草津の老舗旅館で住み込みバイトしたら、誰も近寄れない女将の孫娘と毎晩露天風呂を掃除する係になった

大学2年の夏、俺は金がなかった。

いや、正確に言うと金はあったんだけど、9月のゼミ合宿の費用が足りなかった。居酒屋のバイトだけじゃ間に合わないって気づいたのが7月の頭で、焦ってタウンワークを漁ってたら「草津温泉・老舗旅館 住み込みスタッフ急募 8月の3週間 寮費食費無料」っていう求人を見つけた。

時給も悪くないし、住み込みなら生活費ゼロだし、これしかないだろと。

で、電話したら即採用。あとで知ったんだけど、ここ毎年バイトがすぐ辞めるらしい。理由は追々わかることになる。

草津温泉の湯畑から歩いて5分くらい。築80年の木造三階建て、「旅館みやび」。到着した日はちょうど8月1日で、湯畑の硫黄臭がもう鼻の奥にこびりつくぐらい強烈だった。

玄関で出迎えてくれたのは、60代後半のおばあちゃん。女将さんだ。腰は曲がってるけど目がめちゃくちゃ鋭い。「あんた、逃げないでね」って第一声がそれ。怖すぎる。

寮っていっても旅館の離れの6畳間で、先輩バイトの鳥居さん(24歳、フリーター)と相部屋だった。鳥居さんは3年連続でここに来てる猛者で、到着初日に俺にこう言った。

(よろしくお願いします、的な挨拶をしたら)

「あの、何か気をつけることとかありますか」

鳥居さんはタバコに火をつけながら、真顔で答えた。

「一個だけ。孫娘には関わるな」

孫娘。女将さんの孫らしい。鳥居さん曰く、東京の大学に通ってる3年生で、夏休みだけ旅館を手伝いに来るんだけど、とにかく怖いと。バイトに対してめちゃくちゃ厳しくて、口数が少なくて、目が合うだけで空気が凍ると。過去にその子に怒られてバイトが3人辞めたらしい。

(まじかよ…そんなやばい人がいるのか)

翌朝5時半起き。旅館の仕事は朝が早い。朝食の準備を手伝って、客室の布団上げして、館内の掃除して、もう9時の時点でヘトヘトだった。居酒屋バイトの比じゃない。

で、その日の昼過ぎ。俺が廊下のモップがけをしてたら、向こうから歩いてくる人がいた。

紺色の作務衣。身長は162、3くらい。黒髪をひとつに結んで、前髪は眉の上でぱっつん。顔は――なんて言えばいいんだろう、今田美桜をもうちょっとキツくした感じ。目が切れ長で、睫毛が長くて、鼻筋がすっと通ってて。肌が白い。温泉地の子なのに日焼けしてない。

すれ違うときに「お疲れ様です」って言ったら、こっちを一瞬だけ見て、何も言わずに通り過ぎていった。

あ、これが孫娘か。

たしかに怖い。というか、空気が違う。旅館の古い廊下を歩いてるだけなのに、なんかこう、触れちゃいけないオーラがある。

名前は篠原彩音。大学3年、21歳。俺より1つ上。鳥居さんが「あの子、中学のときに地元の群馬で氷の姫って呼ばれてたらしいよ」と教えてくれた。なにそのラノベみたいなあだ名。

最初の3日間は、彩音さんとまともに会話する機会はなかった。厨房では彩音さんが仕切ってて、俺は配膳と片付け担当。彩音さんの指示は的確だけど最低限の言葉しかない。「そこ、醤油」「ご飯、あと3膳」みたいな。ロボットかよ。

4日目の朝、女将さんに呼ばれた。

「あんた、今日から露天風呂の掃除、彩音と一緒にやって」

「え、俺がですか」

「鳥居は腰やっちゃってね。あんたしかいないの」

旅館みやびには大浴場が一つと、裏庭に面した露天風呂が一つある。露天風呂は混浴じゃなくて時間帯で男女入れ替え制。掃除は毎日、客が夕食を取ってる18時から19時の間にやる決まりになってた。

その日の18時、露天風呂の脱衣所で彩音さんと合流した。彩音さんはジャージに着替えてて、髪をタオルで巻いてた。作務衣のときより年相応に見える。

「ブラシとバケツ、そこにあるから」

「あ、はい」

「石のところ、藻が生えやすいから念入りに。あと排水口のゴミ、素手で触らないで。トングあるから」

「わかりました」

会話終了。二人で黙々とブラシで石を擦る。露天風呂は10人くらい入れるサイズで、岩と檜で組まれてる。湯を抜いた状態でも硫黄の匂いが立ち込めてて、8月なのに石がひんやりしてた。

30分くらいで掃除が終わって、湯を張り直す。

「…お疲れ」

「お疲れ様です」

彩音さんが小さい声で「お疲れ」って言ったのが、なんか意外だった。

(あれ、普通にお疲れって言ってくれるんだ)

それから毎日、18時になると露天風呂の掃除を二人でやるようになった。最初の3日くらいは本当に業務連絡しかなかった。でも5日目くらいから、少しだけ変化が出てきた。

その日は掃除中にゲリラ豪雨が来て、露天風呂がめちゃくちゃになった。葉っぱとか泥とかが大量に流れ込んできて、二人でずぶ濡れになりながら必死に片付けた。

「うわ、これ終わんないですよ」

「…終わるまでやるしかない」

「ですよね…」

1時間半かかった。ようやく終わったとき、二人ともTシャツが透けるくらいびしょ濡れで、彩音さんが自分のTシャツを見下ろして、ふっと笑った。

「…最悪」

でもその「最悪」の言い方が、怒ってるんじゃなくて、ちょっとおかしくなってる感じだった。俺もつられて笑った。

「いやほんと最悪ですね」

「…あんた、笑うとちょっとマシな顔になるね」

「え、普段はマシじゃないってことですか」

「…」

無言。でも口元がちょっと緩んでた。たぶん。暗くてよく見えなかったけど。

(いや今のは笑ってたよな?笑ってたと思いたい)

それからだんだん、掃除中に雑談するようになった。といっても彩音さんは基本聞き役で、俺がべらべら喋るパターン。大学の話とか、ゼミの教授がやばい話とか。彩音さんは相槌すら打たないことが多いんだけど、たまに「それで?」って続きを促してくるから、聞いてないわけじゃないらしい。

8日目の夜。掃除が終わって脱衣所で道具を片付けてたとき、彩音さんが突然言った。

「あんた、なんで私に普通に喋れるの」

「え?」

「みんな、私のこと怖いって言うでしょ」

「あー…まあ、鳥居さんには関わるなって言われました」

「…でしょうね」

彩音さんは自分のタオルを畳みながら、窓の外を見てた。露天風呂の湯気が夜空に上がっていくのが見える。

「私、別に怒ってるわけじゃないの。ただ…何を喋っていいかわからないだけ」

(え、それだけ?)

「あ、人見知りってことですか」

「…そんな簡単な言葉で片付けないで」

「すみません」

「…いい。合ってるから」

おい。

(氷の姫の正体、ただの人見知りかよ…)

でもまあ、わかる気もした。この子、表情筋が死んでるだけで、悪意はないんだよな。厨房で「醤油」としか言わないのも、本当は「すみません、醤油を取っていただけますか」って言いたいけど、言葉が出てこないだけなんだろう。たぶん。

10日目。ここで事件が起きた。

その日は花火大会で、宿泊客が全員外出してた。旅館の中はほぼ空っぽ。鳥居さんも花火を見に行って、女将さんは早めに寝てた。

俺は露天風呂の掃除を一人でやってた。彩音さんが風邪気味で「今日は私の分もやって」って言われたから。まあ一人でもできる作業量だし、別によかった。

掃除を終えて、湯を張り直して。せっかく誰もいないし、ちょっと浸かっていくか、と思った。花火の音が遠くから聞こえてきて、空が時々明るくなる。最高のシチュエーションだった。

タオルを腰に巻いて湯船に浸かって、ぼーっと空を見上げてたら。

ガラッ、と脱衣所のドアが開く音がした。

(え?客は全員出てるはずだけど)

慌てて振り返ったら、彩音さんがバスタオル一枚で立ってた。

時間が止まった。

彩音さんも固まってる。湯気の向こうで目が合って、お互い石像みたいに動けなくなった。

3秒くらいの沈黙。体感30分。

「…なんで、いるの」

「いや、掃除終わって、誰もいないし…ちょっと入ろうかなって…」

「…」

「すみません、すぐ出ます」

立ち上がろうとしたら、腰に巻いてたタオルが湯の中でほどけてた。

(やばいやばいやばい)

「…出なくていい」

「え?」

「客いないんでしょ。…私も入りたかったから来たの」

「いやでも、俺いますけど」

「…うるさい。向こう向いて」

言われるがまま反対側を向いた。背後で水音がして、彩音さんが湯船に入ってくるのがわかった。心臓がやばかった。バクバクとかいうレベルじゃない。首の血管が脈打ってるのが自分でわかる。

「…もういいよ。こっち向いて」

振り返ると、彩音さんが肩まで湯に浸かってた。鎖骨から上だけ出てて、濡れた髪が頬に張り付いてる。花火の光が時々顔を照らして、そのたびに目が光る。

やばい。これはやばい。

「あの、これ大丈夫なんですか。女将さんに見つかったら俺クビですよね」

「おばあちゃん、もう寝てる」

「鳥居さんは」

「花火。…心配性だね」

「そりゃ心配しますよ」

「…ねえ」

「はい」

「あんたさ、私のこと怖い?」

「最初は怖かったです。正直」

「…今は?」

「今は…怖くはないです」

「…そう」

花火がひときわ大きく上がって、二人の間の水面がオレンジに染まった。彩音さんの表情が一瞬だけ見えた。泣きそうな、でも泣いてない、なんとも言えない顔。

「私ね、中学のとき、氷の姫って呼ばれてたの知ってる?」

「鳥居さんから聞きました」

「最初は嫌だった。でもそのうち、そう思われてるほうが楽だって気づいた。近寄ってこないから。…傷つけられないから」

「…」

「でもさ、楽だけど、寂しいんだよね。当たり前だけど」

彩音さんが水面を指でなぞってた。俺はなんて言えばいいかわからなくて、ただ黙って聞いてた。

「あんたが毎日くだらない話してくれるの、ちょっと嬉しかった。…ちょっとだけね」

(ちょっとだけ、って言うけどめちゃくちゃ照れてるじゃん)

耳が赤いのは湯のせいだけじゃないだろ。

「俺も、彩音さんの『それで?』が嬉しかったですよ。ちゃんと聞いてくれてるんだなって」

「…バカ」

また黙る。でもさっきまでと空気が違う。硫黄の匂いと湯気の中で、なんかこう、二人の間の壁が溶けていく感じがした。

花火のフィナーレが始まって、連続でバンバン上がる。空が明るくなって、露天風呂全体が昼みたいに照らされた。

そのとき彩音さんが少し身を乗り出して、肩から上が湯から出た。鎖骨のラインが見えて、その下の白い肌が花火の光で照らされて。

(見ちゃだめだ見ちゃだめだ見ちゃだめだ)

見てた。

彩音さんもこっちを見てた。

「…見てる」

「すみません」

「…謝らなくていい」

花火が終わって、また暗くなった。虫の声だけが聞こえる。

「ねえ、こっち来て」

「え」

「…来てって言ってるの」

湯の中を彩音さんのほうに移動した。1メートルくらいの距離。彩音さんの顔が近い。切れ長の目が潤んでて、唇が少し開いてて。

「私、こういうの初めてだから…変だったら言って」

そう言って、彩音さんのほうからキスしてきた。

唇が触れた瞬間、頭が真っ白になった。柔らかくて、温かくて、ほんのり硫黄の味がした。変なこと考えてる場合じゃないのに、「温泉の味がする」ってぼんやり思った。

「…」

「…どう、だった」

「いや…めちゃくちゃドキドキしてます」

「…私も」

彩音さんが俺の手を取って、自分の胸の上に置いた。心臓がドクドク言ってるのが手のひら越しに伝わってくる。あと、柔らかい。すごく柔らかい。Eカップはあるんじゃないか。作務衣の下にこれ隠してたのか。

(いや待て、今心臓を感じるために手を置かれたんだよな?胸を触っていいって意味じゃないよな?)

「…触っていいよ」

読まれてた。

湯の中で彩音さんの胸に触れた。想像以上に大きくて、柔らかくて、湯で温まった肌がすべすべで。指が沈み込む感触に、理性がどんどん持っていかれる。

「ん…」

小さい声が漏れた。あの無表情の彩音さんから、こんな声が出るのか。

「彩音さん…これ、ほんとにいいんですか」

「…駄目だったら最初から入ってこない」

(たしかに)

もう一度キスした。今度はちゃんと、唇を合わせて、舌を入れて。彩音さんの舌がぎこちなく絡んできて、それがまた良かった。慣れてない感じが、嘘じゃないって思えた。

彩音さんの腰に手を回して引き寄せると、湯の中で体が密着した。彩音さんの胸が俺の胸板に押し付けられて、二人の心臓がバクバクいってるのがわかる。

「あんたのほうが心臓やばいじゃん…」

「そりゃそうですよ。氷の姫と露天風呂で密着してるんですから」

「…その呼び方やめて」

「じゃあ彩音さん」

「…彩音でいい。さん付けいらない」

「彩音」

名前を呼んだら、彩音が目を伏せた。耳だけじゃなくて首まで赤い。

「…もう一回言って」

「彩音」

「…ん」

三度目のキス。今度は長くて、深くて、湯の中で彩音の手が俺の背中をつかんでた。

でも、ここで俺は一度止まった。

「ここじゃ…まずくないですか。いつ誰が来るかわかんないし」

「…場所の心配してるの」

「場所っていうか、彩音が女将さんの孫で、俺はバイトで。もし見つかったら彩音の立場も…」

「…」

彩音の表情が少し曇った。俺が言ってることは正しいんだけど、正しいことを言うべきタイミングじゃなかったのかもしれない。

「…そうだね。ごめん、私おかしかった」

「いや、おかしくないです。俺だって…」

「いいの。忘れて」

彩音が湯船から上がろうとした。背中が見えた。白くて、細くて、背骨のラインがきれいで。

気づいたら手を掴んでた。

「忘れたくないです」

「…」

「場所を変えたいだけです。忘れたいんじゃない」

自分でも驚くくらいはっきり言えた。普段の俺じゃ絶対出てこない台詞だ。たぶん温泉で脳みそが茹だってたんだと思う。

彩音が振り返った。目が潤んでて、唇をきゅっと結んでて。

「…私の部屋、離れの2階。おばあちゃんの部屋から一番遠い」

二人で露天風呂を出て、体を拭いて、館内をこそこそ移動した。木造の廊下がギシギシ鳴るたびに二人で息を止めた。なんか修学旅行の夜みたいだった。

彩音の部屋は和室の8畳で、本棚にぎっしり文庫本が詰まってた。机の上にはノートパソコンとレポート用紙が散らばってて、大学生の部屋って感じだ。

「…散らかってるけど」

「全然大丈夫です」

彩音が部屋の鍵を閉めた。カチャッていう音が妙にリアルで、これから何が起きるんだって急に実感が湧いてきた。

彩音は浴衣のまま正座して、俺と向かい合った。さっきの露天風呂のテンションとは違って、少し緊張してる顔だった。

「あのさ…」

「うん」

「私、経験ないから。…本当にない。キスも、さっきが初めて」

「え」

21歳で初キスがさっき。しかも露天風呂で。しかも相手はバイトの後輩。

(氷の姫、ガチだったのか…)

「何。笑ってる?」

「笑ってないです。ちょっとびっくりしてるだけで」

「…人見知りが激しいと、こうなるんだよ。誰とも距離が縮まらないまま21年経った」

「じゃあ…俺が初めて距離縮まった人ってことですか」

「…調子乗んないで」

「はい」

でも否定はしなかった。

「俺でいいんですか」

「…あんたがいい」

その言い方が、氷の姫からは想像できないくらい小さくて、震えてて。

近づいて、キスした。浴衣越しに体を抱き寄せたら、彩音の手が俺の胸元を掴んだ。離してほしいのかと思ったら、逆で、浴衣の合わせ目を引っ張ってた。

帯を解いた。彩音の浴衣がはだけて、下着をつけてない体が目の前に現れた。風呂上がりだから当然なんだけど、心の準備ができてなかった。

白くて、細くて、でも胸だけが不釣り合いなくらい大きい。形がきれいで、乳首が薄いピンクで。太ももが引き締まってて、水泳でもやってたのかってくらいきれいなラインしてる。

「…すごい」

「…すごい、って何」

「いや、きれいだなって。ごめん、語彙力なくて」

「…いい。わかった」

彩音が目を逸らしながら、俺の浴衣にも手をかけた。不器用に帯を解こうとするけど、結び目がうまくほどけなくて、ちょっとイラッとした顔をしてたのがかわいかった。

「自分でやるよ」

帯を解いて浴衣を脱いだ。彩音が一瞬だけ下を見て、すぐに目を逸らした。

「…おっきいね」

「そ、そうですか」

「…比較対象ないけど」

真面目に言うから笑いそうになった。こういうときでも彩音は彩音なんだな。

布団に横になった。並んで寝転がって、天井を見てた。古い木の天井で、節目が顔みたいに見える。

「緊張する?」

「…してない」

嘘だろ。手、震えてるじゃん。

俺も正直めちゃくちゃ緊張してた。経験がないわけじゃないけど、こういう空気は初めてだった。好きかどうかもまだわからない相手と、でも確実に惹かれてる相手と、旅館の一室で二人きりなんて、普通に生きてたら絶対ない。

(好きかどうかわからないって思ってる時点で、たぶんもう好きなんだろうな)

彩音の体に触れた。肩から腕、腰、太もも。湯上がりの肌がさらさらしてて、触れるたびに彩音が小さく身じろぎする。

胸に触れたら、さっきの露天風呂とは違う反応が返ってきた。

「んっ…」

声を殺そうとして、唇を噛んでる。

「我慢しなくていいよ」

「…おばあちゃんに聞こえたら死ぬ」

「離れの2階でしょ。大丈夫だって」

「…大丈夫じゃない。この旅館、壁薄いの知ってるでしょ」

たしかに。鳥居さんのいびき、離れの1階からでも聞こえるもんな。

乳首を指で転がしたら、彩音が枕に顔を埋めた。くぐもった声が漏れてくる。

「あ…っ、そこ…敏感…」

「自分で触ったりする?」

「…しない」

「嘘でしょ」

「嘘じゃない。…こんなに感じるの知らなかった」

本気で言ってるっぽかった。21年間、自分の体に興味なかったのか、この人。

手を下に滑らせていく。お腹の上を通って、太ももの内側に触れたら、ぴくっと体が跳ねた。

「待って…」

「やめる?」

「…やめないで。ちょっと、びっくりしただけ」

指で触れた。もう濡れてた。こんなに感じてたのかと思ったら、なんかすごく嬉しかった。あの氷の姫が、俺に触られて濡れてるって事実が、現実離れしすぎてて逆にリアルだった。

「ん…っ、あ…」

彩音が目を閉じて、眉間にしわを寄せてる。気持ちいいのか痛いのかわからない顔。

「痛い?」

「痛くない…気持ちいい、と思う…たぶん」

「たぶん」って何だよ。でもこの不器用さが彩音なんだよな。

指を中に入れてみた。きつい。一本がやっとで、彩音の息が荒くなる。

「あっ…ん…っ」

ゆっくり動かしながら、親指でクリを触った。

「やっ…そこ…っ」

体がびくってなって、彩音が俺の腕を掴んだ。爪が食い込むくらい強く。

「ここ?」

「うん…そこ、やばい…っ」

しばらく続けてたら、彩音の呼吸がどんどん浅くなっていった。太ももが閉じようとするのを、膝で押さえた。

「あっ…待っ…なんか来る…っ」

「いいよ、そのまま」

「やだ…こわ…っ、あ…っ!」

彩音の体がぐっと弓なりになって、ぶるぶる震えた。声は出なかった。口を開けてるのに声が出なくて、数秒後にようやく「はぁっ」と息を吐いた。

「…っ…はぁ…はぁ…」

「大丈夫?」

「…これ、イったってこと…?」

「たぶん」

「…こんなの知らなかった。全然」

彩音が腕で目を覆った。泣いてるのかと思ったら、口元が笑ってた。

「…あんたのせいで、もう氷の姫じゃいられない」

「いいんじゃないですか、別に」

「…よくない。明日からどんな顔してあんたと掃除すればいいの」

「今までどおりでいいですよ」

「無理に決まってるでしょ…」

彩音が起き上がって、俺のほうを見た。目がとろんとしてて、頬が赤い。さっきまでの無表情はどこにもない。

「…ねえ。入れて」

「え」

「…聞こえたでしょ」

「聞こえたけど…本当にいいの?初めてなんだよね」

「…初めてだから、信頼できる人がいいの。今の私が信頼してるのは、あんただけ」

信頼。恋じゃなくて信頼って言うのが、彩音らしいなと思った。でもその言葉の重さはわかってた。誰にも心を開けなかった人間が、初めて信頼するって言ってくれてるんだ。

ゴムは持ってなかった。鳥居さんの荷物にあった気もするけど、取りに行くわけにもいかない。

「ゴムないんだけど…」

「…外に出して」

「わかった」

彩音が仰向けに横たわって、足を少し開いた。恥ずかしそうに顔を背けてる。

先端を当てた。ゆっくり、本当にゆっくり入れていく。

「っ…痛い…」

「止める?」

「止めないで…。もう少し…ゆっくり…」

少しずつ進めて、半分くらい入ったところで彩音の手が俺の肩をぎゅっと掴んだ。爪が刺さってて痛かったけど、それどころじゃなかった。中がきつくて、熱くて、ぎゅうっと締め付けてくる。

「あ…っ…奥まで…来てる…」

全部入った。しばらく動かずに、彩音の顔を見てた。目に涙がにじんでて、でも笑ってた。

「…痛い。でも、嬉しい」

「動いていい?」

「…うん」

ゆっくり腰を動かし始めた。最初は彩音がそのたびに眉をしかめてたけど、だんだん表情が変わっていった。痛みから、別の何かに。

「ん…あ…なんか、さっきと違う…」

「痛い?」

「痛くない…気持ちいいかも…」

彩音の足が俺の腰に絡みついてきた。無意識なのか、意識的なのかわからない。でも密着度が上がって、彩音の吐息が首筋にかかる。

「もうちょっと…速くして…」

言われるまま少しペースを上げた。畳の上に敷いた布団がずれていく。

「あ…っ、ん…っ、いい…っ」

声を押し殺してるのに漏れてくる。枕に顔を埋めようとするから、それを引き剥がしてキスした。

「顔見せて」

「やだ…恥ずかしい…っ」

「見たい。彩音の顔」

「…ばか…っ」

恥ずかしがりながらもこっちを向いてくれた。目がとろんとしてて、口が半開きで、眉が下がってて。あの氷の姫が、こんな顔するのか。俺だけが知ってるこの顔。それだけで興奮がとんでもなかった。

「やばい…もう出そう…」

「ん…外に出して…っ」

引き抜こうとしたら、さっきの足のホールドがまだ解けてなかった。

「彩音、足…足離して…っ」

「え…あ…ごめん、力入ってて…」

慌てて足を解いてくれて、ギリギリ間に合った。引き抜いて彩音のお腹の上に出した。白いのが白い肌の上に広がっていく。

「はぁ…っ」

「…いっぱい出たね」

「ごめん、お腹に…」

「いい。…あったかい」

彩音が指先で精液に触れて、不思議そうに見てた。この人は本当に何もかも初めてなんだなと改めて思った。

しばらく二人で天井を見てた。畳の匂いと硫黄の残り香と、汗の匂いが混ざってた。

「ねえ」

「ん」

「…もう一回、していい?」

「え、もう?」

「…だって、よくわからなかったから。もう一回ちゃんと感じたい」

「ちゃんと感じたい」って真剣な顔で言われたら断れるわけがなかった。

二回目は彩音が少し積極的だった。自分から腰を動かしてみたり、キスの最中に舌を入れてきたり。さっきまでぎこちなかったのが嘘みたいに、体が慣れてきてるのがわかった。

「あ…っ、ここ…いい…っ」

「ここ?」

「うん…そこ当たると…あっ…」

体位を変えて、彩音を後ろから抱きしめる形にした。背中が俺の胸に当たってて、片手で胸を触りながら、もう片方の手で彩音の手を握った。

「やっ…これ…っ、深い…っ」

「痛い?」

「痛くない…気持ちいい…もっと…」

今度は声を抑えきれなくなってきて、彩音が自分の手の甲を噛んでた。

「噛むなよ、跡残るだろ」

「だって…声…出ちゃう…っ」

俺の手を口元に持っていったら、彩音が俺の指を噛んだ。軽く、でもしっかりと。それがなんかえらくエロくて、一気に限界が近づいた。

「彩音…出る…」

「ん…っ…外に…」

今度はちゃんと足のロックはなかったので、引き抜いて彩音の背中に出した。

「…背中、あったかい」

「ごめん」

「だからいいって言ってる…」

二人でシャワーを浴びに行った。深夜1時の旅館の大浴場は誰もいなくて、シャワーの音だけが響いてた。

彩音の背中を流しながら、なんか付き合ってるカップルみたいだなと思った。いや、まだ付き合ってないんだけど。

「あのさ、彩音」

「ん」

「俺ら、これどういう関係なの」

「…」

「バイト終わったら、もう会えないってこと?」

彩音がシャワーを止めて、振り返った。

「…あんた、大学どこ」

「日大です。文理学部」

「…私、上智。四ツ谷」

「近いじゃん」

「…総武線で30分」

即答。調べてたのか。

「え、前から知ってたの?」

「…あんたが初日に日大って言ってたのを、聞いてた」

(初日から聞いてたのかよ)

「…帰ったら、会える?」

「会えるっていうか、会いたい」

「…私も」

彩音が小さく笑った。ほんとに小さく。でも確実に笑ってた。

部屋に戻って、布団を並べて敷いた。彩音が「隣で寝て」って言うから、一緒の布団に入った。

「あと10日あるね、バイト」

「うん」

「…毎晩、掃除のあと、ここに来て」

「…はい」

「…敬語やめて」

「わかった」

彩音が俺の腕を枕にして、目を閉じた。

「おやすみ」

「おやすみ」

腕の中で彩音の呼吸がだんだん深くなっていく。

窓の外で虫が鳴いてる。硫黄の匂いが微かにする。古い旅館の古い部屋で、氷の姫だった女の子が俺の腕の中で寝てる。

さっきまで「好きかどうかわからない」とか思ってた俺がバカだった。

これ、完全に好きだわ。

翌朝、厨房で彩音と目が合った。彩音はいつもどおりの無表情で、「味噌汁、あと5杯」とだけ言った。

でも味噌汁を渡したとき、指が触れた。彩音の指が一瞬だけ俺の指を握った。0.5秒くらい。誰にも見えない。

鳥居さんが「今日も氷の姫は怖いな」って笑ってた。

俺だけが知ってる。あの子が昨日の夜、枕に顔を埋めて声を殺してたこと。俺の指を噛んで、背中にしがみついてたこと。「もう一回」って小さい声で言ったこと。

バイトの残り10日間が、人生で一番長くて短い10日間になる予感がした。


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