友人の結婚式二次会で一夜だけ過ごした大阪の営業マンを、下の名前しか知らないまま五年間探してしまった話

五年前の春に一晩だけ過ごした人を、私はいまだに検索してしまいます。

31歳、彼氏いない歴は数えるのも面倒になってきました。職業は校正者です。他人の原稿の誤字は一発で見つけられるのに、自分の人生のどこで判断を間違えたかは何度読み返しても見つけられません。仕事柄、脳内で同じ箇所を何度も読み返す癖があって、これが恋愛になるとただの後悔の反芻になるだけなんですけど。

その人について知っていることは、下の名前が「圭」ということと、大阪の人だということだけです。姓も知らない。勤め先も知らない。連絡先も交換しないまま別れました。それでも五年間、忘れられずにいます。今日はその話を書かせてください。

仕事柄、原稿を戻す前に必ず「脳内反省会」というのをやります。ここの表記は統一されてるか、この漢字は開くべきか閉じるべきか、と延々ひとりで議論するんです。恋愛でも同じことをやってしまうタイプで、決断は先延ばしにするくせに、あとから何年も引きずって後悔する。仕事なら赤字ひとつで済みますが、人生の間違いは訂正記号じゃ直せません。

五年前の春、私は26歳でした。大学時代の友人の結婚式の二次会が、中目黒のレストランバーで開かれて、私は数合わせで呼ばれた口でした。当時付き合っていた人と別れたばかりで、幹事の友人が「一人でも来れば場が持つから」みたいなノリで声をかけてくれたんです。ありがたいような、みじめなような。

会場の端の席に、圭さんが座っていました。新郎の大学の後輩で、大阪から出張のついでに顔を出したとのことでした。私と同じく、余っている感じの人でした。二次会って、余った者同士がなぜか端の席に集められる法則がありますよね。

「なんか、端っこの人らで固められましたね、俺ら」

「ですね……気を遣われてるのか、放置されてるのか」

低い声の関西弁で、笑うと左側だけ八重歯が見える人でした。身長は181cmくらいあって、細身でなで肩、でも腕だけ妙に筋張っている。営業職ってこういう体になるんだ、と後から知りました。

会が盛り上がってくると、二人とも手持ち無沙汰になって、どちらからともなく席を立ちました。

会場を抜けて、目黒川沿いを少し歩きました。桜はもう散り際で、風が吹くたびに花びらが川に落ちていきます。途中のコンビニで缶チューハイを二本買いました。彼が奢ってくれようとしたので、私が「割り勘でいいです」と言うと、

「そういうとこ律儀っすね」

と笑われました。歩きながら話すうちに、お互い失恋直後だとわかりました。彼も三ヶ月前に別れたばかりだったそうです。

「振られましてん、俺。理由も教えてもらえんまま」

「それ、地味にきついやつですね……」

「せやろ? せやから今日はもう、余り者同士、気楽にいきましょ」

関西弁のテンポに引っ張られて、私の敬語もだんだん崩れていきました。(気づいたら、自分でもびっくりするくらい素で喋ってる)。彼が何か話の途中で区切りをつけるとき、決まって言う言葉がありました。

「その話はまた今度な。続きはまた今度」

そのときは特に気にも留めなかったこの口癖を、私は五年後まで覚えている羽目になります。

歩いているうちに、強い春の風でダイヤが乱れているという情報がスマホに流れてきました。気づいたら終電がなくなっていました。しかも彼は明日の朝一番の新幹線で大阪に戻る予定だと言います。つまり最初から、この関係は「一晩限り」以外にありえない構造でした。

「歩けるとこまで歩こか。俺のホテル、この辺やし」

「そうですね……」

ビジネスホテルの前まで来て、彼が「送りますよ、駅まで」と言いかけたとき、私は自分でも予想していなかった言葉を口にしていました。

「まだ、帰りたくないです」

言った瞬間に耳が熱くなりました。(何言ってるの、私。校正の仕事してる場合じゃないでしょ、自分の発言くらいチェックしてよ)。でも撤回する隙もなく、彼は少し驚いた顔をしてから、

「……ほな、上がる?」

部屋はシングルの狭い部屋でした。ベッドと小さなデスクだけで、二人立つといっぱいいっぱいの広さです。キスをして、お互いのコートを脱がせ合う途中、私のコートのボタンが袖のどこかに引っかかって全然取れず、二人でしばらく無言でボタンと格闘しました。

「これ、罠か何かですか」

「違います、ただの安いコートです」

笑いながらようやく脱がせて、そのあと彼がブラのホックに手間取っているのがわかりました。指が震えているのか、単に不慣れなのか。私は黙って背中に手を回して自分で外しました。

「……手伝わせてくれてもよかったのに」

「時間かかりそうだったので」

そこで彼が、ゴムを持ってきていないことに気づきました。フロントに聞くのも気まずいということで、彼は下の自販機まで買いに走りました。部屋に一人残された私は、脱いだ靴を揃えたり、鏡もないのに髪を直したり、意味のない行動をひたすら繰り返していました。(一夜限りなんだから何やっても、って思ってるくせに、こういうとこだけ律儀なんだよな、私)。

戻ってきた彼と、またキスから始めました。今度はゆっくりでした。指で触れられて、私は自分の体がこんなに素直に反応することに戸惑いました。口でもお互いに触れ合って、そのたびに(これ、一夜限りだから平気なだけで、普段の私は絶対こんなことしないのに)という考えが頭の隅をよぎります。大胆になれているのは、明日この人がいなくなるという免罪符のせいだと、自分でもわかっていました。

正常位で挿入しようとしたとき、角度が合わず、一度抜いてやり直しになりました。

「……すんません、ちょっと待って」

「大丈夫です、焦らなくて」

「大阪人やのに、こういうとき何もボケられへんの、地味に恥ずい」

その冗談で場の空気がふっと軽くなって、二度目でちゃんと繋がりました。しばらくして彼が「横向いてくれる?」と言って、背中から抱かれる体位に変わりました。耳元で低い声がして、

「名前、下だけでいいから呼んで。どうせ明日にはいなくなる人やし……って、それ言うの俺の方か」

「圭さん」

行為の最中も、(明日にはいない人だ)という考えが何度も差し込んできました。それを言い訳にして今夜だけの自分を許しているのに、その言い訳自体が後ろめたい。一回で終わって、彼が息を整えながら、

「正直、めっちゃ緊張してました、俺」

「そうは見えなかったです」

「見えんように必死やったんです」

ユニットバスは一人がやっとの狭さで、交代で使いました。タオルが一枚しかなくて、どちらが先に使うかでちょっと揉めた末、彼が先に譲ってくれました。喉が渇いて、彼が買ってきたコンビニの水を交代で飲みました。

朝になって、彼が「連絡先、交換しよか」とスマホを出しかけたとき、断ったのは私の方でした。

「このままの方が、きれいな気がするので」

自分で言っておきながら、その言葉が五年間の後悔の種になるとは、そのときは思ってもいませんでした。チェックアウトの受付で並ぶ時間が妙に気まずくて、駅の改札で軽く手を振って別れました。それきりです。

それから五年、私はSNSで「圭 大阪 営業」と検索する夜を何度も過ごしました。ヒットするわけがないのに、指が勝手に検索窓に文字を打ち込んでいます。友人の結婚式の写真を見返して、隅に写り込んでいる彼らしき人影を拡大したこともあります。正直、顔ももう正確には思い出せなくなってきました。声のトーンと、笑うと左だけ八重歯が見えることと、あの口癖くらいしか、確かなものが残っていません。検索履歴だけが、あの夜が現実だったという証拠でした。

その後、お付き合いした人も二人います。でもどちらも、桜が咲く時期になると私の中で何かがうまくいかなくなって、結局続きませんでした。(一夜限りが忘れられないのって、たぶん相手そのものより「もし続きがあったら」という想像を美化し続けてるだけなんだろうな)。それは自分でも薄々気づいていた分析でした。答え合わせのしようがない片思いを、五年も抱えていたわけです。

友人にこの話をすると、決まって「連絡先くらい今からでも探せるでしょ」と言われます。でも大阪の営業マンで名前が圭、なんて条件で検索して出てくるわけがないんです。それも分かった上で検索窓を開いてしまう自分に、毎回、脳内反省会の議題がひとつ増えるだけでした。

今年の春、あの結婚式の夫婦の子どもの一歳の誕生祝いがあって、また中目黒に呼ばれました。同じ町に来るだけで少し緊張するのを、我ながら大人げないと思いながら会場へ向かう途中、あのときと同じコンビニに寄りました。

レジ前で、缶チューハイを二本持った男の人と鉢合わせしました。眼鏡をかけていて、五年前より少し痩せていて、でも笑った拍子に左側だけ見える八重歯で、誰なのかすぐにわかりました。

「……圭さん?」

「え……あ、あの時の……」

お互い名前を思い出せないふりもできないくらい、はっきり顔を覚えていたことに、レジのおばさんの前で二人とも固まってしまいました。会計を済ませて外に出て、川沿いを歩きながら聞くと、実は彼、毎年この時期に東京出張があって、そのたびにこのコンビニに寄っていたそうです。

「なんでかここのチューハイの味だけ、妙に覚えてて」

「それ、無意識に理由あると思います」

「……せやな、言われてみたら」

本人だけ気づいていなかったのが、なんだかおかしくて、でも同時にちょっと泣きそうになりました。

歩きながら五年分の答え合わせをしました。彼は独身のままで、しかもつい先日、東京支社への転勤が決まったばかりだと言います。

「あの朝な、ほんまは連絡先聞くつもりやってん。でも先に断られたから、それが正解なんかなって、そのまま流した」

「それ、私が余計なこと言ったせいですね」

「まあ、俺も聞く勇気なかっただけやけどな」

しばらく無言で歩いて、コンビニの灯りが見えなくなる頃、私から言いました。

「続き、今からでもいい? 五年遅れたけど」

彼が出張用に取っているというホテルの部屋は、五年前よりは広いツインルームでした。今度はどちらも急がず、服の上から抱きしめる時間が長くて、確かめるようにゆっくり進みました。ベッドの縁に並んで座って向かい合ったまま抱き合って、そこから正常位に移りました。

途中、彼が「大丈夫か」と聞いてくれた拍子に、涙が出てきました。自分でも理由がうまく説明できなくて、行為が一度止まりかけました。

「……嫌やった? やめよか」

「違う、違います。五年分、いろいろ考えてただけで」

「ゆっくりでええから」

落ち着くまで待ってくれて、それからまた続きました。今度は彼が私の名字を尋ねてきて、フルネームで呼びました。名前を呼ばれた瞬間、五年間繰り返してきた検索窓の文字が頭の中を一気に流れて、それが全部この一言に置き換わった気がしました。

行為のあと、彼がタオルで私の汗を拭いてくれました。乾かないまま、二人並んで横になって、しばらく天井を見ていました。

「スマホ、貸してくれる? 今度こそちゃんと」

お互いスマホを差し出し合って、連絡先を交換しました。画面に彼のフルネームが表示されて、なんだか実感がわかなくて、何度も見返してしまいました。

「五年前の私に教えてあげたいです。ちゃんと聞いておけばよかったって」

「続きはまた今度な、が今度になっただけや」

そう言って、彼が例の左八重歯を見せて笑いました。今はもう、あの検索窓を開くことはありません。


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