終電を逃した金曜日、家が近いからと上司のマンションに泊まった夜

12月半ば、金曜。今年いちばんの寒波が来た夜だった。

あの夜のことは、今でも金曜の終電の時間になると思い出す。0時24分。新橋発、山手線内回りの最終。あの数字だけは一生忘れない気がする。

(うちの部署、なんで忘年会がいつも金曜なんだろ)

営業一課の忘年会は新橋の居酒屋で一次会が終わって、二次会はカラオケになった。私は幹事補佐で会計係。伝票と割り勘表とにらめっこしてる間に、他のみんなはとっくにタンバリンを振り回してた。

自己紹介が遅れたけど、私は26歳。都内の中堅食品メーカーで営業事務をやっていて、今年で4年目になる。恋愛経験は大学時代に1人だけ、それも半年で自然消滅した。合コンに誘われても隅っこで烏龍茶を注ぐタイプで、社会人になってからの彼氏いない歴はほぼ勤続年数と同じ。

(別にいいけど。困ってるの多分私だけだし)

会計を締めて店を出たのが日付をまたぐ直前。走れば間に合うと思ってホームに滑り込んだら、電光掲示板が「マイナス2℃」を表示してた。天気予報で言ってた今年一番の寒波、これのことか。

そして目の前で、0時24分発の各停の扉が閉まった。

ホームに立ってたのは、私ともう一人だけ。

よりによって、営業一課の課長だった。

課長は普段、部下への指示が短くて淡白な人だ。雑談はゼロ、飲み会でも一次会でさっさと帰る。「何考えてるかわからない人」って陰で言われてるのを、私も何度か聞いたことがある。まさかその課長と二人でホームに取り残されるとは思わなかった。

「……乗り遅れたか」

「乗り遅れましたね」

それだけ言って、課長はコートの襟を立てた。会社支給の黒いコート、襟の毛が少しくたびれてる。それを見てまた(あ、課長も人間なんだ)とか、どうでもいいことを考えてしまう自分がいた。

とりあえずタクシー乗り場に向かうことにした。二人で並んで歩く間、会話は一切なかった。

タクシー乗り場の案内板には「ただいま40分待ち」の表示。アプリを3つ試したけど、全部「近くに車両がありません」。この寒さでみんな同じことを考えてるんだろう。

「帰れないなこれ」

課長はそれだけ言って、自販機の前で足を止めた。私はスマホの画面をもう一度見ようとしたけど、指がかじかんで顔認証が全然通らない。(は、はやく開いてよ……)と焦ってるのを、課長は横で黙って見てた。

しばらくして、ガコンと音がした。課長が黙って買った、ホットのミルクティーが差し出されてた。

「手、冷えてるだろ」

会社では見たことのない挙動すぎて、一瞬何が起きたか理解できなかった。缶を受け取ると、掌にじんわり熱が伝わってくる。ありがたいけど、なんでこの人が。

無言でミルクティーを半分ほど飲んだところで、課長がぼそっと言った。

「家、ここから歩ける距離だけど」

(は? ちょっと待って、それどういう)

頭の中で警報が鳴ってる。上司の家!? 無理無理無理。でも同時に、40分待ちの案内板とマイナス2℃の電光掲示板が視界の端でちらついてた。選択肢、実質ゼロなのでは。

課長は私の返事を待たずに、コートのポケットに手を突っ込んで歩き出してた。

こうなったら、ついていくしかなかった。

歩き始めて数分、会話は一切弾まなかった。課長は無言で前を歩き、私は3歩後ろで無言でついていく。この人と二人きりで歩くの初めてだ、とか考えてるうちに、コンビニの明かりが見えてきた。

「歯ブラシ、いる?」

「あ、はい……ありがとうございます」

生活感が急に出てきて、なんだか変な現実味があった。歯ブラシと替えの靴下を買って、レジ袋を提げて歩く二人。これのどこが忘年会の帰り道だ。

エントランスに着いたところで、課長が急にこっちを向いた。

「先に言っとくけど、散らかってはない」

(誰も散らかってるとか聞いてないんですけど)

その謎の弁解に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

部屋に入って、まず驚いたのは観葉植物だった。玄関からリビングにかけて、大小5鉢。窓際にはコーヒーミルとドリッパーが几帳面に並んでいて、本棚も背の順にきっちり揃ってた。

会社で見る「何考えてるかわからない課長」と、目の前の部屋のギャップに頭が追いつかない。

「座ってて。コーヒー淹れるから」

課長は豆を挽きながら、初めて仕事以外の話をした。この鉢はガジュマル、こっちはパキラ、去年一つ枯らして買い直したこと。淡々とした口調は変わらないのに、話す内容が急に人間くさい。

コーヒーの香りが部屋に広がる中、私は何気なく棚の上を見た。

マグカップが一つ、伏せて置いてあった。花柄の、明らかに女物のマグカップ。

(……あれ、誰の)

聞いていいのか迷ってるうちに、課長が「風呂、先入っていいよ」と言った。

風呂を借りて出てくると、課長のグレーのTシャツを渡された。ぶかぶかの裾を気にしながらリビングに戻ると、課長はすでに客用の布団をきっちり敷き終えてた。

「明日始発で帰りな。俺は寝室で寝るから」

はっきり線を引かれた。ほっとするはずだった。実際、ほっとした部分もある。でも、胸の奥がなぜか重かった。理由はよくわからない。多分、期待してた自分がいたことに、自分でもまだ気づいてなかった。

勇気を出して、棚の上のマグカップのことを聞いてみた。

「あの、さっきのマグカップ……」

「元嫁の。捨てそびれてるだけ」

一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。課長って既婚のはずじゃ。社内でそう聞いた気がする。

「え、課長って結婚されて……」

「1年前に離婚した。言ってないだけで」

あっさりした口調だった。社内の「課長は既婚」って認識、誰かの勘違いがそのまま広まってただけだったらしい。

黙り込んだ私を見て、課長が苦笑した。

「その顔、同情?」

「い、いえ、そういうわけじゃ……」

うまく答えられなかった。自分でもなんの感情か整理できてなかったから。

その夜、暖房を切ったリビングは思ったより寒くて、全然眠れなかった。毛布を肩に巻いて水を飲みにキッチンへ向かうと、電気を消したままのキッチンで、課長も眠れなかったのか缶ビールを一本開けてた。

「眠れない?」

「寒すぎて……」

薄暗いキッチンで、壁にもたれて二人で一本のビールを回し飲みした。会社の愚痴とか、営業一課の誰それがどうとか、他愛のない話が続いた。私が「彼氏いない歴、もう4年です」と自虐で言うと、課長が珍しく声を出して笑った。

「意外だな」

「意外って何がですか」

「もったいないってこと」

それだけ言うと、課長は缶を受け取りながら、私の肩に手を置いた。

「寒くない?」

その手は、毛布ごと私の肩に触れたまま、離れなかった。

(あ、これ、まずいやつだ)

そう思いながら、私も動けなかった。毛布の中に招き入れる形で、体が自然と密着した。背中越しに課長の心拍が伝わってくる距離。会社では絶対にありえない距離だ。

「これ、まずいですよね」

「まずいな」

そう言いながら、どちらも動かなかった。

「嫌なら今、布団に戻って。始発で帰って、月曜には忘れる」

課長がもう一度だけ、線を引き直した。今度こそちゃんと選べ、と言われてる気がした。

でも私は、毛布の端を握ったまま動かなかった。それが答えになった。

課長の顔が近づいてきて、唇が重なった。歯が当たって、お互いちょっと笑った。それだけで、変に緊張がほどけた気がした。

そのままソファに移動した。借りたTシャツの裾から課長の手が入ってくる。経験が少ない私は手の置き場がわからなくて、結局課長のシャツの袖をずっと掴んだままになった。

指先が下着の中に入ってきて、ゆっくり動く。そこはもうとっくに濡れてて、指が動くたびに小さく水音が鳴った。恥ずかしくて声を殺そうとしたら、課長が耳元で言った。

「声、無理に殺さなくていい。ここ角部屋だから」

その一言で少し楽になった。「あ……」と声が出た瞬間、指の動きが少し速くなる。気持ちいいのは確かなのに、頭の中は「これ、上司の指だ」って混乱の方がまだ勝ってた。

寝室に移動して、課長がチェストの引き出しを漁り始めた。なかなか出てこなくて、しばらく沈黙が続く。見つけたパッケージを照明にかざして使用期限を確認してる横顔が、思ったより間抜けで、少しだけ笑ってしまった。

「大丈夫なんですか、それ」

「……大丈夫」

正常位で、先っぽを何度かあてがってから、ゆっくり入ってきた。

「ん……っ」

痛みはなかったけど、お互いリズムが全然合わない。私が力を抜けなくて、課長が奥まで入れようとするたびに体がびくっと逃げてしまう。課長の肘が私の髪を下敷きにして、

「痛っ」

「ごめん」

一旦止まって、仕切り直しになった。ぎこちなさが恥ずかしくて、経験の少なさがバレてる気まずさもあって、頭の中は「気持ちいい」よりも「これ、月曜も会社で顔合わせる人だよね」って混乱でいっぱいだった。

体位を変えて、横向きに後ろから抱えられる形になったところで、やっと噛み合った。課長の腕が私の胸ごと体を抱え込むように支えていて、動くたびに奥を突かれる感覚がはっきりわかる。

「あ、そこ……っ」

「ここ?」

「うん」とも言えないまま、私は課長の腕にしがみついた。突かれるリズムが速くなるにつれて、頭の中の「これ、いいのか」って声がだんだん遠くなって、代わりに体の奥の方から何かがせり上がってくる感覚がした。

「あ、待って、なんか……っ」

「いいよ、そのまま」

背中を反らせるようにして、一度だけ体が強張った。そのまま数秒、指先まで痺れるような感覚が抜けなくて、課長の腕の中でぐったりした。課長も少し遅れて、私の体を強く抱きしめたまま止まった。

「はぁ……」しばらく二人とも動けなかった。信じられなかった。まさか課長とこんなことになるなんて、数時間前まで想像もしてなかったのに。

一度眠りかけて、次に目を覚ましたのは明け方5時ごろだった。課長の腕の中で、もぞもぞ動いてしまったら、課長も気づいて起きた。今度は最初から、さっきの混乱がなかった。ゆっくり始まって、ゆっくり進んだ。課長の指がまた同じところに触れて、今度は迷わず声が出た。

不思議と、今度は「上司の手だ」って考えが浮かんでこなかった。気づいたら、自分から課長の背中に腕を回してた。正常位で、さっきよりずっと穏やかに動く課長を、下から見上げる。

「……涼介さん」

自分でも驚くくらい自然に、初めて下の名前が口から出た。課長が一瞬動きを止めて、それからちょっとだけ笑った気配がした。

「……課長って、今も呼ばなきゃだめですか」

「今はいい」

それだけ言われて、また続きが始まった。さっきより短い時間で、でも同じくらいはっきりと、体の奥がまた強張った。課長も同じタイミングで止まって、しばらく二人とも息を整えてた。

窓の外が白み始めた頃、二人ともようやく力を抜いた。汗で張り付いた借り物のTシャツ、ぼさぼさになった髪、シーツに残った皺。課長は無言でシーツを剥がして洗濯機に突っ込み、私に新しいタオルを渡してくれた。着替えの下着がないことに気づいて言うと、課長は「そこの角にコンビニあるから」とだけ言って先に部屋を出た。

朝7時、なぜか二人でベランダの観葉植物に水をやった。始発はとっくに出てる時間だった。

「これ、何て植物なんですか」

「パキラ。前に言っただろ」

「聞いてました、聞いてましたけど、覚えてなくて」

そんな会話をしながら水をやって、駅まで送ってもらった。道中の会話はまた弾まなかったけど、なぜか気まずくはなかった。

月曜、会社に行くと課長は完璧にいつもの淡白な「何考えてるかわからない人」に戻っていた。私だけが挙動不審で、資料を渡す手が不自然に震えてた。誰にも気づかれてないといいけど、と思いながら一日を過ごした。

定時後、明日の会議資料を渡しに課長のデスクに寄ったとき、課長が資料を受け取りながら、一言だけ言った。

「今週の金曜、終電何時?」

「……0時24分ですけど」

「逃し方はもう知ってるだろ」

それだけ言って、課長はいつもの淡白な顔でパソコンに向き直った。

私は「はい」とも「いいえ」とも言えないまま、資料を抱えて自分の席に戻った。今週の金曜が、少し楽しみになっている自分にまだ気づかないふりをしながら。


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