二年前の、十月の話です。
大学二年の後期が始まってすぐ、俺はサークルを辞めました。厳密には辞めたというか、いつの間にかLINEグループから外されてた、というのが正しいんですけど。飲みの誘いに三回連続で「金ない」って断ったら、四回目からもう誘いすら来なくなりました。
(大学デビューに失敗した側の人間です、俺は。)
バイト代も途切れて、財布の中身が632円しかなかったある日、駅裏の商店街をとぼとぼ歩いてたら「ホール急募・週2〜」って貼り紙を見つけました。老舗の洋食屋、キッチンつばき。木の扉に色褪せた金文字の看板。昭和感がすごい。でも背に腹は代えられないので、その場で店に入って「あの、貼り紙見たんですけど」って聞きました。
面接は狭い厨房の隣のテーブルで、履歴書を見せる形式でした。
「趣味の欄、空白なんだ」
「あ、いや、特に何も……」
「正直でよろしい。まあ座って」
面接をしてたのは、店主のおじいちゃんじゃなくて、30歳くらいの女の人でした。黒髪を後ろでひとつに束ねて、コックコートの袖をまくってて、前腕にちょっと古い火傷の痕がある。それが最初に会った日の店長です。
(てっきり店主のおじいさんが面接するもんだと思ってた。)
「今日から入って。時給は貼り紙通り。あと、覚えてほしいことは一つだけ」
「はい」
「注文は正確に、提供は丁寧に。それだけ守って」
シンプルすぎて拍子抜けしましたが、これが後で何度も俺の耳に刺さってくる言葉になるとは、その時は全く思ってませんでした。
初日から早速オーダーを間違えました。ハンバーグ定食をハヤシライスで通してしまって、厨房から店長の低い声が飛んできます。
「4番テーブル、ハンバーグって言ったよね」
「す、すみません、聞き間違えて……」
「もう一回言うよ。注文は正確に、提供は丁寧に。頭に叩き込んで」
閉店後、しょげてる俺に、店長が無言でオムライスを一皿出してきました。さっき自分がミスった分の食材です。
「まかない。廃棄するよりマシでしょ」
「ありがとうございます……」
「次からミスんな」
言葉はきついのに、皿はちゃんと二人前あって、自分の分も一緒に食べ始める。(怖いのか優しいのか、どっちだよこの人。)その日から俺は、この人のことがちょっとだけ気になり始めました。
閉店後の片付けが、いつの間にか定番の時間になりました。皿を拭きながら、店長がぽつぽつ自分の話をしてくれるようになったんです。調理師専門学校を出て、都内のホテルの厨房に何年かいて、それからこのキッチンつばきに来たこと。
「なんでホテル辞めたんですか」
「んー、上下関係がしんどくなったのと、あと単純に、目の前の一人に飯食わせる方が向いてるなって気づいたから」
「かっこいいっすね」
「ガラでもないこと言うね」
俺は皿を拭きながら、つい弱音を漏らしました。
「俺、人生設計とか何もないっす。大学出たら就職するんだろうな、くらいで」
「二十歳で設計図ある奴の方が気持ち悪いよ」
「そういうもんすか」
「そういうもん」
常連のおじさんたちからは、店長に7年付き合ってる彼氏がいるらしいって噂を聞きました。(そりゃそうか、この人がフリーなわけないよな。)別に何かを期待してたわけじゃないけど、なぜかその噂を聞いた日は、いつもより皿を拭く手が遅かった気がします。
十一月に入ってすぐ、商店街の秋祭りがありました。キッチンつばきも屋台を出すことになって、俺は店長と二人、鉄板の前に立つことになりました。ナポリタンをひたすら炒める係です。
「ソース絡め終わったら、皿の縁拭いてから出しなね」
言われた通りにやると、店長が初めて言いました。
「あんた、最近提供が丁寧になったじゃん」
「え、マジすか」
「マジ。ちょっとは成長してる」
素直に嬉しくて、へらへらしてたと思います。帰り道、店の前でシャッターを下ろしながら、俺は空気も読まずに聞いてしまいました。
「彼氏さんって、店に来たりしないんすか」
店長が一瞬、手を止めました。
「あー、それもう終わった。先月」
「あ、すみません……」
「別にいいよ、あんたが謝ることじゃない」
そう言って笑ってくれたけど、なんかその笑い方が、いつもより薄い気がして。(バカだろ俺。空気読めなさすぎる。殴りたい、自分を。)
十一月の下旬、店長が従業員全員を集めて、事務的な口調で言いました。
「おじいちゃん――店主の体調が良くなくて、年内でこの店、閉めることになりました」
みんな黙り込みました。店長だけが淡々と、閉店までのシフトの話とか、在庫の整理の話を続けます。まるで他人事みたいに。
その夜、片付けを終えて裏口から帰ろうとしたら、店長が一人で裏の路地に立って煙草を吸ってました。背中がやけに小さく見えて、声をかけられずに、俺はそのまま帰りました。
それからシフトに入るたびに、胸の奥がずっしり重くなる感覚がありました。(十歳上だぞ。相手にされるわけないだろ、こんな気持ち。)自分でもよくわからない感情に、ただ戸惑うばかりの日々でした。
十二月に入って最初の金曜、朝から冷たい雨が降ってました。客はゼロのまま、店長が「もう閉めよう」と早じまいを決めました。看板を下ろして、シャッターも半分下ろした店内で、二人きりです。
「棚卸しついでに、在庫のワイン処分するの手伝って」
そう言われて、厨房の隅にあった飲みかけのボトルをソファ席のテーブルに並べました。グラスもなくて、紙コップです。
「こんな安酒でごめんね」
「いや全然、ありがたいっす」
雨音と、閉店後の空調の音だけが響く店内で、二人で飲み始めました。何杯か空けたところで、店長が急にニヤッとして聞いてきました。
「ねえ、あんた彼女いたことある?」
「い、いや、その、あんまり」
「あんまりって何。いる?いない?」
「……いないっす」
「へえ。てか、あんた童貞でしょ」
「はっ!?」
「接客見てればわかるよ。女の客に対しての目線がさ、明らかに慣れてない」
図星すぎて何も言い返せませんでした。からかいのつもりだったのか、店長も最初は笑ってたけど、途中でふっと表情が変わりました。
「……私も今、けっこう空っぽなんだよね」
紙コップを両手で包みながら、店長がそう呟きました。
「店も無くなるし、彼氏もいなくなったし。三十歳にもなって、なんか手元に何も残ってない感じがする」
「店長……」
「注文していい?」
「え?」
「うちの店、もう看板下ろしてるから。ゆっくりでいいよ」
そう言うと、店長がこっちに顔を近づけて、唇を重ねてきました。狭いソファ席で、俺は驚いて後ろに肘をぶつけて、テーブルの角に「痛っ」と声を漏らしてしまいました。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
(マジかよ。マジで今、店長とキスしてるのか、俺。)信じられない気持ちのまま、店長がコックコートのボタンを自分で外して、下のエプロンも外していきます。
「触っていいよ。でも、いきなり全部わかろうとしなくていい」
店長が俺の手を取って、自分の胸に、それから腰に、太ももにと順番に導いていきました。
「レシピと一緒。一回で覚えなくていいの」
「はい……」
手のひらに伝わる感触に、下半身がもう限界まで張り詰めてました。財布からゴムを取り出すと、店長が包装を見て眉をひそめました。
「これ、いつから財布に入ってんの」
「え、あ、その、去年の……」
「使用期限、大丈夫だよね」
「た、たぶん」
情けない会話をしながらも、店長が手で軽く触れてきただけで、腰の奥がびりっと痺れて、思わず太ももに力を入れて堪えました。
「ちょっと、我慢しなさいよ」
「す、すみません」
ソファに押し倒される形で、店長が仰向けになって脚を開きました。狭いソファの上、正常位です。角度がまるでわからなくて、何度も的を外してしまいます。
「もう、貸して」
店長が自分の手で位置を合わせてくれて、ようやく先端が沈み込みました。
「あっ……」
「痛いですか」
「平気。それより、ゆっくり」
言われた通りゆっくり腰を進めたつもりだったのに、三分も経たないうちに、限界が来てしまいました。
「あ、やば……出ます……」
「いいよ、そのまま」
腰の奥から一気に突き上げるような感覚があって、頭の中が羞恥で埋め尽くされたまま終わってしまいました。
「……すみません、早くて」
情けなさで顔も上げられずにいたら、店長が笑わずに、俺の頭を軽く撫でました。
「早いのは若さ。恥じることじゃないよ、それ」
「マジすか……」
「マジ。むしろ何回もやってきた奴の方がろくでもない奴多いよ」
(この人、こんな時まで先生なんだな。)変な感動と情けなさが同時に押し寄せてきました。
しばらく二人でソファに座ったまま、店の思い出話をしました。まかないの話、常連のおじさんの話、開店当初の失敗談。話してるうちに、下半身がまた反応し始めてるのに、自分でも呆れました。
「あ、あんた元気だね」
「す、すみません」
「いいよ、若いんだから。じゃあ今度は私が上ね」
そう言って店長が俺の上にまたがってきました。騎乗位です。今度はペースを完全に店長が握っています。
「無理に動かなくていいよ。任せて」
ゆっくり腰を沈めてくる店長を見上げながら、俺の頭の中は快感より別のことでいっぱいでした。(この席、いつも常連のおじさんが座ってる席だよな……)そんな罪悪感混じりの混乱が抜けなくて、正直、気持ちいいはずなのにどこか上の空でした。
でも一回目よりは少しだけ余裕があって、初めて店長の顔をちゃんと見る余裕ができました。目尻に寄る皺、腰を動かすたびに揺れる黒髪、前腕にある古い火傷の痕。近くで見ると、その全部が生々しくて、こんな距離であの店長を見てるという事実にくらくらしました。
「なに、見すぎ」
「あ、いや、すみません」
「いいよ、見て。減るもんじゃないし」
そう言って店長が少しだけ笑って、腰の動きを速めました。俺は下からその動きに合わせるだけで精一杯で、終わる頃には二人とも息が上がってました。
事が済んだ後、おしぼりで互いの体を拭いて、ソファにファブリーズを二回吹きかけました。それでも匂いが気になって、換気のために裏口を開けたら、雨上がりの冷たい空気がどっと入ってきて、二人同時にくしゃみをしました。
「はっくしょん」
「はくしゅん」
「……なんか間抜けっすね、俺ら」
「ほんとだね」
余ってた日替わりのハヤシライスを、深夜一時に厨房で立ったまま二人で食べました。
「これ、廃棄する分だから。経費ね」
その一言が、なぜか妙にありがたかったのを覚えてます。特別扱いされるより、いつも通りの店長でいてくれた方が、気持ちが落ち着く気がしました。
戸締まりをして、駅までの道を二人で歩きました。会話はほとんどなくて、駅に着いたら「じゃあ」とだけ言って、別々の改札に入りました。
それから閉店までの一ヶ月、金曜の閉店後だけ、店のソファ席での「補講」が続きました。次のシフトで顔を合わせるたびに、俺は妙に緊張して、店長は逆にいつも通りの顔で「おはよ」って言ってくるので、そのギャップにいちいち動揺してました。
そして十二月末、キッチンつばきの最終営業日が来ました。常連さんたちが詰めかけて、店内は満席でした。俺が大きな声でオーダーを通すと、厨房から店長がちらっとこっちを見て、小さく笑いました。
「提供、丁寧になったじゃん」
閉店後、最後の片付けを終えて、誰もいなくなった店で、店長が言いました。
「注文は正確に、提供は丁寧に。人生ぜんぶ、それでなんとかなるから」
「はい」
「あんたなら大丈夫だよ、たぶん」
キッチンつばきはその後、本当に取り壊されて、今はコインパーキングになってます。店長とはあの日を最後に、連絡先も交換しないまま自然と会わなくなりました。
今、俺は大学四年で、就活もひと通り終わりました。面接で「大切にしている言葉は?」と聞かれるたびに、俺はあの言葉を答えます。
注文は正確に、提供は丁寧に。