受付って、独身が飾られる棚みたいなもんよな、と思う。
29歳、彼氏いない歴4年、ご祝儀貧乏。10月の三連休、地元の同級生グループで紅一点だったミサキの結婚式に呼ばれて、私は岡山の倉敷まで帰ってきていた。頼まれたのは受付。新婦側の受付は独身の女友達が担当する暗黙の慣習があって、今年もその棚に私が並べられた形になる。
式場のロビーは金木犀の匂いがした。毎年この時期になると倉敷のどこを歩いてもこの匂いがするんだけど、東京にいるとまったく気づかない。実家に帰ってきたときだけ、あ、今年も咲いとるわ、と思い出す。そういう匂いだった。
東京の医療機器商社で経理をやっている私は、数字の帳尻を合わせるのは得意なのに、自分の恋愛の帳尻はずっと合わないままだった。合コンも二回くらいは行った。続かなかった。忙しいを言い訳にして、結局ここ4年、誰とも付き合っていない。
受付の机に着くと、もう一人の受付係がすでに座っていた。
「芳名帳、そっち置くで」
その第一声で、心臓が変な音を立てた。振り向くと、そこにいたのはハルだった。中学まで一緒に登下校していた幼馴染で、高2から高3の卒業まで付き合っていた元カレ。上京と彼の地元就職ですれ違って、そのまま自然消滅みたいに別れて、もう7年になる。以来、法事と成人式でしか顔を合わせていない。
久しぶり、のひとことすら、なかった。
「あ……うん、こっちね」
動揺したまま席に着いて、最初のご祝儀を受け取った瞬間、名前を書き間違えた。二重線で消して、隣にもう一度書き直す。ハルはそれを見て何も言わずに、次の招待客に「こちらへどうぞ」と声をかけていた。
礼服の肩幅が、高校の頃と別人だった。あの頃はひょろっとしてたのに、消防士になってから勝手についたらしい筋肉で、レンタルじゃない自前の礼服の肩がパツパツになっている。目のやり場に困って、私は芳名帳ばかり見ていた。
披露宴が始まって、同級生テーブルの隣にハルが座った。誰が決めた席順かは知らないけど、たぶん幹事の誰かが余興として仕組んだんだと思う。
余興のダンスがグダグダに崩れていくのを見ながら、ぽつぽつと会話が戻ってきた。
「相変わらず飯、遅いんな」
「うちが遅いんじゃない、そっちが早いんよ」
こういうやり取りだけは、7年経っても勝手に体が覚えていた。それが逆に怖かった。
酔った同級生のコウジが、マイクを持ってもいないのに大声で言った。
「おい、ヒカリとハル、次はあんたらの番やろ!元サヤで一発いっとけや!」
テーブルが一瞬、変な空気で固まった。私は愛想笑いで誤魔化したけど、ハルは笑わずに烏龍茶を飲んでいた。表情が動かない。
(怒っとるんかな、うちのこと)
勝手にそう思って、勝手に落ち込んだ。よく考えたら怒る理由もないのに、7年前に自分から東京を選んで彼を置いていった負い目みたいなものが、こういう瞬間にだけ顔を出す。
二次会は近くのバルを貸し切ってのビンゴ大会だった。景品はペア温泉券。当たったのは、よりによって私だった。
「おー、ヒカリ当てたんか!相手誰と行くん?」
またその流れか、と思いながら苦笑いで受け流した。ヒールを履いて何時間も動き回った足が、もう限界に近かった。かかとの内側がじんじん痛む。
壁際の椅子に座り込んで足をさすっていると、隣の会話が途切れたと思ったら、ハルが黙って自分の椅子を持ってきて、私の椅子と位置を入れ替えた。壁にもたれられる楽な席が私に、通路側の落ち着かない席が彼に。
「え、なんで」
「そっちの方が楽じゃろ」
会話より先に体が動く。昔からそうだった。ヒールで足が痛いことに、私より先に気づくタイプ。7年経ってもそこだけは変わっていなくて、胃の奥がずんと重くなった。
(これ、うちが勝手に意識してるだけよな)
そう自分に言い聞かせたけど、うまく信じられなかった。
化粧直しに立ったトイレで、個室の中にいた私の耳に、外で立ち話する同級生の声が入ってきた。
「ハル、来年式挙げるらしいよ。式場の下見しとったって」
「マジで?相手誰なん」
「知らんけど、消防団の何人かと一緒に会場見て回っとったの、ウチの妹が見たって言うとった」
膝から冷えていく感覚がした。個室のドアを開けて出る気になれなくて、しばらく便座に座ったまま動けなかった。
(そりゃそうよな。29やもん。うちだけがまだうろちょろしとるだけで)
二次会の後半のことは、正直あまり覚えていない。ウーロンハイを何杯飲んだかも覚えていない。気づいたら終電の時刻をとっくに過ぎていて、店の外でハルが「送るわ」と言っているのをぼんやり聞いていた。
川沿いの道を、二人で歩いた。等間隔に街灯が並んでいて、その隙間の暗がりに入るたびに金木犀の匂いが強くなる。実家の方向とハルの家の方向が途中まで同じで、たぶんそれだけの理由でこの道を選んだんだと思う。
しばらく無言だった。ヒールの音だけが響く。
「次はお前の番な」
前を見たまま、ハルがぼそっと言った。あの披露宴での茶化しと同じ言葉。ただ声のトーンだけが違った。
トイレで聞いた噂が頭をよぎって、つい皮肉が口から出た。
「そっちが先やろ。式場、下見しとるらしいやん」
ハルが足を止めて、こっちを見た。心底わからないという顔で。
「式場?なんの話」
「コウジの奥さんから聞いたって……来年式挙げるって、消防団の人らと下見しとったって」
一拍おいて、ハルが小さく笑った。右側だけ口角が上がる、あの笑い方。
「それ、出初式の会場確認じゃ。うちの分団、来年の当番なんよ」
一気に力が抜けた。膝の裏が汗ばんでいるのがわかる。自分の浅ましさに顔から火が出そうだった。噂ひとつで勝手に膝から冷えて、勝手に卑屈になっていた自分が恥ずかしい。
「……なんじゃそれ」
「なんじゃそれ、はこっちのセリフじゃ」
ハルがまた歩き出して、私も横に並んだ。少し間があって、彼が続けた。
「さっきの、『次はお前の番な』って。……俺の隣でって意味で言ったんやけど、伝わっとらんかったか」
心臓が首筋で鳴っているのがわかった。7年越しの告白って、こんなに素っ気ない言い方でくるものなんだ、と場違いなことを考えた。
「……『次はお前の番な』って、最初からこういう意味やったん?」
「さぁな」
はぐらかされたのか、照れ隠しなのか、わからなかった。でも彼の耳が赤いのは、街灯の下でもはっきり見えた。
終電はもうない。ハルのアパートは消防署から徒歩5分の1Kで、「茶だけ飲んで始発待てば」という彼の言葉について行くことにした。実家に帰るには中途半端すぎる時間だったし、正直、まだこの人の隣にいたかった。
玄関を開けて、笑ってしまった。部屋自体は片付いているのに、玄関だけ出動用のスニーカーがきっちり整列している。
「なにその几帳面さ」
「仕事柄な」
ソファに二人で座ると、間に30センチくらいの距離があった。ハルが湯呑みにお茶を淹れてくれて、私はそれを両手で持ったまま、意味もなく話し続けた。ミサキの新婚旅行の話、コウジの酔い方、東京の家賃、どうでもいいことばかり。緊張を誤魔化すには、しゃべっているしかなかった。
「……もう黙っとってもええで」
湯呑みを取り上げられて、テーブルに置かれた。
キスは彼からだった。唇が触れる瞬間、目を開けたままの自分に気づいて、慌てて閉じた。
背中のファスナーが途中で引っかかって、下りなくなったのはその直後だった。パーティードレスの安いやつで、こういうときに限って生地を噛む。
「ちょっ、待って、下りん」
「どこで止まっとる」
「肩甲骨の下くらい……痛っ、髪引っ張らんで」
二人がかりで格闘して、結局ファスナーの金具に絡まった髪を一本引き抜くことになった。地味に痛かった。でもそのおかげで、さっきまでの変な緊張感が一回全部ほどけた。
「なんかもう、色気もクソもないな」
「うるさい、笑うな」
首筋にキスされて、次に鎖骨、それから手のひら。順番が高校の頃とまったく同じで、それに気づいた瞬間の方が、この後のどんな行為よりよっぽど恥ずかしかった。7年経っても体の癖って変わらないものなんだ。
彼の手が下着の中に伸びてきたとき、なんとなく次に何をされるかわかって、先に止めた。
「あの、それはまだ無理」
「ん、わかった」
あっさり引いてくれたことに、逆にほっとした。代わりに手で触れられて、力が抜けていくのがわかる。私も彼のシャツのボタンを外して、手のひらで胸のあたりに触れた。それくらいしか、こっちからできることがなかった。
「ゴム、どこじゃったかな」
ハルが裸のまま立ち上がって、洗面所の方に走っていった。しばらくして戻ってきたとき、手に持っていたのは防災用リュックだった。
「なんでそこに」
「備蓄品と一緒に入れとった気がして……あった」
その適当さに笑いそうになったけど、笑う余裕もあまりなかった。
「ごめん、4年ぶりなんよ……ちょっとだけ待って」
正直に言うと、ハルは急かさなかった。
正常位で、浅く、ゆっくり入ってきた。それでも途中で痛みが強くなって、思わず彼の腕を掴んで止めた。
「ちょっと、待って」
「うん」
それだけ言って、ハルは動きを止めた。息だけが聞こえる時間が続いた。焦らせない呼吸に、こっちの体が少しずつ緩んでいくのがわかった。
「無理すんな。今日逃げられても、もう追いかけ方わかっとるし」
その言い方が妙に彼らしくて、力が抜けたところでもう一度浅いところから始まった。少しずつ深いところまで受け入れられるようになって、途中から体を起こして、対面座位に変わった。彼の首にしがみついて、ゆっくり動く。
こんなときに考えることじゃないけど、鼻先に感じるこの人の匂いが、金木犀じゃなくて洗剤とほんの少し煙の匂いだということに気づいた。ずっと消防士の匂いってこんな感じなんだ、と思った瞬間、なぜか泣きそうになった。
「……なんか、変な顔しとる」
「うるさい、集中して」
余裕なんてなくて、ただしがみついているだけだったけど、それでも十分だった。最後、彼が小さく息を詰めて動きを止めたとき、私も一緒に力を抜いた。
そのまま少し眠って、目が覚めたら外がうっすら明るかった。日勤の彼が起きる時間まで、まだ余裕があるらしい。
二回目は、後ろから抱きしめられる体勢で始まった。1回目との違いは、痛みがないことと、こっちが確かめるより甘えている感覚が強いことくらいで、それ以外はあまり覚えていない。
「眠っ……」
「寝るなや」
「無理、まだ眠……」
途中で意識が飛びかけて、彼の肩に頭を預けたまま、揺らされているのか眠っているのか自分でもよくわからない時間があった。恥ずかしいけど、これは本当のことだ。終わったときには、彼の腕の中でほとんど寝落ちしていた。
朝、目が覚めてすぐに気づいた。パーティードレスはしわくちゃで、ストッキングは伝線して使い物にならない。替えの下着もない。途方に暮れていたら、ハルが黙って消防のロゴ入りスウェットを渡してきた。
「これ着とけ。コンビニ、下着くらいなら売っとる」
近所のコンビニまで、消防署のロゴが入ったスウェット姿で歩くのは、それはそれで恥ずかしかった。実家には「ミサキんとこの子らと泊まった」と嘘のLINEを送った。29歳にもなって、こんな嘘をつく自分に苦笑いした。
ハルは日勤に出ていった。玄関で「鍵、そこに置いとくで」とだけ言い残して。
洗面所を借りたとき、新品の歯ブラシが一本、パッケージのまま置いてあるのに気づいた。いつ買ったものかは聞かなかった。聞かなくても、なんとなくわかる気がした。
年が明けて2月、また別の同級生の結婚式で受付を頼まれた。今度は最初から隣にハルがいた。芳名帳の位置を聞かれることもなく、当たり前みたいに私の隣の椅子が空けられていた。
帰り道、同じ川沿いを二人で歩いた。金木犀はもう咲いていない季節だったけど、なんとなくその匂いを探してしまう自分がいた。
前を見たまま、ハルがまた言った。
「次は俺らの番な」
今度は誰にいじられたわけでもなく、ただ彼から出てきた言葉だった。
「順番、守れよ。今度は式場の下見、うちも連れてってや」
「もう予約しとる」
「早っ」