祖母の三回忌で、五年ぶりに実家へ帰ることになりました。
東京駅で崎陽軒のシウマイ弁当を買って新幹線に乗り、広島で在来線に乗り換えます。呉線に揺られて一時間ちょっと、窓を開けてないのに蝉の声が車内まで入ってくるような感覚がありました。ボックス席で一人、シウマイ弁当を食いながら(帰省で新幹線代の元取れる日、来るのかな)とか考えてました。
俺は28歳、東京の中小SIerでシステムエンジニアをやってます。客先常駐が長くて、今も御茶ノ水のどこかの会社に間借りして常駐中。仕事は嫌いじゃないけど、納期に追われてるだけで一年が終わっていく感覚があって、彼女いない歴はそろそろ3年です。友達には「彼女できないの納期のせいにすんな」って言われますが、まあその通りです。反論できません。
実家の最寄駅からは歩いて15分。改札を出た瞬間から蝉の音量が段違いで、東京と時間の流れる速度が違う気すらしました。潮の匂いが強くなってきたあたりで、いつもの角を曲がりました。うちの門より先に、隣の家の表札が目に入ってきました。
(あ……)
隣の家は、幼馴染の実家です。高3の夏、あいつが何か言いかけたのを、俺が全力で逃げた記憶がある家。あれから五年、まともに顔を合わせてません。表札を見た瞬間、胃の底が急に重くなりました。しかも庭には洗濯物が干してある。誰も住んでないはずじゃ、と思って二度見しました。
(実家にいるのか、あいつ……)
その日は法事の準備で親戚が出入りしてバタバタしていて、隣のことは頭の隅に追いやられていました。夜、みんなが寝静まったあと、俺は縁側に座って缶ビールを開けました。田舎の夜は東京よりずっと暗くて、その分星がよく見えます。
「おかえり」
急に声がして、心臓が変な跳ね方をしました。ブロック塀の向こうから、麦わら帽子をかぶった女の人がこっちを見てました。
「……え、みさき?」
一瞬、誰だかわかりませんでした。中高とソフトボール部で真っ黒に日焼けしたショートカット、というのが俺の記憶の中のみさきです。でも塀の向こうにいるのは、肩までの黒髪で色が白い、電球の下だと知らない人にすら見える女の人でした。首にかけたタオルで顔の汗を拭いながら、あいつは笑いました。笑うと八重歯が覗くのだけは昔のままです。
「久しぶり。五年ぶりだね」
さらっと言われて、俺はちょっと固まりました。五年、正確に数えてたんだこいつ。俺は「あー、そうだね、久しぶり」としか返せませんでした。話し方の温度が、昔のノリと大人の距離感の間で微妙に揺れていて、どっちで喋ればいいのかわかりません。
「実家帰ってきてたんだ、いつから」
「保育士やってる、もう5年目かな。今日はたまたま。……お互い、変わったね」
そう言ったあいつの目が、一瞬だけ何か含みを持った感じがしました。それが何なのか、この時の俺にはまだわかりませんでした。
「じゃ、また」
みさきはそう言って家に入っていきました。俺は缶ビールの残りを一気に飲み干して、(五年ぶりに会って、俺なんで敬語みたいな喋り方になってたんだろう)と一人で反省会をしました。客先常駐先で身についた、無難に受け答えする癖が、こんなところで出るとは思ってませんでした。
翌朝、母親から余計な情報が流れてきました。
「みさきちゃん、一昨年結婚の話あったんよ。式場まで決めとったのに、破談になったらしくて」
「へえ」としか言えませんでした。今は地元の保育園で保育士をしてるらしいです。昼、法事の買い出しでフレスタ(このへんのスーパーです)に寄ったら、偶然みさきと会いました。「手伝おうか」と言われて、断る理由もなく一緒にカゴを持つことに。
「園児がさ、お盆玉って言葉間違えて『ボンタマ』って言うんだよ」
そう言って笑うみさきの八重歯を見ながら、俺は(この距離感、意外と居心地悪くないな)と思っていました。レジで会計してたら、顔なじみの店員のおばちゃんに言われました。
「あら、あんたら変わらんねえ。相変わらず一緒におるんじゃね」
二人とも、一瞬何も言えませんでした。みさきが先にレジ袋を持って歩き出して、俺は黙ってついていきました。
その週末、地元の亀山神社で小さい夏祭りがあって、同級生連中に誘われる形で参加しました。焼きそばの匂いと盆踊りの音響のノイズ混じりの音の中、中学の同級生が酔った勢いで言ってきました。
「お前らさ、昔から怪しかったよな。付き合ってなかったのが逆に謎」
「はいはい」
みさきがさらっと流してくれたので助かりました。境内の屋台でかき氷を買って、二人で神社の階段に座って食べました。氷が溶けるのより早く、周りの同級生が花火大会の話やら誰それが結婚したやらでうるさく盛り上がってて、その隙間で二人だけ少し静かでした。祭りの帰り道、二人きりになった瞬間、俺の中で高3の夏のことがふっと浮かびました。あの時、あいつが何か言いかけて、俺が逃げた話。口を開きかけたんですが、
「そういえば、みさき、保育士って大変?」
また話を逸らしてしまいました。(俺、また逃げてる……)自分でわかってるのに、口が勝手に別の話題を選びました。みさきは少し黙って、それから「大変だよ」と普通に答えてくれました。別れ際、あいつが何か言いかけたので待ってたら、
「……なんでもない。おやすみ」
そう言って自分の家に入っていきました。何だったんだろう、と思いながら俺も帰りました。
祭りの帰りに、さっきの同級生から呼び止められて言われた一言が引っかかってました。
「みさきさ、去年、式場までキャンセルしたんだって。相手が転勤で、ついていかなかったらしいよ」
去年。時期を頭の中で数えてみて、俺はちょっと嫌な汗をかきました。ちょうど俺が最後に帰省をドタキャンした年と近い気がしたからです。(いや、考えすぎだろ。関係あるわけない)そう自分に言い聞かせましたが、翌日は気まずくて、みさきと顔を合わせられませんでした。
帰省最終日の前夜、天気予報が外れて猛烈な夕立が来ました。
コンビニで買い物して戻る途中、傘もなく完全にずぶ濡れになった俺は、たまたま一番近かったみさきの家の軒先に駆け込みました。
「……あ、」
ちょうど窓を閉めようとしていたみさきと目が合いました。
「うわ、びしょ濡れじゃん。ちょっと待ってて、タオル持ってくる」
親は四国に旅行中で、みさきは一人だったそうです。弟のTシャツと短パンを借りて、居間に通されました。蚊取り線香の匂いと扇風機の首振りの音、テレビは砂嵐混じりで誰も見てませんでした。
麦茶をもらいながら、俺は何気なく聞きました。
「その、去年、結婚の話あったって聞いたけど……」
「ああ、うん。式場までは決めてた」
「でも、途中で気づいたの。あの人についていけないんじゃなくて、この町を出る理由が、あの人じゃなかったんだなって」
その言い方に、俺は返す言葉が見つかりませんでした。グラスの結露が指を伝って落ちるのをただ見てました。
「ねえ。五年前、なんで逃げたの」
直球でした。俺は言葉に詰まって、麦茶のグラスを両手で握ったまま黙りました。答えを探してるうちに、みさきが先に言いました。
「さっきの、おかえりって言ったの、この町にじゃないよ」
雨の音と扇風機の首振りの音だけが部屋に響いてました。何を言えばいいのかわからないまま、気づいたら俺は身を乗り出していました。たぶん俺から先に手を伸ばして、唇が触れました。歯がぶつかって、みさきが小さく「痛」と笑いました。
(マジで俺いま何やってんだ……)内心でそう思いながらも、体は止まりませんでした。
畳の上、借り物のTシャツが汗でうっすら肌に貼りついてました。お互い脱がせ合う手つきがどうにもぎこちなくて、俺はみさきのブラのホックのところで指を止めたまま動けなくなりました。三年ぶりだと、こんなに手が震えるものなんですね。
「……できないの?」
「いや、その、力加減がわかんなくて」
みさきが小さく笑って、自分で外しました。
「変わってないね、そういうとこ」
胸に手を伸ばして、汗ばんだ首筋に顔を寄せました。塩気のある匂いがして、それが夏の実家の匂いと混ざってました。Cカップだと本人が前に言ってたのを思い出しながら、両手でそっと包むようにすると、みさきが小さく息を漏らしました。うっかり肘が当たって、テーブルの麦茶のグラスが倒れかけて、みさきが慌てて手で支えました。
「危な……何年ぶりだからって、緊張しすぎ」
「いや、みさきが動くから」
「人のせいにする? 昔からそういうとこあるよね」
軽口を叩き合いながらも、お互いの手は止まりませんでした。
「ちょっと、こぼす気?」
「ごめん、緊張しすぎてる」
みさきの手が俺のものに触れてきて、情けない声が漏れました。(これ、本当にいいのか。明日には東京戻るのに)そんな考えが頭の隅をよぎりましたが、みさきの手の動きに、それどころじゃなくなっていきました。
「ゴム、財布に入ってたと思う……」
出してみたら、期限が二年前に切れてました。気まずい沈黙が流れて、みさきが小さくため息をついてから立ち上がり、洗面所の棚から未開封の箱を持ってきました。
「……聞かないで」
俺も聞きませんでした。
畳の上で正常位で挿れていきました。膝がじりじり畳に擦れて痛くて、途中で一回体勢を直したせいでみさきに笑われました。
「なにその動き、機械みたい」
「うるさい、集中させて」
そう言ったそばから、五年分の緊張のせいか、情けないぐらい早く終わってしまいました。
「ごめん、その……」
「五年も待たせといて、それはないでしょ」
みさきは怒らずに笑いました。その笑い方に救われて、俺は少し落ち着きを取り戻しました。
扇風機の風を交互に浴びながら休憩している間、みさきがぽつぽつ話しました。高3の夏、告白のつもりだった、でも俺が逃げたから、それ以上言えなくなったこと。話を聞きながら、みさきの目が少し濡れているのに気づきました。
二回目は、みさきが上になりました。俺の上に跨って、ゆっくり腰を落としてくる感覚に、(これ、本当に現実か)とまだどこかで疑ってる自分がいました。夕立のせいだ、雨さえ降らなければこうなってない――そう言い訳めいたことを頭の中で繰り返しながらも、体はみさきの動きに合わせて素直に反応してました。
途中から体勢を変えて、後ろから抱きかかえる格好になりました。一回目みたいな遠慮はもう消えていて、代わりに「他の誰にも渡したくない」みたいな感情が、自分でも驚くぐらい強く出てきました。
「声、大きい。隣に聞こえるから、口塞いで」
隣は俺の実家です。自分の親に聞こえるかもしれない状況で声を殺そうとするのが、我ながら滑稽でした。それでも止まれませんでした。
汗だくで畳に転がったまま、しばらく二人とも動けませんでした。給湯器の音が響くというので、シャワーは交代で浴びることにしました。俺のふくらはぎには、いつの間にか蚊に刺された跡が三つできてました。
明け方、俺はブロック塀を跨いで自分の家に戻りました。28歳にもなって塀を跨いで帰宅する自分に、心の中で(何やってんだ俺は)とツッコミました。仏間で少し寝たふりをして、朝食の席に出たら、母親が妙にニヤニヤしてました。
「なに」
母は「別に。夕立、すごかったねえ」とだけ言いました。
見られてたかもしれない、という疑惑だけが残りました。
昼の電車で東京に戻ることになりました。駅まで見送りに来てくれたみさきに、切符を見せながら何を言えばいいのかわからずにいたら、あいつが先に言いました。
「いってらっしゃい」
おかえり、じゃなくて。その一言に、何かが変わった感じがしました。俺たちがこれからどうなるのか、次いつ帰るのか、正直まだ何もわかってません。それでも、新幹線の中でスマホが震えました。
「来年のお盆までに、ゴムの使用期限、ちゃんと確認しとってね」