クリスマスイブに残業していたのは、フロアで私と彼だけだった

12月24日、19時。

フロアの照明は半分落ちてて、うちのビルの節電ルールのせいでほぼ非常灯みたいな明るさになってる。

窓の外はたぶん世界中がクリスマスで浮かれてる時間なのに、うちの部署のフロアに残ってるのは私と、島の反対側にいる営業部の倉持さんだけだった。

なんでイブに、経理と営業の島だけ人がいるのか。説明はできる。でも先に言っておくと、あんまり誇れる理由じゃない。

私は27歳、中堅の建材メーカーで経理をやってる。入社5年目、月次処理と年末調整の担当。今回残業してる原因は、派遣で入ってる子の入力ミスだった。扶養控除のところの数字がごっそりズレてて、締切は明日の朝。誰かのせいにしたところで自分の仕事が終わるわけじゃないので、結局全部一人で洗い直すことになった。

彼氏いない歴は3年。前回別れたときから誰とも付き合ってない。イブに予定がなくて助かった、って一瞬でも思った時点で、私の人生わりと終わってる気がする。

倉持さんとは、正直そんなに接点がない。営業部だし、フロアの端と端だし、朝の挨拶と、あと半年くらい前にコピー機が紙詰まりを起こしたとき、何も言わずに直してくれたことがあるくらい。あのとき「あ、すみません」って言ったら「いや大丈夫です、これ癖あるんで」って返してきて、それだけだった。会話ってほどの会話でもない。

年齢は31歳で、私より4つ上。営業部だからもっとチャラい人かと思ってたけど、実際は真逆で、飲み会でも大声で笑ってるところを見たことがない。スーツの着方はどっちかというと雑で、ネクタイをすぐ緩めるのが癖らしく、17時を過ぎるとほぼ確実にノーネクタイになってる。そんな細かいところまで知ってる自分に、ちょっと引いた。

なのに今、フロアに二人きりでいる。

(気まずいとかじゃなくて、単純に、なんで居るんだろうこの人)

うちの会社、社員数だけなら200人くらいいる。経理は6人、営業は40人近くいるはずなのに、24日の19時に残ってるのがこの二人だけっていうのも、考えてみればちょっとした事件だと思う。総務が用意した通り、フロアの端にはまだ誰かの置き土産みたいな卓上ツリーが立ってて、電飾もつけっぱなしだった。あれだけが場違いに明るい。

そう思いながら電卓を叩いていたら、20時を回ったあたりで空調が切れた。ビルの規定で20時以降は空調が止まる。知識としては知ってたけど、実際に冷えていくフロアで一人で残業するのは初めてで、指先が動かなくなってくるのが地味にきつい。

肩にかけていたカーディガンをもう一枚重ねようとしていたら、給湯室の方から音がした。

しばらくして、倉持さんが両手にマグカップを持って戻ってきた。片方を無言で私のデスクに置く。

「ほうじ茶しかなかったんで」

「あ、ありがとうございます……」

湯気の立つマグカップを両手で包む。指がじんわり生き返る感じがした。

「経理さん、こんな時間まで何してるんですか」

「派遣さんの入力ミスの尻拭いです。倉持さんは」

「今日納品したシステムでトラブって、客先対応です。さっきようやく収まりました」

「大変ですね」

「そっちこそ。イブに経理の島、一人で残ってるの見て、ちょっと心配しましたよ」

「予定ないですし、別に。むしろイブに予定入れてないの、私の性格的に正解だったなって思ってます」

我ながら情けない返しだと思ったけど、事実だから仕方ない。倉持さんは特に驚いた顔もせず、ただ「そうですか」とだけ言ってマグカップに口をつけた。

(拾わないところが逆に楽だな、この人)

21時を過ぎたころ、倉持さんが一度フロアからいなくなった。戻ってきたときにはコンビニのビニール袋を提げていて、無言で私のデスクに肉まんをひとつ置いていった。

「え、いいんですか」

「チキンじゃなくてすみません」

「いや、肉まんの方が偉いですよ、この寒さだと」

なんの張り合いにもならない会話だったけど、話してみると倉持さんの声は思ったよりずっと低くて、変に落ち着いた。営業だから声が大きい人なんだろうと勝手に想像してたけど、全然違う。人の話を最後まで聞いてから、ちょっと間を置いて返してくる。急かされてる感じがしない。

肉まんを半分に割りながら、なんとなく聞いてみた。

「倉持さんって、イブに予定なかったんですか」

倉持さんが一瞬、マグカップを見つめて、それから笑った。

「ありましたよ。先週まで」

「先週まで?」

「3年付き合った彼女に、一週間前にフラれまして。今日のディナー、もう予約してたんですけど、キャンセル料だけ払いました」

軽い調子で言ってたけど、笑いながら言われると逆にこっちが固まる。

(なにこれ。何て返せばいいの、これ)

「大丈夫ですか」も違う気がするし、「元気出してください」も薄っぺらい。結局私は「そう、なんですね……」としか言えなくて、それっきり肉まんを食べることに集中するふりをした。

倉持さんは特に気にした様子もなく、パソコンの画面に向き直っていた。

(傷心の人と二人きりって、私、今けっこう際どい状況にいるのでは)

そう気づいたのはこのときだったけど、気づいたところで何ができるわけでもなく、私はまた電卓を叩き続けた。

仕事が終わったのは23時50分だった。年末調整のデータはなんとか整合性が取れて、あとは明日の朝、上司に確認してもらうだけになった。

伸びをしながら窓の外を見ると、いつのまにか雪が降っていた。しかも結構な量で、駅までの道はもう白くなり始めている。タクシーアプリを開いたら、周辺の車両がすべて「配車不可」になっていた。終電はとっくに終わってる時間だった。

「これ、詰みでは……」

「始発まで待つしかないですね。うちの会社、6階に応接会議室あるじゃないですか。あそこが一番マシですよ、ソファあるし」

「守衛さんに怒られません?」

「巡回、2時間おきなんで。うまくやればバレないです」

妙に具体的な数字を出してくるあたり、この人前にも似たようなことをしたことあるんじゃないかと思ったけど、聞くのはやめておいた。

6階の応接会議室は、来客用の革張りソファと、あとはテーブルと申し訳程度の観葉植物だけの部屋だった。来客用のひざ掛けが戸棚に一枚だけ入っていて、倉持さんがそれを引っ張り出してくる。

「これ一枚しかないんで、どっちが使うか問題ですね」

「じゃあ真ん中に置いといて、寒くなった方が取るってことで」

そう言ってソファの端と端に座ったのが、たぶん11時台。最初は本当にちゃんと距離を取ってた。でも空調が完全に切れた部屋は思ってたより冷えるのが早くて、気づいたら私はひざ掛けの端を引っ張り、倉持さんも反対側の端を引っ張っていて、結局二人でひざ掛けの下に肩を寄せることになった。

肩が触れる。どっちも動かない。

(動いたら変な意味になる気がして、動けない)

「……寒いんで、もうちょっといいですか」

返事をする前に、彼の手が私の手の上に重なった。指がすごく冷たくて、それなのに触れられたところだけ体温が上がっていくのがわかった。

顔を上げたら、倉持さんの顔が近くて、そのままキスされた。

(これ絶対フラれた反動だ。私、代打なのでは)

頭の隅でそう思いながらも、離れる方の選択肢を私は取らなかった。

一度だけ唇が離れたとき、私は自分でもびっくりするくらい冷静な声で聞いた。

「今夜のことは、雪とクリスマスのせいにしていいですか」

「いいですよ。俺もそうします」

免罪符が手に入った気がして、少し気が楽になった。楽になったところで、何かが正当化されるわけでもないんだけど。

キスをしながら、倉持さんの手がブラウスの裾から入ってくる。寒くて全部脱ぐ気にはとてもなれなくて、ブラウスは羽織ったまま、下だけ脱ぐことになった。ストッキングを脱がせようとした彼の手が、途中でつっかえて、ビッと嫌な音がした。

「あ、伝線した」

「気にしないでください、明日買います」

なんで謝られてるこっちが平気なフリしてるのか自分でもわからなかったけど、変に笑えて、少し空気がほぐれた。

ブラのホックも、彼の指では一発で外れなかった。

「これ、地味に難しいですね」

「安物なんで、たぶん構造が悪いんです」

そんな自己申告いらないのに、口から勝手に出てしまった。

外れたあと、彼の指と口でゆっくり慣らされていく間、私はずっと(これ会社でしていいことなのか)というのが頭から離れなかった。明日この部屋で誰かが商談するかもしれない。そう思うと余計に落ち着かなくて、一度「あの、やっぱりこれ」と止めかけたけど、廊下は物音ひとつしないくらい静かで、その静けさがかえって私の背中を押した気がする。

倉持さんは急かさなかった。私の反応を見ながら、指を進めたり止めたりする。営業のときの飄々とした感じとは違う、妙に丁寧な手つきだった。

「財布に一個だけありました。イブだから持ってたわけじゃないですからね、念のため」

言い訳がましいのがちょっとおかしくて、悴んだ指でパッケージを開けるのに時間がかかっているのも含めて、笑いそうになった。

狭いソファの上、向かい合ったまま彼の上に乗る形で繋がった。ひざ掛けはまだ肩にかかっていて、密着してないと寒いから抱き合う、という言い訳が成立していたと思う。

「声、我慢してください。守衛さん、2時間おきなんで」

「寒いからって言い出したの、倉持さんですからね」

そんな軽口を叩き合いながらも、動かれるたびに喉の奥まで声が出そうになって、私は必死にそれを飲み込んでいた。膝の裏に汗をかいてるのが自分でもわかる。ソファの縁が膝に食い込んで、だんだん痺れてきた。

「ちょっと、膝、もう限界です……」

「じゃあ、後ろ向いてもらっていいですか」

言われるまま応接テーブルに手をついた。窓の外の雪明かりだけがぼんやり部屋に入ってきていて、ガラスに映る自分と一瞬目が合って、変に恥ずかしくなる。

後ろから倉持さんが入ってきたとき、廊下の人感センサーがふっと点いた。

二人とも、繋がったまま動きを止めた。

(うそ、守衛さん)(今この体勢で見つかったら人生終わる)

数十秒、息を殺したまま固まる。センサーの光が消えて、廊下がまた真っ暗になるまでの時間が、たぶん実際より三倍くらい長く感じた。

「……大丈夫そうです」

「心臓に悪いです、これ」

そう言いながらも、止まっていた分だけ再開したときの感覚が変に鮮明で、私は口元を自分の手で塞いで声を殺した。倉持さんの息も、耳のすぐ後ろで少し乱れていた。

終わったのは、たぶん日付が変わってすぐくらいだったと思う。

動きが止まったあと、二人ともソファに座り込んだまま、しばらく口をきかなかった。汗が冷えていくのがわかって、それまでの熱さが噓みたいに、一気に寒さが戻ってくる。

備品棚にあったウェットティッシュで身体を拭いて、使用済みのゴムは倉持さんがコンビニ袋にきっちり包んで自分のリュックにしまった。

「会社のゴミ箱には……」

「無理ですね、それは」

窓を少しだけ開けて空気を入れ替える。倉持さんはひざ掛けを几帳面に畳み直し、ソファのクッションの位置まで直していた。来客用の部屋だからって、そこまでやらなくてもいいのに。

「そういうところ、妙に几帳面ですね」

「一人暮らし長いんで、癖です」

守衛さんの巡回まであと何分か、二人で逆算して時計を見た。「たぶん40分後」という結論に、なぜか二人で少しほっとした。

雪はいつのまにか止んでいて、始発が動く時間まで、私たちはソファの端と端に戻って座っていた。眠れるわけもなく、かといって話すことも見つからず、ただ時間が過ぎるのを待った。

一度だけ、倉持さんが「寒くないですか」と聞いてきたけど、ひざ掛けはもう取り合う気力もなくて、二人で肩からかけたまま、窓の外がだんだん青白くなっていくのを見ていた。誰かに見られたらまずいとか、そういう緊張はもう半分くらい抜けていて、ただ単純に、体力がなかった。

駅までの道は真っ白に積もっていて、二人並んで足跡をつけながら歩いた。何を話せばいいのかわからない距離感のまま、駅の明かりが見えてきたところで、私は結局聞いてしまった。

「これ、フラれた反動ですよね」

倉持さんは少し黙ってから答えた。

「最初はそう思ってた。途中から違った」

それ以上の説明はなかったし、私もそれ以上は聞かなかった。連絡先を交換して、始発のホームで別々の路線に分かれた。

年明けの出社日、給湯室で鉢合わせた。

気まずさで顔から火が出そうになっている私に、倉持さんはいつも通りの顔でマグカップを差し出してきた。

「次のイブも残業します?」

「……予定、空けとくって言い方はできないんですか」

倉持さんは何も言わずに、ちょっと笑っただけだった。

マグカップの中身は、やっぱりほうじ茶だった。あの夜のことを、雪のせいとかクリスマスのせいとか、免罪符を並べて誤魔化す必要はもうなさそうだった。


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