12月の金曜、夜7時。大宮駅東口を出てすぐの焼き鳥屋、カウンターの端っこに座っている。
これから会う人のことを、私はよく知らない。知らないことになっている。
左手の薬指から指輪を外して、コートのポケットに突っ込んだ。もう何十回もやってることなのに、指の付け根がやたらすーすーして落ち着かない。
「お連れ様、まだですか」って若い店員さんに聞かれて、「あ、はい、もうすぐ来ると思います」って答える。この後に「夫です」とは絶対に言わない。それが今夜のルールだから。
7時5分。ガラス戸が開いて、猫背の男の人が入ってくる。三年前から変わらない、色の褪せた黒のダウン。(あ、来た)って思う。でも顔には出さない。今夜だけ、初めまして、のふりをする。
「あの、すみません、ミナミさんですか」
その人は私の前まで来て、ちょっと頭を下げた。声が微妙に上ずってる。
「あ、はい……サトウさん、ですよね」
「はい。サトウです。今日はお時間いただいて、ありがとうございます」
初めまして、初めまして、って二人で頭を下げ合う。八年連れ添った夫婦が、月に一度、こうやって他人のふりをする。うちはそういう夫婦だ。
種明かしをすると、サトウさんは私の夫だ。旧姓ミナミの私と結婚して八年目、下の名前は望(のぞむ)。三年前から仙台の工場に単身赴任してて、自動車部品メーカーの管理職として、月に一度、金曜の夜の新幹線でしか帰ってこない。
最初の一年は、電話もLINEも「了解」「うん」「わかった」しか返ってこなかった。用件だけの連絡。たまの帰宅の夜は、二人でテレビをつけっぱなしにして、その音だけが流れる家になった。会話がないまま、営みなんてもっとない。数えたら、赴任前から丸二年、私たちは一度も体を重ねてない。
三十六歳。夫しか知らない。恋愛経験、夫だけ。それだけならまだいいけど、その夫とすら、どう距離を詰めていいかわからなくなってる自分が、正直、情けない。奥手とか経験が少ないとか、そういうレベルじゃなくて、「唯一知ってる人」とすら普通に喋れなくなるってどういうことだよって、自分で自分に突っ込みたくなる。
この「儀式」が始まったのは、二年前の冬だった。
あまりに気まずい夕食の途中だった。望が仙台から帰ってきた夜、二人でこたつに入って、お互い携帯ばっかり見てて、なんの会話もなくて。私は半分やけになって、こう言った。
「ねえ、いっそさ、『初めまして』からやり直す?」
冗談のつもりだった。半分本気の、投げやりな冗談。望は「は?」って顔してたけど、何も言わなかった。
その翌月。望が本当に、駅前の居酒屋を予約してた。びっくりした。当日、待ち合わせ場所に現れた望は、偽名の名刺まで作ってきて、私に向かって「初めまして、サトウと申します」って頭を下げてきた。
(マジでやる人?)って思ったし、最初の回はお互い緊張しすぎて笑いを堪えられなくて、店員さんに変な目で見られて、まともに会話もできずに終わった。でも、その帰り道。氷川参道の暗い道を歩いてるとき、望が私の手を取った。三年ぶりに、手を繋いだ。
それがきっかけで、月に一度の儀式になった。
ルールは三つ。店では偽名を使うこと(望は「サトウさん」、私は旧姓の「ミナミ」)。夫婦の話は一切しないこと。どっちからも先に触れないこと。
不思議なことに、偽名のサトウさんは、素の望よりずっと饒舌だった。仙台の話をたくさんしてくれる。国分町の牛タン屋がいつも行列で並ぶのが嫌だとか、寮の給湯器が去年壊れて三日間水シャワーだったとか、そういうどうでもいい話を、サトウさんは楽しそうに話す。私はその話を、望本人からは一度も聞いたことがない。
(本人だけ気づいてないんだろうな)って思う。望はきっと、これを「ちょっとしたごっこ遊び」だと思ってる。でも私は違う。この月に一度の夜だけを支えにして、あとの二十九日を生きてる。そのことに、望はたぶん、気づいてない。
今夜のサトウさんは、様子がおかしかった。
口数が少ない。ハイボールばっかり進んで、氷が減る音だけがやたら耳につく。いつもなら聞いてもいないのに仙台の話を勝手に始めるのに、今日は私が話を振っても「へえ」「そうなんですね」しか返ってこない。
私は今夜用に用意してた作り話(今日の昼、合コンに誘われて断った、っていうしょうもない話)をしてみたけど、サトウさんはそれにも「そうですか」って言うだけだった。
(何かあったのかな)(仕事?)(それとも……)って、いろんな想像が頭をよぎる。でも聞けない。それを聞くのは、夫婦の話をしないっていうルール違反になる気がして。
会計のとき、望がぽつりと言った。
「あの、ミナミさん。このあと、少しいいですか」
心臓のあたりがひやっとした。この儀式で、こんな台詞を聞いたのは初めてだった。「いいですか」なんて、まるで本当に、これから何か重大なことを言い渡されるみたいで。
氷川参道を歩いてる帰り道、望が急に立ち止まった。
「なあ。この待ち合わせ、もうやめないか」
指先が一気に冷たくなった。頭の中で、最悪の想像がどんどん膨らんでいく。(飽きられた)(仙台に誰かいるんだ)(きっと離婚の切り出し方を練習してたんだ、今夜のこの感じは、そのための予行演習だったんだ)。
先回りして諦める癖が、こういうときだけ本領を発揮する。傷つく前に、自分で先に諦めてしまう。
「……いいよ、別に」
自分でもびっくりするくらい、あっさりした声が出た。望は何か言いかけて、でも結局何も言わずに、また歩き出した。私も黙って隣を歩いた。玄関に着くまで、一言も喋らなかった。
家に入って、灯油ストーブをつけた。芯が温まるまでの、あの独特の匂いがする時間。居間はまだ寒くて、二人ともコートを脱がずに立ってた。
沈黙に耐えられなくなったのか、望が先に口を開いた。
「あのさ。他人のふりをしないと、お前に触れないのが、ずっと情けなかったんだ」
え、って思って顔を上げた。望は私の顔を見ないで、ストーブの青い炎だけ見てた。
「サトウさんのときは、なんでか喋れるんだよ。仙台の牛タン屋の話とか、寮の給湯器の話とか、どうでもいい話ならいくらでも出てくる。なのに、望としてお前の前に立つと、何も言えなくなる。それが嫌で、ずっと」
「もうごっこは嫌なんだ。素の俺のままで、お前とやり直したい」
しばらく声が出なかった。喉の奥が詰まって、変な声しか出せそうになかった。
「……私も、二年間、言えなかったことがある」
言葉を選びながら、ゆっくり話した。あなたが仙台に行ってから、この月一の夜だけを数えて生きてたこと。三十日のうち二十九日は、正直、寂しくてどうしようもなかったこと。でもそれを言ったら重いと思われる気がして、ずっと飲み込んでたこと。
「すれ違ってたのは、たぶん気持ちじゃなくて、伝え方だけだったんだね」
望が私を見た。目尻に皺が寄る、あの笑い方じゃなくて、今にも泣きそうな顔だった。三十八歳の男の人がこんな顔するんだ、って初めて知った。
儀式なしの、素のままのキスだった。結婚八年目なのに、初めてキスするときみたいにぎこちなくて、鼻の頭がぶつかった。
「痛っ……ごめん」
「うちら、こんなんだったっけ」
笑いながら、もう一回。今度はちゃんと重なった。
寝室の暖房はついたばかりで、まだ全然温まってない。二人で震えながら布団に潜り込んだ。「寒いから」って言い訳にして、体をぴったりくっつける。
「寒いから。寒いだけだから、もっとくっついて」
自分で言っといて、なんか言い訳っぽいなって思ったけど、望は素直に腕を回してきた。セーターを脱がせようとして、望の指が袖口に引っかかる。
「あ、待って、抜けない」
「引っ張りすぎ、腕もげる」
二年ぶりに肌が触れる感覚に、体が勝手に強張った。望の手のひらが、私の背中と腰をゆっくり撫でる。温めるみたいに、何度も同じところを往復する。その手つきに、少しずつ力が抜けていった。
「痩せたな、俺」
望の背中に手を回すと、確かに骨が触りやすくなってた。自炊しても栄養が偏るんだろうな、って思う。
「私、逆にお腹だけ肉ついたよ。事務の仕事、座りっぱなしだから」
「別にいいだろ、それくらい」
そんなくだらない会話をしながら、お互いの体の変化を確かめ合った。三年でこんなに変わるんだ、って笑いに変えられたのが、ちょっと嬉しかった。
そのあと、望が体を寄せてきたけど、途中でうまくいかなかったみたいだった。
「……ごめん、緊張してる。八年目なのに、変だよな」
正直に言われて、逆にほっとした。私だけが緊張してるわけじゃないんだ、って。手と口で時間をかけて、もう一度望に触れた。急かさないで、さっきの布団の中の温め合いをもう一周するみたいに。しばらくして、望の呼吸が変わった。
布団を剥がせないくらい寝室が寒かったから、体位も自由が利かなくて、密着したままの正常位になった。挿入する瞬間、望が私の顔を覗き込んで、名前を呼んだ。
「……ミナミさんじゃなくて、ちゃんと名前で呼んでいいか」
「うん」
「美咲」
偽名じゃなくて、本名で呼ばれた瞬間、なんでか涙が出た。理由なんてうまく説明できない。ただ、二年間我慢してたものが、その一言でどっと緩んだ気がした。動きが一度止まって、望が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か、痛い?」
「ううん、違う。……なんでこんな遠回りしたんだろうって、思っただけ」
望が黙って、私の頭を撫でた。それからまた、ゆっくり動き出す。快感がどうとか、そういうのより先に、二年ぶりの感覚をどう扱っていいかわからない戸惑いのほうが大きかった。喉の奥がずっと詰まってて、脈が首筋のあたりでどくどく鳴ってるのがわかる。
途中で、抱き合ったまま体を起こして、対面座位になった。額と額をくっつけて、しばらくそのまま動かなかった。望の吐く息が白く見える気がしたけど、たぶん気のせいだと思う。部屋、まだそんなに温まってなかったから。
終わったあと、二人とも汗だくで、それなのに部屋は暑くなってた。皮肉なもので、さっきまで寒い寒いって言ってたのに、今度はストーブが効きすぎてる。
望が裸のまま台所に麦茶を取りに行って、「寒い寒い」って言いながら小走りで戻ってきた。
「廊下、まだ全然暖房入ってない」
「風邪ひくよ、パンツくらい履きなよ」
丸めたティッシュをゴミ箱に投げ入れながら、望が「シーツ、朝洗おうな」って言う。八年連れ添った夫婦の、こういう生活の会話が、今夜はやけに沁みた。
明け方、うっすら目が覚めたら、後ろから望に抱きしめられてた。
「新幹線、九時台のでいいかな」
「まだ寝てていいよ、時間あるし」
そのまま、後ろから短く二回目があった。さっきみたいに泣いたりはしなかった。ただ、遠慮がすっかり消えて、私のほうから望の手を自分の体に誘導してた。自分でもちょっと驚くくらい、素直に甘えられた。
朝、カーテンを開けたら、外は真っ白だった。大雪。テレビをつけたら、東北新幹線が昼まで運転見合わせって出てた。
望が会社に電話して、月曜の始発に変更する連絡をしてるのを、こたつに入りながら聞いてた。まる二日、ただの夫婦として過ごせるんだ、って思ったら、なんかちょっと笑えてきた。
月曜の朝、駅まで送っていった。改札の前で、望が言った。
「来月からは、待ち合わせなしで、まっすぐ家に帰るよ」
嬉しかったけど、ちょっとだけ寂しくもあった。あの偽名の饒舌なサトウさんに会えなくなるのは、正直ちょっと惜しい気もして。
「でも、たまにはサトウさんにも会いたいな」
望が一瞬きょとんとして、それから変な敬語で返してきた。
「では、ミナミさん。また来月」
改札の向こうに消えていく背中を見ながら、私は一人で笑ってしまった。相変わらず冗談が下手だ、この人。でも、そういうところも含めて、たぶん私はこの人としかやっていけないんだと思う。