「ツインのお部屋、ひとつのご予約になっております」
フロントのお姉さんがにこやかにそう言った瞬間、私は隣に立つたくまの横顔をチラッと見た。たくまも私を見た。二人とも、たぶん同じことを思っていたと思う。(は?)
三連休初日の金沢駅前、夜7時過ぎ。11月の風はもう冬の匂いがしていた。予約サイトで別々にツインを二部屋取ったつもりが、システムの何かの不具合で「ツイン1室」としてしか登録されていなかったらしい。たくまがスマホの予約画面を見せて食い下がる。
「いや、俺確かに二部屋で予約したんですけど……」
フロントのお姉さんは申し訳なさそうに、でもきっぱりと言った。三連休なので市内のホテルはほぼ満室、系列ホテルにも空きがない、と。たくまはそれでも粘って、電話であちこち問い合わせてくれた。こういうところが本当に律儀な人なのだ。私と二人で旅行するときはいつも、こういう面倒事を全部引き受けてくれる。
でも、あんまり律儀すぎるのも、なんかモヤッとする。(そんな必死にならなくても……)と思ってしまう自分がいて、その感情に名前をつけられないまま、私は口を開いていた。
「じゃあ、ひとつでいいです」
言ったのは私だった。たくまが電話を切って、ちょっと驚いた顔でこっちを見た。
「いいの?」
「いいよ、別に。今更でしょ」
今更、という言葉を自分で使っておいて、その意味を私はまだちゃんと分かっていなかった。
思えば十年、こんな感じでずるずるやってきた。大学の軽音サークルで出会って、私はコーラス担当、たくまはベースだった。上手いわけじゃなかったけど、練習後にみんなでファミレスに行くとき、隅の席でくだらない話をするのがいつも楽しかった。
私が最初に付き合った人に振られたとき、朝までファミレスで愚痴を聞いてくれたのがたくまだった。たくまが失恋したときも、私が同じことをした。持ちつ持たれつ、というやつ。それを十年繰り返した。いつからか、年に一度、二人で旅行するのも恒例行事になっていた。
私は察しが悪いふりが得意なだけの、ただの意気地なしだ。人の顔色を読むのは仕事柄(調剤薬局の医療事務です)得意なくせに、自分の感情にだけは名前をつけられない。前に付き合っていた人には「お前、あの人がいる限り絶対無理だから」と言われて振られたことがある。あの人、というのはもちろんたくまのことだ。その時は「意味わかんない」と思ったのに、こうして今、ツイン1室の鍵を一緒に受け取っている自分がいる。(本当に、意味わかんないのは私の方だったのかも)
松本のときは蕎麦屋の行列に二時間並んで、別府のときは湯けむりで写真が全部白く曇って、高松のときはうどん屋を五軒はしごして二人で腹を壊した。毎回、旅の予約や乗り換えを段取りするのはたくまだった。施工管理という仕事柄なのか、出張慣れしてるからなのか、とにかく段取りだけは異様に上手い。今回だって、システム側の不具合さえなければ完璧なはずだったのだ。(完璧すぎるのも、たまに調子狂う)
有休を無理やり二日もぎ取って参加した今回の金沢旅行も、気づけばもう四回目。毎回誰かに「二人で年一回旅行してて、付き合ってないの?」と聞かれて、そのたびに「いや友達だから」で片付けてきた。片付けるのが、だんだん上手くなっていくのが、自分でも嫌だった。
翌日、旅行1日目。ひがし茶屋街を歩いた。石畳の道、格子戸の並ぶ町並み。たくまは地図アプリを一度も開かなかった。前に来たことがあるわけでもないのに、なぜか迷わない。歩きながら気づいたのは、たくまがいつも私より半歩遅れて歩くこと。155cmの私の歩幅に、178cmのたくまが合わせてくれている。今更気づいたわけじゃない。ずっと前から気づいていて、気づかないふりをしてきただけだ。
金箔ソフトクリームを買ったら、たくまが横から「一口ちょうだい」と当然のように言ってきた。断る理由もないので渡すと、間接キスとかそういう話にすらならない自然さで一口食べて返してくる。こういうことの積み重ねが、十年分あるのだと思うと、なんだか胸のあたりが重くなった。
近江町市場で海鮮丼を食べたときも、私がウニを残していたら、聞くまでもなく黙って自分の丼と交換してくれた。私の苦手なものを覚えている。覚えていて当然という顔で処理する。市場を出たあと、たくまが露店で買った甘えびの串を差し出してきて、「はい、これは俺の奢り」と当然のように言った。奢りとかそういう単位で数えられる関係じゃもうない気がするのに、私は「ありがと」としか返せなかった。友達のままでいい、と何度も自分に言い聞かせながら、その日は終わった。
問題は夜だった。片町の居酒屋で、生ビールが3杯目に差し掛かった頃、たくまが急に箸を置いて言った。
「あのさ、職場の人から紹介話があってさ」
一瞬、店の喧騒が遠くなった気がした。(え)
「同じ現場で働いてる人の従妹らしいんだけど、今度会ってみないかって」
私は何と答えていいか分からず、でも顔には出せなくて、気づいたら口が勝手に動いていた。
「いいじゃん、会ってみなよ」
言った瞬間、後悔した。でも取り消せない。
「そう? じゃあ、今度連絡先交換するわ」
「うん、いいと思う」
自分の声が、他人事みたいに軽かった。たくまは少し驚いたような顔をして、それから黙って手酌で日本酒を注いで、無言で飲み干した。私も何も言えなくなって、氷が溶けていくハイボールを見つめていた。会話が止まった居酒屋のテーブルほど気まずいものはない。店員が「お決まりですか」と聞いてきたのに、どっちも反応できなかった。
帰り道、兼六園の下の坂を二人で歩いた。いつもならくだらない話で埋まる沈黙が、その日は本当にただの沈黙だった。街灯の間隔だけが妙にはっきり見えて、私は自分の靴音を数えていた気がする。(このまま部屋に二人で戻るのか)と思うと、足取りが余計に重くなった。
ホテルの部屋に戻ると、ツインの狭さが急に気になった。ベッドとベッドの間、人ひとりがやっと通れるくらいの隙間しかない。順番にシャワーを浴びて、部屋着姿になる。コンビニで買った缶ビールを二人で開けたけど、会話は続かない。テレビの音量だけが妙に大きくて、それを下げる気力も湧かなかった。私は意味もなくスマホの充電ケーブルを挿し直したり、結んでいた髪をほどいてまた結び直したりしていた。手持ち無沙汰を誤魔化す方法が、それくらいしか思いつかなかった。
「もう寝る?」
「うん、そうだね」
消灯して、それぞれのベッドに横になった。眠れるはずがなかった。天井の非常灯の緑色の光だけがぼんやり見えていて、隣のベッドから聞こえる呼吸の音で、たくまも起きているのが分かった。
しばらくして、暗闇の中でたくまが先に口を開いた。
「あの紹介の話、断ろうと思ってる」
「なんで」
「わかってるくせに」
その一言で、喉の奥が詰まったような感じがした。分かっていた。ずっと分かっていて、気づかないふりをしていただけだ。
「十年前、夏フェスの帰りにさ、俺、なんか言いかけたことあったの覚えてる?」
覚えていた。忘れたふりをしていただけで、あの日の夜行バスの待合所、たくまが何か言いかけて「いや、なんでもない」と飲み込んだこと。
「……覚えてる」
「あのとき、お前彼氏いたじゃん。だから言うのやめた」
「それから、ずっと待ってた。十年」
暗闇の中で、その言葉だけがやけにはっきり聞こえた。過去の旅行、ファミレスの夜、全部が急に違う意味を持って組み変わっていく感覚があった。(あれも、そうだったのか。あの時も、これも)自分がどれだけ鈍かったか、というより、どれだけ鈍いふりをしてきたかを思い知らされた。
ベッドとベッドの隙間、その狭い距離を越えて、たくまの手が伸びてきた。私はその手を、避けなかった。
暗闇の中でベッドの縁に座り直して、顔が近づいてきた。十年分の照れがお互いにあって、キスは最初、ぎこちなかった。私の手はたくまの部屋着のボタンを外そうとして、震えて上手くいかない。たくまも私の部屋着の紐に手間取って、二人で小さく笑ってしまった。こんな時に笑えるのが、私たちらしいと思った。
「電気消して」
そう頼んで、フットライトだけ残した薄暗がりの中で、たくまが私の胸に触れてきた。指先が慎重で、丁寧すぎるくらい時間をかけて動く。十年来の友達にこんなことをされているという事実が、快感より先に頭の中を占領していた。(噓でしょ、これ)と何度も思った。指で丁寧にほぐされて、そのあと口でも同じことをされて、私はただ「ほんとに、これ現実なんだ」と混乱し続けていた。
たくまが財布から小さな包みを取り出したとき、私は反射的に聞いてしまった。
「……期待してたの? これ」
「お守りみたいなもん」
真顔で返されて、こっちが恥ずかしくなった。
正常位で始めたけど、緊張のせいで体が強張って、うまく噛み合わなかった。たくまが一度動きを止めて、額をこつんとくっつけてきた。
「十年待ったんだから、今さら急がんよ」
その一言で、肩から力が抜けた気がした。再開してからは、たくまがゆっくり時間をかけて動いてくれた。隣の部屋に声が漏れそうで、私はタオルを口元に当てて噛んだ。ベッドが軋む音がしたときは、二人して一瞬ぴたっと動きを止めて、それからまた小さく笑い合った。途中からは向き合ったまま抱きしめ合う体勢に変えて、密着したまま最後まで続けた。頭のどこかでずっと「明日から友達の顔ができなくなるかもしれない」という怖さと、「やっと答え合わせができた」という安堵が交互にやってきていた。
終わったあと、汗だくのシーツの上で、私はベッドとベッドの間の隙間にころんと落ちた。「大丈夫?」とたくまが笑いながら手を引いてくれる。喉が渇いたと言うと、たくまは部屋着のまま廊下の自販機に水を買いに行ってくれた。戻ってきて、冷えたペットボトルを私の頬に当ててくる。ただそれだけの仕草が、変に生々しくて、二人でいることの実感を強くした。
少し休んでから、二回目はさっきより自然に始まった。今度は後背位から、途中で向かい合う体勢に変わって、最後は座ったまま抱き合う形で終わった。一回目にあった遠慮が、もうどこにもなかった。たくまの手つきに、これまで隠していた独占欲みたいなものが混ざっているのが分かったし、私も声を我慢しなくなっていた。途中でたくまが足をつりかけて「いてて、待って、足」と情けない声を出したときは、二人で本当に笑ってしまって、変な空気が一度リセットされたのがよかった。
「明日から友達の顔できる自信、ないんだけど」
私がそう漏らすと、たくまは息を整えながら、それでも笑って言った。
「じゃあ、友達じゃなくなればいいじゃん」
身も蓋もない返しだったけど、その単純さに救われた気がした。
朝、乱れたベッドを見ないふりでチェックアウトした。フロントの人に何食わぬ顔で「お世話になりました」と言うたくまの横で、私は必死に真顔を保っていた。昨夜の「ツインのお部屋、ひとつのご予約になっております」を告げてきたのと同じお姉さんが、笑顔で見送ってくれる。何も気づいていないその笑顔に、内心(すみません、ツインなのに一台しか使ってません)と謝りたくなった。
帰りの新幹線のホーム、金沢駅の白い鼓門を見上げながら、二人の距離は微妙なままだった。手を繋ぐわけでもなく、でもさっきまでよりは近い距離で並んで立っていた。発車まであと数分というところで、たくまがぽつりと言った。
「来年の旅行さ、最初から部屋ひとつで取っていい?」
「……ツインじゃなくていいよ」
たくまが笑って、目がなくなった。新幹線が入線するアナウンスが流れる中で、私はやっと、十年間ずっと持ち越してきた答えを、自分の口で言えた気がした。