好きになってはいけない人だと、わかっていた冬の話

私が生まれて初めて「人のものを欲しい」と思った相手は、三ヶ月後に結婚式を控えた会社の先輩でした。

自慢にもならないし、懺悔にもならない話だと思います。ただの経過報告みたいなものです。

当時27歳。身長154cm。神田にある中堅の印刷会社で制作進行をやってました。入社5年目。彼氏いない歴はそのまま5年で、大学のときに1人だけ付き合った人がいて、それきりです。「察しが悪い」「気が利かない」が私のほぼ枕詞で、営業さんに急かされるとテンパって変な愛想笑いをしてしまうタイプ。頼まれると断れないので、いつも進行の尻拭いを一番多くやらされます。深夜残業の担当も、気づけばだいたい私でした。この話も、たぶんその「察しの悪さ」のせいで拗れた部分があると思ってます。自慢できるような恋愛経験もないし、要領がいい方でもないので、これは本当にただの記録です。

意識し始めたのは11月でした。納期トラブルで、私は営業の先輩たちに詰められてました。「なんでこの色校、まだ出てないんですか」「進行、遅れてますよね」って。半分くらいは私のせいじゃなかったけど、その場で言い返す気力もなくて、ただ「すみません」を繰り返すだけでした。

そこに、同じ課の先輩が横から入ってきました。

「それ、発注書の日付を見てから言いましょうか」

低い声で、それだけでした。詰めてた人たちが黙って、その場はなんとなく流れました。

先輩は33歳。営業では一番社歴が長い方なのに、後輩を怒鳴りつけるところを見たことがありませんでした。誰かが取引先に強く言われてるときは、いつのまにか本人と壁の間にさりげなく立ってる、みたいな人でした。178cmで、肩幅がある割に線は細くて、コートが妙に似合うタイプ。声が低くて、電話越しでも聞き取りやすいのが地味に得な人だなと思ってました。顔がいいとかそういうのより先に、そっちが印象に残る先輩でした。

先輩に婚約者がいることは、課の全員が知ってました。3月に式を挙げるらしいって話も、とっくに回ってました。だから別にそのときは「優しい人だな」以上の感想は持ってなかったはずなんです。持ってなかったはず、なんですけど。

帰り際、自販機の前で呼び止められました。何も言わずに缶のコーンポタージュを渡されて、「お疲れ」とだけ言って先に帰っていきました。

(何、これ)

ぬるいコーンポタージュを両手で持ったまま、しばらく駅前で突っ立ってたのを覚えてます。

師走に入ると、年末進行で二人だけの深夜校了が続くようになりました。印刷は待ってくれないので、校了が23時とか0時とかになるのはこの時期は普通なんですけど、他のメンバーが順番に上がっていく中、なぜか先輩と私だけが最後まで残る日が続きました。ゲラを挟んで、どうでもいい話をする時間が日課になっていきました。「この見出しのフォント、絶対デカすぎですよね」「わかる、営業の趣味だと思う」みたいな、本当にくだらない話です。

「〇〇さんって、意外と毒舌ですよね」

「意外とって何ですか。普段からわりと毒舌ですけど」

「なんか、営業には敬語崩さないのに俺にだけ素っぽいですよね」

「気のせいです」

(気のせいじゃない。先輩の前だと猫かぶってる自覚はある。むしろ崩れてるほうが素)

校了明けの帰り道、神田駅までは本当は7分くらいなのに、私はわざと遠回りして10分の道を選ぶようになりました。理由は自分でもよくわかってました。ただ、認めるのが怖くて、しばらく「寒いから運動」って自分に言い訳してました。深夜のオフィス街って人がほとんどいなくて、コンビニの灯りだけが妙に眩しく見えるんですけど、その静かさが逆に居心地よかったんです。

12月の忘年会で、同期の女の子が私の耳元でこっそり言いました。「先輩の式、来年の3月らしいよ。相手の人、すごい綺麗な人なんだって」

「へえ、お似合いですね」

自分でもびっくりするくらい、するっと出ました。声のトーンも表情も、たぶん完璧でした。「気が利かない」私にしては上出来だったと思います。

そのあとトイレに行って、意味もなく手を洗い続けました。石鹸を2回もつけて、水が冷たくなるまで洗ってました。何かを流したかったんだと思うんですけど、何が流れたのかは今もよくわかりません。

(この気持ちは、今日で持ち帰って、家のゴミの日に捨てよう)

そう決めました。決めたはずでした。

1月の半ば、また深夜残業でした。校了紙を見ながら、先輩がぽつりと言いました。

「結婚って、するもんなんですかね」

冗談っぽい言い方でしたけど、笑ってはいませんでした。私は聞かなかったふりをして、ゲラの色校正の続きを見てました。でも、その一言だけが耳の奥に残って、しばらく取れませんでした。

その日の帰り道、遠回りのコースが10分から15分になりました。自分でもさすがに、これはもう「寒いから運動」では片付けられないなと思いました。

2月上旬、校了明けの23時に、記録的な大雪が降りました。山手線も中央線も全部止まって、営業の先輩が電話で確認してくれた駅前のビジネスホテルは3軒とも満室でした。神田はもともと出張族が多いエリアなので、こういう日は真っ先に埋まります。タクシーも配車アプリで見る限り待ち3時間超え。私のアパートは会社から歩いて12分。それしか選択肢がありませんでした。

「……うち、来ますか。何もないですけど」

言った瞬間、心臓のあたりがすうっと冷たくなりました。自分で言っておいて、自分が一番驚いてたと思います。

先輩は少し困った顔をしてから、「じゃあ、お言葉に甘えて」と言いました。雪の中を、二人でほとんど無言のまま12分歩きました。

築30年の私の部屋は、暖房がほとんど効きませんでした。ガス代をケチって設定温度を下げてたのがこんな日に裏目に出るとは思いませんでした。こたつと缶ビールを出して、二人で足を突っ込んで座りました。

「〇〇さんの部屋、意外と物少ないんですね」

「物欲がないんです。彼氏いない歴も長いので、飾る相手もいないですし」

自分で言っといて、地味に傷つきました。先輩は少し笑ってくれました。

先輩のスマホが震えました。画面を見て、少し廊下に出て、小さな声で話してました。戻ってきたときの顔が、さっきよりちょっと疲れて見えました。

「……やっぱ俺、始発まで漫喫探すわ」

そう言って立ち上がった先輩のコートの袖を、気づいたら掴んでました。紺色のウールの、冬のあいだずっと着てるコートです。

「今日だけは、雪のせいにさせてください」

自分の声とは思えないくらい、震えてました。先輩は少しの間、こっちを見てました。何も言わずに、また座りました。

こたつの上で、先輩の顔が近づいてきました。キスされました。ビールの味が少し残ってました。

(これ、いいのかな。いいわけないのに)

頭のどこかで冷静な自分がそう言ってましたけど、体は動きませんでした。セーターを脱がせ合ったとき、静電気がパチッと鳴って、二人で少し笑いました。「痛い」「私も痛かったです」みたいな、くだらないやりとりでした。

先輩は手と口で、丁寧に進めてくれました。指の動きも、口の使い方も、急かすところが一つもなくて、それがかえって怖かったです。私はどうしていいかわからなくて、ただ先輩のシャツの裾を握ってました。経験がほとんどないので、こういうとき何をすればいいのか本当にわからなくて、握ることしかできない自分が情けなかったです。暖房が効いてなくて肌が冷たくて、触れられた場所だけ体温がわかるみたいな感じがしました。指先が触れたところだけ、そこだけ体の中に電気がついたみたいに感覚がはっきりするんです。

(気持ちいいとか、そういうのより先に、これは一生引きずるやつだって、なんでそっちが先にわかるんだろう)

そんなことを考えながら、天井の電球の傘を見てました。先輩の名前も苗字のままで、指を入れられても、まだどこか他人事みたいに冷静な自分がいました。

先輩が財布からゴムを出したとき、ほんの少しだけ胸のあたりが重くなりました。誰のために持ってたんだろう、とは聞けませんでした。聞いたところで、答えが自分の欲しいものじゃないのはわかってました。

こたつの横の床で、正常位で試そうとしたんですけど、こたつ布団が邪魔で私の左足がつりそうになりました。「痛たたた」って情けない声を出してしまって、結局狭いシングルベッドに移動しました。

ベッドの上で、先輩がゆっくり入ってきました。狭い部屋なので隣室に音が聞こえないか気になって、それどころじゃないはずなのに、そっちにも意識が引っ張られてました。奥まで来たとき、痛みより先に「本当に入ってる」っていう事実の方に驚いて、しばらく声が出ませんでした。先輩が私の名前は呼ばずに、「大丈夫?」とだけ聞いてきて、私は「大丈夫です」より先にうなずくことしかできませんでした。

動き出すと、シングルベッドが軋む音が思ったより大きくて、二人で一瞬目を合わせて苦笑いしました。先輩の背中に手を回すと、汗ばんでるのがわかって、この人もちゃんと生きてる人間なんだなって、変なところで実感しました。

1回目は、先輩があっけなく早く終わってしまいました。

「……ごめん」

「ごめんって言わないでください。ごめんって言われたら、私が可哀想な人になっちゃうので」

先輩が少し笑って、私の頭を軽く撫でました。その手が思ったより優しくて、逆に泣きそうになりました。泣いたら本当に終わる気がしたので、また天井を見てました。

明け方、寒さで目が覚めました。背中合わせで寝てたはずなのに、いつのまにか後ろから抱き寄せられてました。狭いベッドで肘がぶつかって、二人で小さく笑いました。側位のまま、また続きが始まりました。

さっきみたいな必死さはもうなくて、その代わりに私は言いたいことを言えました。1回目は余裕なんてどこにもなかったのに、2回目は先輩の呼吸が耳のすぐ後ろで聞こえて、それだけで自分の体温が上がっていくのがわかりました。動きもさっきよりゆっくりで、狭いベッドの中で少しずつ角度を探すみたいな感じでした。

「先輩、最後にひとつだけ。……名前で呼んでもらってもいいですか」

一瞬、間がありました。先輩が耳元で、初めて苗字じゃなく名前を呼びました。

(今、名前で呼ばれた。それだけのことなのに、なんでこんな)

嬉しいとか幸せとかより先に、「これは一生忘れないやつだ」という確信の方が勝ってました。天井を見てないと、たぶん泣いてました。

朝、雪明かりで部屋が白っぽく明るくなってました。シャワーの順番を譲り合って、結局私が先に入りました。バスタオルが1枚しかないことに、今さら気づきました。

先輩は近くのコンビニまで歩いて、歯ブラシを2本買ってきてくれました。会話は最低限でした。「雪、まだ積もってますね」「みたいですね」くらいの。外から雪かきの音がずっと聞こえてました。シーツをどうしようか考えてる余裕もなくて、とりあえず洗濯機に突っ込んでおこう、と頭の隅で決めてました。汗の匂いがする部屋に一人残されるのが嫌で、換気扇を回しっぱなしにしました。

カップの味噌汁を二人で飲みました。先輩がお湯を入れすぎて、私のだけ薄くなってました。それを黙って飲みました。

駅までの道、並んで歩きました。新雪に足跡が二列、まっすぐ続いてました。改札の前で、先輩が言ったのはひとことだけでした。

「また月曜な」

それだけでした。私も「はい、また月曜」とだけ返しました。

職場では、何もなかったみたいに戻りました。先輩は相変わらず、営業に詰められてる後輩の前にさりげなく立つし、私はゲラを持って走り回ってました。ただ、あの日以降、先輩は私を名前で呼ぶことは一度もありませんでした。何もなかったふりをする方が、なかったことにされるより苦しいんだって、あの二ヶ月で初めて知りました。

3月、課の全員に結婚式の招待状が配られました。私の分も、ちゃんと届きました。出欠のハガキは今も、書けないまま冷蔵庫にマグネットで貼ってあります。もう投函の期限もとっくに過ぎてるんですけど、剥がすタイミングがわからないまま貼りっぱなしです。

式の日は、有休を取って一人で映画を観に行きました。何を観たかはあんまり覚えてません。

4月、私は別フロアの部署への異動願いを出しました。理由は「制作進行以外の仕事も経験したい」って書きました。半分は本当で、半分は嘘です。

あれが恋だったのか、それともただ雪のせいだったのか、今も答え合わせができてません。ただ、冬になるたび、なぜか自販機で缶のコーンポタージュを買ってしまいます。誰かに渡すあてもないのに、一人で飲みます。ぬるくなる前に、急いで。


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