姉の旦那さんを「お義兄さん」と呼べなくなった夏の話

お盆前日、姉が「仕事が抜けられない」と言って長野の実家への帰省をドタキャンした。 代わりに私をレンタカーに乗せて帰ることになったのは、姉の旦那さん――私にとっての「お義兄さん」だった。

母からは前日にLINEが来ていた。 「お姉ちゃん来れないから、お義兄さんによくしてもらいなさいよ」 よくしてもらう、の意味がその時はまだわかっていなかった。中央道の渋滞情報を見ながら、私はただ気まずいな、と思っていただけだった。

この2時間半が、全部の始まりだった。

うちは調剤薬局で医療事務をしている。24歳。彼氏いない歴は3年、経験人数は大学時代の1人だけ。姉とは3つ違いで、昔からずっと比べられて育った。「お姉ちゃんは要領がいいのに」「なんでこの子はこう不器用なの」。そういうのをずっと聞いて育つと、恋愛のことも自分から動けなくなる。うちなんか、が口癖になった。

談合坂SAで休憩したとき、お義兄さんが「何か食べる?」って聞いてくれて、私は何も考えずに「あ、大丈夫です」って言った。何を食べたのかは正直よく覚えてない。ただ、姉の話題になった瞬間だけは覚えている。

「明日香、最近仕事忙しいみたいでさ」

そう言った時、お義兄さんの返事がワンテンポ遅れた気がした。ほんの一瞬。でも人の顔色を読むのだけは得意な私は、そこに何かがあるって気づいてしまった。

このとき既に、姉夫婦は壊れかけてた。私はまだそれを知らなかったけど。

実家に着いてからのお義兄さんは、正直、いい人すぎて逆に痛々しかった。仏壇の前で長く手を合わせてる後ろ姿。誰にも頼まれてないのに庭の草むしりを始める背中。姉が来れなかったことを、親戚のおばさんたちに代わりに謝って回る低い声。 「明日香がすみません、仕事の都合で」 何度も同じ台詞を繰り返すお義兄さんを見ながら、親戚のおばさんの一人が私にこっそり言った。 「あんたの姉さん、いい旦那さんもらったわねえ」 姉がいない場でその言葉を聞くのは、なんだかすごく変な感じがした。

二日目の夜、寝つけなくて縁側に出たら、お義兄さんが一人で缶ビールを飲んでいた。蚊取り線香の匂い。私が座ると、お義兄さんは冷蔵庫からスイカを切ってきてくれて、二人で並んで食べた。

「家に帰っても、最近誰もいないんだよね」

ぽろっと零れたその一言に、私は何て返せばいいかわからなかった。お義兄さんもすぐに気づいたみたいで、

「ごめん、忘れて。酔ってるのかな」

って笑った。でも私は忘れられなかった。その一言だけ、頭にずっと残った。

帰省最終日の朝、事件は起きた。私のスマホに姉からLINEが届いた。 「今夜はあの人いないから泊まりにおいで」 明らかに私宛てじゃない文面だった。姉は、お義兄さんが帰省中だってことを知っている。つまり、家が空いてることを知った上で誰かを呼んでる。指先がすっと冷たくなるのがわかった。洗面所に行って、意味もなく顔を何度も洗い直した。談合坂で何を食べたかは覚えてないのに、この文面は一字一句、今でも覚えている。

言うべきか、帰りの車の中でずっと悩んでいた。相手は実の姉の夫だ。私が口を出していい話じゃない。でも、黙っているのも耐えられなかった。中野で降ろしてもらう直前、私は最悪の切り出し方をしてしまった。

車を停めてもらってすぐ、私はスマホの画面を見せてしまった。お義兄さんは黙ってそれを見て、長い沈黙のあと、静かに言った。

「……うん。知ってた」

半年前から気づいてたこと。証拠も揃えてあること。お盆が明けたら話し合うつもりだったこと。淡々と話すお義兄さんを見ていたら、私は自分でも制御できないまま泣き出してしまって、口走った。

「私だったら、絶対そんなことしないのに」

言った瞬間、自分でも意味がわかって固まった。これは、姉に対する言葉じゃない。お義兄さんに対する言葉だ。 お義兄さんは怒らなかった。ただ少し困ったように笑って、

「……ありがとう。今のは聞かなかったことにするね」

そう言って車を降りていった。

聞かなかったことに、してくれなかった。

8月末、お義兄さんから連絡が来た。「明日香さんの荷物のことで」という口実で、段ボールを一つ、私のアパートに届けに来ることになった。姉夫婦が別居を始めた、その口実だってことはすぐわかった。 1Kの部屋はエアコンの効きが悪くて、麦茶を出すだけで精一杯だった。お義兄さんが帰り際、玄関で靴を履きながらぽつりと言った。

「この前の、聞かなかったことにできなかった」

その瞬間、私は人生で一番の勇気を振り絞って、爪先立ちになった。唇は最初、狙いが外れてお義兄さんの鼻に当たった。

「あ、ごめんなさい」

「……いいよ」

今度はちゃんと重なった。

ベッドまでは数歩しかなかった。キスの続きをしながら、私はお義兄さんのシャツのボタンを外そうとしたけど、緊張で手が震えて全然うまくいかない。

「ゆっくりでいいよ」

待ってくれる声に余計泣きそうになった。服の上から胸に触れられて、ブラのホックを外すのにお義兄さんが手間取って、二人で小さく笑ってしまう。

「うち、Bカップで、小さくてごめんなさい」

「……」

否定の言葉じゃなくて、お義兄さんは黙って口づけてきた。それが答えだった。指で撫でられて、壁が薄いアパートだから声を殺すのに必死だった。私も真似して触り返してみたけど、力加減がわからなくて「あ、ごめん」を何度も繰り返した。

「うち、ほんとに慣れてなくて……下手でも、怒らないでね」

「焦らなくていいよ。誰とも比べてないから」

その言葉に、姉のことを思い出して余計に胸が苦しくなった。

いざという段になって、二人ともゴムを持っていないことに気づいた。夜11時、気まずいまま二人で近所のファミマまで買いに行った。レジでは気まずさをごまかすために麦茶も一緒に買った。店員さんの顔をまともに見られなかった。

部屋に戻って、正常位で始めようとしたけど、私が緊張で力んでしまって一度うまく入らず、途中で止まった。

「焦らなくていい」

お義兄さんが額の汗を拭いながら、私の体を撫でて仕切り直してくれた。二度目でゆっくり繋がった。 「ん……っ」 中に入ってくる感覚に、変な声が出た。行為の途中、ふと姉の顔がちらついて、罪悪感でおかしくなりそうだった。それでも体は止まらなかった。うっかり「お義兄さ」まで言いかけて、慌てて飲み込んだ瞬間があった。それに気づいたお義兄さんが動きを止めて言った。

「ごめん、名前で呼んで。今だけでいいから」

「……ゆきの、です」

初めて自分の下の名前を、この人の前で口にした気がした。 1回目はそのまま正常位で、お義兄さんが割と早く終わってしまって、

「ごめん、久しぶりで」

って恥ずかしそうに謝った。私はその謝り方が、なんだか妙に安心できた。

2回目は、横向きで背中から抱かれる形だった。1回目より体の強張りがだいぶ解けていて、選ばれた実感みたいなものと、独占欲みたいな感情が混ざって、自分でも戸惑うくらい素直に声が出た。姉に対して悪いと思う気持ちは消えなかったけど、それ以上に「初めて自分が選ばれた」という感覚のほうが強かった。

事後、扇風機を最強にしても二人とも汗だくだった。シャワーの順番を譲り合って、結局私が先に浴びた。出てくると、お義兄さんはベッドの縁に座ってスマホも見ずにじっとしていて、その左手にまだ結婚指輪があるのが見えてしまった。何も言えなかった。買ってきた麦茶を、コップも使わずに二人で回し飲みした。沈黙は気まずかったけど、なぜか嫌ではなかった。

いま、姉夫婦は離婚調停中だ。母は何も知らない。私はお義兄さんと月に二、三回、会っている。あの夏から、私はこの人を「お義兄さん」と呼べなくなった。かといって、下の名前で呼ぶのもまだ怖い。呼びかけるとき、いまだに一瞬詰まる。その一瞬に、多分、全部が詰まっている。


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