正直に言うと、あの夜のことは細かいところがあんまり自信がない。
送別会の帰りで、結構飲んでたし、王子駅前のガード下で時間潰してたときの会話も、たぶんこう言った、ぐらいの記憶で書いてるところがある。それは先に断っておきたい。
時間を少し巻き戻す。
俺は34歳。北区王子にある中堅の印刷会社で、制作進行というのをやっている。営業と現場の板挟み、と言うと聞こえはいいが、要は両方から怒られる係だ。もう10年もこれをやってる。彼女いない歴は気づけば5年を超えていて、社内では「便利な先輩」で通ってる。(便利、で済まされる程度の男なんだよな、俺は)身長168cm、最近腹が出てきたのが地味に気になっていて、階段を上ると前より息が切れる。誰にも言ってないけど。
うちの制作部に、入社2年目の後輩がいる。俺が1年目のときの教育係だった子だ。
初日、彼女はガチガチの敬語で「本日からお世話になります、よろしくお願いいたします」と頭を下げてきた。(真面目そうな子だな)と思ったのも束の間、10分後には俺が作った進行表を覗き込んで、
「あの、この資料、順番おかしくないですか」
と真顔で言ってきた。初日である。教育係の資料の粗探しを、初日の10分後にしてくる新人を俺は他に知らない。
それ以来、彼女は俺にだけ遠慮がない。他の先輩や営業の前ではちゃんとした敬語なのに、俺相手だと途端に生意気になる。(なんで俺にだけこうなんだ)と思いつつ、まあ嫌な気はしなかった。仕事は要領がよくて、覚えも早い。ただ恋愛の話になると急に歯切れが悪くなるのが、教育係だった俺から見ると妙に気になっていた。
残業の夜、会社のある雑居ビルの1階には自販機が3台並んでいて、そのうちの1台に毎年10月頭から缶のコーンスープが並ぶ。俺はこれが好きで、22時を過ぎて仕事が長引くと1階まで下りて買う。ある年の秋から、なぜか彼女の分も一緒に買うのが恒例になった。理由は特にない。強いて言うなら、最初にたまたま多く小銭を持ってて、多く買っただけだ。
「先輩、今年もこれの季節ですね」
「おじさんの奢りはスープまでだぞ。ご飯は奢らない」
「誰も頼んでないです」
渡すとき、彼女は毎回「熱っ」と小さく言って両手で持ち替える。それも含めてもう5回目の秋だった。(俺、これ何回やってるんだろうな)と思いながらも、次の年もまた同じことをしていた。
秋が深くなったある日、客先の色校正で彼女が確認漏れをやらかした。色味の差し戻しだったが、先方はそこそこ神経質な担当者で、電話口でかなり詰められた。俺は謝罪の電話を代わって、頭を下げて、なんとかリカバリーした。
その日の帰り、京浜東北線の中で彼女がずっと黙っていた。珍しく元気がない。
「先輩ってなんで怒らないんですか」
「怒れるほど偉くないから」
軽く返したつもりだった。彼女がそこで妙な顔をして黙った。(気にしてるんだな、悪いことした)くらいにしか、俺はそのとき思っていない。今思えばあれが最初の分岐点だったんだと思うが、当時の俺には見えていなかった。
11月に近い頃、彼女がぽつりと言った。
「先輩、今度、相談したいことがあるんですけど」
「いいよ、いつでも」と返したが、その週は部の飲み会やら別件の締切やらで流れてしまって、結局そのままになった。
同じ頃、給湯室の前を通りかかったとき、営業の若手――26歳、顔がよくて社内でも評判の男――と彼女が親しげに話しているのを見た。彼女が笑っていた。左の八重歯が見える、あの笑い方で。
(相談って、あいつのことだろうな)
勝手にそう確信した。俺の頭の中では、もうそういうことになっていた。教育係だった俺に、恋愛相談を持ちかけるつもりなんだろう、と。
俺はそのあたりから、少しずつ距離を取り始めた。自分でもわかるくらい、露骨に。
コーンスープも、買わない日が増えた。
「今日は先に帰るわ」
そう言って、1階の自販機に寄らずに帰る日が続いた。34にもなって10個下の後輩相手に何を意識してるんだと自分でも思うが、(気を遣わせる前に俺が身を引くべきだよな)というのが当時の結論だった。彼女の様子が明らかにおかしくなっていったのは、たぶんこのあたりからだ。返信が遅くなる、目を合わせない、雑談が減る。だが俺はそれを「気を遣わせてしまってるな」としか受け取らなかった。自分から蒔いた種にまるで気づかず、水をやり続けていたことになる。
11月頭の金曜、また同期の送別会があった。二次会が終わって解散したとき、気づけば彼女と二人だけが駅に向かう方向が同じだった。
王子駅に着いたところで、目の前で電車のドアが閉まった。次の終電まで20分近く間が空くという。
「……次でいいですよね」
「だな」
ガード下のベンチに二人で座って、時間を潰すことになった。気まずい沈黙が続いて、俺はなんとなく自販機に目をやった。あの自販機だ。コーンスープが並んでる、いつもの。
「……買うか」
久しぶりに2本買って、1本を渡した。
「熱っ」
その一言に、なぜかちょっとほっとした自分がいた。(変わってないんだな)と思ったのを覚えている。
彼女は缶を両手で包んで、湯気の向こうでしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「先輩。歳の差って、関係ありますか」
来た、と思った。相談ってこれか、と。
俺は完全に、営業の若手のことだと思い込んでいた。あいつと彼女は8つ差だ。10個下の後輩が、8つ上の男に告白するかどうか悩んでる。そういう相談だと信じて疑わなかった。
「関係ないだろ、そんなの。10歳差だろうが、好きなら行けよ」
自分で言っといてちょっと大人げつけすぎたかな、とも思ったが、後輩の背中を押すいい先輩のつもりだった。
彼女はしばらく缶を握ったまま黙っていた。それから、缶を握った手をぎゅっと固めるようにして、俺の袖を掴んだ。
「じゃあ、行きます」
「……俺?」
一瞬、何が起きたのか本気でわからなかった。頭の中で「あいつへの相談」の話がまだ続いていたから、袖を掴まれた事実と目の前の彼女がうまく繋がらない。
「先輩以外に誰がいるんですか」
「いや、給湯室で営業の……」
「あれは別件です。というか、なんですかそれ」
説明されるほど恥ずかしくなる勘違いだった。俺はしばらく口を開けたまま固まっていたと思う。彼女がそんな俺を見て、少し笑った。あの、八重歯の見える笑い方で。
終電を逃したのは俺たちのほうだった。というより、逃す前提で彼女は動いていた気がする。今思えば。
送っていく流れになって、東十条の彼女の家までついていった。1Kの部屋。「送るだけだから」というのは、玄関に着いた時点でもう建前として崩れていた。
「あの……上がってもらっても、いいですか」
さっきまで俺の袖を掴んでいたのと同一人物とは思えないくらい、声が震えて敬語に戻っていた。俺はまだコーンスープの空き缶を捨てそびれて、玄関でずっと握ったままだった。
部屋に上がって、玄関先で顔を寄せた瞬間、鼻がぶつかった。
「痛……すみません」
「いや俺が悪い」
情けない出だしだったが、二度目はちゃんと重なった。
部屋のベッドはシングルで、いかにも一人暮らし用の狭さだった。座ると軋む。彼女が着ていた、いつものベージュのカーディガンのボタンを外そうとして、俺は手間取った。ボタンが小さくて、指がうまく動かない。
「不器用すぎません?」
彼女が笑いながら自分で外した。(10個下に手際で負けてる俺)と内心思いつつ、笑うしかなかった。
カーディガンの下、服の上から胸に触れると、彼女が小さく息を吸った。
「あの、電気……消してもらっても」
言われた通り消灯した。ブラの上から触って、それから直接。Cカップというやつなんだろう、手のひらに収まりきらないくらいの柔らかさがあった。(本当に今これやってるのか、俺が)という現実感のなさがずっと頭の隅にあった。10個下、教育係だった相手、この状況で何やってるんだ俺は、という自問が消えない。
彼女の手が俺のほうに伸びてきたが、緊張のせいか反応が鈍かった。34にもなって、と情けなくなりかけたとき、彼女がふっと笑った。
「先輩でもそうなるんですね。……ちょっと安心しました」
その一言でなぜか力が抜けた。安心させてどうするんだ、とツッコみたくなったが、実際それで緊張が緩んだのは事実だった。
ゴムは彼女の引き出しの奥から出てきた。未開封の箱。買った理由は、聞けなかったし、聞かなかった。
彼女が仰向けになって、脚を開く。正常位でゆっくり入っていく。
「ん……」
痛がっているわけではなさそうだが、息を詰めるタイプらしく、表情が固い。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「痛くない?」
「聞きすぎです」
怒られた。狭いベッドで肘が壁にぶつかりながら、ゆっくり動く。彼女の呼吸が少しずつ変わっていくのがわかる。
「先輩、あの……上、代わっていいですか」
体勢を変えて、彼女が上になった。騎乗位というやつだ。動き出すと、彼女の口調がだんだん崩れていくのがわかった。
「……先輩」
「先輩って呼ぶの、今だけやめていいですか」
そこで完全に、俺の中の何かが飛んだ。10歳差とか教育係だったとか、そういう理屈が全部どこかに行った。
「悪い、そろそろ……」
長くは持たなかった。情けないが本当だ。
「ごめん、先に」
「……いいです、初めてなんですから、それくらい」
初めて、という言葉の重さに、行為の後になってようやく気づいた。
汗だくで、狭いシングルベッドに二人。腕が痺れて感覚がなくなった。彼女のティッシュ箱が空だったので、トイレットペーパーで代用した。生活感がやたらリアルで、それが逆に「本当にあったことなんだ」という実感につながった。
明け方、まだ薄暗い中で、彼女が背中に額をくっつけてきた。
「……先輩」
最初から敬語がない。甘え方も、さっきまでとは違う質のものだった。二度目は、言葉少なに、ただ抱き合う時間が長かった。(これは夢じゃないらしい)というのが、そのときの実感だった。
朝、昨日のシャツをもう一度着るのは想像以上に気まずい。彼女は冷蔵庫を開けて、卵と米しかないことに本気で落ち込んでいた。
「卵かけご飯しか出せないです、すみません」
「いや十分だよ」
駅までの道、なんとなく半歩分ずれて歩いた。手を繋ぐでもなく、離れすぎるでもなく。改札の前で、彼女がふっと真顔に戻った。
「月曜、普通にしててくださいね」
律儀に敬語だった。
月曜、いつも通り残業になった。22時過ぎ、1階に下りると、彼女が自販機の前で先にコーンスープを2本買って待っていた。俺の分まで買って。
「はい」
1本を押しつけられて受け取る。
「歳の差、やっぱり関係なかったですね」
「熱っ」
いつもの一言が、今日はちょっと違う意味を持って聞こえた。
これから、二人にとって最初の冬が来る。