深夜の三時って、病棟が一番静かになる時間なんですよ。
ナースコールも鳴らない。モニターの音だけがピピ、ピピって規則正しく鳴ってて、点滴の交換も一段落してて、患者さんもみんな寝てる。冬だと窓の外は真っ暗で、たまに救急車のサイレンが遠くを通り過ぎるくらい。あの静けさは、多分この仕事してる人にしかわからないと思う。
私はそこで、いつも給湯室でコーヒーを淹れる。粉の量をちゃんと計ってるつもりなのに、なぜか毎回、出がらしみたいに薄くなる。同僚には「ノゾミのコーヒー、色つき白湯だよね」ってずっと言われてる。否定できない。
これは、そんな薄いコーヒーを、文句を言いながら毎回飲み干してくれる人ができた話です。
自己紹介が遅れました。27歳、内科病棟の看護師4年目。夜勤は月8回のシフト制。彼氏いない歴3年、恋愛経験は学生時代に1人だけという、まあまあ奥手な人生を送ってます。患者さんのことはこまめに気にかけるくせに、自分の体調とか肌荒れとかは平気で後回しにするタイプで、夜勤明けの自分の顔って、正直鏡で直視できないです。ファンデーションでどうにかなるレベルじゃない。
その人——当直医の先生——が病棟に赴任してきたのは半年前でした。消化器内科。名前は覚えてたけど、最初のうちはただの「新しく来た先生」でしかなかった。
初めて言葉を交わしたのは、明け方の急変対応のときでした。受け持ちの患者さんの容態が急に悪くなって、先生が病棟に降りてきて、点滴ルートを取って、指示を出して、家族に説明して。ひと通り落ち着いたのが午前四時前くらい。処置室から出てきた先生の顔は疲れきってて、無精ひげも伸びてて、正直かなりおじさんくさかった。でも指示は最後まで的確で、慌ててなかった。
私は何も考えずに、給湯室で淹れたコーヒーを差し出しました。
「……薄っ」
一口飲んで、開口一番それでした。失礼だと思う。でも先生は文句を言いながら、結局最後まで全部飲み干して、マグカップを返してくれました。
「すみません、いつもこうなんです」
「うん。まあ、いい。ありがとう」
それだけの会話でした。名前も知らなかった。ただ、次に夜勤で当直と重なったとき、先生がまたナースステーションに降りてきて、私が何も言わずコーヒーを出したら、当たり前みたいに受け取って飲んでいったんです。
それから、シフトが重なるたびに、深夜三時に薄いコーヒーを出すのが習慣になりました。
雑談は毎回微妙に噛み合いませんでした。先生は口数が少ないくせに、たまに冗談を言おうとしてくるんですけど、これがことごとくスベる。「看護師さんって夜行性動物みたいだよね」とか言われても、こっちは真顔で「はあ」としか返せない。でも患者さんの申し送りとか、こっちの報告は、絶対に最後まで聞いてくれる人でした。話の途中で切られたことが一度もない。それって、地味にすごく大事なことなんですよね、この仕事してると。
ある日、同僚に給湯室でニヤニヤされました。
「ノゾミと先生さ、医局で『三時の薄いコーヒーの人たち』って呼ばれてるよ」
(え、そんな呼ばれ方されてるの、私たち)
その日から、なんとなく先生のことを意識するようになりました。当直の日は無意識にシフト表を確認するようになったし、コーヒーを淹れる濃さを気にするようになったし(結局薄くなるんですけど)。自分でもわかりやすいなと思いました。
決定的だったのは、私が受け持ってた患者さんを看取った夜のことでした。80代のおばあちゃんで、最期はご家族に囲まれて穏やかに旅立たれたんですけど、私はどうしても気持ちの整理がつかなくて、申し送りの声が何度も詰まりました。それでも先生は急かさずに、最後まで黙って聞いてくれた。
帰り際、給湯室の前で、先生が立ち止まりました。
「あんたの薄いコーヒー、あれくらいがちょうどいい夜もあるよ」
それだけ言って、先生は帰っていきました。私は給湯室に一人残って、ちょっと泣きました。コーヒーが薄いことをこんな風に言ってもらえるなんて思ってなかったから。
でも、いいことばかりじゃなかったんです。
その少し後、休憩室で同僚から聞かされました。
「あの先生さ、前の病院で看護師さんと揉めて異動になったらしいよ」「離婚したばっかりで、手が早いって噂もあるし」
私は素直にそれを信じてしまいました。信じたくなかったけど、信じるほうが自分を守れる気がしたんだと思います。それから当直の日でも、なんとなくコーヒーを出すのをやめました。給湯室に行くタイミングをずらしたり、他のスタッフに頼んだり。
先生は何も聞いてきませんでした。それが逆に効きました。何も言われない方が、こっちが勝手に気まずくなる。
そのまま二週間くらい経った、2月の大雪の日でした。
その日の夜勤明け、外に出たら世界が真っ白でした。始発から電車が全線ストップしてて、駅の掲示板は「運転見合わせ」ばっかり。タクシー乗り場には長蛇の列。ロビーで立ち往生してたら、当直明けの先生と鉢合わせしました。
「電車、動いてないんだって?」
「はい……全線止まってるみたいです」
先生も帰れないみたいで、二人並んで途方に暮れました。タクシーは全然捕まらない。そのうち先生がぽつりと言いました。
「最近コーヒーくれないの、それが理由?」
図星でした。何も言えずにいたら、先生が続けました。
「揉めたのは前の病院の別の医者。俺は後輩の看護師さんが辛い目に遭ってるの見て、代わりに異動願い出しただけ。離婚は……まあ、それは本当。でも手が早いってのは心外だな」
黙ってる私に、先生がちょっと視線を逸らしながら続けました。
「医局であんたのこと『三時の薄いコーヒーの人』って呼んでた。……ずっと待ってたんだよ、あれ」
不器用な言い方でした。でも、それが精一杯の告白だっていうのは、なんとなくわかりました。
噂って、ほんとに雑に伝わるんだなと思いました。私は自分の浅はかさが恥ずかしくて、ちゃんと謝りました。
「すみません、勝手に信じて、コーヒーやめて」
「別にいいけど。……とりあえず、うち来る? 歩いて10分だし」
寒さと気まずさと、あと単純に帰れないという現実が重なって、私は先生のマンションに避難することになりました。
先生の部屋は病院から徒歩10分の古い1LDK。暖房の効きが悪くて、部屋の隅々まで本と学会誌が積んであって、生活感というより「仕事がそのまま住んでる」みたいな空間でした。先生が淹れてくれたコーヒーは、今度は逆に濃すぎて、正直あんまり飲めなかった。
「先生の、逆に濃すぎません?」
「え、普通だろ」
「普通じゃないです」って笑いながら、こたつに二人で入りました。雪の音って本当に静かで、外の音が全部消えて、部屋の中に私たちの声しかない感じでした。当直明けのハイになったテンションのまま、ぽつぽつと話しました。仕事のこと、前の病院のこと、離婚のこと。先生は口数少ないなりに、ちゃんと本当のことを話してくれてる感じがしました。
こたつの中で、肩が触れました。
どちらからともなく、顔が近づいて、キスをしました。
先生の手が服の中に入ってきて、冷たくて、思わず変な声が出そうになりました。
「手、冷たくてごめん。……当直明けって末端から死ぬんだよ」
こんな時にまで冗談がスベってて、逆に力が抜けました。でも私の頭の中は正直パニックでした。(夜勤明けでシャワーも浴びてない)(下着、今日一番地味なベージュのやつだ)とか、そんなことばっかり考えてしまって、全然キスに集中できなかった。
「あの、シャワー……」
言いかけたら、先生がさらっと返してきました。
「俺も当直明けで同条件だから」
それを聞いて、笑ってしまいました。確かにそうだ。お互い様だ。おかしいくらい力が抜けて、そこからはもう自然に体が近づいていきました。
先生の指が、ニットの中で背中のホックを探り当てました。焦らず、確認するみたいに一度手を止めて、私の顔を見てくる。それがまた恥ずかしくて、目を逸らしてしまいました。もう一度キスをして、今度は舌が絡んで、指先が肌をなぞる感触に、変な声が漏れました。(当直明けなのに、指だけあったかい)なんてどうでもいいことを考えてしまう自分に呆れました。
ベッドに移動して、服を脱いでいく途中、先生が鞄の中をごそごそ探し始めました。
「ちょっと待って……どこいった」
沈黙が続きました。鞄の奥から財布、学会の名札、また財布、みたいなものが次々出てきて、私はベッドの上で膝を抱えて待ってました。(これはこれで気まずい)と思いながら。ようやく見つかったコンドームの箱を見て、二人でちょっと笑いました。
正常位で、ゆっくり挿入されました。痛みはなかったけど、3年ぶりの体は思ったより固くて、うまく力が抜けませんでした。
「大丈夫?」って先生が聞いてきて、「大丈夫です」って答えたんですけど、正直、頭の中は「当直医と看護師とか、ベタすぎて漫画かよ」「もし職場にバレたら異動させられるのは私の方だ」みたいな考えでいっぱいでした。快感どうこうより先に、そっちの逡巡が勝ってる自分に呆れました。
途中で、右のふくらはぎが攣りました。
「痛っ、ちょっと待ってください、足」
思わず本気の声が出て、先生が慌てて動きを止めて、二人で足のマッサージをする羽目になりました。真剣な顔で「こむら返りって足首反らすといいらしい」とか言ってくる先生が、なんか変にツボに入って、痛いのに笑ってしまいました。
一回落ち着いてから、今度は後ろから抱きしめられる形で、ゆっくり再開しました。先生の腕は見た目より筋張ってて、点滴のルート確保でずっと手を使ってきた人の腕だなと思いました。ゆっくりで、さっきよりは力が抜けて、体の芯のほうがじんわり熱くなっていくのがわかりました。
最後はまた正常位に戻って、先生が私の顔をちゃんと見ながら動いてくれました。それが逆に恥ずかしくて、目のやり場に困りました。
「……もう、出そう」
「いいです、そのまま」
短く息を吐いて、先生が動きを止めました。二人ともそのまま、しばらく動けませんでした。
そのあとのことは、あんまり覚えてないです。二人とも夜勤明け・当直明けの限界だったんだと思います。汗も拭かないまま、気づいたらベッドの上で並んで寝落ちしてました。
目が覚めたら、外はもう夕方でした。カーテンの隙間から橙色の光が差し込んでて、隣で先生がまだ寝てて、私は猛烈な気まずさに襲われました。(何やってるんだろう、私)って、布団の中で一人で頭を抱えました。
先生も目を覚まして、しばらく気まずい沈黙が続いたあと、私はつい口を滑らせました。
「夜勤明けにこんなことしてるの、日本中探してもうちらくらいだと思います」
「否定できないな、それ」
そんなくだらないやり取りで、少しだけ空気がほぐれました。
シャワーを借りることにしたんですけど、当然、替えの下着なんてありません。仕方なく、先生が出してくれたスウェットの上下を借りました。ぶかぶかで、袖を何回も折り返しました。玄関には、昨日雪で濡れた私の靴下が、律儀に洗濯バサミで干してありました。それを見た瞬間、なんだか一気に生活感が出てきて、変に恥ずかしくなりました。
先生がまた、濃すぎるコーヒーを淹れてくれました。
「これ、やっぱり濃すぎます」
「じゃあ、あんたの薄いのと混ぜればいいんじゃない」
そんな軽口を交わしてるうちに、なし崩し的に、また体が近づいていきました。借りたスウェットのまま、こたつの横で二回目が始まりました。
一回目みたいな「信じられない」って感覚は、もう不思議となくなってました。今度は素直に体を預けられて、自分でも驚くくらい甘えた声が出ました。試しに私から上に乗ってみたんですけど、リズムがまったく取れなくて、腰の動かし方がぎこちなくて、先生に「下手だな」って笑われました。
「うるさいです、この体勢、初めてなんですから」
「うん、知ってる。かわいい」
結局、下から抱き寄せられる形になって、二回目はそのまま終わりました。慣れなさと、あと自分の中に芽生えた「この人を独り占めしたい」みたいな気持ちに、自分で一番驚いてました。
雪はその日の夜には止んで、翌朝には電車も動いてました。帰り際、先生が「次の夜勤いつ?」って、やけに事務的に聞いてきました。答えながら、電車の中で一人でにやけてしまって、隣に座ってたおばさんに不審な目で見られました。
そして翌週の夜勤。深夜三時のナースステーションは、いつも通り静かでした。
急変対応を終えた先生が、何事もなかった顔で降りてきました。私はいつも通り、給湯室で淹れた薄いコーヒーを差し出しました。
「薄っす」
「先生のは濃すぎるんだよ」
「……割ればちょうどいいんじゃない」
先生はそれだけ言って、マグカップを最後まで飲み干して、また病棟の方へ戻っていきました。
私は空になったマグカップを片手に、次の当直がいつになるか、シフト表をこっそり確認しました。