手が触れそうで触れない距離を、隣の席に来た三ヶ月契約の年上デザイナーと守り続けた話

三ヶ月間、俺たちは指一本触れなかった。

触れなかっただけで、他は全部やってたと思う。目線も会話も、たぶん気持ちの方まで。これは俺が人生で一番長い我慢をした話です。

31歳、中堅印刷会社の制作進行。クライアントとデザイナーの間に立って、ひたすら謝り続けるだけの仕事。身長176cmだけあって図体はでかいけど、顔は良くも悪くもない中の下。彼女いない歴は5年。据え膳を三ヶ月も食わなかった馬鹿、っていうのが今の自分に対する評価です。

(据え膳って言葉、俺には縁がないと思ってた)

事の始まりは9月頭。担当してる案件が炎上して、増員としてフリーランスのデザイナーが入ってきた。三ヶ月契約、俺の隣の席。

名刺交換のとき、彼女は手を出さなかった。代わりに名刺を机の上に置いて、指先でスッと俺の方にスライドさせてきた。

「はじめまして。私、仕事場では誰にも触れないって決めてるんです。握手もなし」

冗談っぽい言い方だったけど、目は本気だった。変な人だな、と思いつつ、その名刺を渡した指がやたら綺麗なことに気を取られた。細くて長くて、爪の形がきれいに整ってる。36歳、離婚したばかりのフリーランスデザイナー。それ以上のことは、まだ何も知らなかった。

俺の仕事は簡単に言うと謝る仕事だ。クライアントには「その修正は難しいです、申し訳ありません」と謝り、デザイナーには「クライアントがこう言ってて、申し訳ないんですが」と謝る。板挟みの中間管理職未満、ただの制作進行。彼女が入ってきたその日も、俺は朝イチで営業から無茶な差し替え依頼を受けて、頭を下げに彼女の席へ向かった。

「初日からすみません、こんな依頼で……」

「いいですよ。謝るの、上手ですね」

「毎日やってるので」

彼女はその日、深緑のカーディガンを着てた。次の日は焦げ茶、その次はキャメル。秋色を日替わりで着てくるのが、地味に俺の中で楽しみになっていった。誰にも言えないけど。

9月も終わりに近づくと、炎上案件は俺たちを毎晩残業させた。二人だけがフロアに残る日が増えていく。給湯室でマグカップを並べて洗うとき、肘と肘の距離はだいたい15センチくらい。近すぎず遠すぎず、なぜかいつもそのくらいで落ち着く。

マウスを共有するときも、彼女は必ず一度手を引いてから机に置いた。俺もそれに合わせて、資料を渡すときは相手の手が離れるのを待ってから差し出すようになった。誰が決めたわけでもないのに、いつの間にか15センチがルールになっていた。

ある夜、校正紙を渡そうとして、指と指がほんの数ミリのところまで近づいたことがある。二人とも同時にビクッと手を引いて、気まずい沈黙のあと、どちらからともなく笑った。

「(今、避けたの俺だけじゃないよな……?)」

(避けたのは向こうも同じだった。それがなんか、地味に嬉しかった)

10月中旬。帰り道が途中まで同じだと知って、並んで歩くようになった。金木犀の匂いがやたら強い夜だった。夜道を歩きながら、手の甲と手の甲が触れそうで触れない距離を保ったまま、彼女がぽつりと話し出した。

「私さ、この前まで結婚してたんだけど、別れた理由、職場恋愛なの。同じ会社の人と燃え上がって、それで壊れた」

「はあ……」

「大人だからさ、ブレーキは自分でかけとかないと。だから今の仕事場では、誰にも触れないって決めてる。あなたも例外じゃないよ」

「あなたも例外じゃない」がどういう意味なのか、その日はよくわからなかった。でも家に帰って布団に入っても、その一言だけが頭の中に残ってた。

(俺、この人に触りたいんだ)

初めて自覚した瞬間だった。5年ぶりに、誰かに触れたいと思った。触れないルールのある人に限って。

10月末、会社の飲み会があった。酔った営業の先輩が彼女の肩に手を回そうとした瞬間、気づいたら俺は二人の間に体を割り込ませてた。彼女には触れないまま、ただ壁になっただけ。

帰り道、駅前のベンチで少し休んだとき、彼女が笑いながら言った。

「守ってくれたのに、触られてもないの、面白いね」

「いや、その、咄嗟に体が動いただけで……」

自販機で缶コーヒーを買って渡すときも、俺は無意識に缶の底を持って、彼女の指に触れないように差し出してた。彼女はそれに気づいて、ちょっと呆れたような、でも嬉しそうな顔をしてた。

(この状況、はたから見たらもう付き合ってるようなもんじゃないか? でも指一本触れてない。俺たち一体何やってるんだ)

11月中旬、昼休みに外へ出たとき、会社の前の通りで彼女が年上らしい男と歩いてるのを見かけた。40代くらい、スーツを着崩した感じの男で、彼女の肩のあたりに手が伸びかけてた。二人の間に流れてる空気に、俺は勝手に胸の奥が重くなった。

(元旦那だ。たぶん、そうだ。まだそんなに未練あるのかよ、あの人)

それからの俺は自分でもわかるくらいよそよそしくなった。彼女に話しかけられても「はい」「そうですね」しか返せない。彼女もそれを察したのか、敬語に戻って、15センチだった距離がいつの間にか1メートルくらいに開いた。給湯室でも会話が減って、マグカップを洗うタイミングをわざとずらされてる気がした。

(自分から距離取っといて、離れられると勝手にへこむの、意味わかんないよな俺)

数日経って、彼女の方から切り出してきた。

「見たでしょ、この前の。あれ、離婚の最後の書類。判子押しに行っただけ。もう全部終わったの」

「あ……そうだったんですね」

「顔に全部出るんだね。わかりやすい」

言われて初めて、自分がどれだけ露骨に凹んでたか自覚した。恥ずかしくて耳のあたりが熱くなった。

(バレてた。俺の嫉妬、完全にバレてた)

そして11月30日。プロジェクトの納品が完了して、彼女の契約最終日がきた。部署のみんなが花束を用意してくれたんだけど、彼女は最後まで「触れないルール」を守って、花束を台車に載せて受け取った。その徹底ぶりに部署中が笑ってた。

「花束は嬉しいけど、手渡しはナシで」

終業後、いつもの夜道を二人で歩いた。マンションの前に着いたところで、彼女が急にスマホの画面を見せてきた。

「ルールはね、今日の23時59分までなの。契約と一緒に終わり」

心臓のあたりがぎゅっと重くなった。何を言われてるのか、頭で理解するのに数秒かかった。

「……上がってく? お茶しか出ないけど」

エレベーターに乗り込んで、二人とも壁際に離れて立ったまま何も喋らなかった。階数の表示だけをじっと見てた。3、4、5……数字が変わるたびに、喉のあたりが詰まる感じがした。

(本当にいいのか。0時を過ぎただけでルールってそんな簡単に消えるものなのか。三ヶ月我慢した自分を今、褒めたいのか呪いたいのか、正直よくわからない)

部屋に入ると、彼女がスマホの時計を見せてきた。

「はい、0時」

そう言って、初めて手を差し出してきた。三ヶ月ぶり、というより、思えばこれが初めて触れる手だった。俺の手は情けないくらい震えてた。

「手、震えてる。かわいい」

「いや、これは、寒いからで……」

言い訳にもなってないのはわかってた。手のひらを合わせて、指を組んだ。ただそれだけの時間が、やけに長く感じた。彼女が俺の手の甲に、それから指先に、手首に、順番にキスをしてきた。立ったまま唇が重なって、コートのボタンを外そうとした手がもたつく。ひとつ結びにしてた髪ゴムが俺の指に絡まって、二人で「なにやってんの」と笑った。

ソファに移ってカーディガン(その日はえんじ色だった)を脱がせると、細いはずの体なのに、二の腕と腰まわりが思ったより柔らかくて、一瞬固まった。服の上から想像してたシルエットと、実際に触れた質感が全然違う。

(細いと思ってたのに、脱がせたら全然違う……なんだこの、ギャップ)

Cカップの胸に触れると、彼女の息が変わった。それまで平然としてた大人の顔が、少しずつ崩れていくのがわかった。三ヶ月間、あの落ち着いた表情の下にこういう顔が隠れてたのかと思うと、変な感慨まで湧いてきた。

「三ヶ月分、覚悟してよね」

そう言って、俺のベルトに手をかけてきた。主導権はあっさり向こうに移った。手で、それから口で。5年ぶりの刺激は正直きつくて、早々にまずい感じになってきた。

「待って、まじで待って……」

情けない声が出た。彼女は「早いね」と笑いながらも手を止めてくれた。今度は俺の番だと下着に手を入れて、指で触れる。もう十分に濡れてるのがわかって、思わず馬鹿な確認をした。

「これ……俺のせい?」

「他に誰がいるの」

呆れた声で返されて、それが妙に嬉しかった。

ベッドに移って、避妊具の袋を開けようとしたけど、手が震えて全然開かない。見かねた彼女が袋を奪って、あっさり開けた。

「情けないなあ」

「いや、緊張してるだけで……」

正常位でゆっくり入っていく。先が触れて、少しずつ進んでいく感覚に、三ヶ月分の距離がゼロになったという実感だけが頭の中を占めてた。快感より先に、信じられないという気持ちの方が強かった。

「もう我慢しなくていいんだよ」

耳元でそう囁かれて、決壊しそうになるのを歯を食いしばって耐えた。三ヶ月間、給湯室で、夜道で、缶コーヒーの受け渡しで、ずっと我慢し続けてきたのと同じ動作を、今度は違う場面で繰り返してる自分に気づいた。

途中で体勢を変えて、彼女が上に乗ってきた。ひとつ結びを解いて髪を下ろす姿が、蛍光灯の下でやけにはっきり見えた。

そう長くは保たなかった。

「ごめん、無理、もう……」

謝りながら果てた俺に、彼女は特に気にした様子もなく笑った。

「三ヶ月待ったんだから、早いのは織り込み済み」

汗だくで、しばらく二人とも動けなかった。天井を見ながら息を整えてると、彼女が「ティッシュ切れてるかも」とつぶやいた。案の定、箱は空だった。俺がコンビニまで水とティッシュを買いに走って、戻ってきたら、彼女が俺の脱いだシャツを着てソファに座ってた。妙にくすぐったい光景で、どういう顔をすればいいのかわからず黙って水を渡した。シャワーの順番を譲り合って、結局じゃんけんで俺が先に入った。

2回戦は、さっきまでの余裕のなさとは違う空気だった。横向きで、後ろから彼女を抱きしめる体勢。焦りはもうなくて、代わりに変な独占欲みたいなものが出てきた。三ヶ月間触れないよう気をつけてた分の反動なのか、腕を回す力が自分でも思ったより強くなる。

「なに、離さないみたいな抱き方」

「いや、なんか、そういう気分になった」

正直に言うと、ちょっと笑われた。それでも腕はほどかなかった。

「明日からもう、隣の席にいないんだな」

思わず漏らした声に、彼女がちょっと間を置いてから答えた。

「席は返すけど、隣は空けとくよ」

その一言だけで、頭の中がいっぱいになった。

朝、駅まで送る道を二人で歩いた。金木犀の季節はもう終わって、空気がだいぶ冷たくなってた。彼女が当たり前みたいに俺の手を握ってきた。三ヶ月間、触れそうで触れなかった手が、今は普通に繋がってる。

「三ヶ月分の距離、返してもらうから。利子つきで」

「分割払いでお願いします」

彼女は声を出して笑って、握った手に少し力を込めてきた。駅までの残り数百メートル、俺たちはずっとそのままだった。


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