兄の親友が泊まりに来た夜、台所で二人きりになった話

お盆前の8月、私は掃除もしていない部屋のまま兄からのLINEを見て固まっていました。

「今日ハル泊まるから」

それだけです。時刻は朝の7時半。用件は一行、既読無視されることも織り込み済みという感じの、いつもの兄の連絡でした。私はその瞬間、社会人2年目、実家暮らし、調剤薬局の受付という肩書きを一瞬全部忘れて、洗面所の鏡で自分の前髪を見つめました。切りすぎたやつです。美容師さんに「短めで」って言った私が悪いんですけど、こういう日に限って短すぎる。

ハルさんというのは兄の高校からの親友で、私が高校生の頃からずっと、誰にも言えずに好きだった人です。3つ上で、当時から兄と一緒によくうちに来ていました。(今さらどうしろっていうんだ、この前髪で)と思いながら、私は結局いつも通り仕事に行きました。

仕事中も、頭の隅にずっとハルさんのことがちらついていました。処方箋を受け取りながら、(何年ぶりだっけ、去年の正月に一瞬顔合わせたきりだよな)と指折り数えている自分に気づいて、(社会人にもなって何やってるんだ)と自分に呆れる始末です。定時で上がって、家に帰る道すがらコンビニでいつもより1本多くビールを買いました。理由はうまく説明できませんが、たぶん景気づけです。

夕方、玄関のチャイムが鳴って、ドアを開けたらそこにいたのは記憶よりちょっと日に焼けた、相変わらずの人でした。現場仕事をしているとは聞いていたけど、腕とか首の後ろとか、色の差がくっきりしていて、ああ本当に働いてるんだなという感じ。

おー、ちっちゃいの。まだ家いたのか

7年ぶりに近い再会の第一声がそれでした。あだ名も、距離感も、高校の頃のまま。私だけが勝手に7年分ドキドキしているという非対称さに、心の中で(そっちは全然変わってないのに、私だけ忙しいな)と突っ込んでいました。

…います。実家暮らしなので

だよな、聞いた聞いた。薬局で働いてるんだって?

そのくらいの会話で終わって、ハルさんは兄の部屋に荷物を置きに行きました。私はキッチンで麦茶のグラスを3つ出しながら、(本当にただの「兄のオマケ」くらいにしか思われてないんだろうな)と自分に言い聞かせていました。

夕飯は缶ビールを挟んで3人でした。兄は私の仕事のことを「事務のくせに薬の名前とか覚えてんの、暗記脳」とか茶化すだけなんですけど、ハルさんだけは違いました。

調剤事務って、あれだろ、薬の名前とか用量とか全部覚えるやつ。何千種類あるんだっけ、それ

え、覚えてるっていうか、その都度確認するというか…全部は無理です、さすがに

そうなんだ。大変そうだな、それ

真面目に食いついてくるので、私のほうが戸惑ってしまいました。兄はゲラゲラ笑いながらスマホを見ています。そのあとハルさんが「そういえば」と切り出したのが、私の高校の文化祭の話でした。

お前んとこのクラス、クレープの模擬店やってただろ。俺、あの時2個買ったんだよな。バナナチョコと生クリームいちご

覚えてないと思っていました。もう7年も前の、しかも私が焼いてすらいなかった屋台の話です。(なんでそんな細かいこと覚えてるんですか、この人)と、心臓のあたりがじわっと熱くなるのを感じながら、私は「よく覚えてますね」としか返せませんでした。

覚えてるっていうか、あの時ちっちゃいのが「2個は多くないですか」って心配してきたのが面白くてさ

え、そんなこと言いました、私

言った言った。生徒会でもないのに屋台の売上心配するやつ、他にいないだろ

兄が「そういう変なとこあるんだよな、こいつ」と割り込んできて、3人で笑いました。笑いながらも私は内心、(そんな昔のやりとりまでストックされてるって、どういう記憶力してるんですか)と落ち着かない気分でいました。

兄が先に酔いつぶれて、9時過ぎには自分の部屋に消えていきました。残された私とハルさんは、なんとなく縁側に麦茶を持って出ました。蚊取り線香の匂いと、遠くのほうから聞こえる祭り囃子。8月の実家って、こういう夜の音が妙に大きく聞こえるんです。

彼女さん、平気なんですか。急に泊まりとか

探りを入れるくらいのつもりでした。本当に、それくらいの。麦茶のグラスに浮いた氷が溶けて崩れる音がして、返事が来るまでの数秒が、やけに長く感じました。

あー…別れた。結婚の話まで行ってたんだけどな

笑いながら言われて、私は麦茶を注ぐ手を止めました。(じゃあ今回の泊まりって、要するに傷心旅行ってやつか)と気づいた瞬間、さっきまでの文化祭の話の温度も、全部「暇つぶしに付き合ってもらってただけ」に見えてきてしまって。自分でもわかるくらい声のトーンが下がったと思います。

…そうなんですね。おやすみなさい

逃げるように部屋に戻りました。布団に入っても、全然眠れませんでした。

午前1時を過ぎたころ、喉が渇いて我慢できなくなって、私は電気もつけずに階段を下りました。冷蔵庫の扉を開けた瞬間、目の前に人がいて、心臓が止まるかと思いました。

あ、ごめん、驚かせたか

流しの前に立って、コップの水を飲んでいたのはハルさんでした。冷蔵庫の明かりだけが台所を照らしていて、変な静けさがありました。

眠れないの、お互い様だな

麦茶のポットを挟んで、小声のやりとりが始まりました。

さっき、急に部屋戻っただろ。俺、なんか変なこと言ったか?

正直に言えばよかったのに、ごまかそうとして、でも結局ごまかしきれませんでした。

…私、高校の時からハルさんのこと好きだったので。失恋の話、聞きたくなかったんです

言ってしまってから、頭の中が(は? 何言ってんの私)でいっぱいになりました。冷蔵庫の光の中で、ハルさんはしばらく黙っていました。笑われると思っていたのに、笑いませんでした。

気づいてた。気づいてたけど、〇〇の妹だから、見ないふりしてた

〇〇というのは兄の名前です。ハルさんは少し間を置いてから、続けました。

傷心の代わりにするのは嫌だから、ちゃんと言わせて。代わりなんかじゃないよ。順番が今日になっただけ

台所で、麦茶のグラスを持ったままキスをされました。冷蔵庫の扉が独りでに閉まって、あたりが真っ暗になりました。

兄と両親が寝静まった家の中を、手を引かれて2階に上がりました。階段の3段目が軋むことを教えたのは私です。「ここ踏むと音するので」と小声で言いながら、自分の部屋のドアを開けて、慌ててベッドの上のぬいぐるみを棚の奥に伏せました。子どもっぽいと思われたくなかったからです。

声、出したら終わりだからな。この家、壁うっすいの知ってるし

ベッドの縁に並んで座って、さっきの続きのキスをしました。麦茶で冷えた指が背中に触れてきて、びくっとしてしまいます。

つめたい

ごめん

服の上から胸に触れられて、私は内心(Bしかないんだけど、がっかりされないかな)とずっと自虐していました。ハルさんは急かさずに、部屋着の中に手を入れる前に、毎回「平気?」と小声で聞いてきました。

平気?

…はい

そのたびに私は小さく頷くだけで精一杯で、まともに声を出せた自信がありません。日焼けした腕とか肩幅とか、遠目に見てきたものが今すごく近くにあるという事実だけで、頭のほうがいっぱいいっぱいでした。ハルさんの手は指の節がごつごつしていて、その大きな手のひらが背中を這うたびに、想像していたより優しい触り方をするんだなと、変なところで感心してしまいました。

服の裾から手が入ってきて、部屋着ごと脱がされる段になって、私は思わず両腕で自分の胸を隠しかけました。

あの、期待してるようなサイズじゃないので…すみません

…何の話だよ。そんなこと気にしてたのか

笑われるかと思ったら、真顔で聞き返されて、逆に恥ずかしくなりました。指でゆっくりほぐされている間、正直、気持ちいいという感覚よりも、「この人が今、私の部屋にいる」という事実のほうが信じられなくて、頭がそっちでいっぱいでした。天井の豆電球の薄明かりの中、ハルさんの顔が近くにあることが、まだどこか現実感のないまま進んでいきました。

避妊具はハルさんの旅行バッグのポーチから出てきました。暗い部屋の中、封を開けるのに二人して手間取って、無言のまま格闘するみたいな時間がありました。何回か指が滑って、お互い小さく笑ってしまいました。

…これ、どっちから開けるんだっけ

私に聞かないでください

小声で言い合いながら、結局スマホのライトを一瞬だけつけて確認する羽目になりました。こんな緊張感のある場面なのに間抜けだなと、私もハルさんも同時に笑いをこらえていました。

正常位で、ゆっくり入れてもらいました。経験がほぼないに等しい私は、体が強張ってしまって、痛みのほうが先に来ました。

ごめん、ちょっと待って。…ゆっくりなら、たぶん平気

焦った、ごめん

ハルさんは額をくっつけて、そのまま待ってくれました。しばらくして再開すると、今度はベッドがぎしぎし軋む音にお互いビビって、抱き合うような横向きの体勢に変えました。動きは小さくなったけど、そのぶん密着していて、耳元で息の音がはっきり聞こえます。

そのタイミングで、隣の部屋から兄のいびきが聞こえてきました。地響きみたいな、いつもの兄のいびきです。ハルさんが肩を震わせて笑いをこらえているのが伝わってきて、私もつられて、声を出せないまま笑ってしまいました。(こんな状況で笑うか、普通)と思いながらも、笑いながらのほうが不思議と力が抜けて、体の強張りもいつの間にか緩んでいました。

…笑うと締まるんだけど

知りません、そっちが笑わせたんじゃないですか

小声で言い合いながらも、動きは止めませんでした。横向きのまま、耳元でハルさんの息が少しずつ荒くなっていくのがわかって、私は枕に顔を半分埋めながら声を殺し続けました。指の節がごつい手が私の腰をつかむ力が強くなって、最後は二人ともほとんど息だけで、声にならない声を漏らして終わりました。1回きりでしたが、声を殺したまま最後まで通せたことに、終わってからほっとしている自分がいました。

終わったあと、二人とも汗だくで、枕元にあった古いフェイスタオルを1枚、交代で使いました。扇風機の首振りを二人のほうに向けて、しばらく黙って風に当たっていました。

ハルさんは朝バレないように、客間の布団に戻る前に、台所で残っていた麦茶をコップに半分ずつ分けて飲みました。冷蔵庫の明かりの中でグラスを合わせるでもなく、ただ交互に口をつけるだけの静かな時間でしたが、さっきまでの緊張が嘘みたいに落ち着いていました。

…また、ちゃんと連絡する

はい

それだけ言って、ハルさんは足音を殺しながら客間へ戻っていきました。私は自分の部屋でシーツを見て、(明日、これどういう言い訳で洗濯機に入れよう)とぼんやり考えながら、朝が来るのを待ちました。汗の匂いのするシーツを丸めて、とりあえず衣装ケースの奥に押し込んでおくことにしました。

翌朝、リビングに降りると兄が寝ぼけ眼で言いました。

「お前ら、夜中までコソコソ何話してたの」

私とハルさんは目を合わせて、同時に答えてしまいました。

「麦茶の話」

声が完全に揃っていて、兄が「うわ気持ち悪」って顔をしたのを覚えています。

そこから連絡が続くようになって、3回目のデートで正式に付き合うことになりました。年末に兄に報告したとき、兄は「は?」と言ったきり、3日くらい口をきいてくれませんでした。今は普通に3人でまた飲んでいます。

ハルさんはもう、私のことを「ちっちゃいの」とは呼びません。


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