三十四歳、婚活を全部やめた年に、隣の席のバツイチ同僚から人生で一番の告白をされた話

三十四歳の三月、私は婚活アプリを三つとも退会しました。

正確に言うと、退会ボタンを押すのに二時間かかりました。理由を聞かれる画面で「他で出会いがあったから」を選んだ自分に、誰も見てないのに笑ってしまいました。他で出会いなんて、あるわけないのに。

「35歳までに結婚する」って、いつからか自分の中でルールになってて、それに追い立てられるのに疲れてしまったんだと思います。その夜、実家の母に電話して言いました。

「私、一人で生きていくことにしたから」

母は数秒黙ったあと、「はいはい」とだけ言いました。娘の人生の一大決心を「はいはい」で流されたのは、地味にショックでした。

念のため私のスペックを書いておきます。155cm、食品卸の会社で経理事務を12年、彼氏いない歴5年、人生で付き合った人数は2人。婚活アプリのプロフィール文には「奥手です」「経験少ないです」と自分から先回りして書いていました。傷つく前に自分で自分を値引きしとく癖、たぶん一生治らないやつです。エクセルの関数には自信があるのに、自分の感情の集計だけはいつも合わないんですよね。

そんな私に、人生で一番の恋が始まったのは、その二週間後です。

四月一日、会社の組織改編で経理課と総務課が統合されました。パーティションが取っ払われたフロアに、総務と情シスを兼務する男性社員が異動してきて、私の隣の席に座りました。名前は藤枝さん。36歳。バツイチという噂。

初対面の挨拶が、これでした。

「藤枝です。よろしくお願いします」

以上。抑揚もなければ愛想笑いもなし。名刺交換のときも目を合わせたのは一瞬でした。

(感じ悪…)

隣の席がこの人って、正直テンション下がりました。声は低くて聞き取りやすいんですけど、無口っていうか無愛想っていうか。猫背でパソコンに向かってる姿は、話しかけるなオーラが常に出てる感じ。

でもこの評価、ゴールデンウィーク前の月次決算で、あっさりひっくり返ることになります。

事件は締め日に起きました。月次の会計システムが突然エラーを吐いて、数字が合わなくなったんです。経理にとって締め日のシステムトラブルは、心臓に悪いなんてもんじゃありません。私が青くなっていると、藤枝さんが黙ってこっちのモニターを覗き込んできました。

「ログ、見せてもらっていいですか」

そこから約二時間、藤枝さんはほぼ無言でコードとログを追い続け、最後に一言。

「バッチ処理の設定が二重になってました。直りました」

助かった、という言葉も出ないくらい安堵して、私は「ありがとうございます、本当に」しか言えませんでした。定時をとっくに過ぎて、二人でエレベーターに向かう途中、藤枝さんがコンビニの袋をこっちに差し出してきました。

「これ、良かったら。夕飯抜きになったんで、俺も買ったついでです」

袋の中身は、揚げ鶏でした。ファミチキじゃなくて、ローソンの揚げ鶏。

「あ、ありがとうございます……揚げ鶏派なんですね」

「一択です。ファミチキ派ですか」

「いや、私も揚げ鶏なんですけど、なんか、藤枝さんが揚げ鶏だとちょっと意外で」

「なんですか、それ」

くだらなさすぎる話で、二人して初めて声を出して笑いました。無愛想だと思ってた人の笑った顔、目尻に皺が寄ってて、思ってたより優しい顔でした。

(あれ、そんなに感じ悪い人じゃないかも……)

そこから少しずつ、隣の席の空気が変わっていきました。

五月、会社の花見の幹事を、私は課長からほぼ強制的に押し付けられました。目黒川沿いの場所取りなんて、社会人になって一度もやったことがありません。憂鬱な顔をしていたら、藤枝さんが何も言わずブルーシートを持って立ち上がりました。

「場所取り、俺も行きます。時間、早いほうがいいですよね」

土曜の朝七時、まだ人もまばらな目黒川沿いで、二人でシートを広げて場所を確保しました。待ってる間の雑談で、藤枝さんの離婚のことがぽろっと出ました。

「別に隠してるわけじゃないんですけど、31のとき、離婚してるんですよね。もう結婚はいいかな、正直」

「そう、なんですね」

なんでかわからないけど、その一言を聞いた瞬間、胸の奥がずしんと重くなりました。別に私に関係ある話じゃないのに。桜も咲いてるし気持ちいい朝なのに、なんでこんな気持ちになるのか自分でもわかりませんでした。

(なんで私が地味に落ち込んでんの……意味わかんない)

花見以降、金曜の帰りに藤枝さんと二人で飲むのが、いつの間にか習慣になっていました。中目黒の小さいバル、駅前の立ち飲み、ときどきコンビニのビールだけで公園のベンチ。特別な理由はなく、ただ「金曜だし一杯だけ」が続いていっただけです。

そんなある日、給湯室で後輩の女の子二人が話してるのが、トイレの個室越しに聞こえてきました。

「あの二人、絶対付き合ってますよね、藤枝さんと経理の先輩」

「わかる、金曜いつも一緒に帰ってるし」

(いやいやいや、ないない)

個室の中で、私は全力で内心否定していました。ないない、私たちはそういうんじゃない、ただの仲のいい同僚、たまたま馬が合うだけ。誰にも聞かれてないのに、心の中で何度も言い訳を重ねてました。

でも六月に入って、その金曜の習慣は、理由もわからないまま突然途切れます。

課長との雑談で、大阪営業所への出向の打診が藤枝さんに来ているらしいという話を聞きました。藤枝さんは、私には何も言いません。金曜の飲みも二週連続で流れました。「体調が悪いんで」というLINEだけが来て、それ以上のやり取りはありません。

(別に。隣の席の人がいなくなるだけの話でしょ)

そう自分に言い聞かせながら、私はなぜか有給を取って、一日中部屋で寝て過ごしました。何も予定がないのに、起きる気力がありませんでした。こんな状態になる理由、自分でも整理がつきません。

日曜の夜、藤枝さんからLINEが来ました。

「話があります。土曜、空いてますか」

(これ、絶対、転勤の挨拶だ)

一人でそう結論づけて、その夜はほとんど眠れませんでした。天井を見ながら、なんで自分がこんなに動揺してるのか、エクセルの関数みたいに整理しようとしても、うまく答えが出ませんでした。

土曜の昼、指定されたのは中目黒駅から歩いてすぐの、古い喫茶店でした。ナポリタンの匂いがする店内で、藤枝さんは先に来て座っていました。

注文したコーヒーが来て、しばらく無言の時間が続いたあと、藤枝さんが口を開きました。

「大阪の出向、断りました」

「え……そうなんですね。良かったんですか、それで」

理由を聞くと、長い沈黙がありました。テーブルの上のコーヒーが冷めていくのがわかるくらい、長い間でした。

「……ダサいんですけど。あなたがまだ隣にいる会社の方がいいと思ったんです、俺は」

人生で一番の恋の告白が、プロポーズでも夜景でもなく、ナポリタンの匂いのする喫茶店で起きるとは思っていませんでした。私は泣くより先に、なぜか鼻の奥がツンとして、鼻水が出てきて、慌てておしぼりで鼻をかむ羽目になりました。

「ちょっと、待って、なんで先に鼻水出るの私……」

「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃない、これ、告白されて泣くとこじゃないんですか、普通」

我ながら締まらない反応でしたが、藤枝さんは笑わずに、ただ黙って新しいおしぼりを店員さんに頼んでくれました。

喫茶店を出たあと、どちらから言い出したわけでもなく、そのまま藤枝さんの部屋に向かう流れになりました。中目黒駅から歩いて十分ちょっとの1LDK。玄関に入った瞬間の第一印象は、生活感のなさでした。物が少なくて、床にホコリひとつ落ちてなくて、独り暮らしの男の人の部屋というより、モデルルームみたいでした。

ソファに並んで座ったものの、会話がぎこちなくなりました。何を話していいかわからなくて、私は先に白状することにしました。

「あの、私、五年ぶりなんです。だから多分下手だし、正直、ちょっと怖いです」

言ってしまってから、こんなこと自分から言う女、印象悪いんじゃないかと思いましたが、もう遅かったです。藤枝さんは笑わずに、少し考えてから言いました。

「じゃあ、今日は途中でやめてもいいことにしましょう」

その言い方に、変な力みが抜けました。無理に頑張らなくていいんだと思えたら、覚悟みたいなものが決まった気がしました。

キスは、ソファの上で自然に始まりました。服の上から背中を撫でられて、ニットの裾から手が入ってきたとき、体が強張るのが自分でもわかりました。ブラのホックのところで手が止まって、しばらくもたついたあと、藤枝さんが小さく「あ、すみません」と言ったので、結局私が自分で外しました。

「……こういうの、久しぶりすぎて、私も何していいかわかんないです」

「俺もです、正直」

その一言で、ちょっとだけ肩の力が抜けました。

ベッドに移動して、藤枝さんが胸に直接触れてきました。手のひらで包むように揉んでから、指の腹で先端をなぞってきます。一つ動くたびに「平気ですか」と低い声で聞いてくるので、そのたびに小さく頷くしかありませんでした。指先が先端をかすめた瞬間、勝手に声が漏れて、自分の声じゃないみたいに上ずっているのが恥ずかしかったです。

「あ、っ……」

胸への愛撫のあと、藤枝さんの指が下着の中に滑り込んできました。ゆっくり確かめるみたいに動く指に、こっちの体の方が素直に反応していて、指が中に入ってくる感触に膝の裏がじわっと汗ばみました。五年間、誰にも触られてなかった体は最初どこか強張っていて、うまく反応できているのかもわからなかったんですけど、指の動きに合わせて、少しずつ強張りが解けていく感覚がありました。布団から、洗剤の匂いがしました。彼のシャンプーじゃなくて、ただの洗濯物の匂い。それだけのことが、なぜか安心材料になりました。

正常位で、先端があてがわれました。ゆっくり、少しずつ、藤枝さんが腰を進めてきます。

「ん、痛っ」

思わず声が出て、藤枝さんがすぐに動きを止めてくれました。

「大丈夫ですか。無理しないで」

「ごめんなさい、なんかタイミングが……本当ごめんなさい」

自分でも情けなくなるくらい謝り倒してしまって、変な空気が流れました。でも藤枝さんは焦らず、少し時間を置いてから、今度は浅いところで何度か馴染ませるように動いてから、少しずつ奥へ進んできました。圧迫感はあったけど、さっきみたいな鋭い痛みはなくて、体の内側が彼の形に合わせて開いていくのがわかりました。

腰を動かし始めた藤枝さんの体温と、耳元にかかる息の感触に、頭の中が混乱でいっぱいになりました。

(三十四歳の、結婚を諦めた年に、なんで人生で一番の恋がくるの……)

行為の途中、何度もそんなことを考えていました。快感より先に、信じられない気持ちの方が大きかったです。この人の一つひとつ確認してくる慎重さは、たぶん前の結婚で何か傷ついたことがあるからなんだろうなと、変なタイミングで気づいてしまいました。

途中、私が体勢を変えて上になってみたんですけど、繋がったまま腰をどう動かせばいいのか本当にわからなくて、そのまま固まってしまいました。

「……ごめん、これ、どう動くのが正解なんですか」

「正解とかないんで、大丈夫です」

そう言いながら、藤枝さんが下から支えるように腰を突き上げてくれて、繋がりが奥まで届く感覚に思わず声が出ました。結局また正常位に戻りました。「途中でやめてもいい」って言われてたのに、途中でやめたくないと思ってる自分がいることに、行為の最中に気づいて、それが一番びっくりしました。

藤枝さんの動きが少しずつ速くなって、低く息を詰めるような声が聞こえたかと思うと、腰の動きが止まって、体の奥で熱が広がる感覚がありました。果てたんだ、とわかったのは、少し遅れてからでした。

そのすぐあと、私は不意にふくらはぎがつりました。

「痛っ、ちょっと、足、足がつった」

「え、大丈夫ですか」

慌てて足を伸ばそうとする藤枝さんと、痛みで悶絶する私とで、なんともかっこつかない事後になりました。でも、その締まらなさで、二人して噴き出すように笑ってしまいました。

汗だくで気づいたことが、いくつかありました。コンタクトをつけっぱなしだったこと。メイク落としを持ってきていないこと。替えの下着がないこと。そして、藤枝さんの部屋の洗面所に、女性用のものが一切なかったこと。それに安心してしまう自分の心の狭さに、内心少し笑いました。

深夜、二人でコンビニまでメイク落としを買いに行きました。ついでに、揚げ鶏も二個買いました。深夜のキッチンで、パックを開けて分け合いながら食べました。

「これ、二回目ですね、私たちの揚げ鶏」

「数えてたんですか」

「数えるでしょ、普通」

翌朝、目が覚めると、後ろから藤枝さんに抱きしめられていました。昨夜あれだけ「平気ですか」と聞いてきた慎重さは薄れていて、そのまま横向きの体勢で浅く繋がってきました。少ししてから体を正面に返され、正常位のまま最後まで。動きは短くて、あっという間に終わったんですけど、そのぶん、代わりに私の方に「もっとちゃんと見てほしい」という気持ちが芽生えていることに、自分で驚きました。怖いという気持ちより、甘えたい気持ちの方が勝っている自分がいました。

終わったあと、藤枝さんは何も言わずに冷蔵庫からスポーツドリンクを出して、無言で渡してきました。その生活感のあるやり取りに、なぜか一番、二人でこれから続いていくんだなという実感が湧きました。

半年後の今、私は藤枝さんとの同棲準備をしています。実家に報告したとき、母は「あら、一人で生きていくんじゃなかったの」と大笑いしていました。私も一緒に笑いました。

先週の金曜、藤枝さんがコンビニ袋を持って帰ってきました。中身は揚げ鶏、二個。それと一緒に、婚姻届が入っていました。

「結婚はもういいんじゃなかったの?」

半分からかい半分本気で聞くと、藤枝さんは低い声で、いつもの淡々とした調子のまま言いました。

「揚げ鶏のついでなら、いいかなって」


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