荒川の土手っていうのは、一人で花火大会に来る29歳を全く庇ってくれない場所です。
去年は中止だった地元の花火大会——足立の花火——が、今年の7月最後の土曜日に復活しました。俺は屋台で買った缶ビールを片手に、土手の隅っこに体育座りで陣取ってました。周りはカップルか家族連れかグループばっかりで、単独行動は多分俺だけでした。
なんで一人で来たかは後で説明します。とりあえず先に言っておくと、彼女いない歴は4年です。
俺は築20年、2階建てのアパートの201号室に住んでます。ホームセンターの資材売り場担当で6年目、木材のカットと軽トラの貸出受付が主な仕事です。人混みは正直得意じゃないです。休憩室で「29にもなって花火大会に一人で行くやつ、いる?」って自分で自分に突っ込んでから家を出てきたくらいには、行くかどうか迷いました。
203号室に彼女——名前はまだ知らない——が越してきたのは半年前でした。ゴミ捨て場とか、近所のまいばすけっとで会うと会釈する程度の仲です。一度だけ、うちの店に彼女が来たことがあって、そのとき突っ張り棒を売りました。「耐荷重ってどれくらい見といたほうがいいですか」って聞かれて、俺は軽トラの貸出説明する時と同じ丁寧語で「収納する物の総重量プラス2割で見ていただくと安心です」とか答えた記憶があります。会話の実績としてはそれだけ。
あと、203号室に若い男が出入りしてるのを2回見たことがあって、(彼氏いるんだな、そりゃそうだよな)って勝手に納得してました。この件、後でひっくり返ります。
屋台エリアの仮設トイレの列に並んでたら、後ろから声をかけられました。
「あ、突っ張り棒の人だ」
振り返ったら、紺地に金魚柄の浴衣を着た203号室の彼女がいました。下駄で、左の小指に絆創膏が貼ってあるのが目に入りました。
「あ、どうも……203号室の」
「はい、203です。……一人ですか」
「はい。……そちらは」
「私も一人です」
気まずい沈黙が流れました。屋台の呼び込みの声と、遠くの太鼓の音だけが間を埋めてくれました。(誰か誘えばよかったのに、こういう時に限って言葉が出ない)結局、缶ビールを半分くらい飲み干してから、やっと言えました。
「じゃあ、その辺で……一緒に見ます?」
「いいですね」
土手に並んで座りました。距離は50センチくらい、でも隣に人がいるだけで景色が違って見えるのが不思議でした。
「たこ焼き買ってきたので、半分どうぞ」
「あ、すみません……いただきます」
彼女がタコ焼きのパックを差し出してきて、俺は割り箸で一個もらいました。まだ熱くて、口の中で少し泳がせてから飲み込みました。
「私、歯科助手やってるんですけど」
「あ、そうなんですか」
「その銀歯、もしかしてうちで入れたやつだったりして」
「いや、銀歯はないです……多分」
「残念」
彼女が笑うと、左側だけ八重歯が見えました。(この人、笑い方が左右対称じゃないんだな)とか、どうでもいいことを考えてました。下駄の鼻緒が擦れたのか、左足の小指の絆創膏が気になって見てたら、
「あ、これ? 下駄、履き慣れてなくて」
「大丈夫ですか」
「全然平気です。それより、もうすぐフィナーレ来ますよ」
連発の花火が始まって、音が全部重なって、隣に座ってる彼女が何か言ったのが聞こえました。でも花火の音にかき消されて、単語ひとつも拾えませんでした。
「え、なんて言いました?」
「……ふふ、また今度教えます」
なんて言ったのか、それから帰り道の間ずっと引っかかってました。
花火が終わって、土手から駅とは反対方向——アパートまで歩いて40分——の道に人が溢れました。一回目、屋台の角で彼女の浴衣の袖を見失いそうになりました。二回目、信号待ちの人だかりで完全に離れて、知らない人の肩をつかみそうになって慌てて手を引っ込めました。
三回目、コンビニ前の人混みで、今度は彼女のほうが俺の手首を掴んできました。
「はぐれちゃうから」
そのまま手のひらを合わせる形になって、指が絡みました。(人混みのせいだ。仕方ない。俺は悪くない)そう自分に言い訳しながら歩いてたんですけど、住宅街に入って人がどんどん減っていっても、どっちも手を離しませんでした。
手汗のことばかり気になって、内心(うわ、俺の手汗ヤバいことになってないか)ってそればっかり考えてました。彼女は特に気にしてる様子もなく、ただ手を握ったまま隣を歩いてました。
住宅街に入ると、花火の音はもう全然聞こえなくて、遠くで犬が吠えてる声とか、自分たちの下駄と靴の音しかしませんでした。探りを入れるつもりで、俺は聞きました。
「……彼氏さん、今日は一緒じゃなくてよかったんですか」
「え?」
「いや、203号室に、若い男の人が出入りしてるの見たことあって……」
「あー、あれ弟です。実家からの荷物運ばせてただけです」
(弟……? じゃあ彼氏いないってこと……?)頭の中を、半年間の思い込みがガラガラ崩れていく音がしました。
彼女はしばらく黙って歩いてから、ぽつぽつ話し始めました。
「私、この町に越してきたの、結婚式の3ヶ月前だったんです」
「え」
「相手が、式場のキャンセル料払うくらいなら別れようって。それだけの人だったんだなって、今は思ってます」
それ以上突っ込んで聞くのは違う気がして、俺は黙って隣を歩きました。繋いだ手に、彼女がちょっとだけ力を込めてくるのがわかりました。
アパートに着いて、201と203のドアの前で、二人とも棒立ちになりました。手はまだ繋いだままでした。
「あの……麦茶だけ飲んでいきます?」
「あ、はい」
「うちのベランダの角から、花火、ちょっとだけ見えるんですよ」
(もう終わってるのに)って思いましたけど、口には出しませんでした。多分、彼女もわかってて言ってました。203号室に上がるとき、下駄を脱ぐ段になって、初めて手が離れました。離れた瞬間、お互い妙な顔をしたのが自分でもわかりました。玄関にダンボールが積んであって、「洗面所」「本」とマジックで書いた文字が、半年経った今でもはっきり見えました。
麦茶を一杯飲んで、気まずい沈黙がしばらく続きました。冷房の効いた部屋で、汗が引いていく感じがしました。
「手、もっかい繋いでいい?」
「え」
「花火のせいにしていい? 私、ほんとは土手にいるときからこうしたかった」
言われるより先に、彼女の顔が近づいてきて、唇が触れました。帯を解こうとしたんですけど、資材売り場でロープの縛り方は嫌ってほど覚えてるのに、浴衣の帯の解き方なんて全然わかりませんでした。
「あの、これどうやって……」
「自分でやるから、見ないで……」
「あ、はい」
「……あ、やっぱ見てて」
その言い分の変わり方に笑いそうになりました。彼女が帯を解いて浴衣の前がはだけると、うなじのあたりから汗の匂いがしました。日焼け止めと混じった、ちょっと甘い匂いでした。
「シャワー……浴びたほうがいいかも、一日歩いたし」
「いや、このままがいいです。……匂い、嫌じゃないんで」
正直に言ったつもりだったんですけど、言ってから(今の、変な奴だと思われたかな)って焦りました。彼女は少し黙ってから、押し切られるみたいに俺の首に腕を回してきました。鎖骨のあたりに汗が浮いてて、そこに口をつけると、彼女が小さく声を出しました。胸に手を伸ばすと、見た目より柔らかくて、Cカップくらいのボリュームが手のひらに収まりました。繋いだままの手を、そのまま下着の中へ滑らせていきました。
ローテーブルを足で端に寄せて、夏用のラグの上に彼女を寝かせました。布団を敷く余裕なんて、お互いなかったです。
「ゴム……ダンボールのどれかに入ってると思う」
「え、探すんですか、今」
「『洗面所』って書いたやつ、多分」
未開封のダンボールを開けて、生活感丸出しの中から見つけたときは、色気もへったくれもありませんでした。正常位で、恋人繋ぎにした手はそのままにして、ゆっくり入れていきました。
「ん……」
彼女が握ってくる手の力が強くなった瞬間、緊張と4年ぶりというのが両方きて、俺は自分でも情けないくらい早く終わってしまいました。
「ごめん、早……」
「ふふ」
彼女が笑うと、また左だけ八重歯が見えました。責める感じじゃなくて、ただおかしそうに笑ってました。(これ、花火大会の魔法みたいなもんで、明日にはまたゴミ捨て場で会釈するだけの仲に戻るんじゃないか)そんなことを考えながら、繋いだ手だけはまだ離せずにいました。
扇風機の首振りの風が、汗ばんだ肌をなでていく中、二回戦は焦りじゃなくて、お互い確かめるみたいな感じで進みました。背面座位で、彼女の背中の汗が俺の胸にじんわり張り付いてきました。
「……朋樹くん」
名前を呼ばれて、一瞬止まりました。苗字でも「隣の人」でもなく、下の名前で呼ばれたのは初めてでした。
「え、いま」
「だめだった?」
「いや……全然」
(これ、夢じゃないよな)って、行為の途中なのにちょっと本気で疑いました。半年間、ゴミ捨て場で会釈しかしてなかった相手に、下の名前で呼ばれてる状況が、頭の処理速度に追いついてきませんでした。
途中、俺の左足がつって、「いてて、ちょっと待って」って情けない声を出したら、
「え、大丈夫?」
って言いながらも彼女も笑いを堪えられなくて、二人でしばらく悶絶しながら笑いました。(さっきまでの緊張はどこ行ったんだろう)って自分でも不思議になるくらい、笑ったら力が抜けました。繋いでる手だけは、体勢が変わってもどこかしらでずっと触れたままでした。
シャワーは交代で浴びました。脱衣所に俺の着替えなんてあるわけなくて、彼女が「これでよければ」って渡してきたのは、大きめのTシャツでした。(前の彼氏のやつだったらどうしよう)って一瞬身構えましたけど、胸元に歯科医院の名前とキャラクターがプリントしてあって、ノベルティだとわかってほっとしました。
彼女はしわくちゃになった金魚柄の浴衣をハンガーにかけて、汗を吸ったラグにファブリーズを吹きかけてました。生活感がすごくて、逆に落ち着きました。扇風機の前に座って麦茶のおかわりを飲みながら、ずっと気になってたことを聞きました。
「花火のフィナーレのとき、何か言ってましたよね。聞き返せなくて」
「ああ、あれ」
「なんて言ったんですか」
「『来年も一緒に見たいかも』って言った」
一瞬、返す言葉が見つかりませんでした。麦茶のグラスについた水滴だけ見てました。
翌朝、示し合わせたわけでもないのに、ゴミ捨て場で鉢合わせました。今までなら会釈だけで終わる場面でした。彼女がゴミ袋を持ってないほうの手を、すっと差し出してきました。
「ここからうちまで、はぐれるといけないので」
徒歩10秒の帰り道を、俺たちは手を繋いで歩きました。