残業続きの決算期、鬼上司がくれた缶コーヒーから始まった話

3月、決算期。うちの経理部はここ二週間、毎晩22時を軽く超える残業が続いていた。

日本橋の本社ビル、10階の経理フロア。コピー機の音とキーボードの音だけが響く中、最後まで残るのはいつも二人だった。私と、経理課長の佐伯さん。社内で「鬼の佐伯」って呼ばれてる、あの人だ。

自己紹介は後にする。とにかくその夜、初めて課長が私の机に何かを置いた。それだけ、まず覚えておいてほしい。

本題に入る前に一応、自分のことを説明しとく。食品商社の経理部に入って2年目、26歳。簿記2級は二回目でギリギリ取った。彼氏いない歴はイコール年齢マイナス3、つまり3年。男の人と目を合わせて話すのが未だに苦手で、取引先との電話ですら手のひらに汗をかく。仕事は真面目にやってるつもりだけど、要領は良くない方だと思う。決算期になるたび泣きそうになるのは、もう毎年の恒例行事だった。

その日も22時半を過ぎて、フロアには私と課長しかいなかった。目の奥が痛くて、1階の自販機まで缶コーヒーを買いに下りて、戻ってきたら、課長がちょうど自分の席に戻るところだった。

机の上に、見覚えのない缶がコトンと置いてある。ジョージアの微糖、ほんのり甘い方のやつ。

「甘いもん入れないと、電卓の指が止まるぞ」

それだけ言って、課長はさっさと自分の席に戻ってしまった。

(え。今、鬼が、私に……?)

意味がわからなくて、しばらく缶を見つめたまま固まってた。佐伯課長といえば、部下の言い訳を一切許さない人で有名だ。会議中に「その根拠は?」と聞かれて泣いた新人を、今年だけで二人見た。声は低いのに、なぜか会議室の一番奥まで通る。

でもその日から、残業する夜には必ず、私の机に缶コーヒーが置かれるようになった。

決算も後半に差し掛かったころ、私は派手にやらかした。仕訳の勘定科目を間違えて、月次の数字がどうやっても合わなくなったのだ。

気づいたのは夜9時過ぎ。血の気が引いた。今月中に絶対合わせなきゃいけない数字が、98万円近くズレてる。

震える足で課長の机まで報告に行った。怒鳴られる覚悟はできてた、つもりだった。

「すみません、課長。仕訳を間違えたみたいで、月次が合いません……」

「いくらズレてる」

「たぶん、98万くらい……」

怒鳴られると思ったのに、課長は怒鳴らなかった。ただ椅子を私の机の方に引きずってきて、静かに座った。

「数字は嘘つかないから、遡ればわかる。順番に見るぞ」

それから深夜2時まで、二人で伝票を一枚ずつ遡った。課長のパソコンの光だけがフロアを照らしてて、隣に座られてるのがものすごく緊張したのを覚えてる。

原因は私の単純な入力ミスだった。見つけたときは泣きそうになったけど、課長は「見つかったな」とだけ言って、タクシー代を黙って渡してきた。

「え、いいです、電車あるので……」

「もう終電ない。いいから乗れ」

お札を渡されるとき、課長の手が思ったより大きいことに気づいた。指も長くて、爪が短く切り揃えられてる。(って、なんで私、上司の手なんか見てるんだろう)

それから、残業の合間に1階の自販機の前で立ち話するのが習慣になった。

課長は毎朝5時起きで弁当を自分で作ってるらしい。意外すぎて二度聞き返した。左手の薬指に、指輪の跡みたいなうっすらした線が残ってることにも、その頃気づいた。聞いていいのか迷って、結局その場では聞けなかった。

会話は正直、あんまり噛み合わない。私が最近ハマってる推しの話をしても、課長は「その人らのグッズって減価償却できるのか」とか真顔で聞いてくる。

「課長、それ経理の話と関係ないですよ」

「関係なくはないだろ。物には全部、耐用年数がある」

嚙み合ってないのに、なぜか気が抜けるようになっていく自分がいた。

給湯室でお茶を入れてたとき、隣で総務の子たちが話してるのが聞こえてきた。

「佐伯課長、決算終わったら大阪支社に異動らしいよ」「うわ、いなくなったら経理部どうなるの」

体温がすっと下がった気がした。理由はわからない。ただの上司なのに。

その週、疲れが溜まってたのか、私はまた同じ種類のミスをやった。今度は課長も本気で怒った。

「前も同じところで間違えただろ。何回言えば直る」

「すみません……」

「すみませんで済むなら、決算なんて要らない」

初めて本気で怒鳴られた。悔しくて情けなくて、下を向くしかなかった。

その夜から、机に缶コーヒーが置かれなくなった。

たかがコーヒーだ。なくたって死なない。なのに、机の上が寂しくて、それだけで泣きそうになる自分がいた。(コーヒーがないだけでこんなに堪えるの、おかしくない?)そのおかしさに、自分だけが気づいていなかった。

決算締めの最終日、記録的な大雪が降った。ニュースで「10年に一度」って言われてたやつだ。

残高チェックが全部終わったのは深夜1時。窓の外は真っ白で、フロアの照明を反射してやけに眩しかった。

スマホでタクシーアプリを開いたら、全部「配車できません」の表示。駅に確認しても、終電はとっくに出てるどころか、その前の何本かがもう運休してた。

途方に暮れてると、課長がコートを羽織りながら、目を合わせずにこう言った。

「……徒歩10分に俺の部屋がある。風呂と暖房だけ貸す。それ以上は何もない」

正直、断る選択肢が物理的になかった。タクシーは来ない、電車もない、フロアに泊まるには寒すぎる。雪の中を10分歩く方が、まだ現実的だった。

(これは、あくまで緊急避難だから)自分にそう言い聞かせながら、課長の後をついて雪道を歩いた。

課長の部屋は、意外なくらい片付いた1LDKだった。物が少なくて、生活感が薄い。コーヒーメーカーの横にドリップバッグが何種類も並んでるのだけが、やけに丁寧だった。

缶じゃなくて、ちゃんとお湯を注いで淹れてくれた。マグカップを渡されるとき、指先が触れた。私の指はもう雪でかじかんで、感覚が半分なくなってた。

「……冷えすぎだろ」

課長が私の手を、マグごと両手で包んだ。大きい手に、すっぽり収まった。

「あの、課長、大阪に異動するって、本当ですか」

給湯室で聞いた話を、なぜか今、口にしてしまった。

「まだ内示も出てない。……誰から聞いた」

苦笑いする課長の目尻に、疲れたシワが寄る。近くで見て初めて、「怖い人」じゃなくて、ただの「人」に見えた。

そのまま、どっちからともなく顔が近づいて、唇が触れた。正直、どっちから動いたのか、今でもよく思い出せない。覚えてるのは、マグカップの熱さと、課長の手のひらの熱さが同じくらいだったことだけ。

ソファに移動して、キスの続きをした。私はもう身体が硬くなってて、肩が上がりっぱなしだったと思う。緊張で息の仕方すらわからなくなってた。

「無理なら、風呂入って寝ろ」

一度、課長が身体を離した。優しさだってわかったけど、その手が離れる瞬間、私は課長の袖を掴んでた。自分でもびっくりした。

「……名前で呼んでいいから。課長って呼ぶな、今だけでいいから」

名前で呼ばれたことなんて一度もなかったのに、そのとき初めて下の名前を呼ばれて、それだけで身体の力が抜けた気がした。

ブラウスのボタンを外す課長の手つきは、驚くほど丁寧だった。伝票をめくるときと同じ速度、同じ丁寧さで、一つずつ外していく。(この手、伝票と同じ扱い方するんだ)と思ったら、おかしいのと恥ずかしいのとで、変な声が出た。

冷えた指先に息を吹きかけられて、耳と首筋に唇が触れる。怖いはずの人の手が、こんなに優しいのは反則だと思った。快感より先に、(鬼の佐伯が、私に、なんで)って混乱の方が強かった。

寝室に移動したはいいけど、暖房を入れ忘れてたのに気づいたのは布団に入ってからだった。二人でくっつくしかない寒さで、それが逆にちょうどよかったのかもしれない。

避妊具のパッケージを開けようとした課長が、暗くて見えなかったのか、枕元に置いてあった眼鏡をかけた。

「課長、老眼鏡持ってるんですか」

「老眼じゃない。ただの近視だ、黙ってろ」

思わず笑ってしまって、ちょっとだけ緊張が緩んだ。

正常位で、ゆっくり始まった。

「痛かったら言え」

「大丈夫、です……」

大丈夫じゃなかった。緊張と寒さで身体が強張ってて、途中で左足の裏側がぎゅっと固まる感覚がきた。つった。

「ごめんなさい、足、つりました……最悪だ私」

「動くな、伸ばすぞ」

課長が一旦離れて、私のふくらはぎを両手で押して伸ばしてくれた。こんな状況でストレッチされるとは思わなかった。(決算の伝票扱うのと同じ手つきで足も伸ばすんだ、この人)と思ったら、また笑いそうになった。

足がおさまってから、体勢を変えて、横向きで後ろから抱かれる形になった。

「こっちのが楽だろ」

低い声が耳のすぐ後ろで聞こえて、自分の脈が首筋のあたりでどくどく鳴ってるのがわかった。ゆっくり動かれるたびに、課長の息が耳にかかる。

「数字は嘘つかないんですよね。じゃあ今の課長の心拍数、聞いてもいいですか」

半分照れ隠しで言ったつもりだったのに、課長が一瞬止まった。

「……嫌でも聞こえてるだろ、背中に」

言われて初めて、自分の背中に触れてる課長の胸の音が、思ったより速いことに気づいた。(鬼の佐伯がこんな……)信じられない気持ちの方が、気持ちよさより先に立ってた。

低い声を我慢するみたいに殺しながら、課長が動くペースを少し速めた。私は枕に顔を埋めて、声を抑えるのに必死だった。

「……そろそろ、出る」

「あ……ん」

短く息を吐く声が耳の後ろで聞こえて、それで終わった。二人とも、しばらく動けなかった。

汗で湿ったシーツの感触が、じわっと気まずさを連れてきた。交代でシャワーを浴びて、私は着替えがないから、課長のワイシャツを一枚借りることになった。

「明日、これで出社するわけにはいかないですよね……」

「乾かせば着れるだろ、ブラウス」

洗面所で私のブラウスを手洗いして干す課長を見ながら、これはこれで気まずいなと思った。無言でドライヤーを渡されて、無言で受け取る。会話にする勇気が、お互いなかった。

明け方、まだ薄暗いうちに、寝ぼけた課長に後ろから抱き寄せられた。二回目だった。一回目にあった混乱はもう消えてて、ただ、甘えていいんだって思えてる自分に、自分で驚いた。(さっきまであんなに信じられないって思ってたのに、現金だな私)

雪かきのスコップの音で目が覚めた。カーテンの隙間から、白い光が差し込んでる。

課長はもう起きてて、台所で味噌汁を作ってた。5時起きの習慣は、こんな朝でも変わらないらしい。食卓には味噌汁と、なぜか缶コーヒーが一本置いてあった。家なのに、缶。

「家なのに缶コーヒーなんですね」

「……買い置き、切らしてなかっただけだ」

時間をずらして出社した。フロアに着いたときには、課長はもう普段どおりの「鬼の佐伯」に戻ってた。誰かにバレるようなミスは、お互い一切しなかった。

でもその夜、残業する私の机に置かれた缶コーヒーの銘柄が、いつもの微糖から、BOSSのカフェオレに変わってた。それだけで、二人だけのサインだってわかる自分がいる。

異動の内示は、まだ出ていない。

これを書いてる今も、私の机の上の缶は、カフェオレのままだ。


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