台風の夜の停電で、隣の部屋の住人とロウソク一本で過ごした話

7月末、金曜の夜の話です。

観測史上級とかいう、やたら物々しい呼び方までされてた台風が関東直撃するっていうんで、朝からずっとニュースが賑やかでした。

私は27歳、調剤薬局で医療事務をしてます。身長156cm、彼氏いない歴はそろそろ2年半。休みの日は配信ドラマを一気見して、気づいたら夕方まで寝てる、そういうタイプの人間です。

防災意識という概念が自分の中に存在してるのかすら怪しくて、非常用にと買った懐中電灯は、いざ点けようとしたら電池切れでした。(そういえばあれ、買ったの一昨年だったわ…)非常食も戸棚にポテチの食べかけが半袋。これで台風一個乗り切る気だったんだから、我ながらどうかしてたと思います。

22時を過ぎたあたりで、テレビの警報表示がやけに騒がしくなってきたなと思った次の瞬間、部屋の明かりがふっと落ちました。

エアコンの音が消えて、冷蔵庫のモーター音も消えて。窓の外を見ると、いつもついてるはずの共用廊下の非常灯まで消えてる。本物の、正真正銘の真っ暗でした。

スマホの画面だけが明るくて、残量は43%。(これ、朝まで持つのかな…)なんてぼんやり考えてたら、玄関の外で、金属がカチャカチャ鳴る音がしました。

築28年、江古田のこのマンションで一人暮らしをして3年になりますが、こんな音は初めてです。空き巣かとも思いましたが、それにしては堂々としすぎてる。恐る恐るドアスコープを覗くと、廊下に光の輪がひとつ揺れていました。

額にヘッドライトをつけた人が、共用部の分電盤の前にしゃがみ込んでる。手にはランタンと、工具箱みたいなもの。

隣室の、間宮さんでした。

正直、名前は表札でしか知りませんでした。会えば会釈する程度、去年一度だけ私宛の宅配便を預かってもらったことがある、それくらいの関係です。(下の名前すら知らない…)

思い切ってドアを開けると、間宮さんがこっちを向きました。ヘッドライトの光がまともに顔に当たって、まぶしくて目を細めます。

「ああ、すみません。まぶしかったですよね」

「あ、いえ、大丈夫です。あの、これって…」

「共用部の分電盤見てきたんですけど、これうちのマンションだけじゃなくて、地域ごと落ちてるっぽいです。電柱の変圧器か何かやられたのかも」

やけに落ち着いた口調でした。停電のさなかに廊下に出てくる人がこんなに冷静なの、逆に不安になります。

「地域ごと…じゃあ、いつ復旧するかも分かんない感じですか」

「今の時間じゃ電力会社も動きにくいでしょうね。朝までかかるかもしれません」

朝まで。その響きに、頭の中でスマホの残量43%がチカチカ点滅した気がしました。(このスマホが死んだら、私、本当に一人で真っ暗な部屋にいることになる)

気づいたら口が勝手に動いてました。

「あの、間宮さんって、ロウソクとか、持ってたりします?」

言った瞬間、自分でびっくりしました。何年もろくに話したことのない隣人に、いきなりロウソクの貸し借りを頼むなんて。(気が利かないにも程がある…)

でも間宮さんは特に変な顔もせず、ヘッドライトの角度を直しながら答えてくれました。

「ロウソクはありますけど、それより、うちカセットコンロあるんで、湯くらい沸かせますよ。何か困ってます?」

「非常食がポテチしかなくて。カップ麺は…あるにはあるんですけど、お湯がないと」

「じゃあうちの部屋、来ます? 道具持って行った方が早いんで」

そう言われて、なぜか私の部屋に来てもらう流れになりました。(ロウソク一本借りるだけのつもりが…)

玄関先で少し押し問答みたいになったんですが、結局、間宮さんがカセットコンロとランタン、それに予備のロウソクを何本か持って、うちに来ることになりました。

ちゃぶ台の上にロウソクを一本立てて火をつけると、真っ暗だった部屋にオレンジ色の光がゆらっと広がりました。カップ麺を二つ並べて、間宮さんがコンロで湯を沸かしてくれてる間、私はただ突っ立ってるだけ。

暗いおかげで、部屋の散らかり具合がほとんど見えないのだけが唯一の救いでした。(脱いだ部屋着とか、床に積んだ雑誌とか、全部闇に飲まれてくれ…)

湯が沸くまでの間、二人でちゃぶ台を挟んで座りました。ロウソクの炎がゆらゆら揺れるたびに、間宮さんの顔に影が動きます。

「隣に住んでるのに、ちゃんと話すの初めてですね」

「そうですね…すみません、あの、名前も表札でしか知らなくて」

「間宮です。下の名前まではさすがに表札に書いてないですよね笑」

「はい、それは書いてなかったです」

そんなくだらないやり取りで少し肩の力が抜けました。間宮さんは31歳、ビル設備管理士の仕事をしていて、今日はたまたま夜勤明けで家にいたんだそうです。

「停電はまあ、仕事柄よく見てます。月イチくらいで現場のどこかしらで落ちるんで」

「慣れてるんですね…私、懐中電灯の電池切れてるの気づいたの、さっき初めてでした」

「それは災害弱者すぎません?」

「否定できないです…非常食もポテチ半袋しかなくて」

「半袋て。何のための備蓄なんですか、それ」

笑われました。悔しいけど自分でもツッコミどころしかないと思ってたので、開き直って自虐に走ります。

「休みの日は配信ドラマ観て寝てるだけの生活してるので、防災とか一生後回しにしてました…」

間宮さんが小さく笑うと、目尻に皺が寄りました。ヘッドライトの光じゃなくて、ロウソクの炎のせいで一瞬そう見えただけだと思うことにしました。(火のせいだから。火のせい)

湯が沸いて、カップ麺に注いで、三分待つ間もぽつぽつ話は続きました。私は薬局事務の愚痴——処方箋の書き間違いで薬剤師さんに怒られる話とか、患者さんに態度悪く当たられる話とか——を話して、間宮さんはビルの設備トラブルの話を。

スマホの残量が気になって、二人とも途中から画面を見なくなりました。ニュースも確認できない、SNSも見られない。手元にあるのはロウソク一本とカップ麺と、目の前の相手だけ。

会話しかすることがない、というのは思ったより悪くない時間でした。

麺を食べ終わった頃、私はトイレを借りようと思って、自分の部屋のブレーカーを確認するついでに、間宮さんの部屋のトイレを借りることになりました。ランタンを持って先に部屋に戻った間宮さんの後をついていきます。

玄関に入ってすぐ、目に入ったものがありました。

女性もののサンダル。白くて、少しくたびれた感じの、明らかに私のものじゃないサンダル。

一気に現実に引き戻されました。(そりゃそうか。31歳の男の人が一人暮らしなわけないよね…って、いや別に一人暮らしでも彼女いるのは普通だし。何を今さら)

自分の考えの支離滅裂さに呆れながらも、トイレを済ませて戻る足取りが自然とそっけなくなります。部屋に戻ってからも、さっきまでの軽口が出てこなくなりました。

間宮さんもすぐに気づいたみたいでした。

「あの、さっきのサンダル、見ました?」

「あ、いや、別に見てないです」

「見てますよね、その反応」

観念して頷くと、間宮さんが少し困ったように頭をかきました。

「先月出てった元カノの忘れ物です。捨てるタイミング逃してて、そのまま玄関に置きっぱなしになってて」

「あ、そうなんですね…すみません、勝手に変な想像して」

「いや、普通そう思いますよね。明日ゴミの日なんで、ちゃんと捨てます」

妙に律儀な宣言でした。(ゴミの日を把握してるのはさすが設備管理士って感じだけど、それにしても報告いる?)と思いつつ、少しだけほっとしてる自分にも気づいて、その気持ちの動きに戸惑いました。

自分の部屋に戻ると、ちゃぶ台のロウソクはもう半分くらいまで短くなっていました。

深夜1時を過ぎて、外の風がいよいよピークを迎えたみたいでした。窓がびりびりとしなって、近所のどこかで何かが割れる音が響きました。とっさに体がびくっと跳ねて、ちゃぶ台に膝をぶつけてしまいます。

ロウソクがぐらっと傾いて、倒れかけました。

二人同時に手を伸ばして、ロウソクの根元に触れました。指と指が重なって、慌てて火を立て直したあとも、どちらの手も引っ込めませんでした。

薄暗い中、間宮さんの顔がすぐそこにありました。ヘッドライトはもう消してあって、ロウソクの炎だけが二人の顔を照らしてました。

「……停電のせいにしていいなら」

そう言って、間宮さんの顔が近づいてきました。

私は動けませんでした。逃げるという選択肢が頭に浮かぶより先に、唇が重なっていました。(隣人と一線越えたら、明日からゴミ捨て場でどんな顔すればいいの……)そんな現実的すぎる計算が頭の隅をよぎるのに、体は離れようとしませんでした。

キスは最初、探るようにゆっくりでした。私が動けずにいると、間宮さんの手が私の頬に触れて、もう一度深く重なってきます。(本当にこれでいいのか分からないけど、止める理由も見つからない)

唇が離れて、そのまま首筋に落ちてきました。エアコンが死んでる熱帯夜、二人ともとっくに汗ばんでいて、間宮さんの肌からは汗の匂いがしました。それが妙に生々しくて、頭の芯がぼんやりしてきます。

部屋着のTシャツを脱がされるとき、袖に頭が引っかかって、二人して小さく笑いました。

「すみません、下手で」

「いえ、私も引っかかりやすい服着てるので…」

そんな間抜けなやり取りのおかげで、変に強張ってた体から少し力が抜けました。

胸に触れられて、指先で撫でられると、声が出そうになって慌てて手の甲を噛んで堪えました。停電で建物中が寝静まっていて、静かすぎて、声を抑えないと隣どころか上下の階まで聞こえてしまいそうだったからです。

「声、我慢しないで。どうせ今、建物中まっくらで誰も起きてないから」

「そういう問題じゃ…っ」

そう言い返そうとしたのに、指の動きで言葉が途切れました。(信じられない。本当にこれ、現実にやってるの私……)混乱してる頭のまま、体だけが間宮さんに預けられていきました。

いよいよという段階になって、間宮さんが不意に固まりました。

「……あの、ちょっと待っててもらえます? ゴム、財布に入れてたはずなんですけど」

財布を漁った結果、見当たらなかったみたいで、間宮さんが気まずそうに立ち上がりました。

「うち戻って持ってきます、防災リュックに入れてたはずなんで」

(防災リュックに入れとくんだ…)変なところで感心しながら、暗闇の中で一人取り残されて、ロウソクの炎を見つめる数分間がやたら長く感じました。

戻ってきた間宮さんは、少し息を切らしてました。停電の廊下を早足で往復しただけで、律儀な人だなと思うと同時に、こんな状況で笑いそうになる自分もどうかしてると思いました。

正常位で、ゆっくり挿入されました。暗くてお互いの表情がほとんど見えない分、聞こえてくる息遣いと、肌にまとわりつく汗の匂いばかりが強く感じられます。(これ、本当に停電が見せてる夢なんじゃないか)そんな混乱が、快感よりも強く頭を占めていました。

途中、畳に突いていた間宮さんの腕が汗で滑って、がくっと崩れました。額同士がごつんとぶつかって、痛いのと驚いたのとで、二人同時に噴き出してしまいます。

「大丈夫ですか、今の」

「面目ないです……ちょっと体勢変えましょうか」

笑いながら横向きの側位に切り替えました。体勢が変わって少し余裕ができたのか、間宮さんの手が私の太腿に回って、ゆっくり動き始めます。

「あ……っ」

声が漏れそうになって、また手の甲を噛みました。(気持ちいいとか、そういう感覚より先に、これ現実?っていう戸惑いの方がずっと大きい)頭の中はまとまらないまま、体だけが間宮さんの動きに合わせて揺れていました。

しばらくして、間宮さんが小さく息を詰めた気配がして、そのまま終わりました。二人とも汗だくで、ちゃぶ台の脚元に転がったロウソクの灯りだけが、荒い息を照らしていました。

エアコンも扇風機も死んでる部屋の中、汗が引く気配は一向にありませんでした。間宮さんが台所からうちわを持ってきて、私を扇いでくれました。

「麦茶、常温であります? うち氷も溶けてて」

「あります、あります…常温で大丈夫です」

冷蔵庫から出した麦茶を、コップ一つを二人で分け合って飲みました。生ぬるいのに、なぜかやけに美味しく感じました。

ちゃぶ台に垂れて固まった蝋を、なんとなく二人とも黙って爪で剥がしてました。気まずいというより、暗すぎてお互いの顔がよく見えないのが、むしろ救いになってる気がしました。

うとうとし始めた頃、突然、部屋中の照明が一斉についてました。

冷蔵庫のモーター音が唸り始めて、テレビの電源ランプが赤く光って、蛍光灯の白い光が容赦なく部屋を照らします。

明るい場所で初めてお互いの裸をまともに見て、二人で固まりました。

「消して! お願い消して!」

「いや、もう見たし、今更じゃないですか」

「そういう問題じゃないです、心の準備が」

攻防の末、結局電気はついたままでした。恥ずかしさで顔が熱くなりましたが、間宮さんが私の手を握って、もう一度顔を近づけてきました。

「電気つくまでって、約束だったじゃないですか」

そんな約束した覚えはないんですが、雰囲気に押されて、また唇を重ねてしまいました。

明るい部屋での二回目は、さっきとは全然違う感覚でした。混乱よりも、恥ずかしさの方が勝っていました。対面座位で向き合うと、間宮さんの目が真っ直ぐこっちを見てきて、逸らしたいのに逸らせません。

「そんな見ないでください…」

「見ますよ、こんな機会そうそうないんで」

一回目は暗くてお互いの反応が想像するしかなかったけど、今度はちゃんと表情が見える分、間宮さんが笑うたびに目尻の皺が見えて、それにいちいち動揺してる自分がいました。(さっきまでは火のせいにできたのに、今は言い訳がきかない)

動きに合わせて声が漏れると、間宮さんが少し嬉しそうにするのが分かって、余計に恥ずかしくなりました。終わったころには、羞恥心で疲れ果てて、そのまま二人でしばらく動けずにいました。

朝方、給湯器の復旧がまだで、シャワーは水しか出ませんでした。冷たい水を頭からかぶって、悲鳴じみた声を上げながら交代で浴びました。

「冷たい…冷たすぎます…」

「夏で良かったですね、これ冬だったら地獄ですよ」

間宮さんは宣言通り、朝一番で例のサンダルをゴミ袋に入れて、収集所まで出しに行きました。私はベランダで昨夜の汗を吸ったシーツを干しながら、台風一過の異様なくらい青い空を見上げていました。(昨日の今頃はポテチ半袋で台風をなめきってたのに)そう思うと、なんだか自分でも笑えてきました。

数日後、マンションの廊下ですれ違いざま、間宮さんが紙袋を差し出してきました。

「これ、どうぞ」

中身は、ロウソクの徳用パックでした。

「これって…」

「次の停電、いつ来てもいいように」

真顔でそう言われて、それが防災の話なのか、それとも別の意味なのか、結局分からないまま受け取ってしまいました。

とりあえず今のところ、うちの懐中電灯にはちゃんと新しい電池を入れてあります。ロウソクの出番が、次はいつ来るのかは分かりませんが。


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