1. 木屑の匂いのする家
私、佐倉詩織(さくらしおり)、二十七歳。フリーで絵本や児童書の挿絵を描いている。
住んでいるのは、海まで歩いて五分の、築六十年の古い家を改装したシェアハウスだ。元はどこかの会社の保養所だったらしく、無駄に部屋数が多くて、廊下が長い。男女合わせて、今は四人で暮らしている。
私の仕事は、ほとんど家の中で完結する。締め切りが近づくと、二階の自分の部屋にこもって、一日中ペンを握っている。外に出るのは食材を買うときと、煮詰まって海を見に行くときくらい。だから同じ家に住んでいても、ほとんど顔を合わせない住人がいた。
真柴律(ましばりつ)さん、三十歳。
一階のいちばん奥、昔は配膳室だったという土間の広い部屋を借りて、そこで家具を作ったり直したりしている人。木工作家、というのが正しいのかもしれない。
(無口、なんだよね。あの人)
入居して半年、私が律さんと交わした言葉は、たぶん片手で数えられる。廊下ですれ違えば会釈はする。共用キッチンで一緒になれば「おはようございます」くらいは言う。でもそれ以上は、お互いに踏み込まない。
律さんの部屋からは、一日中、規則正しい音が聞こえてくる。木を削る音、紙やすりをかける音、何かを軽く叩く音。そして、家じゅうにうっすらと漂う、木屑とオイルの匂い。
その匂いを、私は嫌いじゃなかった。むしろ、締め切りで気が立っているとき、一階に降りてその匂いを吸い込むと、なぜか少しだけ呼吸が楽になった。
(声は、低いんだ。たまに聞くと)
それくらいの距離。それ以上でも、以下でもない。
そう思っていた六月の頭、私の部屋に、ひとつの荷物が届いた。
2. 祖母の椅子
それは、祖母の形見の椅子だった。
春先に祖母が亡くなって、実家を片付けることになって。母が「詩織、何か要るものある?」と聞いてきたとき、私が迷わず選んだのが、その椅子だった。
祖母がずっと、縁側で本を読むときに座っていた、木の肘掛け椅子。背もたれの曲線がやわらかくて、座面に座布団を敷いて、祖母はそこでよく私に絵本を読んでくれた。私が絵を描く人間になった、たぶんいちばん最初の場所。
でも——届いた椅子を見て、私は息をのんだ。
座面の板が一枚、ぱっくりと割れていた。肘掛けのつなぎ目もぐらぐらで、脚の一本は、体重をかけたら折れそうなくらいに傷んでいる。長い時間と、最後の引っ越しが、椅子を限界まで弱らせていた。
(……これ、もう座れない)
捨てる、という選択肢は、最初からなかった。でも、どう直していいのかもわからない。家具屋に持っていくにも、もうメーカーもわからない、ただの古い椅子だ。私は割れた座面をなでながら、しばらく途方に暮れていた。
そのとき、ふと、家じゅうに漂うあの匂いを思い出した。
木屑と、オイルの匂い。
一階の、土間の作業場。
(……頼んでも、いいのかな)
迷った。ほとんど話したこともない人に、こんな個人的なものを預けるなんて。でも、この椅子を救えるとしたら、たぶんあの人しかいない。
私は割れた椅子を抱えて、おそるおそる、一階へ降りた。
3. 土間の人
作業場の引き戸は、半分開いていた。
中をのぞくと、律さんが大きな作業台に向かって、何かの板に鉋(かんな)をかけていた。しゅっ、しゅっ、と一定のリズムで、薄い木の屑が、くるくると巻いて床に落ちていく。背中が広くて、腕まくりした腕に、うっすら筋が浮いていた。
「あの……真柴さん」
声をかけると、鉋の音が止まった。律さんが振り返る。前髪の下の目が、少しだけ驚いたように私を見た。家の中で私から話しかけたのは、たぶん初めてだったから。
「……佐倉さん。どうかしました」
低い声。やっぱり、たまに聞くと少し緊張する。私は抱えていた椅子を、両手で差し出した。
「これ、祖母の形見で。座面が割れちゃって、脚も、もうぐらぐらで……あの、もし、直せたりしないかなって」
律さんは何も言わずに、布で手を拭いて、椅子を受け取った。そして作業台の上にそっと置くと、しゃがみ込んで、いろんな角度からそれを見始めた。
割れた座面に指を當て、肘掛けのつなぎ目を軽く揺らし、脚の付け根を確かめる。その手つきが、やけに丁寧だった。乱暴に扱われたら嫌だな、と少し身構えていた私の肩から、ふっと力が抜けた。
「……いい椅子ですね、これ」
「えっ」
「曲げ木の背もたれ、いまどき手間で作る人いないですよ。座面の割れは木を足して埋めて、脚は組み直せば、まだ二十年は使えます」
(……二十年)
その言葉に、なぜか、胸の奥がぎゅっとなった。捨てなくていい。まだ、座れる。それを、当たり前みたいに言ってくれたことが。
「お願い、できますか。もちろん、ちゃんとお代は払います」
「代金は、材料費だけで。……ただ、急がないでもらえると。乾かす時間が要るんで」
「急ぎません。全然、待ちます」
律さんは、ほんの少しだけ口角を上げた。笑った、というより、ゆるんだ、くらいの。でも私はその一瞬を、なぜかよく覚えている。
4. 雨の作業場
その週から、梅雨が本格的に始まった。
来る日も来る日も雨で、私は二階で挿絵を描いては、行き詰まると一階に降りた。理由は、お茶を淹れるとか、そういうことにしていた。でも本当は、作業場の様子を見たかったんだと思う。
「真柴さん、お茶、いります?」
最初はそんな口実で、引き戸の前に立った。律さんはたいてい、椅子に向かっていた。割れた座面に、同じ種類の木を慎重に継いで、はみ出した接着剤をへらで掬っている。
「……あ、もらいます。ありがとうございます」
そっけないけれど、断られはしなかった。私はお茶を置いて、なんとなく、作業を見ていく。最初は数分だった。それが、十分になり、二十分になった。
律さんの手元は、見ていて飽きなかった。木の繊維の向きを読んで、力の入れ方を変える。紙やすりを当てる前に、必ず指の腹で表面をなぞって、確かめる。無駄な動きがひとつもなくて、まるで、椅子と会話しているみたいだった。
(……手、大きいんだ)
節くれだった、傷だらけの手。でも、椅子に触れるときだけは、信じられないくらいやさしい。その手が祖母の椅子をなでるのを見ていると、私はなんだか落ち着かない気持ちになった。
「……ずっと、家具を作ってきたんですか」
「家具は、二十二のときから。それまでは、まったく違う仕事してました」
「違う仕事?」
「……システムの会社。毎日、画面ばっかり見てて。あるとき、自分の手で何か作りたくなって、辞めて、木工の学校に入り直した」
その横顔が、画面、と言ったとき、少しだけ遠くを見た。私は、自分の仕事のことを思い出していた。私もずっと、画面と紙に向かっている人間だ。誰かと話すより、何かを作っているほうが、ずっと呼吸が楽な人間。
(……ちょっと、似てるのかも)
雨が屋根を打つ音だけが響く土間で、私たちはぽつぽつと、短い言葉を交わした。長くは続かない。でも、その途切れがちな会話が、私はなぜか、心地よかった。
5. 同じ匂いの人
ある雨の午後、私は仕事に行き詰まって、いつもより長く作業場にいた。
律さんが、ちょうど脚の組み直しをしているところだった。古い接合を外して、新しく削った木を、木槌でこんこんと打ち込んでいく。私は作業台の隅に座って、その手元をスケッチブックに描いていた。
「……何、描いてるんですか」
「あっ。ご、ごめんなさい、つい。手を動かしてる人、見ると描きたくなっちゃって」
慌ててスケッチブックを閉じようとしたら、律さんが「見せてもらっても?」と手を差し出した。私は迷って、おずおずとそれを渡した。自分の絵を人に見せるのは、いつだって少し怖い。
律さんは、私の描いた線を、しばらくじっと見ていた。
「……うまいんですね。手の、力の入ってるところがちゃんとわかる」
「そんな……」
「いや。佐倉さん、ずっと家にいる人だと思ってたけど。こんな目で、人のこと見てたんだ」
(……どきっとした)
見てたんだ、って。たしかに私は、この半年、この人のことを、知らないふりをして、ずっと見ていた気がした。
「真柴さんこそ。無口な人だと思ってたから、こんなに喋るなんて、意外です」
「……椅子の話だと、喋れるんですよ。それ以外が、苦手なだけで」
「ふふ。じゃあ、私と一緒ですね。私も、絵の話以外、ほんとに下手で」
そう言ったら、律さんが、今度ははっきりと笑った。目尻にやわらかい皺がよって、無口な人の、ふいの笑顔。それを見た瞬間、私の心臓は、自分でもびっくりするくらい、大きく跳ねた。
(……あ。やばい、これ)
気づいてしまった。私はもう、お茶を口実にしてここに来ているわけじゃない。律さんに会いに、この匂いのする部屋に、降りてきている。
6. からかわれて
私の様子の変化に、最初に気づいたのは、同居人の環さんだった。
飯田環(いいだたまき)さん、三十二歳。シェアハウスの最古参で、近所のカフェで働いている、面倒見のいい人。ある夜、共用のリビングで二人になったとき、環さんが、にやにやしながら私を見た。
「ねえ詩織ちゃん。最近、やたら一階にいない?」
「えっ。そ、そんなこと……椅子、直してもらってるから」
「椅子ねえ。律くん、無口だから誰とも喋らないのに、詩織ちゃんとだけ、最近よく喋ってるよね」
「……っ」
ばれてる。私はマグカップを両手で握って、顔を伏せた。
「いいと思うよ、私は。あの子、不器用だけど、ほんとに誠実な子だから。仕事も、家具も、人にも、手を抜かない」
「……でも、向こうは、たぶん、椅子のお客さんとしか思ってないですよ」
「どうかな。律くんが、自分の作業場に人を入れて、長居させてること自体、私は半年で初めて見たけど」
(……期待、しちゃ、だめ)
そう思うのに、環さんの言葉が、胸の奥でじわじわ広がっていく。あの人が、私だけを作業場に入れている。それが本当なら——。
私は、期待してると思われたくなくて、必死で何でもない顔を作った。でも、たぶん、ぜんぜん作れていなかった。環さんが、やさしく笑っていたから。
7. 椅子が、戻ってくる
梅雨の終わりが近づいた、よく降る夜のことだった。
私は締め切りをひとつ落として、すっかり消耗していた。担当の編集さんに直しを何度も突き返されて、自分の絵に自信がなくなっていた。こんな絵で、本当に誰かの心に残るんだろうか。そんなことばかり考えて、その夜も眠れずに、一階に降りた。
作業場の灯りが、ついていた。引き戸を開けると、律さんが、私の椅子の最後の仕上げをしているところだった。
オイルを布に含ませて、座面に、肘掛けに、ゆっくりと塗り込んでいく。すると、くすんでいた木が、しっとりとした飴色に蘇っていった。割れていた座面は、どこを継いだのかわからないくらい、なめらかになっている。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。律さんが振り返って、布を置いた。
「ちょうど、終わったとこです。座ってみてください」
私は、おそるおそる、その椅子に腰を下ろした。
ぎし、とも言わない。ぐらつきも、もうない。背もたれの曲線が、昔と同じように、私の背中をやさしく受け止めた。祖母の縁側の、絵本の時間が、ふっと体の奥から蘇ってくる。
「……戻ってきた」
気づいたら、目の縁が熱くなっていた。最近ずっと張りつめていたものが、その座面の上で、ぷつんと切れた。私は、子どもみたいに、ぽろぽろ泣いていた。
「……佐倉さん?」
「ごめんなさい……っ、なんか、安心しちゃって。最近、仕事もうまくいかなくて、私の絵なんて、誰の役にも立たないんじゃないかって、ずっと……」
律さんが、すこし困ったように、でも逃げずに、私のそばにしゃがんだ。
「……この椅子、佐倉さんのおばあさんが、ずっと座ってたんですよね」
「うん……」
「そこで、絵本、読んでもらったって言ってた。だから佐倉さん、絵を描く人になったんでしょう。……人の役に立たないものに、人は、こんな思い出を残さないですよ」
(……ずるい、その言い方)
雨の音だけが響く作業場で、私は涙を拭うのも忘れて、律さんを見た。木屑の匂いの中で、その人の言葉が、ばらばらになりかけた私を、しずかに繋ぎ直していく。
「……俺、椅子直すのは得意だけど。人を慰めるのは、ほんと下手で。すみません」
「……ううん。じゅうぶん、です。すごく」
近かった。しゃがんだ律さんの顔が、すぐ目の前にあった。その傷だらけの手が、ためらいながら伸びて、私の頬の涙を、親指でそっと拭った。触れられた瞬間、私の体は、びくっと震えて——でも、逃げなかった。
(……離れたく、ない)
8. 降りていく
見つめ合ったまま、雨の音だけが時間を満たしていた。
律さんの指は、涙を拭ったあとも、私の頬から離れなかった。離していいのか、わからない、というふうに。私はその手に、自分の手をそっと重ねた。それが、私からの返事だった。
「……佐倉さん。俺、たぶん、もう、ただのお客さんとして見れてないです」
「……知ってます。私も、ずっと前から、お茶は口実でした」
律さんの目が、すこし見開かれた。それから、観念したように、ゆっくりと顔が近づいてくる。私は、目を閉じた。
唇が、触れた。
ちゅ……。
やわらかくて、すこし乾いていて、木とオイルの匂いがした。触れるだけのキスで、一度離れる。薄目を開けると、律さんが、泣きそうな顔で私を見ていた。無口なこの人の、こんな顔。
「……もう一回、いい?」
今度は、私のほうから顔を寄せた。ちゅっ……んっ……。さっきより深く重ねると、律さんの大きな手が、私の後頭部にまわって、やさしく引き寄せた。
れろ……ちゅ……。
舌が、おずおずと触れ合う。仕事のときの繊細な手つきとは違う、すこし余裕のない動き。それが、たまらなく愛しかった。
「ん……っ♡」
「……ここ、寒くないですか。俺の部屋、隣だから」
「……うん。行きたい」
律さんが、私の手を取った。その手は、いつも椅子に触れるときみたいに、こわれものを扱うように、やさしかった。私たちは、灯りを消した作業場を抜けて、隣の彼の部屋へ、そっと移った。
9. 木の匂いの部屋で
律さんの部屋は、彼らしい部屋だった。
自分で作ったらしい棚に、木工の道具と、たくさんの本。窓辺には、削りかけの木の塊と、小さな鉋。家具の匂いが、ここがいちばん濃い。間接照明のやわらかな灯りの中で、律さんが、私をそっと抱き寄せた。
「あっ……♡」
もう一度キスをして、彼が私をベッドに座らせる。見下ろしてくる律さんの目が、いつもの無口な人のものじゃなくて、熱を持っていた。その視線だけで、体の芯が、じんと痺れる。
「……佐倉さん、すごく、綺麗です」
「……名前。詩織で、いいです」
「……詩織さん」
名前を呼ばれただけで、心臓が大きく鳴った。律さんの手が、私のカーディガンのボタンに、ためらいがちに伸びる。
「……自分で、脱ぐから」
恥ずかしくて、私は自分でカーディガンを肩から落とした。下に着ていた薄手のシャツの上から、彼の視線を感じる。それだけで、肌がぞわりと粟立った。
「……手、震えてますよ」
「……律さんのせいです」
律さんが、ふっと笑って、私のシャツのボタンを、ひとつずつ外していった。椅子を直すときの、あの丁寧な手つきで。一つ、二つと外れていくたびに、白い肌と、淡い色の下着が覗いていく。
「……あんまり、見ないで♡」
「……無理です。ずっと、見たかったから」
シャツを脱がされ、ブラのホックが、ぷつんと外れた。胸が、こぼれ落ちる。先端は、もう、つんと尖っていた。律さんの大きな手が、おそるおそる、それを下から包む。
ふにっ……。
「んっ……♡」
(……手の温度、高い)
その手のひらに、私のやわらかいところが沈んでいく。ゆっくり揉まれながら、先端を、節くれだった指で、こりっと転がされた。
「ひゃっ……♡♡ そこ……っ♡」
体が、勝手に跳ねた。律さんが、もう片方の胸に顔を寄せて、先端を口に含む。ちゅっ……れろ……ちゅぱっ……。
「んあっ♡♡ だめっ……声、出ちゃう……♡♡」
私は手の甲で口を押さえた。普段、絵以外でこんなに無防備になることなんて、ないのに。この人の前でだけ、私は、どんどん崩れていく。
10. ほどけて、ひとつになる
左右の胸を交互に可愛がられながら、律さんのもう片方の手が、私の腿のあいだへ、そっと降りていった。
「……いいですか」
「……うん♡ 来て」
ショーツの上から、彼の指が、つ……となぞる。布越しなのに、その一撫でで、腰が浮いた。
「あっ……♡」
「……もう、濡れてる」
「言わないで……っ♡ 恥ずかしい……♡」
ショーツがゆっくり引き下ろされて、彼の指が、直接、私の濡れたところに触れた。くち……と、小さな水音が立つ。
「ひあっ♡♡」
すじに沿って、指がゆっくり上下する。蜜があふれて、彼の指を濡らしていくのが、自分でもわかった。小さな突起を探し当てられて、指先でやさしく転がされる。くりっ……くりくりっ……。
「んんっ♡♡♡ そこっ……だめっ……♡♡」
体が、がくがくと震える。彼の中指が、ぬかるんだ入り口に、ゆっくりと沈んできた。ずぷっ……。
「んああっ♡♡♡」
(……こんなに、誰かを欲しいと思うの、初めてだ)
中をやさしくかき回されて、私はもう、何も考えられなくなっていた。指を曲げて、奥のざらついたところを擦られると、頭の芯が、白く弾ける。
「あっ♡♡ 律さんっ……そこ、すごいっ……♡♡♡」
びくびくと、腰が跳ねる。あっという間に、波が来た。
「いくっ……♡♡♡ 律さん、私っ……いっちゃうっ……♡♡♡♡」
びくんっ♡♡♡——。
きゅうっと彼の指を締めつけて、私は彼の腕の中で、達した。力が抜けて、ベッドに沈み込む。荒い息を整えていると、律さんが、私の髪をそっと撫でた。そのやさしさに、また泣きそうになる。
「……律さんも。私で、気持ちよくなって」
私は、震える手で、彼のシャツに手を伸ばした。律さんが、自分で服を脱ぐ。引き締まった体が、間接照明に浮かび上がった。私を組み敷いて、彼の高ぶりが、入り口にそっと触れる。
「……詩織さん。痛かったら、言ってください」
「……うん♡ 来て。ゆっくり……」
「……ゴム、ちゃんと、するんで」
そういう細やかさが、この人らしくて、私はうなずいて、彼の背中に手を回した。ゆっくりと、彼が腰を進めてくる。
ずぷ……ずずっ……。
「んんっ♡♡♡ あっ……いっぱい……♡♡」
奥まで、ゆっくりと満たされていく。彼の額に汗がにじんで、こらえるような顔をしている。私の中が、彼を、きゅうっと包み込んだ。
「……っ、詩織さん、すごい」
「動いて……♡ 律さんの、好きに……♡」
ずちゅっ♡ ずちゅっ♡♡——。彼が、ゆっくりと動き始める。最初はこわれものを扱うように。でも、私が「もっと」とねだると、その手つきが、だんだん余裕をなくしていった。
「あっ♡♡ 奥っ……当たるっ……♡♡♡」
「……詩織さん、可愛い。ほんと、ずっと、こうしたかった」
「私もっ……♡♡ ずっと、律さんのこと……♡♡♡」
雨の音と、彼の息と、肌の触れ合う音が、木の匂いの部屋に満ちていく。無口なこの人が、私の名前を何度も呼んで、私だけを見て、夢中になっている。それがうれしくて、私はもう一度、高みへ押し上げられていった。
「また、来ちゃうっ……♡♡♡ 律さんっ……いっしょにっ……♡♡♡♡」
「……っ、俺も、もう……」
ずんっ♡♡♡——奥を深く突かれて、私の体が大きく跳ねた。彼が、私を強く抱きしめて、低く呻く。薄い膜越しに、彼が震えるのが伝わってきた。
「んんんっ♡♡♡♡」
絶頂の余韻の中で、私たちは、しばらく動けずに、ただ抱き合っていた。彼の心臓の音が、私の胸に伝わってくる。速くて、まっすぐで、彼そのものみたいな鼓動だった。
11. 飴色の椅子
気づくと、雨の音が、いつの間にか弱まっていた。
律さんの腕の中で、私は彼の胸に頬を寄せていた。木屑とオイルと、彼の汗の匂い。私はもう、この匂いから、たぶん一生離れられない気がした。
「……俺、ほんとに、口下手で。気の利いたこと、言えないけど」
「うん」
「……詩織さんのこと、ちゃんと、大事にしたいです。椅子より、ずっと」
(……椅子より、って。この人らしい)
私は、声を出して笑ってしまった。それから、彼の胸に、ぎゅっと顔を埋めた。
「……うれしい。私も、です。ずっと、律さんに会いに、一階に降りてたの」
「……知ってましたよ。お茶、いつも二人分しか持ってこなかったから」
「えっ……気づいてたんですか」
「……気づきますよ。毎日、待ってたんで」
無口な人の、不意打ちの言葉。私はまた、目の縁が熱くなって、でも今度は、笑いながら泣いた。
翌朝、梅雨の晴れ間が、久しぶりに窓から差し込んでいた。
私は、すっかり蘇った祖母の椅子を、自分の部屋の、いちばん光の入る窓辺に置いた。飴色になった座面に座って、膝の上にスケッチブックを広げる。不思議と、昨日まで自信をなくしていた線が、すらすらと描けた。
その日の夕方、私は描き上げたばかりの絵を持って、一階の作業場に降りた。律さんは、また別の誰かの家具に、鉋をかけていた。私の気配に気づいて、振り返る。
「律さん。これ、見て」
「……椅子の絵?」
「うん。あなたが直してくれた、おばあちゃんの椅子。今度の絵本に、出すことにしたの」
律さんは、私の絵を、長いあいだ見ていた。それから、いつかみたいに、目尻に皺をよせて、やわらかく笑った。
「……いい絵ですね」
「でしょう。座ったら、ちゃんと描けたんです。律さんのおかげ」
それからの私は、締め切りで煮詰まると、やっぱり一階に降りる。お茶は、相変わらず二人分。木屑の匂いのする作業場の隅で、彼の手元をスケッチしながら、私たちは、ぽつぽつと言葉を交わす。
無口な家具職人と、無口なイラストレーター。
うまく喋れない二人の時間は、雨の音と、木を削る音と、飴色の椅子の上で、ちゃんと、ひとつに重なっている。
― 終 ―