娘が寝たあとの二時間だけ、私は母ではなく女に戻っていた

娘が寝たあとの二時間だけ、私は隣の棟の203号室に通っていました。

33歳、調剤薬局の事務パートです。週5で9時から16時まで、レセプトの入力と電話対応をしています。離婚して3年、娘のひなたは今年5歳になりました。

自分の時間なんて言葉、正直この3年間ほとんど使ったことがありません。化粧品は全部ドラッグストアのワゴンの中から選ぶし、下着はひなたの服を買うついでに「3枚980円」のやつを掴んでレジに持っていくだけです(サイズすら見てない時もある)。

21時にひなたと布団に入って、寝息を確認してから外階段に出て缶チューハイを1本飲む。それが唯一の習慣で、23時にはまた布団に戻る。その2時間だけが、母親じゃない私がかろうじて存在してた時間でした。

最初はゴミ捨て場でした。

4月の頭、うちのアパートのゴミ捨て場がカラスに荒らされて、生ゴミが散乱してたことがあったんです。誰も片付けないまま2日経って、私が見て見ぬふりしてたら、隣の棟から出てきた男の人が黙々と片付けてました。それが正巳さん(39歳)でした。造園業をやってるらしく、春にうちのアパートの向かいの棟、203号室に越してきたばかりだと後で知りました。

日焼けした顔に短髪、白髪が少し混じってる。がっしりした体格で、指のあちこちに古い傷がある。植木バサミの傷だって聞いたのは、もっと後です。第一印象は正直「無口そうな人だな」くらいでした。

後日、ひなたの三輪車のペダルが取れかけてたのを、正巳さんが何も言わずに直してくれてました。気づいたら玄関の前に置いてあって、私が「え、これ」って言う前にひなたが「おじちゃん、なおしてくれた!」って先に懐いてました(子どもの嗅覚って侮れない)。

私はお礼に缶コーヒーを1本渡しただけです。「すみません、いつも」って言ったら、正巳さんは「いえ」しか言いませんでした。会話、続かない人だな、と思いました。

そのとき知ったんです。彼の部屋、うちの外階段からちょうど見える203号室なんだって。

距離が縮まったのは、外階段でした。21時すぎに私が缶チューハイを飲んでると、仕事帰りの正巳さんとちょくちょく鉢合わせるようになったんです。最初は会釈だけだったのが、週に2、3回、立ち話するようになりました。

話すことといえば、ほとんどひなたのことばかりです。「今日は保育園でこんなことがあって」「三輪車ありがとうございました」って。すると正巳さんが、ある夜ぽつりと言いました。

「お母さんの話も、聞きたいんですけど」

敬語のまま、そう言われました。私、一瞬固まりました。だって、自分の話なんて何もないんです。趣味も、好きな音楽も、最後に見た映画も思い出せない。母親じゃない自分の話が、私の中にほとんど残ってなかった(これ、地味にショックでした)。

「え、私の話……別に、普通ですよ」としか返せなくて、正巳さんは「そうですか」とだけ言って笑いました。この時点で、たぶん読者の方にはもう見えてると思います。彼が私に何か思ってるってことが。でも当の私は、缶チューハイ片手に「ご近所の優しい人」くらいにしか思ってませんでした(本人だけ気づいてないってやつです)。

GW明け、事件が起きました。夜中、ひなたが39度の熱を出したんです。かかりつけの小児科は当然閉まってて、タクシー会社に電話しても「今出せる車がない」の一点張り。焦って外階段まで出て途方に暮れてたら、正巳さんが物音に気づいて出てきてくれました。

「軽トラでよければ、送ります」

チャイルドシートもない軽トラの助手席に、私がひなたを抱いて乗せてもらいました。夜間救急まで15分。着いた頃には安心と申し訳なさがごちゃ混ぜになって、涙が勝手に出てきました。正巳さんは何も聞かず、ただ一言。

「頑張りすぎですよ」

帰り道、コンビニに寄って、ひなた用のゼリー飲料と、私用の缶チューハイを黙って買ってきてくれました。レシートも見せずに。家に帰ってひなたを寝かしつけてから、私は正巳さんとLINEを交換したことに、なぜか妙な罪悪感を覚えました。母親の私が、こんなことしてる場合じゃないのに、って(何が「こんなこと」なのか、自分でもよく分かってなかったんですけど)。

その罪悪感の理由が、はっきりしたのは数日後でした。元夫から連絡があったんです。「再婚を考えてるから、養育費の減額を相談したい」って。

正直、悔しかったです。私はこの3年間、恋愛どころか自分の名前で呼ばれることすら忘れかけてたのに、向こうは先に進んでる。しかも私に相談ではなく、通告でした。

その悔しさと、「母親のくせに男の人と立ち話してる場合か」っていう罪悪感が変な形で混ざって、私は正巳さんを避けるようになりました。外階段にも出なくなって、LINEも既読無視。自分でも子どもっぽいと分かってましたが、どう向き合えばいいか分からなかったんです。

2週間ほど経った、雨の夜でした。外階段の隅に、正巳さんの傘が置き忘れられてるのを見つけました。透明のビニール傘、持ち手のところにガムテープが巻いてある、彼のものだとすぐ分かりました。

雨、けっこう強かったです。ひなたが寝たのを確認して、傘を持って203号室まで届けに行きました。「5分だけ」のつもりでした。インターホンを押すと、正巳さんが出てきて「あ」とだけ言いました。

玄関先で、私が避けてた理由を聞かれました。「元夫が再婚するらしくて、それで色々……」って正直に話したら、正巳さんは黙って聞いてから「そうですか」とだけ。それから、私の髪が雨でびしょ濡れなことに気づいて、タオルを持ってきてくれました。

「拭きます」って断りもなく、彼が私の髪をタオルでゆっくり拭き始めたんです。これが、まずかった。距離が近くて、正巳さんの手が思ったより優しくて、気づいたら唇が重なってました。どっちから、とかよく覚えてません。

「待って、私、お母さんだから」

一度そう口にしました。自分でも何言ってるんだって思いましたけど、他に言葉が出てこなかったんです。正巳さんは少し困ったように笑って、

「今は二時間だけ、違ってもいいんじゃないですか」

それだけ言われて、私はスマホのアラームを23時にセットしました。

3年ぶりでした。身体が完全に強張ってるのが自分でも分かりました。電気を消してほしいって頼みました。授乳で胸の形が変わったのを見られたくなかったんです(これ、産んだことある人にしか分からない羞恥だと思います)。正巳さんは全部は消さずに、豆電球だけ残してくれました。

キスから首筋、耳へ。ブラのホックのところで正巳さんの手が止まって、しばらくもたついてました。指、器用な人じゃないんだなって思ったら、思わず笑っちゃって、結局私が自分で外しました。「すみません」って正巳さんも照れ笑いしてて、変な空気じゃなくて、ちょっとほっとしました。

外れた瞬間、彼の視線が一瞬止まったのが分かりました。授乳で下がった胸を見られてる、そう思うと顔が熱くなって、腕で隠そうとしたら「隠さなくていいです」って真顔で言われました。傷だらけの大きい手のひらが、片方を包むように触れてきて、思ってたより力を入れずに、指の腹で先端をゆっくりなぞってきます。焦らされてるとかじゃなくて、単純にそういう手なんだと思います。

首筋に唇が当たって、耳たぶを軽く食まれると、変な声が出そうになって慌てて口を押さえました。壁の薄さを思い出したからです。もう片方の手が脇腹から太ももの内側に降りていって、下着の中に指が入ってきました。ぬるっとした感触に、自分でも「え、こんなに」って驚きました(三年ぶりって、身体は正直なんだなと思いました)。指が浅いところを行ったり来たりして、そのたびに腰が勝手に浮いてしまいます。私の頭の中は快感より「これでいいのかな」「今この瞬間だけお母さんじゃなくなるって、そんな都合のいい話あるのかな」ってことでいっぱいでした。でも同時に、誰かに触られてるってだけで、身体の奥が緩んでいくのも分かりました。怖いのと安心するのが、交互に来る感じです。

正常位で、正巳さんがゆっくり腰を進めてきました。先端が入り口に当たった瞬間、身体が反射的に強張って、半分も入らないところで痛みが走りました。

「痛い、ちょっと待って」

「はい、止めます」

そう言ったら、正巳さんは笑うどころか動きをぴたっと止めて、そのまま腰の上を撫でてくれました。私も呼吸を整えて、もう一度。

「三年ぶりなの、笑わないで」

「大丈夫です、ゆっくりで」

そう返されて、少しずつ、本当に少しずつ奥まで入ってきました。壁が薄いアパートなので、声を出すのが怖くて、彼の肩に顔を押し付けて堪えてました。正巳さんが浅く腰を動かすたびに、肩口に自分の声がくぐもって吸い込まれていくのが分かります。彼の胸板にじんわり汗が滲んでるのが肌越しに伝わってきて、この人も必死なんだと思ったら、なぜか少し安心しました。

少しずつ身体が馴染んできた頃、スマホのアラームが鳴りました。23時。二人でぴたっと動きを止めて、しばらく無言になってから、どちらからともなく吹き出して笑いました(こんなタイミングで律儀に鳴らなくても、って思いました)。

「あと少しだけ」って正巳さんが言って、後ろから抱きかかえるような横向きの体勢に変えました。壁側に顔を向けて、声を殺しやすい姿勢です。娘の隣で寝るときの体勢と似てるなって、こんなときに気づいて自分でもおかしくなりました。背中に彼の胸が密着して、片方の手が前に回って胸を包み、もう片方の手が腰を支えながら、後ろからゆっくり抜き差しされます。奥の方をトントンと突かれるたびに、声を殺すために自分の手の甲を噛みました。

しばらくして、正巳さんが「ごめん、もう」って先に達してしまいました。腰の奥で小さく震えるのが分かって、彼が息を止めるのと同時に、私の中で何かがどくどく脈打つ感覚がありました。律儀に謝る姿が、なんだかその人らしくて。私は最後までいけなかったんですけど、それより衝撃だったのは、人の体温に包まれてこのまま眠ってしまいそうになったことでした。快感がどうとかより、その安心感の方が私には大きかったんです。

汗をかいたのに、シャワーは浴びられませんでした。髪が濡れて帰ったらひなたに変に思われるからです。蒸しタオルで身体を拭いて、ドライヤーの冷風だけ借りて髪を乾かしました。正巳さんは玄関まで見送ってくれて、

「傘、また忘れてってください」

不器用な口説き文句だな、と思いながら家に帰りました。ひなたの隣にそっと潜り込むと、罪悪感と多幸感が同時に押し寄せてきて、なかなか眠れませんでした。

それから、通うようになりました。

だいたい週1、雨の日が多かったです(傘を口実にするのが、私たちのパターンになってました)。回数を重ねるごとに、私の中で「二時間で足りない」っていう欲が芽生えてきたのが、自分でも分かりました。ひなたもどんどん正巳さんに懐いて、日曜日には3人で近所の川べりに散歩に行くようになりました。

ある夜、正巳さんが正座して、敬語のまま言いました。

「再婚を前提に、ひなたちゃんごと、お願いします」

嬉しかったです。本当に。でも即答できませんでした。元夫のこと、ひなたの苗字のこと、養育費の現実的な話。頭の中がぐるぐるして、「少し考えさせてください」としか言えませんでした。

翌朝、ひなたを保育園に送る途中でした。ひなたがふと言ったんです。

「ママ、まさみさんのおうち行く日、かみのけ、いいにおいするからすき」

隠せてたつもりだったのは、私だけだったみたいです。子どもって、思ってる以上に見てるし、気づいてる。「本人だけ気づいてない」のは、いつも私の方でした。泣きそうになるのを堪えて、ひなたを保育園に送りました。

で、返事なんですけど。

まだ、正巳さんにしてません。迷ってる理由は、正直に言うと山ほどあります。元夫との3年間の記憶がまだ消えてないこと、ひなたの苗字が変わることへの不安、養育費の話がこの先どうなるか分からないこと。全部、答えの出ない問題です。

でも今夜も、ひなたが寝たら23時にアラームをセットして、203号室に行くと思います。

傘は、まだ返してません。


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