去年の10月末、浜松であった産業機器の展示会に、二泊三日で出張することになりました。
本来は先輩の高橋さんが行くはずだったんですが、出張前日にぎっくり腰をやらかして、代わりに俺が行くことに。営業の俺と、事務局担当の佐伯さんの二人だけで、です。
うちの会社、こういう出張の経費に異様に厳しくて、駅前で見つけた一番安いビジネスホテルしか取ってもらえませんでした。1泊6980円、朝食なし。(せめてもうちょい出してくれよ…)と思いつつ、稟議通すのも面倒なので黙って予約しました。
俺は営業所で9年目、31歳。地方の展示会担当を押し付けられがちな、中堅というには微妙な立ち位置です。宴会になると気づけば幹事をやらされてるタイプで、自分から誰かを誘ったことなんてほぼありません。今回みたいに女性社員と二人きりの出張なんて、正直かなり緊張してました。
佐伯さんは営業事務の同僚で、入社した時からずっと書類仕事で世話になってる相手です。「佐伯さんに聞けばだいたい何とかなる」と社内で言われるくらいの万能事務で、俺なんかが軽々しく話しかけていい相手じゃない気がして、いつも用件だけで会話を終わらせてました。
こだま号の中で、いつも仕事の話しかしたことのない佐伯さんが、急に早口でしゃべり始めました。
「浜松って言ったらうなぎのイメージ強いと思うんですけど、地元の人はもっと餃子推しなんですよ。餃子の消費量、日本一を争ってるくらいで」
「え、そうなんですか」
「円形に並べて盛り付けるのが正式なんです。真ん中にもやし乗せて」
早口でまくし立てる佐伯さんを見て、(こんな喋る人だったんだ)と、9年目にして初めて知りました。仕事中はテキパキ淡々としか見てなかったので、ちょっと新鮮でした。
ホテルにチェックインすると、部屋番号が805と806。まさかの隣同士です。フロントで鍵を受け取りながら、二人で微妙な顔を見合わせました。
「隣ですね」
「隣ですね…」
「まあ、壁越しに何かあるわけでもないので大丈夫です」
それだけ言って、佐伯さんはさっさと805の部屋に入っていきました。(大丈夫です、って何が大丈夫なんだ)と一人で突っ込みつつ、俺も806に入りました。
初日の夜、テレビを見ながら備品リストを確認していると、壁越しにくしゃみの音が聞こえました。かなりでかい音で、思わず「うわ」と声が出たくらいです。
数分後、スマホにLINEが来ました。
「今のくしゃみ、聞こえてたらすみません。お大事にです」
(お大事にです、って俺がくしゃみしたわけじゃないんだけど)と思いながら返しました。
「いや俺じゃなくて佐伯さんのくしゃみですよね、それ」
「あ、そうでした笑 お大事に、は自分に言います」
しばらくやり取りして、ふと気づいたことを送ってみました。
「てかこの壁、薄すぎません?くしゃみまで聞こえるって相当ですよ」
「ほんとですね。お互い生活音気をつけましょうね笑」
その時はただの笑い話でした。まさかこの「壁が薄い」が、翌日にはまったく違う意味を持つことになるとは思ってもいませんでした。
深夜、寝ようとしてテレビを消したタイミングで、壁越しに佐伯さんの声が聞こえてきました。電話をしているようで、内容までは聞き取れないんですが、最初は普通のトーンだったのが、途中から明らかに湿っぽくなっていくのがわかりました。
(誰かと喧嘩してるのか…?)
聞き耳を立てるつもりはなかったんですが、部屋が静かすぎて意図せず耳に入ってきてしまいます。声が震えて、何度か言葉が途切れて、最後は長い沈黙になりました。それきり何も聞こえなくなって、俺はそのまま布団の中で天井を見つめてました。
佐伯さんには遠距離恋愛中の彼氏がいるって、社内では有名な話です。(別れ話でもしてたのか)と勝手に想像しながら、聞いてしまった罪悪感でなかなか寝付けませんでした。
翌朝、朝食を済ませて会場に向かうロビーで顔を合わせたとき、俺は何も聞いていないフリをしました。
「おはようございます。よく眠れました?」
「おはようございます。まあまあです」
佐伯さんの目が少し腫れてる気がしましたが、指摘できるわけもなく、そのまま会場入りしました。
二日目の展示会は朝から立て込んでて、佐伯さんが来場者アンケートの集計をやってくれてたんですが、途中で明らかに様子がおかしいことに気づきました。ブースの前で固まったまま、何度も同じページをめくってます。
夕方、上司への報告用に集計を確認したら、A社向けとB社向けのアンケート回答が丸ごと入れ替わっていました。俺のミスにしてしまえば佐伯さんが怒られずに済むと思って、咄嗟に報告書に手を加えました。
「すみません、これ俺が集計中に取り違えました」
上司には「気をつけろよ」で済んで、撤収作業が終わった後、佐伯さんが小走りで追いかけてきました。
「あれ、私のミスですよね。なんでかばったんですか」
正直、うまく答えられませんでした。
「いや…なんとなく、です」
「なんとなく、って」
佐伯さんは納得いかない顔のまま805に戻っていきました。(俺なんかが気を回したところで、余計なお世話だったかもな)と自己嫌悪しながら、コンビニに買い出しに向かうと、レジの列で佐伯さんとばったり鉢合わせしました。
彼女のカゴには缶チューハイが4本入ってました。
「あ…」
「4本、多くないですか」
「一人で飲むとつい買いすぎるんです」
それだけ言って会計を済ませようとする佐伯さんに、思わず声をかけました。
「よかったら、部屋で一緒に飲みます?」
言ってから(何言ってんだ俺)と自分でびっくりしましたが、佐伯さんは意外にもあっさり頷きました。
「そうします。一人で飲むと際限ないんで、監視しててください」
805ではなく、なぜか俺の806に来ることになりました。理由を聞くと「隣の部屋にいるほうが自分の部屋に戻るとき気楽だから」とのこと。よくわからない理屈でしたが、深く聞かないことにしました。
缶チューハイ2本目に差し掛かったところで、佐伯さんの顔が首まで赤くなってました。もともと酒に弱いらしく、この赤さがもう限界のサインなんだと後で知りました。
「あの、昨日の電話…聞こえてましたよね。壁、薄いし」
内心ドキッとしましたが、誤魔化してもしょうがない気がして正直に答えました。
「内容まではわからなかったですけど、声が聞こえてたのは…はい」
佐伯さんは缶を両手で包んだまま、しばらく黙ってました。
「彼氏、いなくなりました。遠距離になってから半年で、向こうに新しい人ができたみたいで。私が振られた側です」
社内では佐伯さんに彼氏がいることになってたのは知ってましたが、まさか振られた直後だとは思いませんでした。
「もう2年も付き合ってたんですけど…なんか、私が全部悪いみたいな終わり方で」
そこから佐伯さんは泣き出しました。俺は何を言えばいいのかまったくわからず、とりあえずティッシュを箱ごと差し出しました。それしかできることがなかったんです。
「すみません、こんな…」
「いや、全然」
しばらくして泣き止んだ佐伯さんが、ベッドの縁に腰掛けて俺の隣に座りました。
「この壁だと、泣き声も聞こえてたってことですよね」
笑おうとしたみたいですが、失敗して変な顔になってました。俺は肩でも貸すつもりで少し体を寄せたんですが、距離感を見誤って手が重なってしまいました。
そのまま数秒、お互い動けませんでした。
「今日だけ、何も聞かなかったことにしてください」
そう言われた次の瞬間、佐伯さんの唇が触れてきました。
(待って、これ本当に…俺なんかでいいのか)
失恋直後の同僚につけ込んでるだけじゃないのか、っていう考えが頭をよぎりましたが、佐伯さんの手が俺の背中に回ってきて、そのまま押し流されるようにキスが続きました。
ブラウスのボタンに手をかけたんですが、緊張で手が震えて全然うまく外せません。3つ目のボタンで諦めかけたところで、佐伯さんが自分で残りを外してくれました。
「大丈夫です、慣れてないの丸わかりなんで」
(フォローされてる…情けない)と思いつつ、ブラのホックにも手をかけたんですが、これもうまくいかず、結局また佐伯さん本人が外すことになりました。
「すみません、手が大きい割に不器用で」
「気にしないでください」
小柄な体に自分の手がやたら大きく感じて、動きがぎこちなくなります。壁の薄さをお互い覚えてるので、佐伯さんはタオルを口元に当てながら小さく声を殺してました。
指と口で愛撫を進めていたとき、ふいに反対隣の807から物音がして、二人とも同時に固まりました。数秒待って何も起こらないとわかると、佐伯さんが小さく笑いました。
「うちらも人のこと言えないですね」
財布の中を探ると、ゴムが一つだけ入ってました。いつ買ったのかも覚えてない代物で、二人でスマホのライトを当てて使用期限を確認しました。ギリギリセーフでした。
「賭けみたいですね」
「賭けはやめてほしいです」
正常位で始めようとしたんですが、ベッドがきしむ音が思った以上に響いて、二人とも動きに集中できなくなりました。
「これ絶対805まで聞こえてます」
805は佐伯さんの部屋なので、聞かれても本人しかいないんですが、それでも気になるものは気になるらしく、結局掛け布団を床に敷き直して、そちらに移動しました。
騎乗位に体勢を変えたところで、緊張のせいか一瞬萎えかけてしまいました。(ここで終わったら一生の恥だ)と焦る俺に、佐伯さんが落ち着いた声で言いました。
「大丈夫、慌てないで」
その一言で少し力が抜けて、なんとか持ち直しました。声を殺しながら動く佐伯さんを見て、(これ現実か…?)という戸惑いのほうが、快感よりも強く残ってました。
最後は横向きに抱き合う体勢に変えて、お互い声を抑えたまま続けたんですが、緊張と久しぶりの状況のせいか、5分も持たずに終わってしまいました。
「すみません…早くて」
「いや、私も久しぶりすぎて、そんな余裕なかったです」
床に敷いた布団の上で、天井を見ながらぽつぽつ話しました。(月曜からどんな顔で備品の発注を頼めばいいんだ…)という、行為の余韻より生活レベルの不安のほうが先に頭を占めてました。
「そういえば、フロントの横の自販機、コンドーム売ってたの見た気がします」
「マジですか」
「マジです」
部屋着のまま、財布だけ持って1階の自販機まで走りました。深夜のロビーで一人、コンドームの自販機を物色してる自分の姿がかなり滑稽だなと自覚しながら、なんとか調達して戻りました。
2回戦は、1回戦とはまるで違う空気でした。緊張と遠慮が消えて、佐伯さんの敬語も半分崩れてきて、甘えるような声が増えました。
「さっきより、ちょっとだけ余裕出てきた」
ベッドに戻って、今度は正常位でゆっくり進めました。声を殺す意識はそのままでしたが、動きに追われることがなくなった分、お互いの反応をちゃんと感じ取る余裕が出てきて、最後まで通すことができました。
事後、狭いユニットバスを交代で使いました。汗で湿ったシーツと、床に敷いた掛け布団をどう戻すか、二人でかなり真剣に相談しました。
「布団、このままだと朝チェックアウトの人に見つかりますよね」
「たたんで戻せば大丈夫だと思います、多分」
真面目な顔で相談してる時点で、なんかもう変な状況だなと自分でも思いました。佐伯さんは自分の部屋に戻る前、廊下を左右確認してから小走りで805へ消えていきました。
翌朝の朝食バイキングで顔を合わせたときは、なぜかお互い少し離れた席に座ってしまいました。会話も普段より少なくて、気まずさが胃のあたりに残ってる感じがしました。
帰りのこだま号は、行きと同じ並び席でした。同じ並びなのに、会話の距離感だけが違います。
浜松駅で買った餃子の袋を膝に載せた佐伯さんが、しばらく窓の外を見たまま黙ってました。
「次の出張って、いつでしたっけ」
「まだ決まってないですけど…来月くらいですかね」
佐伯さんはそこで初めてこっちを向いて、真顔で続けました。
「今度は角部屋がいいです。壁、薄いの困るんで」
なんて返せばいいのか全然わからなくて、俺はただ「あ、はい…」とだけ言うので精一杯でした。