転職先の教育係が元カレだった私の、三ヶ月間の記録

今年の4月、29歳で初めて転職しました。

前職は広告代理店の事務を5年。忙しいというより、ただただ人がすぐ辞める職場で、気づいたら私が一番の古株になっていて、それが決め手で辞めました。次に選んだのが、住宅設備メーカーの営業事務。特に強い志望動機なんてなくて、正直半分は逃げです。29歳にもなって彼氏なし歴5年、貯金もそこそこ、このタイミングを逃したらもう転職できない気がして、勢いで決めました。

入社初日、緊張しすぎてトイレに3回行きました。3回目なんてもう出るものも出ないのに、とにかく一人になりたかったんだと思います。(社会人5年目でこれって、逆にヤバくないか私)と自分でツッコミながら会議室に戻ると、扉が開いて、営業課の先輩が一人入ってきました。

その顔を見て、私は思わず息を止めました。5年前に3年間付き合っていた元カレ、高瀬さんでした。

向こうも一瞬、コンマ数秒くらい固まったのが見えました。でもそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはもう完璧な営業スマイルに戻っていました。

「営業課の高瀬です。三ヶ月間、教育係を担当させていただきます。よろしくお願いします」

(え、その設定でいくの?)

初対面のフリを、しかも完璧な敬語で。5年ぶりに再会した元カレがこの角度から来るとは思わず、私も反射的に頭を下げていました。

「よろしくお願いします」

こうして、三ヶ月間の教育係期間が始まりました。以下はその記録です。


4月の前半は、とにかく気まずい茶番が続きました。お互い敬語、お互い初対面のフリ。社内チャットで送る一文を、私は毎回10分くらい推敲していました。「承知しました」でいいのに「かしこまりました」にするべきか悩んだりして、(相手は元カレなのに、なんでこんな他人行儀な文章に命かけてるんだ私)と自分でも呆れました。

同期入社の女性に、ある日ランチで聞かれました。

「ねえ、高瀬さんと前から知り合いだったりします?なんか二人の距離感、微妙に変ですよ」

背中に冷たいものが走りました。喉の奥が詰まって、変な声しか出ませんでした。

「え、いや、全然。初めて会いました、普通に」

「ふーん」と流してくれたので助かりましたが、あれ絶対バレてる。(勘のいい女、怖い)と思いながら、その日は一日中挙動不審だったと思います。

高瀬さんの指導は、拍子抜けするくらい的確でした。大学時代の彼は、レポートを提出日当日の朝にやるようなルーズな男だったのに、今はミスした後輩を人前で絶対に指摘しない。会議室にさりげなく呼んで、二人だけのときにだけ「ここ、こう直したほうがいいかも」と静かに教えてくれる。同じ人間とは思えませんでした。

(あの高瀬くんが……)と心の中で古い呼び方が出てきて、慌てて打ち消す毎日でした。


4月末、残業帰りにコンビニで偶然一緒になりました。彼がレジ横でカフェオレを買って、砂糖スティックを2本、ためらいなく入れているのを見て、口が滑りました。

「それ、まだやってるんですね」

言った瞬間、しまったと思いました。初対面のフリのはずなのに。

高瀬さんが一瞬止まって、それからふっと笑いました。敬語が半分崩れます。

「……覚えてたんだ」

たった一言でしたが、その声のトーンが大学の頃のままで、指先が冷たくなりました。何か言わなきゃと思うのに、何も出てこなくて、結局

「あ、いや、たまたま目に入っただけです」

と、また敬語に逃げました。彼も「そうだよね」と敬語に戻って、二人でコンビニの袋を提げて別々の方向へ歩いて帰りました。均衡が少し崩れたのに、次の日会社では、また何事もなかったような完璧な敬語のやりとり。この人、いったい何を考えてるんだろう。


5月、東京ビッグサイトで開かれる住宅設備の展示会に、二人で搬入応援に行くことになりました。行きの電車、帰りの電車、設営作業の合間。二人きりの時間が普段よりずっと長くて、少しずつ昔の話が解禁されました。大学の頃のバイト先の話、共通の友人が結婚したという話。ただ、5年前に別れたときの話だけは、お互い綺麗に避けていました。触れたら壊れる薄い氷を、二人で慎重に踏まずに歩いているような感じでした。

帰り際、私が書いた搬入伝票に数字のミスがあったのに気づいて青くなっていたら、高瀬さんがもう先に直してくれていたことを後から知りました。何も言わずに。

(これ、いつ直したの……)と思うと、胃のあたりが変にじんわりして、うまく言葉にできませんでした。


5月末のある日、給湯室でお茶を淹れていたら、廊下から高瀬さんの声が聞こえました。毎週金曜の夜、決まった時間に電話がかかってくるらしく、その日もスマホ片手に楽しそうに笑っていました。

「うん、うん。それで大丈夫だって」

やけに親密な口調で、笑い方も柔らかくて。(彼女いるに決まってるじゃん、31歳だよ。むしろ今までいなかったほうがおかしい)と、聞いてもいないのに勝手に結論を出して、勝手に落ち込みました。

その日から私は、せっかく少し崩れていた敬語を、また意識的に固く戻しました。距離を取るなら今のうちだと思ったんです。

同時に、5年前の記憶がぐるぐる回りました。彼の東京転勤が決まったとき、彼から「ついてきてとは言えない」と言われて、私は静かに頷いて、それで終わりにした。少なくとも私はそう記憶しています。あれは間違いなく振られた側の記憶で、私はずっとそう思って生きてきました。


6月下旬の金曜、月次処理の残業で会社に残っていたのは私と高瀬さんの二人だけでした。21時を過ぎた頃、記録的な豪雨で最寄りの有楽町線が全線ストップしたとニュースが流れました。タクシー乗り場には長い列。傘は一本しかない中、途方に暮れていると、高瀬さんが言いました。

「……歩いて10分だから。雨やむまで、うちで待てば」

(この状況、絶対フラグじゃん)と頭のどこかで警報が鳴ったのに、他に選択肢もなくて、頷いてしまいました。一本の傘で、肩まで濡れながら歩いた10分間。1Kのアパートに着いた頃には、二人ともほとんど濡れ鼠でした。

部屋に入ってすぐ、彼のスマホが鳴りました。例の金曜の電話です。私が固まっていると、高瀬さんは通話ボタンを押して言いました。

「あ、姉ちゃん。……うん、今大丈夫。友達んちいるだけだから」

札幌の姉。彼女じゃなかった。

(よかった)と反射的に思ってしまった自分に、自分で驚きました。何にほっとしてるんだ私は。全然関係ないはずなのに。


濡れた服のまま話すのも変なので、高瀬さんが貸してくれたTシャツに着替えて、缶ビールを一本ずつ開けました。雨音がずっと続いていて、それが逆に沈黙を埋めてくれました。ぽつぽつと、5年前の話になりました。

「あの時さ、俺、ついてきてとは言えないって言った後、続きがあったんだよ」

「続き……?」

「一緒に来てほしいって、ちゃんと言うつもりだった。指輪とかまでは用意してなかったけど、そのつもりで言おうとしてた」

「え……」

「なのに、その前にお前が『わかった、別れよう』って言うから。……俺、あの日振られたのは俺の方だと思ってたんだけど」

言葉が出ませんでした。5年間、自分が振られた側だとずっと思い込んで生きてきたのに。喉の奥がぎゅっと詰まって、何か言おうとしても声にならない。

スマホの画面が光って、電車の運転再開の通知が出ました。二人とも、見なかったフリをしました。

高瀬さんが手を伸ばして、私の濡れた髪に触れました。

「あの、高瀬さん……この状況でまだ敬語なの、おかしくないですか」

思わず言うと、彼が笑って、そのまま顔が近づいてきて、キスになりました。


ソファの上で何度かキスを重ねて、彼の手が首筋から、借りたTシャツの裾をくぐって素肌に触れてきました。5年ぶりに人に触られる感覚に、体が固まってしまって、うまく動けませんでした。

高瀬さんは急かしませんでした。昔からそうでした。私が固まってると、絶対に無理に進めない。ただ待ってくれる。その間合いだけは5年経っても変わっていませんでした。

彼の指が耳の裏をそっとなぞったとき、思わず声が出そうになりました。

「え、それ……覚えてたんですか」

「そこ弱いの、忘れるわけないでしょ」

昔からの癖を覚えていたことに、泣きそうになりました。(なんでそんな細かいこと覚えてるの、こっちは5年間彼氏いなかったんだよ)と内心で叫びながら、ローベッドに移動しました。

指で少しずつほぐされて、電気をつけたままだったのが急に恥ずかしくなって

「電気、消してもらえますか……」

とお願いすると、暗闇の中でクンニが始まりました。5年前と同じ角度、同じくらいの丁寧さで、頭の芯がぼんやりしてくるのが自分でもわかりました。

いよいよ、というところで、高瀬さんが小さく舌打ちしました。

「……ごめん、これ、使用期限切れてる」

土砂降りの中、彼はコンビニまで走っていきました。玄関で一人残された8分間、私は借りたTシャツのまま膝を抱えて、いろんなことを考えました。(月曜、会社でどんな顔すればいいんだろう)(教育係と教わる側なのに、こんなことになって大丈夫なのか)(というか5年ぶりって、私ちゃんとできるのか)。心配性の性格が、こういうときだけフル稼働するのが情けなかったです。

ずぶ濡れで戻ってきた高瀬さんを見て、少し笑ってしまいました。

「五年ぶりなんだから、ちょっとは手加減してよ……」

「頑張る」


正常位で挿入が始まりましたが、緊張と久しぶりの感覚で体に力が入りすぎて、途中で痛みが走りました。

「ちょっと、待って……痛い」

「ごめん、焦った。……最初からやり直していい?」

高瀬さんはすぐに止まって、私を抱き起こして、対面座位に体勢を変えてくれました。ゆっくり、私のペースに合わせて。この体勢だと自分で角度を調整できるからか、さっきより痛みがなくて、少しずつ体がついてきました。

行為の最中も、頭の隅では会社のことがちらついていました。(明日から会議室で顔合わせるとき、絶対変な顔しちゃう)と思う一方で、高瀬さんの肩に手を回すと、大学の頃と同じ匂いがする気がして、混乱していました。5年前に戻ったみたいで、でも戻ってない。今の高瀬さんは、あの頃より肩幅もあって、動きも落ち着いていて、それが余計に現実味を持って迫ってきました。

途中、高瀬さんが一瞬動きを止めて、天井を見上げるようにして息を整えました。

「……ちょっと待って、まずい」

「大丈夫ですか」

「大丈夫。……なんでまだ敬語なの」

指摘されて、私も自分でおかしくなって、少し笑ってしまいました。そのまま彼が動きを再開して、私も声を我慢できなくなりました。最後、彼が短く息を詰めて、私の中で果てました。


汗だくで、しばらく二人とも動けませんでした。高瀬さんが無言でタオルを2枚投げてよこして、シャワーの順番を巡ってちょっと譲り合いました。彼のドライヤーは壊れかけで、風量が弱くて、髪が半乾きのまま眠ることになりました。

終電はもうとっくにない時間で、狭いシングルベッドに二人で横になりました。壁側に押し付けられて、身動きが取れなくて、なかなか寝付けませんでした。

明け方、どちらからともなくもう一度求め合いました。1回目のような緊張はもうなくて、背中から抱きしめられる体勢で、静かに終わりました。

「……やっと敬語じゃなくなったね」

その一言に、なんだか泣きそうになりました。

朝、当然ながら同じ駅から一緒に出社するわけにはいかず、私だけ一本早い電車に乗りました。彼がコンビニで買ってきてくれたおにぎりの具が、ツナマヨだったことに気づいたのは、電車の中でした。私の好きな具、まだ覚えてたんだ。


7月最初の月曜、三ヶ月の教育係期間の最終日でした。会議室で修了面談があって、書類にサインをもらう形式的な時間です。

「三ヶ月間、お世話になりました」

深く頭を下げると、高瀬さんは書類を揃えながら、静かに言いました。

「じゃあ教育係は今日で終わりなので……敬語も、今日で終わりにしませんか」

それ敬語のまま言うんだ、と思わず吹き出してしまいました。会議室で二人、ちょっと変な空気のまま笑い合って、この記録は一旦ここで終わりにしようと思います。四月に始まった敬語が、いつ本当に終わるのかは、まだわかりません。


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