深夜二時のコインランドリー。蛍光灯だけがやたら白くて、外の生ぬるい空気とはまるで温度が違う。
洗濯機が七台、乾燥機が五台。どれも同じ型で、いつも半分も埋まってない。ガラス扉の向こうで洗濯物がぐるぐる回ってるのを、誰もいないベンチでぼーっと眺めてる時間帯。
自己紹介が遅れてすみません。俺は印刷会社で輪転機のオペレーターをやってる、二十九歳です。三交代制の夜勤要員で、月の三分の一ぐらいは深夜二時に洗濯機を回してる生活を送ってる。
なんでこんな時間かって言うと、うちのアパートに洗濯機置き場がないからだ。共用の外置き場は一応あるけど、雨ざらしだし盗まれるのも怖いんで、結局ここに通うことになった。火曜と金曜、夜勤明けの帰り道に寄るのが習慣。
情けない話、友達との予定は軒並み合わなくなった。世間が起きてる時間に俺は寝てて、世間が寝てる時間に俺が起きてる。休みの日は結局寝て終わる。168cmで少し腹が出始めた中肉の体、三十路手前で独身、コインランドリーの硬いベンチで乾燥機の音を聞いてるだけの毎日。(これが人並みの青春を逃したツケかよ…)とか思いながら、洗濯物だけは異様に几帳面に畳む。角をきっちり合わせて、袖を内側に折って、Tシャツもワイシャツも同じ幅で畳む。これだけが唯一の取り柄というか、こだわりだった。
工場の先輩には「お前、いい歳して独身寮の学生みたいな生活してるな」って笑われる。輪転機の油の匂いが染み付いた作業着を洗って、部屋着に着替えて、それからコインランドリーに寄る。それが俺の夜勤明けのルーティンだった。
そこに、いつも同じ時間に来る人がいた。
毎週火曜と金曜、必ず二時十分ごろ。ドアベルがカラン、と鳴って、小柄な女の人が入ってくる。155cmぐらいだろうか、細身で、ショートボブ。すっぴんに黒縁メガネ。スクラブの上によれたグレーのパーカーを羽織ってて、袖口が少しほつれてる。一番奥、五番の洗濯機しか使わない。なんでか知らないけど、いつもそこ。
最初の一か月は会釈だけだった。向こうも俺のこと「またこいつか」ぐらいにしか思ってなかったと思う。(何の仕事だろう、あの恰好…水商売にしては地味すぎるし、コンビニのバイトでもなさそうだし)とか勝手に想像しながら、話しかける度胸もなく、ただ隣の列で洗濯物を回してた。
彼女はいつも五番の洗濯機の前のベンチに座って、スマホも見ずにぼーっとしてる。たまに舟を漕いで、はっと起きるのを繰り返してた。(よっぽど疲れてるんだろうな)というのだけは分かった。
ある夜、彼女が洗剤コーナーの前で固まってた。
自販機の前に立ったまま、動かない。近づいてみると、柔軟剤の欄がぜんぶ売り切れのランプがついてて、彼女は舌打ちしてた。
「はぁ?なんで柔軟剤だけ切れてんの、マジで」
独り言にしては大きめの声だった。俺は思わず反応してしまって、鞄からストックの柔軟剤を出した。これは俺の変なこだわりの一つで、いつも予備を持ち歩いてる。
「あ、これ、まだ半分ぐらい残ってるんで、良かったら」
「え、いいの?」
彼女はメガネの奥でちょっと目を丸くして、それからぶっきらぼうに頭を下げた。
「……あ、ありがと。あんた、いつもいる人でしょ。火曜と金曜の」
「あ、はい。よく分かりましたね」
「そりゃ分かるでしょ、こんな時間にこんなとこ来る人なんて限られてんだから」
彼女は柔軟剤を洗濯機に入れながら、ついでみたいに自分の仕事を教えてくれた。総合病院の夜勤明け、看護師だという。名前は聞けずじまいだった。聞くタイミングを完全に逃した。
次の金曜、彼女が缶コーヒーを二本持って現れた。
「これ、この前の礼」
片方を無言で差し出してくる。俺はありがたく受け取って、隣のベンチに座った。乾燥機の表示が「あと40分」になってて、なんとなくそれが会話の制限時間みたいになった。
夜勤者同士っていうのは変な連帯感があるらしい。病院の愚痴、印刷工場の話、そんなのを乾燥機が回ってる間だけ喋る。それが習慣になった。
「あんたの仕事って、あの新聞に挟まってるチラシとか刷ってるやつ?」
「新聞じゃなくて、雑誌とかカタログの方が多いですね。輪転機って機械があって、それをずっと見張ってる感じです」
「ふーん。私なんて夜中じゅう点滴の速度合わせたりコール対応したりで、機械と喋ってた方がマシだと思う日もある」
そんな他愛もない話。「乾燥あと40分」が二人の時間の単位みたいになって、彼女が先に「もうそろそろ終わりだね」って言うと、それが解散の合図だった。互いに名前を知らないまま、数週間そんな夜を重ねた。
(この人、なんでずっとメガネなんだろう。コンタクトとか面倒なのかな)とか、どうでもいいことばっかり考えながら、俺は毎回柔軟剤を余分に持って行くようになってた。
ある夜、彼女の洗濯カゴに、男物のシャツが山盛りになっていた。
ワイシャツ、スウェット、下着まで混じってる。彼女は何も言わず、それを黙々と畳んでた。俺は勝手に想像した。(彼氏いんのか…そりゃそうだよな、この人がフリーなわけないし)
急に会話がぎこちなくなった。乾燥機の残り時間の間、俺は雑誌のフリーペーパーを意味もなく読むふりをして、彼女から渡された缶コーヒーも「あ、今日はいいです、飲んできたんで」と断ってしまった。嘘だった。
それから彼女は二週連続で来なかった。
火曜の二時、金曜の二時、俺は理由もなくコインランドリーで洗濯物が終わるまでの時間を、いつもより長く粘るようになってた。乾燥機が終わっても、なんとなくベンチに座ってスマホをいじって、結局何も起きないまま帰る。(別に待ってるわけじゃないし)とか自分に言い聞かせながら、時計を何度も見た。本人だけ気づいてなかったんだと思う。あれは完全に待ってた。
三週目の金曜、二時十分にドアベルが鳴った。
「……あ」
「あ、じゃないでしょ。二週も来なかったの、こっちなのに」
彼女はいつものパーカー姿で、洗濯カゴを抱えて立ってた。俺は何か言おうとして、結局「お、お久しぶりです」しか出てこなかった。
「あの男物、うちに三年住み着いてた元カレの残骸。全部洗って古着回収に出したの。もう関係ないから」
彼女はさばさばと言った。それから、少し声のトーンが落ちた。
「来なかったのは、シフト変更と引っ越しで迷ってたから。……で、あんたが変によそよそしくなるから、こっちも来づらかったんだけど」
図星すぎて、言い訳にならない言い訳が口から出た。
「いや、その、別に、彼氏いるのかなって、勝手に思っただけで……」
「はぁ?なにそれ。あんた、めんどくさ」
彼女は呆れたみたいに笑った。笑うと年齢よりだいぶ幼く見える。その時、外でゴロゴロと低い音がした。
その夜、外で春の嵐が鳴り始めた。
風がガラス扉をガタつかせるぐらい強くなってきた。よりによって、五台ある乾燥機のうち一台に「故障中」の紙が貼られてた。彼女の乾燥機がちょうどそれで、明日の朝、日勤前に必要なスクラブが生乾きのまま止まってる。
「うそでしょ、これ着て仕事行けって言うの……」
彼女がため息をつくのを見て、俺は柄にもなく口を滑らせた。
「あの、うち、浴室乾燥あるんで。すぐそこなんで、良かったら」
言った瞬間、(マジで何言ってんだ俺…)と自分でツッコんだ。でも彼女は少し考えて、こう言った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
外は本降りの雨。徒歩三分のアパートまで、濡れた洗濯カゴを二人で抱えて走った。息が切れて、玄関先で二人ともびしょ濡れで笑ってた。
六畳の部屋に、名前を知ったばかりの人がいる。それだけで妙な緊張感があった。
浴室乾燥機のスイッチを入れて、彼女のスクラブを干す。作動音がゴォ、と低く響き続ける部屋で、俺は冷蔵庫から缶ビールを二本出した。
「お邪魔しまーす、って感じでもないか、もう」
彼女はそう言いながら、畳の上にどかっと座った。缶ビールを一本ずつ開けて、しばらく無言で飲んだ。作動音だけが響く沈黙。何を話していいか分からなくて、俺はずっと視線を逸らしてた。
「なんで目、合わせないの。三十分前まであんなに喋ってたのに」
彼女が急にそう言って、こっちを見た。俺が答えられずにいると、彼女の方から距離を詰めてきて、そのままキスされた。
(え、待って、今、キス……された…?)頭の中がぐちゃぐちゃになってる間に、二回目のキスが来た。今度はちゃんと返した。
パーカーを脱がそうとしたら、ファスナーが布を噛んで途中で止まった。
「ちょ、それ引っかかってる、無理に引っ張んないで」
「あ、すみません」
二人でしばらくファスナーと格闘して、結局引っかかったまま笑ってしまった。緊張してたのが少し緩んだ。彼女が自分でファスナーを外して、パーカーを脱ぐ。中はTシャツ一枚で、思ったより薄着だった。
服の上から胸に触れて、それから直接触れた。Cカップの、鎖骨がよく見える細い体。乳首をつまむと、彼女の声が変わった。
「……あ、下手……じゃないじゃん」
感じると口が悪くなるらしい。俺は内心(褒められてるのか貶されてるのか分かんねぇ…)と思いながら、続けた。指を下の方に這わせると、彼女が小さく息を止めるのが分かった。
「あんた、意外とこういうの慣れてんの」
「そんなことないですよ、全然」
「嘘つけ……あ、そこ」
彼女の手が先に俺のベルトに伸びてきた。点滴や採血で鍛えられてるからか、細い割に力が強い手だった。ズボンの中に手を入れられて、握られる。お互い、服の上から、次は直接、指で愛撫し合う時間がしばらく続いた。(名前を知ったの、今夜だぞ……)という混乱が、ずっと頭の隅にあった。それでも止まらなかった。
「ねぇ、名前、聞いてなかった」
「あ……そういえば」
こんな状態になってから名前を交換するのも変な話だったけど、俺たちはそこで初めて名乗り合った。(順番、めちゃくちゃだな…)と思いながらも、笑ってしまった。
セミダブルのベッドは狭くて、二人で乗るとぎしぎし鳴った。正常位で、彼女が脚を開いた。
ゴムをつけようとして、手が震えて上手くいかなかった。彼女がそれに気づいて、慣れた手つきで手伝ってくれた。
「ちょっと貸して。……ほら、こう」
「すみません、ちょっと久しぶりすぎて」
彼女は何も言わず、少し呆れた顔で笑っただけだった。
挿入して、数分も経たないうちに終わってしまった。緊張と、久しぶりすぎるのとで、あっけなく限界が来た。
「……早っ」
彼女の容赦ない一言が飛んできた。でも続けて、意外なぐらい優しいフォローが来た。
「別にいいよ。夜勤明けってこういうもんでしょ、疲れてんだから」
隣の部屋への音を気にして、二人でベッドが壁に当たる音のたびに息を殺した。それが逆に妙におかしくて、途中で二人とも小さく笑ってしまった。
三十分後、彼女が体を起こして、上になった。騎乗位から始まって、途中で後ろ向きに体勢を変えた。一回目の時のような余裕のなさは消えてて、代わりに彼女の方から甘えるみたいな声が出始めてた。
「乾くまで、あと五十分あるけど。どうすんの」
浴室乾燥の作動音を意識しながら、彼女がそう言った。乾燥機の残り時間が、また二人の時間の単位になってた。(あの時は40分で会話終わってたのに、今は残り時間が全然足りない気がする)と思いながら、俺は彼女の腰をつかんで動きに合わせた。
「あんた、さっきよりちゃんとしてるじゃん」
「一回目は、その、緊張してたんで……」
「今は?」
「今も緊張してます、正直」
そう言うと彼女が小さく笑って、それが振動で伝わってきた。窓の外の嵐は、少しずつ弱くなっていくのが分かった。
浴室乾燥の終了音が「ピーピー」と鳴って、二人とも我に返った。
汗だくのシーツの上で、しばらく天井を見てた。先に水を飲みに立とうとして、お互い譲り合うみたいな気まずい間があった。結局俺が先に台所まで行って、コップ二つに水を汲んだ。
乾いたスクラブを畳みながら、彼女がふきだした。
「なにその畳み方、几帳面すぎない?角、なんでそんなキレイに揃うの」
「あ、これだけは無駄にこだわりがあって……」
「変なとこ丁寧じゃん、あんた」
彼女は朝五時、日勤前に一度帰ると言って、本当に帰って行った。窓を開けると、春の朝の湿った匂いが入ってきた。土と、濡れたアスファルトの匂い。シーツには柔軟剤と汗が混ざった匂いが残ってた。
今も火曜と金曜の深夜二時、同じコインランドリーで会っている。ただ最近は、洗濯物を一台の洗濯機でまとめて回すようになった。彼女の引っ越し先がどこになるのかは、まだ聞けていない。
柔軟剤は、あれから同じやつを使ってます。