匂いです。フィルムの匂いって、こういうのなんですね」
「……酢酸臭、って言います。古いフィルムが、少しずつ傷んでいく匂いです」
彼女は、切れたフィルムの両端を、小さな台の上に並べた。
細い帯みたいなフィルムを、ルーペで覗き込んで、傷んだコマを慎重に切り落とす。
その指先が、驚くほど繊細に動いた。
専用のテープで、二本の端を、ぴたりと合わせて繋ぐ。
息を詰めて作業する横顔を、俺はただ、見つめていた。
「……すごいですね。手品みたいだ」
「慣れ、です。子どもの頃から、叔父の隣で、ずっと見てきたので」
「叔父はもう、目が悪くて。フィルムを回せるのは……今は、私だけなんです」
彼女は、繋いだフィルムを、そっと指でなぞった。
「データなら、傷つかないし、切れないし、楽なんですけど」
「でも……傷つくものを、ちゃんと光に変える。それが、好きなんです」
俺は、その言葉に、不思議なくらい胸を打たれた。
擦り切れて、傷だらけになった気分でいた自分が、少しだけ救われたような気がした。
「……俺、最近、自分のこと、ただ消耗していくだけだなって思ってて」
口が、勝手に動いていた。
「でも、傷ついても、ちゃんと光になれるって……そう聞いたら、なんか、いいなって」
彼女は、ルーペから顔を上げて、俺を見た。
非常灯のオレンジの光の中で、その瞳が、ゆっくりと瞬いた。
「……滝沢さん、でしたよね。叔父から、聞いてました」
「毎週、来てくれる人がいるって。それも、ひとりで」
「あ……はい。すいません、なんか、毎週」
「……ううん。嬉しい、です」
ぽつりと言って、彼女は、繋ぎ終えたフィルムを、また映写機にかけた。
「続き、お見せします。最後まで、ちゃんと」
その夜の続きを、俺は、たった一人の客席で観た。
繋ぎ目のところで、画面が一瞬だけ、ぴくっと跳ねた。
その小さな傷あとが、なぜだか、たまらなく愛おしかった。
*
それから、俺と七瀬さんの距離は、少しずつ縮まっていった。
毎週金曜、上映が終わると、俺は最後まで残るようになった。
ほかの客が帰って、久我さんが売店を片付けている間。
俺は、映写室に上がって、彼女が二台目の映写機からフィルムを巻き取るのを、隣で見る。
長い長いフィルムが、リールにくるくると巻き取られていく音。
その音を聞きながら、俺たちは、ぽつぽつと話をした。
「滝沢さんは、どうして、こんな古い映画館に」
「最初は、偶然です。でも……ここの光を浴びると、なんか、息ができる感じがして」
「……息」
「うん。会社にいると、ずっと水の中にいるみたいなんですよ。金曜の夜だけ、ここで顔を出せる」
七瀬さんは、巻き取りの手を止めずに、小さく笑った。
笑うと、目尻に、柔らかい線ができる。
寡黙な人だけど、笑い方は、子どもみたいに無防備だった。
「変な人。故障を綺麗って言うし、映画館で息継ぎするし」
「七瀬さんに言われたくないですよ。フィルムの匂いが好きな人に」
「……ふふ。それは、そうかも」
少しずつ、彼女は、自分のことを話してくれるようになった。
両親を早くに亡くして、映写技師だった叔父の久我さんに、引き取られて育ったこと。
ほかに身寄りがなくて、この月見座が、彼女の家そのものだったこと。
「だから……ここを、なくしたくないんです。私の、全部だから」
その横顔は、いつもより、少しだけ硬かった。
*
その「なくしたくない」の意味を、俺は、すぐに知ることになった。
ある金曜、上映後の映写室で、七瀬さんが、一枚の紙を握りしめていた。
ビルの建て替えの、立ち退きの通知だった。
「来年の春で……この建物、取り壊しなんです」
声が、震えていた。
「叔父も、歳だし。お客さんも、もう、滝沢さんくらいしか来ないし」
「潮時、なのかもしれません。分かってるんです。でも……」
彼女は、唇を噛んで、うつむいた。
束ねた髪から、ほつれた毛が、また頬に落ちる。
俺は、気づいたら、その肩にそっと手を置いていた。
「七瀬さん。最後まで、やりましょう」
「……え」
「俺、これでも、記事を作るのが仕事なんです。月見座のこと、書かせてください」
「フィルムを回す、最後の名画座。傷ついたものを、光に変える場所。……絶対、伝わるから」
彼女が、顔を上げた。
その目に、うっすらと、涙が浮かんでいた。
「……いいん、ですか。仕事と、関係ないのに」
「関係ありますよ。俺が、ここに救われたんだから」
俺は、それから一週間、仕事の合間を縫って、月見座の記事を書いた。
久我さんに昔の話を聞いて、七瀬さんに映写の写真を撮らせてもらって。
会社のウェブ媒体に、なんとか枠をねじ込んで、その記事を出した。
タイトルは、「毎週金曜だけ灯る、最後のフィルム映画館」。
*
記事が出た翌週の金曜。
俺が月見座にたどり着くと、入口の前に、見たことのない行列ができていた。
二十人、いや、三十人はいる。
若い人も、年配の人も、傘を差して並んでいた。
「滝沢くん! 見てくれよ、これ!」
久我さんが、もぎりのチケットを、嬉しそうにちぎりまくっている。
「君の記事を読んで、みんな来てくれたんだ。五十席、満席だよ。何年ぶりかな……」
その夜、月見座は、創業以来の満席になった。
五十席が、全部埋まった。
頭の上の小窓から、光の帯が、たくさんの観客の頭を越えて、スクリーンに届く。
繋ぎ目で画面が跳ねるたびに、客席から、小さなどよめきが起きた。
俺は、客席のいちばん後ろで、その光景を見ていた。
映画が終わって、灯りがついた瞬間。
客席から、自然と、拍手が起こった。
スクリーンにじゃない。
天井の、小さな映写室の窓に向かって。
光を回した、たった一人の技師に向かって。
その拍手の中で、小窓の奥の七瀬さんが、両手で口元を押さえて、泣いているのが見えた。
*
客が全員帰って、久我さんも「今日はもう寝るよ」と二階に上がっていったあと。
俺は、いつものように、映写室に上がった。
七瀬さんは、まだ目を赤くしたまま、フィルムを巻き取っていた。
「……滝沢さん」
「お疲れさまでした。すごかったですね、今日」
「ありがとう、ございました。私……あんなにたくさんの人に、光を届けたの、初めてで」
彼女は、巻き取りの手を止めて、こちらを向いた。
狭い映写室。機械の熱と、酢酸臭と、外の雨の音。
二人の距離が、いつもより、ずっと近かった。
「でも……いちばん嬉しかったのは」
彼女が、一歩、近づいてきた。
「滝沢さんが、あの拍手の中に、いてくれたことです」
非常灯のオレンジの光が、その濡れた目を照らしていた。
「……七瀬さん」
「俺、毎週ここに来てたの、本当は、映画のためじゃないかもしれない」
「……」
「七瀬さんが、回す光を、見たかったんです。たぶん、最初の夜から」
彼女の頬が、オレンジの光の中でも分かるくらい、赤くなった。
そして、消え入りそうな声で、言った。
「……知ってました。たった一人のお客さんのこと、毎週、小窓から、見てたから」
俺は、そっと手を伸ばして、彼女の頬にかかったほつれ毛を、耳にかけた。
指先が、熱い肌に触れる。
彼女は、逃げなかった。
むしろ、ほんの少し、こちらに体を傾けた。
唇が触れたのは、どちらからともなく、だった。
外で、雨がひときわ強く窓を叩いた。
機械の唸りと、巻き取りきれなかったフィルムが、リールの上でくるくると空回りする音。
その音の中で、俺たちは、長いくちづけを交わした。
唇を離すと、彼女は、俺のシャツの胸元を、きゅっと握っていた。
「……今夜、終電」
「もう、ない、かもしれない」
「……ふふ。じゃあ」
彼女は、潤んだ目で、はにかむように笑った。
「もう少しだけ、ここに、いてください」
映写室の隅の、古いソファに、二人で並んで座った。
雨は、夜通し降り続いていた。
彼女の髪をほどくと、思っていたより長くて、フィルムと同じ、薬品の甘い匂いがした。
抱き寄せると、彼女は、小さく息を詰めて、俺の背中に腕を回した。
「……あの、私。こういうの、慣れてなくて」
「俺も。落ち着いてるふりして、心臓、すごいです」
「……ふふ。ほんとだ。聞こえる」
彼女が、俺の胸に、そっと耳を当てた。
その仕草が、いじらしくて、たまらなかった。
非常灯の、頼りないオレンジの光だけが、二人を照らしていた。
機械の熱が、まだ部屋に残っていて、肌が、すぐに汗ばんだ。
くちづけを繰り返しながら、俺は、彼女のシャツのボタンを、一つずつ外した。
「……電気、つけないで、ください。恥ずかしい、から」
「……うん。このままで」
「……滝沢さんの、こと。ちゃんと、覚えておきたいから」
その夜のことは、たぶん、一生忘れない。
傷つくものを、光に変える。
彼女が、ずっと大切にしてきたその言葉を、俺は、その夜、自分の体で教わった気がした。
*
明け方、雨が、ようやく上がった。
映写室の小窓から、青い朝の光が、細く差し込んできた。
俺の腕の中で、七瀬さんが、ゆっくりと目を覚ます。
寝起きの、少しだけあどけない顔で、俺を見上げて、ふにゃっと笑った。
「……おはよう、ございます」
「おはよう。よく寝てた」
「……ん。久しぶりに、ぐっすり、でした」
彼女は、俺の肩に頭を預けたまま、積み上がったフィルムの缶を見つめた。
「春で、この建物はなくなるけど」
「でも……あの記事のおかげで、お客さんが来てくれて。叔父が、別の場所で続けようかって、言い出してて」
「ほんとですか」
「うん。小さくても、フィルムを回せる場所を、また作るって」
彼女は、起き上がって、俺の頬に、そっと手を当てた。
「だから……次の場所でも、毎週金曜、来てくれますか」
「行きますよ。客として」
俺は、その手に、自分の手を重ねた。
「……いや。客じゃなくて。隣で、巻き取りを手伝う人として、行きたいです」
七瀬さんが、息を呑んだ。
それから、目を細めて、いままででいちばん、やわらかく笑った。
「……それ、プロポーズ、みたいですよ」
「……だったら、いいんですけど」
「……ふふ。気が、早いです」
そう言いながら、彼女は、俺の手を、ぎゅっと握り返した。
その手は、たくさんのフィルムを繋いできた、傷だらけの、あたたかい手だった。
*
それから、俺と七瀬さんは、付き合うことになった。
月見座は、予定通り、春に取り壊された。
でも、半年後。
久我さんと七瀬さんは、隣町の古い喫茶店の二階を借りて、二十席だけの、小さな映写室を作った。
名前は、そのまま「月見座」。
毎週金曜の夜だけ、そこに、フィルムの光が灯る。
俺は、毎週、いちばん早くそこに着く。
重いフィルムの缶を運んで、巻き取りを手伝って、それから、客席のいちばん後ろで、彼女の回す光を浴びる。
繋ぎ目で、画面がぴくっと跳ねるたびに。
俺は、あの雨の夜の映写室を、思い出す。
「滝沢さん。今日のお客さん、十二人でした」
「上等じゃないですか。満席、目指しましょう」
「……ふふ。欲張り」
「でも……今日も、ちゃんと光に、できました」
巻き取りを終えた彼女が、薬品の甘い匂いのする髪を揺らして、俺の隣に座る。
肩が、そっと触れる。
擦り切れていたはずの俺の毎日は、いつのまにか、彼女の回す光で、いっぱいになっていた。
傷ついたものを、ちゃんと光に変える。
その光のいちばん近くに、俺は、ずっといるつもりだ。
― 終 ―